なんでも鑑定団は想定外、意外性で人気がある。先日の放送では、武田信玄の書状に、信玄の有名な家来のサインが並び、花押まである立派な古文書で誰も疑うことがはばかれる立派なものでした。判定は幕末から明治に流行った偽物でした。私も若い頃 新田一族の子孫と称する人達にアンケート形式で集めた資料を纏めた 新田一門史発刊に関係したことがあり、多くの偽系図、偽古文書、偽のお墓を調査しましたが、確かに幕末から明治にかけて偽造が多かったことを思い出します。戦国時代は徳川を初め多くの武士の偽系図は普通に作成されています。本物の古文書でも、自分の家を立派に見せるために改ざんすることは普通にあることを学者から聞いたことがあります。竹内文書を初め、多くの偽書がまかり通っていますが、これがなぜか面白いし、魅力的です。武術についても同じようなことが起こりうることです。触れずに倒す先生は魅力的ですが、映像技術で直ぐに偽画像が作成が可能ですし、演武では受けがうまく合わせれば超人的な演武が可能です。この世の中は残念ながらフェィクに溢れています。本物を探すには目で確かめるのではなく、体で確かめる必要があります。それでも騙されるかもしれませんが。ただし、武術の術には欺(だまし)しも含まれますのでややこしいのですが、人間の体に関する 心理、生理、物理、医学等勉強する必要が出てきますが、経験を積むことで上達するのが日本の方法です。
いにしえをかんがみていまをてらす。
昔の名人、達人を参考にして稽古をする。
金閣寺を建てた足利義満に対して銀閣寺を建てた足利義政はよく比較の対象にされます。銀閣寺は決して銀色ではありません、錆びた茶色です。義政は応仁の乱を起こして長引かせた張本人と言われ(真実は畠山氏の家督争い)政治家としての評価は芳しくありませんが、日本の芸術観の方向(わび、さび)などの禅的な芸術はこの人の影響は看過できないようです。このころ林崎甚助の居合が起こり、この人の弟子に関口氏心「うじむね」(柔術)が現れ、足利義政は東山文化と言われる日本の文化、伝統に影響を与えました。義政の家来(同朋衆)の孫に茶道の完成者千利休がいます。茶道や花道、能、武術等の芸能がこのころ生まれています。金閣寺(陽:みやび)から銀閣寺(陰:わびさび)への思考の流れは暗いあきらめの時代の流れを象徴しているように思えます。義政の継嗣尚義に仕えた(申次…大名と将軍との申し次ぐ役で将来の重役候補)北条早雲(伊勢新九郎盛時)は幕府を見限り縁を頼って今川氏に仕官しています。田中も伊勢も私の先祖も生きるために足利将軍から離脱していくことで地方に変化が生じていきます。
金(陽)から銀(陰)への思考の変革は義政からだと私は思います
①東向八幡宮はかつて箕輪城内にあり、伊勢守が剣術の極意を得たと言う
②井戸 武田勢に追い詰められた長野業盛と武士が近くの屋敷で自害
③碑
④本丸跡
上泉伊勢守信綱は箕輪城の旗本として活躍、箕輪城落城後京都で新陰流の普及に努めました。敵に従って転変して一重の手段を施すこと、恰(あたか)も風をみて 「敵の仕掛けは千差万別で定まりない。ゆえに我は敵に従って 転化し勝利する」その転化する勢いはあたかも 風を見て帆を使うがごとく滞りの無い勢いである。そうした勢いを心に秘め、心の働きに従って自由自在に 転化変転することが、勝負の大切なところだと言う意味です。体を止めて(陰)懸け(仕掛け)(陽)を待つ陰陽を表裏一体にしたのが陰流です。
合気道は陰流と私は考えています。陰流体術においての体の使い方は、(積極的に体を止めているように見せる待つ陰)そして見えない体の内部を使う(動かす)体術と私は考えています。合気道の稽古には待ちの裏と、待ちの攻撃の表があり、表裏(陰陽)の素晴らしい稽古がありますので力まない稽古をすれば陰流になると思います。
※文章表現では理解できないと思いますが
