始めた頃は型を覚えるだけで精一杯、そこの道場の技術や良否は解らない。技術が正しいか正しくないかは稽古を初めてから何年もたってから気付くことが多い。その時では遅い、すでにそこの中堅になっているから。つまり、どっぷりつかってから気付く人が多い。つかる前にやめる人は成否が解らないまま辞めるか、止めるか、訳が分からないので病めるままに辞めていく。指導法にはいろいろありますが、私が薦められない稽古場の特徴は①私に合わせろ、掴んだ手は離さないこと、そのためには体を柔軟にして私の動きについてくれば離れない②受けも取りも力まないこと③片手取り転換の受けはおみこしを担ぐように体を下に、手のひらを上に④お互いの気持ちを忖度する。⑤初心者にこの指とまれと手首を追いかけさせる。初心者にかたい、リキムナと力を抜くことを強要する。他にもいろいろな特徴がみられますがここでは割愛します。長く続けたいと思う人は最初(入門)が大切です。優秀な指導者の道場には優秀な人達が集まるものです。「類は友を呼ぶ」と言うことわざがあります。教えてもらえるようならばそこの人達のスポーツ、武道等の経歴も大変に参考になります。武道の高段者やスポーツ等の経験者が多数在籍しているところならば安心です。攻撃側(受け)の力を的確に抜く技術(合気)を的確に解説しているところを選ぶとことを薦めます。型をある程度覚えたころに辞める人が多いがそこからが上達の始まりです。どうか飽きないで稽古してください。
創始者の植芝翁は元来、形(型)という考えはありませんでした。現在の形(型)は二代目の吉祥丸道主によって技法が集大成され今日伝えられています。植芝翁は外面的なものより感覚的なものを指導したそうで、「つまり氣じゃよ」は有名な言葉です。合気道は戦いの武道から禊(みそぎ)の武道という考え「天の理法を体に移し霊肉一体の至上境にいたる業であり道である」つまり、人間の理想の境地を求めていく身心鍛錬法であるという考えの上に日々稽古が行われています。合気道だけでなく 日本人ならではの伝統文化、例えば 茶道はただおいしく飲むだけなら茶道ではありません。もともと 坊主の眠気覚まし、薬として伝来したお茶に作法は必要ありませんが お茶に悟道を求めたために茶道が創造され、千利休のような人が生まれたのだと思います。ユーチューブで人気になっている合気道もありますが、あれが全てと思わないでください。侘び、寂び、つまり悟道に至る試合のない合気道が主流であるべきと思います。強いとか弱いとか植芝開祖は眼中に無かったと思います。
相手を無力化できたとしても強くなった訳ではありません。合気(無力化)は武術の崩しの一側面でしかありません。私の稽古の中心は合気の錬体づくり、中心軸づくり、そして歩みです。今朝の稽古は合気道には突きは無いのですかと言う質問があったため、植芝翁のことばに、もし悪漢に出くわして戦うときは「突き七部、投げ三部」と言われたことを伝えました。合気とか二教や三教等のちまちました技のことは言っていません。門下生の質問にたいして、道場にある空手の稽古に使う蹴り、突きの打撃を防御する用具を使い合気の突きを指導しました。普段 稽古をすることも教えることもあまりないのですが、体のうねりを使った打撃に皆さん納得できたようです。約数メートル飛んだのですから。あと、腰投げについて解説と稽古をしました。柔道とは異質な合気道の投げは投げない投げです。
合気とは相手の力を無力化すると言うこと、これは、武道の極意です。相手の脳を無力化する。それが相手の力を無力化することになります。
