象の夢を見たことはない -300ページ目

常ということ

道徳というのは正義などとは関係がない。

生きるための智慧である。


もっとも、正義というもの自体かなりあやしい思想だけれど、まだその存在を否定できないでいる。

だから、そんなふうに思ってしまうのだけれど。。

いつかはそれを否定できるようになりたい。

そんな風にも思う。


「生きている人間とは、人間にありつつある一種の動物かな」

小林秀雄は言う。


死んでしまった人間とは、なぜ、ああはっきりとして来るんだろう。まさに人間のかたちをしているよ。


そのあとに続く言葉である。


生きる智慧とは、まさにそのようなもので、死んでしまったのちに正義となるのかもしれない。


いや、その正義とやらもこの世では、この世は仏説というようなものではない。


それは幾時、如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。


彼なら、そういうかも知れない。

無常ということ

ナンシー関の『小耳にはさもう 100』を買った。

ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100 (朝日文庫)/ナンシー関
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おなじ日にamazonから届いた小林秀雄の『モオツァルト・無常という事』を読んでいた。

さすがに小林秀雄、彼が語ると重いのだが、「真贋」のくだりを読んでいて思った。

待てよ?と。


あらためてナンシー関を読んでみる。

パッと開く。

「昔、『お笑いマンガ道場』に出てたくせに偉そうにすんな」 某財界人発言。

川島なお美の項である。


ナンシー関、いったい彼女のどこが小林秀雄に劣るというのか。


短編の命の半分は題名である。

どちらがよりキャッチーであるか。それに尽きるのだ。

その地点で、すでにナンシー関に軍配があがる。

「アムリタ」とか「キッチン」とかも、もはやその名前だけで手にとってしまうのと同じである。しかも、作者はよしもとばなな。なんかもう名前からして「ばなな」である。「ひらがな」なところがさらにそそる。


そして彼女も、ばなな氏と同様に「ナンシー」という名を持つのである。

短編というのはそういう世界だ。どーいう世界か。


文体を見てみると、そのメタファー、そしてアフォリズムは小林秀雄もしのぐ勢いである。

しかも、ケシゴム版画までついている。

おトク感はさらに倍である。


さいきん、『考えるヒント4』を買おうと本屋に入ったが、小林秀雄自体がみつからない。

そりゃ、小林秀雄なぞだーれも買わんくなるわ。そういう感想さえ抱いてしまう。

いまどき、どちらが「真」で、どちらが「贋」であるのか。


松本人志は、「今、お笑いの批評をちゃんとできるのはナンシー関とみうらじゅんだけ」と言った。

彼のなかではみうらじゅんと双璧をなすほど評価されているのである。

そう、松本人志自体、右手にナンシー関、左手にみうらじゅんを持ったオキアガリコボシを想像すればよろしい。彼女は、そういう実力者なのである。


とかなり無理やり誇張して書いてみたのだが、どうあがいてもナンシー関の文体をまねるのは難しいことがわかった。やはり中身がないと彼女のマネはできないらしい。


2002年に亡くなられたので、もうこのコラムを読むことができない。時代と密接にかかわっているだけにネタの風化が早いのだが、今ならまだ、この本はギリッギリ、買いである。来年では、もう遅い。


さて、私ごとながら、実はナンシー関って男だと思ってました。

ナンシー関自体、こないだ始めて他の方のブログで知ったのである チーン

水玉強迫

草間彌生のインスタレーション作品である。松本市美術館にあるらしいのだが、まだみたことがない。


今年は2008年横浜トリエンナーレ が開催される。

今回は、オノ・ヨーコなんかも出品するようだ。

オノ・ヨーコ?。。まあいいや。

2005年の横浜トリエンナーレ に行った。そこで現代美術のインスタレーションの可能性というものに始めて遭遇した


草間彌生のピンクボート が名古屋市美術館に展示されている。増殖する男根(ファロス)のイメージ。ピンクの突起物で作られたボート。

皮膚がざわざわする感じなのだが、その感じは体の表面があわ立つのではなく、自分の血が、赤血球があわ立つようなそんな感じもした。


単品なので、まだそれで収まっているのだが、インスタレーションとしてそれに周りを取り囲まれることを想像すると、恐怖でもあり、安心でもある。たしかに、そういう相反する感情に包まれるようなそんな予感はする。


