宮本武蔵は巌流島で佐々木小次郎と戦ったのを最後に決闘は止めています。その後、姫路藩の武士として大阪の陣に出ますが、当時の社会情勢は個々に戦う剣の時代から、集団戦法や大砲、鉄砲による戦闘の時代に変わっており、剣術についての限界を感じたようです。剣から学ぶことは無いとも言っています、しかし大東流の佐川幸義先生いわく、「もし体術に進んでいたら、もう剣から学ぶことはないなどと宮本武蔵は言わなかったろう」と語られていますが、剣から大東流柔術に進み、今日の大東流や合気道の基礎をつくった武田惣角は、西郷頼母〔会津藩家老、大東流継嗣者〕に剣の時代は終わった、これからは柔術で身を立てよと諭されたと言われています(真実は不明)。武蔵も剣の時代の終わりを感じて、心は別の方向に向かっていたのではないかと考えられます。五輪書に「剣はすたれる」とも書いています。剣で求めた「宇宙的な真理」を絵画や彫刻、お茶、連歌、庭園造りといった芸能の世界に入り傑作を残すことになったわけです。

 

中山安兵衛、のちの堀部安兵衛作庭の箕郷町下田邸

浪人時代に寄宿していた下田邸の庭を作庭 (馬庭念流を学んでいた頃)


 宮本武蔵自画像と枯木鳴鵙図 道場展示

日本武術の特徴は老いてますます盛んであること。六十代はまだまだと研究熱心な人が多い。試合形式のスポーツは、筋肉や瞬発力は老化にとともに衰えますが武術にはそれを超える何かがあるようです。試合形式の柔道でも老いてますます盛んであった三船十段や明治時代の大日本武徳会の剣道の達人は老いてますます盛んであったようです。当時入門していた祖父が父に語っていたので真実のようです。

祖父の大日本武徳会の入門願いが県の資料館に保存されていました。道場に展示しています。
 


 

心を落ち着けるとは 対象に対して冷静になること、表現を変えれば上がらない心、無我の境地、冷静沈着などということでしょうが、武道では相手と対峙した時に 浮足立っていてはすぐに負けてしまいます。心を落ち着けている「冷静沈着」である 相手にとっては手玉に取る格好の相手です。心を落ち着けていれば相手の全てが見えてくると言われ、心の修行が必要と、座禅を勧める人もいますが 座禅をして、沈思黙考を何年も続けていても肝心の稽古を怠っていたならば 頭でっかちになるだけで、その境地には達することはありません。どの運動もそうですが、誰よりも多くの稽古、練習が自信につながり上がらない心、無我の境地、冷静沈着の境地になると私は思います。

私の技の解説は時計の歯車で例えることが多い。大切な動きの要点を順番に一つ一つ歯車のように動きを進めていかないと(起承転結)正しい結果は生まれない。一つでも手を抜く(歯車を飛ばす)と受け手に違和感を与えるので、特に受けの経験が浅い人は直ぐに感じてしまう。受け慣れした人は忖度するのになれているので取りに合わせて誘導までしてくれるので優しい人として人気が高い。受けの指導を重視している他の道場から来た有段者は合わせ上手が多いので上手くなったと勘違いしてしまうこともある。


 

道場の囲炉裏の部屋とよく来る鷹

捨て身の覚悟で取り組めば、危機を脱し活路を見出せるということで、溺れかけたとき、 もがけばもがく程深みにはまるものであり、捨て身になって流れに身を任せれば、やがて浅瀬に立つことができるという意味から。 「あれ」は「あり」の已然形で、「こそ」に呼応して已然形で結んだものであり、命令形ではありません。合気道の技の要点は攻撃された箇所は捨ててしまえ と言うこと、この格言は合気にとって大切な極意となっています。合気の達人の言葉に 接触部分は与えよ、動くところをが必ずある。この冷静な冷静沈着な心が大切です。
    

入身投げの原点は小野派一刀流兵法の秘剣〔絶妙剣の奥伝〕からきています。相手が切ってくるところを逆に手又は首〔相手の状況により変化〕を切っていくように入り身します。その次に螺旋に相手を切り円運動で崩し、再度、螺旋状に〔竜巻の上昇〕のように相手を上に上昇させて、再度落とします、合気道は投げがつく技の名称が多いが投げ技で無い場合が多いので誤解しないように稽古して欲しいものです。四方投げは四方切り、入身投げは入身螺旋回転落とし、天地投げは天地落とし等です。  



 


合気道の三要素は入り身、転換、呼吸方です。合気道の体さばきは新陰流(上泉秀綱流祖)と同じように皮を切らせて肉を切る捨て身に近い動きを主に使います。試合の無い合気道では剣や拳が触れることはあっても入り身と転換、相手との呼吸による体さばきによって紙一重で身を守らなければなりません。入り身投げは決して投げてはいません、相手の中心に向かいつつ(丸く)螺旋に導く(巴足を知らない人にはできません)ことで私の入り身投げの裏は成立します

 


 演武会を見ていて感じるのは、型を守る、そして破る、そして離れて自分の境地に至る、合気道の演武も初級から中級の人は正確な型を表現することにこだわること、上級者は型を破り自己表現(主張)を演武する。特に上級者は型から離れ、技から離れ、合気の練体を表現できることが理想だと私は感じます。しかし、同じ型(一教他)の繰り返しに辟易(へきえき…うんざり)している一般客が多いのに。師範クラスの演武も同じように感じます。演武は今の自分の実力を演ずること。独自性、創造性を出し精一杯演武すること。自分が表現したい事を前もって考えておくこと。他の人がやっていない技があれば演武する。熱心な参加者には必ず参考になると思います。

説明はこういう説を明らかにする。または自分の説を明らかにすること。解説は解の字の成り立ちからすると牛を刀で分解する、はツノです。昔、中国に包丁という牛を解体する達人があっという間に牛を部分部分に解体するので、その手順について聞いたところ 筋道に沿って刀を入れていると解答したとのこと。マグロの解体ショウも同じこと。マグロの体の筋道を理解しているので あっという間に解体してショウが終了する。説明の説は(文化系)、解答は分析学で(理科系) 杉田玄白は解体新書を著し、ダビンチは人体を解体して絵の参考にしている。合気道の解説は分析学が良い。つまり気じゃよ、偉い先生がこうしていた、開祖がこうしていた では本当のところ理解できないし説得力があるようで無い。合気道の技は生理学、心理学、物理学、数学、文学、宗教哲学等多種の学問が関係してくると思います。