雨だれのような水の一滴でも長年の水滴が岩に穴をあける。という例え


毎日コツコツと努力して精進すればいつかは成就するということです。どんな芸事も誠心誠意努力して精進すれば達人の域に達することができるはずです。暑い、寒い、暗い、風が強い等いろいろの理由はありますが、この理由を断ち切って道場に来るまでが心の修行、稽古は体と心の鍛練だと思います。
  


   

のっぴきならない”は、「退き(のき)引き(ひき)ならない」から転じたもの。 “退く(のく)”ことも“引く”こともできないことから、追い詰められて身動きが取れない状況を指します。 “自分の力ではどうにもできない”という意味でも使われています。武術的に考えると相手に攻撃、または体を固められて、または追い詰められてしまった状態を想定すれば良いと思います。ここからの脱出、反撃方法が武術です。合気武術、日本武術には多種にわたる考案、妙案が存在することを大先輩から教授されましたがまだまだあると思います。とんちの一休さんならどのような答えを出すのだろうか、創意工夫は稽古を楽しくします。



京都、嵐山の滝口寺(新田義貞の首塚有)

誰もが合気道の達人になれるとは限らない、というかほとんどの人がなれないのはなぜなのか。つまり、新しい技を創造し、イノベーションを起こすことは、有名な師範に習いさえすれば誰でもできるようになるわけではない。

これは、学んだ基本技をいかに応用するかという思考習慣が養われていない、あるいは道場以外でそういう姿勢で取り組んでいないことに起因します。

学んだ技や知識を組み合わせて統合し、より複雑なことに適用できないのは、社会人や学生が合気道だけに集中できる環境を与えられておらず、型を学ぶのに精一杯で。自分で問いを発して探求し、解決方法を自らの頭脳で編み出し、成し遂げるという経験をしてこなかったからだと思います。そして師範とはいえ仕事と掛け持ちが多く、教えるプロフェッショナルとは思えません。他の武道をかけもちする熱心な人もいますが、私の経験では試合の無い合気道の上達に有害な面もあると感じます。

善光寺式阿弥陀如来像(複製)です。1333年に鎌倉攻めの守護神として持参。11月7日に里見道場に於いて群馬県立歴史博物館に贈呈しました。元国宝、現在は重要文化財です。

合気道の稽古は攻撃側(受け)を陽とし、守勢側(取り)を陰として稽古をすること。取りも受けも互いに近づくことで陰陽の法則は成立します。取りは自分の体を陰として陰の中心を発揮して受けに対応することが肝要です。見せない部分が大切であることは袴をはいて膝等を隠していることからも理解できます。陰はいろいろな面で重要な役割を担っています。白鳥は優雅に泳いでいますが水面下では両足で一生懸命水をかいています。


投げは、合気道の原点ですが、剣の刀法から生まれています。腰の刀を抜く瞬間を押さえられた時、そのまま合気を掛けて前方に投げる方法と少し刀を抜いて、相手の小手を刀で極めて投げる方法があります。これから派生して、片手取り、両手取り、胸取り、肩取り等、投げの原点はここにある。杖を使っての投げも原理は同じです。今まで、他の道場の人と投げ技の稽古をしたとき、こんな投げでは実際はとばないだろうというほど、掴んだ手が離れている人が多いし、掴みに行く受けの人もみんなが前受身を取っているから、理合に関係なく受身の練習のつもりで腕を掴みに行っているように思えてなりません。杖を掴みに行って投げられた時に杖を完全に掴んだ状態だから投げられていることを思い出してください、もっとも杖を使って投げられた経験がない人がいることも最近の道場ではあると思います。   足を大きく開いて投げない