武道の達人の第一条件は臆病な人であること。武道に限らず達人は冷静で慎重に物事を判断できる人です。戦国の世において生き残るためには危機回避能力が高くなければ生き残ることはできませんでした。慎重な判断ができるという能力が高い人が生き残りました。織田信長は少ない手勢で本能寺に宿泊して明智光秀に打たれました。豊臣秀吉は徳川家康の勢力を削がないまま亡くなりました。最後の油断が徳川家康に味方しました。味方とは家康の臆病から来ています。臆病な人というのは、それだけ自分の身に何か変なこととか嫌なこと、失敗する何かが降りかかるのを凄く怖がります。そうならないためにはどうやって過ごしたらいいのか、どうやって行動したらいいかというのを冷静に慎重に判断できる先見能力が長けてる人だと思います。家康や家光は先読みの達人です。嫡流の子孫が絶えることを予想して御三家をつくり、大名の裏切りを予想して参勤交代や関所、大名の婦人や子供を江戸に人質として確保しました。将来徳川の敵と成りうる家柄の○○家の抹殺や大名のお家取りつぶしまで実行しています。徳川政権が265年も続いた理由は家康の臆病な性格から来ていると思います。
合気道の指導方法は見取り稽古が主流、質疑応答の雰囲気が無い道場や指導者は多い。質問は指導者を育ててくれる。{教えることは教わること}質問をはぐらかす人は「知らないのを隠している可能性が高い、そして進歩が無い人」そこにいる人たちにも質問の解説をすれば皆が理解し納得できる。ただし、質問しやすい先輩に頼るのは自分のレベルで答えるので危険です。昔、まったく合気道が解らなかった頃、稽古相手の先輩によく聞いていましたが、今思うとその人のレベルで答えるので、でたらめが多かったと思います。質問は勇気を出して師範(責任者)にしてください。先輩に聞くことも良いのですが鵜呑みにしないこと。後で師範に確認すること。自分の師範が信頼できない場合もありますので、できれば信頼できる他の師範に頼ることも執拗です。高段者だから信用できるとは限りませんが。
関口氏業〔1598年生〕関口流〔柔術を主体とする総合武術〕の祖、氏心(うじむね)(林崎甚助の弟子)の息子で父の開いた関口流をより発展させて今でも言い伝えられる柔術の達人です。氏心が柔術を閃いたのは、ある日、外にでて何気なく庭の方をみると、屋根の上で寝ていたネコが寝ぼけていたと見えて滑って庭に落ちてきた。は、と思っていると、宙で一回転してひょいと地面に立ち平気でそのまま行ってしまった。これを元にして新しい関口流が生まれた。二代目氏業は渋川流柔術に影響を与えた。渋川半五郎義方が氏業に試合を挑んだが、「小男で少しも力があるように見えない、組んでも柔らかくファとした感じで、かえって力の入れ様が無く、何もしないうちに体が宙に浮き、何度も投げられて乾杯した。」半五郎は弟子入りし熱心に稽古し免許皆伝を許され、渋川流を創始したそうです。「…」の部分の半五郎の崩され方、また、座った柔心を動かすのに三四人掛りでもうごかなかったそうです。昔のことでも参考になります
合気道はみそぎの武道と言われ、みそぎとは禊ぎであり、身を削ぐことであり、六根清浄〔ろっこんしょぅじょう〕と言うことを合気道で実践することにより、精神的に肉体的に向上進化すると信じて稽古をする人もいます。これはおそらく大本教の神道から来ていると思いますが、では六根清浄とは何かと問われると答えられる合気道入門者は少ないと思うので、六根清浄の詞を紹介しておきます。
「天津御祖、天照皇大神の宣り給わく。人はすなわち天の下の神物なり。すべからく清め鎮めることを掌る心は、すなわち神と御霊のもとのあるじたり。吾が心魂を傷ましむることなかれ。この故に目にもろもろの不浄を見て心にもろもろの不浄をみず。耳にもろもろの不浄を聞いて心にもろもろの不浄を聞かず。鼻にもろもろの不浄を嗅ぎて心にもろもろの不浄を嗅がず。口にもろもろの不浄を言いて心にもろもろの不浄を言わず。身にもろもろの不浄を触れて心にもろもろの不浄を染れず。意にもろもろの不浄を想いて心にもろもろの不浄を思わず。この時に清く潔よき偈あり。もろもろの法は影と像の如し、清く潔ければかりにも穢るる亊なし。説をとらば得べからず。みな花よりぞ果実とはなる。わが身はすなわち六根清浄なり。六根清浄なるがゆえに五臓の神君安寧なり。五臓の神君安寧なるがゆえに天地の神と同根なり。天地の神と同根なるがゆえに万物の霊と同体なり。万物の霊と同体なるがゆえに為すところ願としてならずということなし、霊相真道成就。