宮本武蔵は巌流島で佐々木小次郎と戦ったのを最後に決闘は止めています。その後、姫路藩の武士として大阪の陣に出ますが、当時の社会情勢は個々に戦う剣の時代から、集団戦法や大砲、鉄砲による戦闘の時代に変わっており、剣術についての限界を感じたようです。剣から学ぶことは無いとも言っています、しかし大東流の佐川幸義先生いわく、「もし体術に進んでいたら、もう剣から学ぶことはないなどと宮本武蔵は言わなかったろう」と語られていますが、剣から大東流柔術に進み、今日の大東流や合気道の基礎をつくった武田惣角は、西郷頼母〔会津藩家老、大東流継嗣者〕に剣の時代は終わった、これからは柔術で身を立てよと諭されたと言われています(真実は不明)。武蔵も剣の時代の終わりを感じて、心は別の方向に向かっていたのではないかと考えられます。五輪書に「剣はすたれる」とも書いています。剣で求めた「宇宙的な真理」を絵画や彫刻、お茶、連歌、庭園造りといった芸能の世界に入り傑作を残すことになったわけです。

 

千利休の太祖(里見氏)の供養塔 榛名町 里見山光明寺
 宮本武蔵の枯木鳴鵙図

月は技を掛ける人と捕らえると掛けられる側の受けは地球と考える。それが里見流です。月は地球を回る、ただし、いつも同じ向きで裏は見せない。取りは受けに対して回る、四方投げは一瞬回転して背中を見せるが相手の背後方向に回る。受けに対していつもまとわりついている。距離をおくことが少ない。何を言っているのか分からない人がいるかも知れませんが、いずれ知るときが来ると思います。

 
 
関口氏業〔1598年生〕関口流〔柔術を主体とする総合武術〕の祖、氏心(うじむね)(林崎甚助の弟子)の息子で父の開いた関口流をより発展させて今でも言い伝えられる柔術の達人です。氏心が柔術を閃いたのは、ある日、外にでて何気なく庭の方をみると、屋根の上で寝ていたネコが寝ぼけていたと見えて滑って庭に落ちてきた。は、と思っていると、宙で一回転してひょいと地面に立ち平気でそのまま行ってしまった。これを元にして新しい関口流が生まれた。二代目氏業は渋川流柔術に影響を与えた。渋川半五郎義方が氏業に試合を挑んだが、「小男で少しも力があるように見えない、組んでも柔らかくファとした感じで、かえって力の入れ様が無く、何もしないうちに体が宙に浮き、何度も投げられて乾杯した。」半五郎は弟子入りし熱心に稽古し免許皆伝を許され、渋川流を創始したそうです。「…」の部分の半五郎の崩され方、また、座った柔心を動かすのに三四人掛りでもうごかなかったそうです。昔のことでも参考になります。昨日のNHKの徳川家康に出ていた関口氏宗は祖父です。今川義元が家康に不思議な技を使うと感心していましたが、このことを暗示していたのかなと観ていました。せなは柔術を発展させた関口家の娘です。

後出しじゃんけんはルール違反ですが、勝負の世界では別の話、勝たないと後が無い戦の世界では勝ち負けにこだわらないと後がありません。武術の陰流は後出しじゃんけんです。ただし、ただ遅れているわけではありません。合気道の稽古は「掴ませる・殴らせる」などの陰流ですが、相手を誘導する、相手の脳をだます技術を身につける稽古と考えると老人や女性向きであると思います。陰流の極意をつかめば相手を腑抜けにさせられます。陽流は先手必勝、スピードと体力、運動神経が中心のスポーツと考えると解りやすいですが、「そんな簡単な事では無い」のも事実です。すべてにおいて「後出しじゃんけん」が有利とはかぎりませんが、体力の無い人間にはこれしかありません。不意をつかれたら必ずまけます。体力の勝った人に不意を突かれたら必ず負けます。しかし、陰流は奥が深い武術です。年齢や体力を超えて達人になれる人の条件は陰も陽も兼ね備えた人だと思います。老いてますます盛んなりが合気道の理想です。

 

高崎市箕郷町 塚原卜伝が上泉信綱(新陰流)に教授された卜伝神社

合気道(里見道場)に来ている人の年齢構成は9歳から最高齢は80歳代ですが若い新人を相手にかくしゃくとした態度で稽古に歳の差はありません。これは稽古を重ねるほどに進歩する日本伝来の試合の無い武道だからと思われます。合気道の元は柔術(やわらかいテクニック)です。現代柔道の体力と技の武道とは正反対なのが本来の合気道と思えば60歳を過ぎてから始める人がいるのも当然です。武術の上達は体力と気力の向上に効果があると思います。色々な職業の人との交流は世界を広げます。新しい時代がやってきます。ぜひ、新しいことに(合気道)挑戦してみませんか。

  