臆病な人とは危機回避能力が優れている、言い換えれば未来を考えられる人です。武道の達人の第一条件は臆病な人であること。武道に限らず達人は冷静で慎重に物事を判断できる人です。戦国の世において生き残るためには危機回避能力が高くなければ生き残ることはできませんでした。慎重な判断ができるという能力が高い人が生き残りました。織田信長は少ない手勢で本能寺に宿泊して明智光秀に打たれました。豊臣秀吉は徳川家康の勢力を削がないまま亡くなりました。最後の油断が徳川家康に味方しました。味方とは家康の臆病から来ています。臆病な人というのは、それだけ自分の身に何か変なこととか嫌なこと、失敗する何かが降りかかるのを凄く怖がります。そうならないためにはどうやって過ごしたらいいのか、どうやって行動したらいいかというのを冷静に慎重に判断できる先見能力が長けてる人だと思います。家康や家光は先読みの達人です。嫡流の子孫が絶えることを予想して御三家をつくり、大名の裏切りを予想して参勤交代や関所、大名の婦人や子供を江戸に人質として確保しました。将来徳川の敵と成りうる家柄の○○家の抹殺や大名のお家取りつぶし、遠隔地への配置換えまで実行しています。徳川政権が265年も続いた理由は家康や家光の臆病な性格から来ていると思います。
 
 

以前合気道を習っていたけれど色々な理由で辞めてしまったが、まだ合気道に未練があるならば、健康法として再度チャレンジをしてください。通える人は里見道場の門をたたいて頂きたいと思います。合気道の指導者は全て個性があり、百人の指導者がいれば百通りの合気道があると言われています。なかには触れずに倒す演武をする師範もいるようです。私にはできませんが? 

よそで学んだ人の合気道で良いことは参考にさせていただいています。試合が無い武道にありがちな「われこそ達人」という人が多いのもこの世界ですが参考になることが多いのも合気道です。ユーチューブに出てくる合気道関連の質問は大いに歓迎しています。新しい刺激、そして参考になることもあります。常に何かを求めていることが新鮮な道場を維持する秘訣かもしれません。合気の全てを答えられる達人の存在は幻です。日々、合気道探求
 

     



 墨渓画(江戸時代…富岡市の画家 出は新潟)

芸術大学を出て立派な芸術家に全ての人が成れる訳ではありません。かつて名を遺した芸術家の多くは有名な芸術大学の出身者ばかりでは無い。学校は基礎、基本を教えるところでそれ以上の芸術の極意を掴むのは本人の精進努力と持って生まれた才能にかかっている。合気道は正式な学校が無いので道を求める人には大変だと思う、道場がほとんどない現状でしかも週に数回のカルチャースクールで学ぶのは道を求める人には無理がある。敢えて言うと解っていないセミプロの指導者が多すぎる。芸術と同じく、どんな指導者のところに行っても本当の極意を教えられるところなど望まないほうが良い。立派な作品を残した故人に芸術大学出身はあまりいない。

安政の遠足で有名な安中藩に海保帆平と言う武士がいたが14歳の時に江戸に出て玄武館道場〔北辰一刀流千葉周作〕に入門した。入門後19歳で大目録免許皆伝と門弟千人の中で異例の速さ5年で得てしまった。その後、徳川斉昭に気に入られ水戸藩の弘道館の師範に迎えられた。しかし、実際は水戸には鈴木派無念流(重臣鈴木專十郎は私の六代前)があり、無念流から独立した不二心流の中村一心齋という70余歳の達人が水戸藩を訪れた際にし合うこととなったが二十代の帆平がまったく試合にならず、気後れ状態のまま負けてしまった、これをきっかけに帆平はますます精進し日本を代表する武道家と言われた人です。中村一心齋と言う人は、日本剣道史の著者の山田次郎吉先生が他の武道家と比べると次元を超えた達人であったと太鼓判を押した人物です。富士登山で開眼した武道家です。写真は藤田東湖の書 水戸弘道館より里見道場へ 弘道館里見道場名の由来 われよくやしなうわがこうねんのき

受けに対して文句が尽きない師範がいます、固すぎる、もっと柔軟に、果ては俺の動きを察知して動け、私の気を察して受けを取りなさい等、純粋な素人にはこの言葉は通じません。合気道の受けを知らない純粋な人に対して技をかける場合、受けは取りに対していかに抵抗しようか身構えています。強く当たれば強く返し、弱く当たれば弱く返します。受けは取りの合わせ鏡、柔軟に対応すれば反発も生まれません。