高校時代の現代国語の教師が語った水玉模様は、あれは男性原理側から見た話で、女性原理側から見た場合には、水玉模様の解釈は違うのかもしれない。

アニマ・アニムスがあるように。。

もともとユングが研究していた錬金術にしろスーフィズムにしろ、あるいはアボリジニやインディアンなどの文化にしろ担い手は男の場合が多い。


最初に草間彌生の作品を見たとき、女の人っぽい作品だと思った。

なぜかはわからない。


水玉はエロティックだ。そういう感覚もある。クリムトの海蛇のポスターを持っていたが、非常にエロい絵で、その背景には水玉が書かれているが、これは男根を現わしていたりもする。


あるいは、水玉模様、ただ、安心というだけではなく、どこか生のエネルギーというものも感じたりもする。


ユングは、母性の本質として3つの側面をあげている。すなわち、「慈しみ育てること」「狂宴的な情動性」、そして「暗黒の深さ」。


ユング心理学で、壷とか渦巻きが太母(グレートマザー)の象徴であるというのは聞いたことがあるが、水玉というのが何を表象しているのか、私はまだ知らない。

たぶん、母性とはズレているのだろう。


オーラソーマとかカラーセラピーとかあるが、それらがつかっている「ボトル」というのもなにか理由がありそうだが、それもよくはわからない。


模様や形が、なにをメタファーしているのかはわからないが、そこから確かに見えるものはある。

でも、それらが身体に落とし込まれるときには男女で違いがあるのかもしれない。

そういうのは感じなくてはわからない。男と女で、お互い理解しようとしてもわかるようなものではないのかもしれないのである。

旅の情報と生活の相関関係

『晴れ、ときどきサバンナ』も残すところわずか。かなしいうるうる。


ザンビアで水に落ちたらビルハージア(住血吸虫病)に罹るというのが書いてあった。


昔は、「アフリカにはツェツェバエがいて」とかそういう情報がどこからか入ってきていた。

最近はなぜかそういう情報も少ないような気がして、なんでだろうなあと思っていたのだが、「すばらしい世界旅行 」とか「野生の王国」とか、そういう番組だったり、探検もののテレビ番組が結構あったのである。


海外へ行く手段が限られている時代だったので「兼高かおる世界の旅」なんていう世界紀行ものの番組などもあり、それがお茶の間の世界の窓だった。お茶の間なんていうのも既に死語なのか。。


まあ、今でも「世界不思議発見」とかは好きでやっていると見るが、なかなかそういうハードな情報を得られることはない。

そういう情報を見て不快に思う人が増えたからかもしれない。


わざわざそんなところまで探検したいという人は実は少ないのかもしれないのだけれど、いまでもHISやJTBでいくパック旅行の端っこに、そういう世界は口をあけて待っていたりする。


知らない間にそういう場所へ入り込むのだけれど、本人には自覚がなかったりするのである。


去年、マレーシアに行ったときにナイトトレッキングに参加した。雨が降ってなんどか中止になったあと、次の日にそこを去るというときに、たまたま晴れて参加することができた。

雨だといろんなモノが降ってくる。雨の雫と間違えてさわったらえらいことになることもある。


ナイトトレッキングといっても、夜行性の動物たちが見れることはまずない。彼らは人間などよりもずっと耳も鼻も聞き、人が気づくはるか前に逃げるからである。

よって、観察の対象は虫とか節足動物になる。なので、ナイトトレッキング、あまり期待しないほうがよろしい。


夜、それらを見つけるコツはライトを向けるとそれらの目が光ることでわかる。

ホタルの光よりもかすかだが、目が光を反射するのである。

ホタルだとおもって手をのばしたら、蛇だということがあるので、昔、親やじいちゃん、ばあちゃんに夜光っているものには手を出してはいけないと言い含められたが、今の人たちはあまりそういう経験もないのかもしれない。


結局、その日、サソリやら毒を持つ昆虫やらをいろいろレンジャーの人に教えてもらったのだが、なかなか怖い体験ではあった。


やはり、帰るとヒルに靴下の上から血を吸われていた。やつらは、つぶそうとしてもなかなか潰れない。タバコがあればいいのだけれど、タバコはもう10年以上前に辞めたのである。


いっしょのグループにアメリカ人がいたのだけれど、彼らはまだそういう情報の重要性を認識している。

それに自然観察をする目も備わっている。バリでもサイクリングツアーでアメリカ人に出会ったが、途中によった果樹園などでもいろんな知識をもっているのが、言葉の端々でわかった。