今年も108の除夜の鐘によって令和五年が開けました。仏教では108の煩悩を鐘で表すと表現していますが、神道では10と8に分けて考えます。十は神を現します、八は開けることを現します。神が開けるということです。門松は神を家の門で待つと言う意味です。初詣は神社に詣でるのが本筋ですので、神道で正月を考えると初詣は昨年お世話になりました、今年もよろしくお願いしますと挨拶しますが、お願いは後日するのが本来の神社詣でだそうです。〔人間の世界でも、新年早々に会っていきなりお願い事や注文をしたらなんて非常識なやつだと思われませんか〕そして、家を守ってくれる神様どうぞお越しくださいということで、神社でお札を受けて家に帰るとともに神を門で待つと言うことになります。合気道は日本の歴史と伝統に則った武道です。各道場では鏡開き(太鼓の音)で稽古は始まります。鏡は武道の神様を表わします。一年を無事に稽古精進できますようにと拝み、そして神様への奉納演武をおこない直会「なおらい」〔神様と共食〕して終了しますが、社会事情が思わしくないため、鏡開きの予定はありません。5日の夜7時の稽古からです。今年もよろしくお願いします。

源義家(家紋は笹竜胆では無く丸三 右は私)

里見氏先祖供養塔(榛名町里見山光明寺境内・解説文を正面左に昨年私が掲示しました。)

前の石碑は裏千家千玄室氏が建立 日本文化に貢献した千利休は里見一族です。

 

カナダの医療機関、イースタン・オンタリオ・リサーチ・インスティテュートの研究結果では、10週間にわたって週2回の運動を続けた人は、社会性、知能、運動能力の各項目に関する自己評価が上がったという。自分自身のボディイメージや、自尊感情も改善した。自信を高めるための努力を続けることは、精神的な強さを得ることにつながる。とのこと、運動には技術向上と体力向上、筋力向上、気分転換、ゲーム運動等いろいろ考えられますが、試合のない合気道は全て含まれていると思いますが、人それぞれの適性により継続は異なります。理合(身体理論、相手との和合、調和)を追求される方は毎日稽古ができる町道場が適していると思います。時代の流れは体主霊従から霊主体従に移行しつつあります。令和五年は霊和五年、自己中心の金を目指した物質主義から精神を重視した銀の時代、金閣寺から銀閣寺、室町時代の東山文化は侘び、寂びという日本独特の精神文化を生み、現代に受け継がれています。そして宇宙との一体化を目指す和合

調和の合気道に受け継がれていると思います。

合気道はどうやって生まれたかを考えると、日本合気会の説明では、植芝守平が開祖と言うことで、基本となった大東流とは全く違った術理で、和合の武道として今日伝わっている。とのことです。だが、和合の武道に至るまでのこととなると精神論であり、合気道の初心者にとっては違和感を覚えるのではないでしょうか、和合の武道としての合気道を理解できるほどレベルが高い人は少ないのではないでしょうか。

「実は私がそうでした」合気道の原点は先輩(生きていれば80代)の話によると平安時代の戦乱期において、甲冑で槍やなぎなたで戦っていた〔刀は槍やなぎなたが折れて使用不能になった場合に最後に使う〕時代にお互いが手元に武器が無くなった場合に組討、相手に武器があった場合は太刀取り、槍とりになったとのことで、この技が骨法や柔術として発展し、表芸が剣で裏芸が骨法となって色々なお家芸として、秘伝として伝わって来たとのこと、その流れの一つに大東流があり、植芝開祖が総合武道としたのが合気道と言うことになり、大本教の思想を加味して現代の「相手をも和合、調和してしまう和合、調和の武道」として今日にいたっているのではないかと考えます。

 現在は武道の本やビデオが氾濫しており他流の技を見る機会が多く、何々流と書いてなければ合気道の技と言われても違和感の無い技が多く見受けられます。本当に全て植芝開祖の発明の技なのか疑問をもたざるを得ません。ただし、「私の理想とする合気道とは、関節技以外は気が付いたら投げられていた、倒されていたという風に、受けに恨まれることの無い後味の良い技の掛けを 心掛けることが合気道の技」と信じて稽古をしています。それが敵を作らない、和合、調和の技と考えています。


 

説明はその人のレベルでの説明、解説は研究の結論を説き明かすことです。私が習った道場では師範の見本と説明の後はよく理解できないので先輩の説明を聞いてなんとなく曖昧な稽古で満足していたことを思い出します。今思うと「みんな?」でした。合気道の技を分かりやすく解説できる人はほとんどいないと感じます。週に数回の公共施設の指導者がどこまで解説できるのかは分かりませんが、いろいろな道場を経験して里見道場に来た人が道場生の多数を占めていますが、以前のことを忘れることに努力しているようです。解説するためには技の解明が必須です。合気道のような体術の探求は永遠です。来年もより正しい解説ができるように合気道の探求稽古は毎日続けようと思います。私の探求稽古(教え始めて)は今年で39年になります。来年で40年、健康体で続けられたらと願っています。

五人倒し