今から二十数年以上前のことですが、私の合気道門下生が友達の柔道の現役(井上康生に負けてオリンピックには出られなかった)Y君を稽古場に連れてきました。いつもの通り両腕で私の腕をつかませたところ、筋骨隆々の彼に今まで感じたことのない圧力を感じたものの、いつものと同じ調子で軽く倒せると考えたのですが、「まずい、自分のパワーが自分に跳ね返り、腕が折れる」と思い別の立ち位置を変える合気方法で難を逃れました。合気道には試合がありませんが、私の技術では対応できなかったということです。どうして駄目だったのか試行錯誤、創意工夫の機会でもありました。私にとって絶対大丈夫は無いという素晴らしい経験でした。合気道の稽古は道場稽古、受けが取りに遠慮しがちの忖度稽古です。小さな女の人や非力な男の人が受けが忖度していることを気が付かないで達人になったと勘違いすることが多いのが合気道、無意識のうちに相手が倒れていたと自慢するのも、一般人には理解しにくい。道場生以外の人に技が効かないことに一生気が付かない人もいないわけではない、危険な場面に出くわすことなど日本にいればほとんど無い。たまには道場生でない人に抵抗されながら技をかけることも必要だと思います
   

急いでいる時に 大切な途中経過を抜かして 失敗してしまうことですが、合気道の技を掛ける時も早く倒したい、早く制したい気持ちが先に立ってしまい 反撃されてしまう未完成の動きになってしまいます。たいていの場合は受けが気遣って(忖度して)倒れてくれますので上手くいったように思ってしまいますが 本当はとんでもない失敗を犯していることが多々あります。物事は順序を踏んで丁寧に事を運ばないと失敗します。例えば一教の表の作りは二教→三教→四教→一教です。そんなことは無い、触れた瞬間に受けを腹這いにできると言う師範が多いと思いますが習字で例えると私の例は楷書です。触れた瞬間に腹這いにするのは草書です。初心者には楷書を丁寧に習う「急がば回れ」の稽古をお勧めします。  

私の門下生がある場所で教えています。しばらく前のことですが、盲目の人が入会したのですが(盲目の人にはアシスタントがついています)、教え方が解らないと相談されました。私の答えは合気道の稽古の一つにお互いに目を閉じた稽古があるのでやりましょう。と答えて、まずはお互いに手を合わせてから、目を閉じて一教の表、そして裏を稽古しました。目を閉じた稽古は非常に有効です。まずは軌道が観えてきます。力が抜けます。体の向きが理解できます。いろいろな合気道技が稽古できてしまうのが不思議です。盲目の人には限界はありますが、楽しく続けてもらいたいと思います。ただし、盲目の人との稽古は一般人と一緒ではありません。あくまで特別稽古です。

 

内観法とは正座して気を体内に巡らせる座禅の形態と思います。江戸時代の剣の達人に白井某という人がいました。白隠禅師の内観法を会得して達人になったと言われています。体観法は私の造語です。合気道は内観法と体観法、体感法等を稽古を通して体内感覚を磨くことで進歩できると思います。力とスピード、なれ合いでは前に進むのは難しいと思います。受けが上手になることが進歩だと指導しすぎるのは?と思います。演武と現実が乖離しないように体内の感覚を磨くのが良いと思います。

合気道を習っていたけれど色々な理由で辞めてしまった、思っていた合気道と違うのでやめたいと思っている人、しかし、まだ合気道に未練があるならばもったいないと思います。 大学時代に合気道を経験して二十五年後に稽古を再開した人もいます。三年後に再開した人もいます。七十過ぎて始めた人もいます。他の道場から来た人、いろいろな人が集まっています。今からでもおそくありません。怪我をした人は今まではいません、 是非里見道場の門をたたいて頂きたいと思います。
       

今年も108の除夜の鐘によって令和六年が開けました。仏教では108の煩悩を鐘で表すと表現していますが、神道では10と8に分けて考えます。十は神を現します、八は開けることを現します。神が開けるということです。門松は神を家の門で待つと言う意味です。初詣は神社に詣でるのが本筋ですので、神道で正月を考えると初詣は昨年お世話になりました、今年もよろしくお願いしますと挨拶します。家を守ってくれる神様どうぞお越しくださいということで、神社でお札を受けて家に帰るとともに神を門で待つと言うことになります。合気道は日本の歴史と伝統に則った武道です。各道場では鏡開き(太鼓の音)で稽古は始まります。鏡は武道の神様を表わします。一年を無事に稽古精進できますようにと拝み、そして神様への奉納演武をおこない直会「なおらい」〔神様と共食〕して終了します。

 

 

 

  


合気道の稽古方法の欠点は試合がないこと、合気道の利点は試合がないこと。試合がある武道は失敗が成功に導いていく(失敗は成功の本)ことで成長します。合気道は試合のない武道ですが反撃してもらうことはできます。正しい技であるのか確認するために反撃してもらうことは本物の技を探求するために必要なことです。反撃しない稽古(受けが忖度する)が主流になっていたのでは武術(護身術、逮捕術、体術)を求める人にとってはがっかりです。反撃されて(返されて)事実を理解しないと本当の理合い(技術)が理解できないと思います。武術の探究を放棄してなかよし武術ごっこを楽しむクラブも多く見受けられますが。真面目に探究、追求しようと思って入会する人にとっては時間とお金の無駄とともに悪い評判はすぐに広まります。

※「悪事千里を走る」(よい行いはなかなか人に伝わらないものだが、悪いことをしたという評判はあっというまに世間に知れ渡り、遠方までも広がるものである。

 


武術は心理ゲームです。宮本武蔵の巌流島での戦いは時間と言葉、櫂の木刀等、技よりも心理作戦が中心でした。何事も人間が意思決定しているため、さまざまな心理現象を理解しないと相手を制することは難しい。合気道は相手の心理や動きが変化しているのに自分がやりたい技に固執すると負けてしまいます。戦いは千変万化に変化する動きに対応しなければなりません。負けると思ったらさっさと逃げるのも方法の一つ。人間は負ける戦いが解っていても自分を正当化(一貫性の法則)したくなりますが目論見が外れ、本来ならすぐに撤退しなければならないのに、失敗を認めることができず、ずるずると凋落の道へと進んでしまうので、冷静に淡々と対処することが重要と思います。日本国内外での敗戦の歴史が教えています。目に見える力、目に見えない力を保持し続ける努力が大切です。

嘘は口先で相手をだますこと。合気術は体の技術で相手の(脳)をだますこと。だますためには体の理論を熟知することが大切。受けに反撃させないためには、反撃されないように相手の脳をだませば良い。これは合気の技術。相手の脳を虚(うつろ)の状態にしておけば反撃されることは無い。「虚を突く」虚を生みだす秘訣は間接技法が良い。これは体術の技術、手品は奇術、剣は剣術、忍者は忍術、詐欺は話術と心理という技術を多用しています。スピードと体力と技がある人は格闘技が良い。

 

  刺すまた 振り回すのに良い重さです。昔の刺股は怖いし危険。

里見道場の皆様にご協力いただいて府中市上染屋八幡神社から還座した阿弥陀如来像(元国宝、現在重要文化財)の複製が12月16日(土)から群馬県立歴史博物館に展示されることになりました。長野の善光寺では七年に一度の御開張、他のお寺でも秘仏として大切にされていることが多い阿弥陀様です。せいぜい一年に数日しかお目見えできない貴重な阿弥陀如来です。歴史博物館では常時展示されていますので是非足を運ばれてご覧ください。