しかし、なぜ? 興味のある人は聞いて下さい 現在は私が建てた説明看板があります。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という格言がありますが解らないことは解るまで聞く、そして納得したら再現する努力をする。再現できない場合もあるけれどもいつかできるようになる。ただし、映像の演武はまゆつばものが多いので気を付けたほうが良い。ユーチューブやビデオでこんなことをやっていたということの質問がありますが、それは他人の演武なので本来「我関せず・関係ない」ですが ついつい答えてしまうのが私の性(さが)です。もちろん答えられないこともあります。とにもかくにも解らなかったら師範に聞く。先輩の方が聞きやすいのですが先輩は自分のレベルで答えますからある意味(適当)です。質問は責任者である師範に向けてください。質問しにくい雰囲気の師範は要注意です。回答が納得いかない時はしつこく食い下がって聞くべきです。稽古後はすっきりした気持ちで帰りたいものです。周りで稽古している人も聞き耳を立てています。
安政の遠足で有名な安中藩に海保帆平と言う武士がいたが14歳の時に江戸に出て玄武館道場〔北辰一刀流千葉周作〕に入門した。入門後19歳で大目録免許皆伝と門弟千人の中で異例の速さ5年で得てしまった。その後、徳川斉昭に気に入られ水戸藩の弘道館の師範に迎えられた。しかし、実際は水戸には鈴木派無念流があり、無念流から独立した不二心流の中村一心齋という70余歳の達人が水戸藩を訪れた際にし合うこととなったが二十代の帆平がまったく試合にならず、気後れ状態のまま負けてしまった、これをきっかけに帆平はますます精進し日本を代表する武道家と言われた人です。中村一心齋と言う人は、日本剣道史の著者の山田次郎吉先生が他の武道家と比べると次元を超えた達人であったと太鼓判を押した人物です。富士登山で開眼した武道家です。写真は藤田東湖の書 弘道館里見道場名の由来は水戸弘道館 われよくやしなうわがこうねんのき
稽古における心得として「反撃すると嫌われる」後輩が先輩に反撃することはそこの道場での稽古はできなくなることを覚悟の上でないとできることでは無い。よほど気心のしれた相手でないと本音は吐けない。そうしながら進歩が無いまま時間は過ぎていく。それでも、級も段も上がっていくので結構楽しい。世界一平和な日本では襲われることなど「万が一」無い。万が一、あったとしても携帯で警察に連絡したり、お店やコンビニに飛び込めば助かる確率は高くなる。法律では過剰防衛は逆効果になる。、生兵法は怪我のもと、逃げるが勝ちは昔からの格言ですが、武道を極めているといざというときの判断が的確になることは「腹が据わっている」よく言われること。たとえ、矛盾を感じても武道はやった方が良い。町の役員になったら、町内パトロールの仕事をすることになった。車に防犯パトロール中というステッカーを貼ってのドライブです。事件に遭遇しても手を出すな、足を出すな、口を出すなと言われている。あくまでも防犯の抑止になることを期待されたパホーマンス。これが現実。なにかあったら自衛するしかない。
白井亨は中西道場の高弟寺田五郎右衛門(天真一刀流…高崎市出身)に完敗し「どうしてそのような精妙な技を得たのかと質問」したところ悟道のほかはない。との答え、邪念をもって修行していたのでは悟道へは入れない。清浄無垢になることと諭した。そこで過激な斎戒沐浴の日々を過ごしたが、かえって神経衰弱になり体を壊してしまった。
そこで、白隠の修行方を紹介され 氣海丹田が充実して元気が回復しました。
白隠の軟酥の法「気合のこもった身心統一の実現に意が用いられている点で、清浄な色と香りのする鴨の卵のような軟酥を頭に載せる。それが頭を潤し、両肩、両腕、胸、肺、肝臓胃腸、背骨、尾骨を気持ちよく浸しながら降下してくる。全身の凝りや痛みを癒しながら流れ降りるのである両脚を温め潤し、足の土踏まずまで来て止まる。このようなイメージを何度かくり返すのである。これによって、内臓の気の滞りをなくし、胃腸のはたらきを活発にし、皮膚は張りが出て、どんな病気でも治すし、徳を積み道を成就することができると述べています。」後に寺田の勧めもあり行者の道場におもむいて撞木をたたく姿を見ながら修行をしていたところ、上人の撞木をたたく姿(自然に称名と手と心一致している)この時はっと悟った。その後剣が自由精妙に動くようになった。「後進の者が邪念をもって剣を学んだり水を浴びたりする無益な艱難辛苦をしないように「開道論」等著述して後世の人に残したとのことです。合気道の極意は倒そうとすると倒れない、邪念をもたない稽古が最善だと思います。
