全てにおいて言えることですが「なんで、なぜ、どうして→できるの、できないの」と常に疑問や問題点を持つことで ある日突然解ったり閃いたりします。自分は力ずくでないと倒せないのにあの人は力ずくで無い なにかで倒していると疑問を持ったとすると、潜在意識がそのことに向かって動いてくれるなんてことがあるかもしれない。いや、あるものです。
合気道の昇級、昇段は稽古数を基本としています。そのために技の基本がしっかりしていなくても同数の稽古日数の人と一緒に昇級させざるをえないことになってしまいます。しかし、何が基本なのかと問われて即答できる人はいない。合気道の基本五原則、入身、転換、姿勢、構え、膝の使い方を理解しないでも昇級、昇段は可能です。ここが試合のない武道の問題点でもあります。たとえば一教の構えは剣の構えであり、足の向きや幅にも剣(剣道ではありません)の基本がある。けっして剣道でもフェンシングの構えでも、空手の構えでも、ボクシングの構えでもないがそうした構えの人にも昇級させざるをえない現実がある。しかし、注意しても、本人は教えられた構えのつもりでいるのかも知れません。稽古数で適当に昇級、昇段をしてしまうことがどこの道場でも起こり得ると思います。上級者になっても謙虚な姿勢で初級技と言われる技を熱心に探究することが大切だと思います。
一教が一番得意と言うなかれ
白隠禅師の練丹の法の行うことで軌跡を体験し、剣の悟りを開いて一派を開いた人。(練丹の法)とはへそ下三寸にあるとされる丹田を鍛える訓練方法を言います。まず、ゆっくりと腹式呼吸をしながら精神の統一をはかり、下腹部に神経を集中する。そして、己の身体に気力が充実していくよう想念を集中する。白井亨は真空をつくると説きました。真空とは敵と対峙した際に自分が発散した(真空)で相手を包み込み相手を封じておいてから相手を倒すとのこと。私には理解不能です。植芝翁の相手を気で包むという表現のほうが私にはビビビッとくるのですが。合気道の稽古に練丹の法を取り入れてみてはいかがですか。
人の心は目には見えないので物質では無いと考えがちですが、見えなくても感じる人間は沢山います。実際誰でも感じて生きています。たとえば、自分が嫌いだと思っている人は、相手もそう思っています。怒りはすぐに相手に伝わります。人間が生きていく上において、備わっている第六感の部類だと考えれば不思議でもなんでもありません。また、恐怖心という言葉があります。人間は自分を守りたいと言う本能から、どんなに恵まれた人でも常に恐怖心と共に生きている存在かもしれません。いつ何が起るか解らない漠然とした恐怖が敵をつくります。恐怖心も物質ですから周囲の人に伝わります。自分に危害を加えようとする人には殺気という心が出ていますし、攻撃しようと思っている人には攻撃の心という物質が出ますから、これを避けようとすることは容易なはずです。逆に愛という心も物質です。愛は人を集めます。嫌いとはまったく逆のことが言えます。ですから、意識が相手に伝わることを前提に合気道の稽古をすれば良いと言うことになります。投げようと思わないこと、痛めてやろうと思わないこと、やっつけてやろうなどと思わないこととなります。言葉には魂が宿っていると日本人は(言霊)という表現で生きてきました。倒そうと思うと倒せない、ならばどうすれば?
沢庵和尚(たくあんおしょう)の「不動智神妙録」の教えです。剣の道と禅は、生死ぎりぎりの場を見つめて修行するという意味で、究極のところは一致する。つまり、何かを極めるには、心の修行が必要で、それは、剣でも、禅でも同じだということです。新陰流(元祖上泉信綱)の最後の免許階伝書は一円相「○」のみ書かれていたとのこと。技術とともに精神的鍛練の最後の段階を自覚しなければならない、それは円空によって象徴される無心境に到達することです。合気道開祖が吾即宇宙という言葉を残したとのことですが、精神的鍛練の最後の段階を自覚した時に発した言霊と解釈すれば、合気道・禅一如と表現しても間違いではないと思います。和合の武道といわれる合気道の稽古をしていてつくづく感じるのは「倒そうとすると相手は倒れない、倒そうとしないで、理合(宇宙法則)に則って相手と和合すれば」相手は意のままになる。仏教哲学者の鈴木大拙師は合気道は動く禅だと表現されているそうですが、あながち間違ってはいないと思います。
