宮本武蔵は巌流島で佐々木小次郎と戦ったのを最後に決闘は止めています。その後、姫路藩の武士として大阪の陣に出ますが、当時の社会情勢は個々に戦う剣の時代から、集団戦法や大砲、鉄砲による戦闘の時代に変わっており、剣術についての限界を感じたようです。剣から学ぶことは無いとも言っています、しかし大東流の佐川幸義先生いわく、「もし体術に進んでいたら、もう剣から学ぶことはないなどと宮本武蔵は言わなかったろう」と語られていますが、剣から大東流柔術に進み、今日の大東流や合気道の基礎をつくった武田惣角は、西郷頼母〔会津藩家老、大東流継嗣者〕に剣の時代は終わった、これからは柔術で身を立てよと諭されたと言われています(真実は不明)。武蔵も剣の時代の終わりを感じて、心は別の方向に向かっていたのではないかと考えられます。五輪書に「剣はすたれる」とも書いています。剣で求めた「宇宙的な真理」を絵画や彫刻、お茶、連歌、庭園造りといった芸能の世界に入り傑作を残すことになったわけです。

 

中山安兵衛、のちの堀部安兵衛作庭の箕郷町下田邸

浪人時代に寄宿していた下田邸の庭を作庭 (馬庭念流を学んでいた頃)


 宮本武蔵自画像と枯木鳴鵙図 道場展示