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人間は少しでも解ってくると初心者にアドバイスしたくてムズムズしてきます。「どうして周りの人はもっと助言をしないのだろう」「ちょっとアドバイスするだけで、ずいぶん変わるのに」と。でも、決して自分からは、相手にアドバイスをしてほしくありません。聞かれた時にはプライドを捨てて師範を呼ぶべきです。道場の唯一の指導者(責任者)である師範に任せるべきです。「向上心のある師範は日々進化しているので以前と違う説明の場合が多々あります。」私が初心者の時の経験ですが、先輩達の説明の違いに迷ったことがよくありました。今振り返ると全ての人の説明が曖昧で正しく無かったのです。知ったかぶりをしないこと、言いたくても言わないこと。「あなたはこういう点がダメで~」ときつい言葉で言い始めたら、間違いなくその人との関係が悪くなります。私からすると偉そうにアドバイスをする人は大変困ります。長らく休んでいた人が昔の技を指導することがあるので困ります。その人のその時の実力でのアドバイスであり参考にすぎません。とにかく、上から目線でそれを他人に押しつけてはいけない、学生だから、初心者だからと威張らない、肝に銘じてほしいと思います。この指導方法は私のような個人道場での話です。公共施設を利用し、曜日によって指導者が変わるサークル的な稽古場は個人道場とは別物ですから参考にしないでください。
羊太夫、藤原不比等の名が残る多胡の碑は(711年)に建立しています。
稽古は受けと取りにわけられます。受けが攻撃してくるのを電信柱の如く待っている人や受けにこうに来いと多くの注文をつける人をよく見かけますが武術(道)の稽古としてはありえません。野球で例えると受けがピッチャーと守備の人たちで取りがバッターです。合気道の稽古では攻撃側は受けで守備側が取りです。攻撃側である受けを迎え撃つためには積極的な待ちと合わせが必要です。つまり受けが攻撃を開始する直前に動作は開始されなければなりません。この間(ま)が生死を分けます。合気道や剣道で袴を着用する伝統はたんなる伝統ではなく敵に下半身の動きを解らせないための必勝アイテムと考えると納得がいきます。攻撃相手を誘導する、操る余裕、技量を持つためには稽古により自信をつけるしかありません
道場からの浅間山 噴煙はありません。
芯(しん)がしっかりしていない、ふにゃふにゃの体、あいつを骨抜きにしてやる等、中心軸がしっかりしていない人は抜けている人として一人前に扱ってもらえない。合気道の稽古法は中心軸を作る鍛練(丹練)法と考えると精進する気力が湧いてくる。強くならなくても良い。いろいろな強さは稽古とともに後からついてくる。
※腑抜けとは
腑抜けの「腑」は、「はらわた」「臓腑」を意味する語。 「肝」に「気力」や「度胸」の意味が あるように、「腑(腹)」は底力を出す際に力を入れる場所と考えられている。 力を入れる べき場所が抜け落ちた状態から、腑抜けは「意気地がないこと」や「腰抜け」を表すように ..
木刀で振り下ろす相手に対して出るタイミングは、表と裏ではもちろん違います。しかし、太刀取りだけでなく全ての合気道の技に共通です。まず表ですが太刀取りの場合、受けが振りかぶると同時に前にでます。相手の剣の先に見えない糸があるとします。この糸が取りのおでこにくっついていると仮定して、丁度操り人形の取りが木刀に引っ張られるタイミングで前に出ます。突きの場合も同じ、受けが手を引いたときに引かれるように前に出るということです。このタイミングを覚えないと護身の武道は怪しいと言わなければならない。とにかく、相手の初動とともに、入り身、一教、突き等前にでることを前提に稽古をする。裏についてのタイミングは出ると言うよりも向かいいれる感覚です。私の胸に飛び込んできなさいということ。裏は私の場合は二刀流の動きで対応することが多いが円運動をともなうのは表も裏も同じです。