怪我の功名とは間違ってしたことや何気なくしたことから、偶然に好結果が生まれること。です。合気道では怪我をさせることは恥じるべきことだと思います。受けが下手だから怪我をすると言う常識が蔓延していますが、私の考えは取りが下手だから怪我をさせる、させられるのだと思います。もし、怪我をさせてしまったら反省するのは技をかけた人です。強引な投げや固めは恥ずべきことだと思います。相手の力量を的確に判断するとともに、和合、調和を大切にすることが大切です。自分が道場で嫌われていると感じたら何かしらの原因「技が強引すぎる、態度が放漫等、また、受けの役割ができていない(目的の技と違う姿勢、掴みの強弱、中心に向かっていない等)」があるはずです。自分を振り返ることは向上する

ために必要です。

 見返り美人 中心軸の美は武道

押し倒すのでは無く抜き倒す。合気はお互いの力を抜く技術。押し倒すことにこだわっていてはリキミから解放されることは無い。抜く技術の探求こそが合気に繋がると思います。

日本には無言の圧力、無言の言葉、言外の言と言う言葉があります。心理学では身体言語と表現しますが、これを察して行動に移すことが「察しの良い奴だ」と認めてもらえます。それができない人はバカ、間抜けの人間と評価されてしまいます。合気道の稽古は無言で行われます、無意識のうちにお互いが「察し」の稽古をすることになります。お互いが楽しい稽古をするためには察しが大切なのは理解できますが、受けが気を使いすぎると武道から舞踏になってしまいますので難しいところです。ぶとうでは踊りです。日本人には言外の言、空気を読む等はっきり言わない傾向がありますが、イエスとノウの世界では「言葉が足りない」変人となります。無言の言葉は日本人特有なのかも知れません。

いにしえをかんがみていまをてらす。精進し今がある

入身投げの原点は小野派一刀流兵法の秘剣〔絶妙剣の奥伝〕からきています。相手が切ってくるところを逆に手又は首〔相手の状況により変化〕を切っていくように入り身します。その次に螺旋に相手を切り円運動で崩し、再度、螺旋状に〔竜巻の上昇〕のように相手を上に上昇させて、再度落とします、合気道は投げがつく技の名称が多いが投げ技で無い場合が多いので誤解しないように稽古して欲しいものです。四方投げは四方切り、入身投げは入身螺旋回転落とし、天地投げは天地落とし等です。

 

左は素手、右の写真はほうきで対応(護身術教室にて)
    
合気道は自分の力、体力が弱いという前提に基づいて全国の古武道を参考に考案された武道です。たとえ大きな人間でも付け入るところがあることを昔の武人は理解していました。その崩しの方法の一つが合気です。つまり、腕力の否定です。腕力に頼っている限り合気は理解できないでしょう


 木刀で振り下ろす相手に対して出るタイミングは、表と裏ではもちろん違います。しかし、太刀取りだけでなく全ての合気道の技に共通です。まず表ですが太刀取りの場合、受けが振りかぶると同時に前にでます。相手の剣の先に見えない糸があるとします。この糸が取りのおでこにくっついていると仮定して、丁度操り人形の取りが木刀に引っ張られるタイミングで前に出ます。突きの場合も同じ、受けが手を引いたときに引かれるように前に出るということです。このタイミングを覚えないと護身の武道は怪しいと言わなければならない。とにかく、相手の初動とともに、入り身、一教、突き等前にでることを前提に稽古をする。裏についてのタイミングは出ると言うよりも向かいいれる感覚です。私の胸に飛び込んできなさいということ。裏は私の場合は二刀流の動きで対応することが多いが円運動をともなうのは表も裏も同じです。

 
能の花伝書(芸事の内容をまとめた書)の中に秘すれば花なりと言う言葉があります。{すべてを見せずに、ほんの少しのことを象徴的に表現することによって、観客の想像の翼を活用することによって、表現に膨らみを持たせようとする一種の術であるという意味}武術では教えないことで自分の立場や命が保たれると考えることと言えます。植芝開祖がつまり氣じゃよとあいまいな答えではぐらかした逸話などは「武術での秘すれば花」なのかもしれません。本来、武術の技はすぐに研究され技を盗まれたり、返し技を研究されるため、自分の立場を守るために全てを教えません。見せることはあっても本当に教える武道家は少なかったようです。合気道もかけた技が返されるようではまだまだ未熟です。いくら解説されても、理屈では理解できても、手取り足取り指導されても、なかなかうまくできないのが武術の奥深さ、この深みに嵌っていくのが実は楽しいのかも。言外の言、以心伝心、体で理解する。拈華微笑(その域に達しないと解らない)人の脳などたいしたことは無いことを悟ることが大事ですが、見過ごしていることが多いのも事実です。解らなかったら素直に達人に教授されること。それが理解の近道です。

 切れる刀以上の刀を求めた刀鍛冶師、大隅記念館全景


合気道は強くなることを目的にした武道ではありません。合気道を創始した植芝翁は「合気道の精神の中で・合気とは愛なり、天地の心を以って我が心とし、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂することこそ武の道であらねばならぬ。合気とは自己に打ち克ち敵をして戦う心無からしむ、否敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり、而(しか)して武技は天の理法を体に移し霊肉一体の至上境に至る技であり道程である。」このような言葉を残しています。これは自己完成の武道であり禅の悟りに通じる精神です。強くなろうという意識は体に不自由を与え上達の妨げになります。合気道の上達を目的に上手くなることを中心にした稽古が大切です。里見道場では強くなろうと稽古をしている人はいないと思います。稽古の結果として強くなる、上手くなろうとする人だけが来ているからです。

座取り呼吸投げを基本として①斜め右後方投げ、②斜め左後方投げ、③斜め右前方投げ、④斜め左前方投げ、⑤前方投げ、⑥後方投げ⑦右横投げ⑧左横投げがあります。取りは起座で受けは立って掴む、半身半立ちで稽古を行います。取りは上段(手を相手に差し出して)で掴ませます。






植芝盛平翁の甥で井上鑑昭という人が創始した
親英体道で宇宙に実在する「親和力」という力に基づいて胆力を鍛えることに気づき、合気道より技が簡略化され、気の流れがより明確化されています。合気道では気の流れを利用して、固め技や投げ技に移行するが、親英体道では気の流れの中において技が展開されるとのこと。例えば入身ですが、相対したとき、みんな反射神経と運動神経でやっていますが、親英体道の世界ではそれでは駄目。入身に入る時には身体としてはいる以前に、相手とぴたっと一緒になっているという親和の世界があるんです。いわゆる水火〔イキ〕の流れの世界。そしては入ったときにはもう既に和合の世界なんです。だから共に世界が描ける。井上先生は相手を意のごとくにうごかすというような言い方をしていた。という事です。これは相手に対しての気持ちの持ち方です。私が稽古の説明の中で、入身について、相手の側面に思い切り飛び込んだり、当身を入れながら入ったりしないと説明していますが、相手をいかにやっつけようかと考えているのではなく、いかに向かい入れるかと言う発想の転換です。この発想の転換によって、相手に対しての殺気、嫌気がなくなります。すると親和の世界が生まれ、相手を意のごとくについてきてくれることになります。