都会に住んでいても、キャンプやトレッキングなどで、子供の頃から自然と相対する時間があるし、それを大事にしているからだろう。


ヒステリックに対処してるだけでは能がない。

すべてを拒否できるわけはないし、そもそもほんとうに面白いのはそういうところにしかない。

日本人といえば世界遺産に落書きする程度なのでまあそんな程度なのかもしれない。当然、人にもよるが。。

そういや、レダン島で珊瑚を踏んづけている中国人団体観光客などもいたし、なにもそういうのは日本人に限ったことでもないのかも知れない。


で、最初に戻ってビルハージアで検索したら、あるページが出てきた。どうも、世界中を車で旅してるらしく、さらっとそんな情報が書いてある。どんな人なのかと思ったら、

http://homepage2.nifty.com/earthmyfriend/index.html

すごい。文だけ読んでたら、もっと若い人だと思ってました。すごい人だ。


やはりでも、こういう情報は、人に提供しようとするとこういう形になってしまうのかなあ。たぶん、まともに書いてたら、小説やらガイドブックが何冊も書けてしまう情報量だったりする。

すごく、さらっと書いてあって本当にその人が苦労したところは見えにくいのである。どうやって、病院に入るのかとか、何かを盗まれたあとどうやって過ごしたのかとか。体験したことがある人にしか行間は読めない。

まあ、うだうだ言ってないで、体験しろってことなのだろう。


最近、地球の歩き方も、ソフトな情報誌になってきている感もあるのだけれど、でもまだまだハードな記事も残していて、結構頼みの綱なのです。

ロンリープラネットでもよいのだが、やはり、写真も欲しいと欲張る自分としては、最近の、写真が多い、見栄えのするようなスカスカのガイド雑誌に負けないで、がんばって欲しいとひそかに願っていたりするのですお願い

バリの神様 その3

前回の続き。


さて、引き上げである。席をたって会場出口に向かう。

ちょっと待て。こんなに人が多かったっけ?考えて見れば、ひな壇は5段から6段あった。

広場はバスケットコートがスッポリ入って余るくらいの大きさだ。その3方を囲むほどなので、80m近くあるだろうか。1人あたり80cmとすると、5百人はいたのかもしれない。

それが一斉に出口を目指して動き出したのだ。


さて、私は人の顔を覚えるのが得意ではない。

中学校のときは、なんども友達を別の人と間違えて声を掛けたことがある。そのたび怪訝な顔をされたのだが。。

タクシーの運転手は、今日会ったばかりである。しかも、後ろから主に見ていた。さらに相手は外人である。


顔が。。思い出せない。


やばくな~い?スゲくな~い? 

聞いて!

バリ島は観光地だとはいえ、インドネシア。しかも、タナロットは山道を越えた岬にあるので、電気もまばらである。まわりには人家もない。

そして、果たして自分がどこで待ち合わせをしたのか、わからないのである。


はい、しかも、向こうだって顔を覚えているかどうかわからな~い。

はい、しかも、別れたのはすでに3時間も前である。

ハイ、ダメ~


いやいや。。でも、やはり。。いやいや。。

かなり、不安に駆られながら、明かりがついた場所から、次の明かりの場所へ歩く。


違う。


ここも違う。


さらに、次の明かりの場所へと歩く。


そうやって、いくつかの明かりを過ぎたとき。


いた!いたよ!


お互いの目があって、同時に気づいた。

そうだ、彼だ。

当たり前のように近づいて声を掛ける。


た、助かった~


そして、ふたたび、暗い山みちを下り、ヌサドゥアにあるホテルへ戻ったのである。

心づけを多めに払って、ホテルから帰るタクシーの後ろをしばらく見送った。


人は自分の能力を普通に生活しているときには意外に気づかない。

人の気配とか視線を感じながら実は生活しているのだけれど、あたりまえのようになってしまっているものなのだろう。


そうも思ったのだが、なんだかバリは違うのだ。


信仰深い土地というのは、そこかしこに感じる。

自然に対する畏れや敬いというのは、朝海岸に出ればわかる。

夜も明けて間もない朝、海岸沿いを散歩していたら、村の人たちが、集まってお祈りしているのを見かけた。

バリはそういう土地なのだ。祭礼の儀式もそこここで見られる。

それを空気で感じる。肌感覚がどこか違うのである。


自分は夜になるといつも、バリ島を覆うように羽を休めるガルーダを感じて眠りについた。

なぜなのかはわからない。


自分の中で何かが開く土地というのはあるらしい。そんなふうに思いたい。とてもシンプルに。


偶然の旅人

今日、誕生日を迎える友人に。。敬愛をこめて。