触れた瞬間に相手が意のままに操れ、そして控えることです。相手の力を無力化する基本の第一は自分の中心線をしっかり作りあげることです、そして、「正しい方向すなわち自分と相手の中心を合わせる」ことです。技が効かない理由は撞木の足が正しくない、手の開きに問題がある。中心線がしっかり安定していない〔姿勢が悪い〕。体が固まっている〔力んでいる〕。相手に体が向いていないなどですが、これは初心者のうちから体に叩き込まなければなりません。無力化の第一段階は相手の力の流れを感じて、ぶつかり合いを避ける、そして円の原理で導いて行けば大きな力は必要としなくなります。合気道の稽古のほとんどがこの稽古と言えます。第二段階は相手の体のどこからでも相手の中心軸を感じて触れて中心軸を崩し、相手の内部から無力化して倒します。この指とまれ方式は確かに有効ですが、道場生には通じても 一般人には通用しないことをを肝に銘じるべきです。合気道ではこの腕を追いかけろ、転換する肩を追いかけろと言うことです。演武でよく見かけますが、子供の親から疑問の声が上がります。
修行のイメージは艱難辛苦の末に「悟り」を得る仏教や山岳修験者が思い浮かびます。武道修行に出かけてきます。と私に言って戻って来た人もいますが何を悟ったのか伝えてはもらえません。より高度の技術を身につけるための修業は日本では大昔から料理の修業等多種にわたって存在します。合気道は技術の修業と丹錬を中心に稽古するのが良いと思います。方法は道場によってさまざまと思いますが自分で創意工夫することが長続きの秘訣だと思います。鍛練は体の法則に則ってやらないと危険だと思います。
高崎市箕郷町卜伝地域にある卜伝神社 塚原卜伝が武者修行のため来県し上泉伊勢守に剣の極意を伝えられたと言われています。
合気道(里見道場)に来ている人の年齢構成は最高齢は70歳代ですが若い新人を相手にかくしゃくとした態度で稽古に歳の差はありません。これは稽古を重ねるほどに進歩する日本伝来の試合の無い武道だからと思われます。合気道の元は柔術(やわらかいテクニック)です。現代柔道の体力と技の武道とは正反対なのが本来の合気道と思えば60歳を過ぎてから始める人がいるのも当然です。武術の上達は体力と気力の向上に効果があると思います。色々な職業の人との交流は世界を広げます。合気道(里見道場)に来ている人の年齢構成はさまざまですが、高齢者のかくしゃくとした態度は稽古に歳の差は無いのかも知れません。これは稽古を重ねるほどに進歩する日本伝来の試合の無い武道だからと思われます。合気道の元は柔術(やわらかいテクニック)です。現代柔道の体力と技の武道とは正反対なのが本来の合気道と思えば60歳を過ぎてから始める人がいるのも当然です。武術の上達は体力と気力の向上に効果があると思います。色々な職業の人との交流は世界を広げます。もうすぐ元号も変わります。新しい時代がやってきます。ぜひ、新しいことに(合気道)挑戦してみませんか。
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基本と型を会得したら、いつまでも道場に通うのでは無く、教える側になることが上達の道と私の経験から思います。人により指導に入る準備段階(二段~三段)は違いますが、ただ同じ場所で習っているだけでは進歩は牛歩のごとくなかなか進みません。教えながら自分が私事する師範のところに通うのは良いことだと思いますが、師範に対して鵜呑みにしないで、客観的に観ることも大切です。習い事に洗脳はつきものです。知らないうちに師範の意のままに動いてしまう事が多いと思います。受けに注文の多い師範は客観的に、そして批判的に見ることが上達のひけつでは無いでしょぅか。質問を受け付けない指導者が多々見受けられますが、質問しても「あとで・群馬のあとでは後が無い」と言われた場合、そこはやめた方が良いと思います。解らないなら解らない、一緒に考えようと言う師範を探しましょう。
5月8日は鎌倉攻めのため太田地域の武士達30騎が生品神社で旗揚げし、代表者達「新田義貞、里見義胤他」は里見一族を中心とした5000人が待つ高崎の八幡宮に向いました。 陣中守護の阿弥陀如来 現在は八幡八幡宮の秘仏、群馬県立歴史博物館に複製を展示しました。2/8の上毛新聞のコラムに八幡八幡宮の県重要文化財紹介とともに阿弥陀如来も紹介されていました。生品神社に集結した一族の旗中 船田、大井田、里見、羽川、鳥山、田中氏は里見一族。新田一族は堀口、大館、綿打です。江田は世良田一族、桃井は足利氏
新田一族が少なすぎます?今後の研究が待たれます。