高崎出身の剣豪で寺田五郎右衛門宗有という人がいます。一刀流の中西道場に入門、竹刀剣道をきらい、平常無敵流に入門し印可をえたが、藩主の命令で中西道場に戻った。組立ちの研究のほかに、白隠禅師の遺著を熟読、小田切一雲、金子夢幻の残した教えを研究し、心身を磨いた、また白隠禅師の系統の東嶺和尚のもとで修行し、断食し、水を浴びる修行を続けた結果、突然開悟し、これを禅師に告げると感嘆して禅の印可を与え「貴殿の修行が天真に通じたのです」と言ったので一刀流天真道と名付けました。寺田宗有の悟りとは「剣法は、専ら人に勝つべきことをなす技だが、勝とう勝とうと思っていくものではない、ことにのぞんで、生死を明らめ行くのである。胸の中にわずかでも物があれば、形が生ずる。形が生ずれば敵が生ずる。敵が生じれば争いが生じる。争いが生ずれば心の霊明が失われる。一刀流の本旨は、この心の霊明を失わぬ真空阿字の一刀にある」「不動智神妙録」と同じ境地であり、自らの修行によって得た私の知る限り、最高の武道家だと尊敬しています。たまたま同じ高崎出身であることが不思議な縁です。
安中市の歴史
迂回とは 遠回り、道が通れなくなったら、別の道を選ばなければ目的地には到着しないが、時間がかかる。合気道の技で例えると、受けの力をまともに受けると「負ける」負けないためには迂回すること、直接技法では無く、間接技法で対応する。相手の力とぶつからないためには「力を抜いて・ぶつからないところを瞬時に感じて」方向転換する。力を抜くには「そこを捨てる」こと。捨て方は稽古で身につけます。合気道は間接技。遠回り、迂回です。あとは相手の力を抜く技術。
この金魚達は生まれた頃は銀ブナでした。徐々に色が付き金魚になりました。卵から育てないと分からないことです。
井の中の蛙大海を知らずと言う言葉があります。同じ場所で同じ人ばかりと稽古をしていては成長しないということです。しかし色々なところに出げいこに行くことが好きな人が必ずしも上手とは言えないのも事実です。それは自分の合気道が確立していないのに暗中模索、右往左往しているだけで地に足がついていないので、せっかく足を運んで習っても短期の場合「その指導者」の良いところ、悪いところが見えるわけもなく有名な先生から指導を受けたと言う満足感だけで終わっているからです。よその指導者に習うときはまず疑うこと、反撃できるかできないか、質問を素直に受けるのか、単刀直入で解りやすい回答があるのかないのか、理にかなっているのかいないのか。横柄な態度の人か、低姿勢の人か、欲が深いか(金を欲しがる)で習う価値があるのかないのか理解できます。他の指導者に習うときは、自分の指導者との比較を常に念頭にいれて習うのが良い。他の師範のやり方を古巣の道場に戻ってやっていると「そうではない」と真っ向から否定をする指導者(井の中の蛙)が多いことも事実です。その時はどうして「そうではないのか」勇気を出して説明を受けてください。その解説で指導者のレベルが判明します。井の中の蛙大海を知らず、されど(天空)空の深さ を知る 地道にその世界を突き詰めていけば深いところまで到達できる)メーテルリンクの青い鳥はそのことを教えています。あるレベルまで到達したら自分で探究する(道場を持つ)こと
そりが合わないとは 刀が鞘にうまく収まらないことを言いますが、現在は人間関係が上手くいかないことを言います。人間社会ではすべての人と気が合うことはありません。そりが合わない(一緒にいて楽しくない)ことのほうが多いと思います。会社等では生活のために我慢して合わせているだけです。気分転換や趣味という共通の目的で合気道の稽古をしているとするならば、そりが合わない人との稽古はつらいので稽古の曜日を変える(毎日稽古ができる環境の場合)人が多いようです。曜日を変えようにも週二日前後の公共施設では辞めるか、他の場所に移るか考えなくてはなりません。こんな事情で悩んでいる人を里見道場では歓迎しています。月曜日以外、毎日稽古をしています。朝は水曜日と金曜日、土曜日、日曜日、夜は火、木、金、土曜日に稽古をしています。
今日の合気道が一番影響を受けた武術に大東流合気柔術がある。初期の記録を見ると植芝開祖が大東流を教授していた時代がある。技の基本は今日の合気道に非常に近いと思われる。しかし最大の違いは術と道の違い、術は勝つための技術です。術はとにかく勝つこと。しかし、強いだけでは駄目だということになり、そこに和合の合気道が生まれました。道とは武道を通じて人格向上を目的とすること、しかし武道の武は戈と止める漢字で出来ている。戈とは昔の剣です、止めるは盾〔たて〕攻撃を止めることですから止める術と人格向上が同居していると考えるべきです。開祖無き現在は合気道の理念や体系を大切にしながらも色々な武術、武道等を参考にしながら再構築せざるを得ない。だれでもが納得のいく理合の追及。生半可な技は反撃され死にも通じる。昔の武術家は見せることが教えること、解説(詳しく教える)などしたら反撃技を研究されると警戒していたとのこと。中途半端な技がまかり通っている昨今の武道界に疑問を呈する人もいるそうです。