代謝不全
代謝不全
私は、トテモ細いので、関係有るのか無いのか判らないが、太っていて幾つかの不都合が有ると、メタボリックシンドロームと言うらしい。
太っていなくても痩せぎすでも、そのことで不都合があれば、 代謝不全ではないかなと自分では思っている。
違うのかな?
いつの間にか太っている事自体がメタボだと流行語の様に使われている様な気もするけれど、不調を伴った太り方と、そうではない太り方とを区別しないといけない。
不調が有れば本人が感知するから自分で如何にかするものだ。
辛いのは本人だ。
太っている事で調子のいい人も居ると思う。
ならば、他が気にする事もあるまい。
昨今の流行語と言うのは、いい意味で使われる事があまりにも無い。
健康な太り方が無いのだとしたら、角力は、病人のぶつかり合いで気の毒だ。
ちゃんと治した方がいいかも知れない。
今や職場でも、腹の脂肪に喰い込まない程度にメジャーを当てて、いくつ以上だと、その事だけで、「あなたはメタボだぞ。」
そうなるらしい
そうなると何故か本人も雇い主も只では済まないらしい。
そんな事を急に言われて不慣れな事をやり出したら、もっと何か別の病気に成りそうだ。
企業が従業員の健康管理に権力を持ち始めたら、体質によっては仕事なんかよりもダイエットが先ず大事だ。
「最近ダブルの背広なんて滅多に見なくなったよ。」
なるほど、そう言われればそうかも知れない。
と思ったけど、どこかのデザイナーがカッコいいのをショーに出せば、また流行るカナとも思う。
流行で決めると、何故だかもてるのだ。
その暁には、メタボの天国だ。
ボテッと出ていない、スカスカのダブルの背広なんて、カッコ良くない。
ボタンが弾けそうなシングルがカッコ悪いのと同じだ。
太っていない角力も土俵が広々としてしまって良くないだろう。
線の細いシェフのレストランが美味い料理を出している様にも見えづらいだろうとも思う。
寺の坊主も職人の親方も校長先生も会社の社長も何なら政治家でも、平均体重なんかではいけない。 と私は思っている。
かつては、太っている人を貫禄があると言ったものだ。
みんな痩せちゃって、リンパ質社会になったら今よりズット生きづらい様な気がする。 キットぎすぎすすると思うのだ。
和服できめようと思ってみて袴なんか穿いたら、食い詰めた侍にも見えない位惨めな景色に成りそうだ。
きっと私はそうなるのだ。
本当に痩せ過ぎは、代謝不全とは云わないのだろうかな。
しかし、私は、このメタボと言う言葉も、肥満を気にする風潮も、スグニ消え去って行く単なる流行に過ぎないと高を括っているのであった。
殺人事件
殺人事件
ある日、その町の老人が見知らぬ男に数箇所を刃物で刺されてころされた。
その前にあった別の事件の容疑者と、今回の容疑者のモンタージュがよく似ていた。
いずれの場合も金品を物色しておらず、最近よくある通り魔的な事件であろうと地元の警察は見当をつけ、事件当日のニュースもそう伝えた。
数日後に、「金に困って、わたしが刺しました」とすんなりと認める容疑者が逮捕され、何故の事だったのか、どんどん自白していると言う。
警察は強盗殺人で再逮捕したと発表し、テレビのニュースで伝えられる。
なんだか納得のいかないそのニュースが伝えられて以後、この事件は強盗殺人事件になって報道されたのだった。
私の身近からは、その事に対する疑問は、誰からも湧いて来ない。
犯人が捕まって良かったなと思う気持ちが強いのか、元々遠くの事件で身近な事でもないし気にしていないのか。
人殺しは、今どんなに頻繁な出来事であろうとも、市民にとっては起きないに越したことは無い事であることは確かだろう。 犯人の野放しも怖かろう。
その事と、金品を奪っていない、物色の後の無い、強盗殺人事件があっても良いではないか。 と言うことは別だがなと思ったのです。
鱒
貧乏旅行の途中で たまたま州を越えてネバダに入った
リノの街に泊まるよりも車で寝よう
晩飯は、鱒を釣ればいい
レイクタホの対岸のキャンプ地のそばの桟橋に行くと 一人の老人が鱒を釣っていた
肩越しに釣りをする人なら誰でもするような会話をした
振り向いた
何も話さなくなった
その人は言った
俺は親友を日本の兵隊に殺された
自分も日本兵と戦った 今でも日本人は嫌いだ
アメリカは、日本に原爆を落とした
貴方が落としたのではないし
今兵隊でもない
私は夜に食べる鱒を釣りに此処へ来た
私も兵隊ではない
私は、戦争など知らない
しばらく黙って 浮きを見ていた
何も言わずに餌を入れてある小さな箱を開けて 自分の斜め後ろに置いた
そして
20分だ
そう言った
振り向かなかった
この餌で 鱒の回遊は20分に一回
そういう意味だ
ステロタイプ
ステロタイプ
文切り型の考え方とか、物の言い方が時には解り易かったりするとは思う。
事と次第によるのだろうけど。
文切り型の言い方は、ハッキリと言う分だけ、発言側に自信が有りそうに聞えない事も無い。
是が必要だ!先ずは基本だ! 此れで将来も安心なのだ!そう言い切るのだ。
それが、世界中に存在している事であるかの様な振る舞い、発言、位は出来る。 相手が無知なら効果大だ。
私は、思うのだけれど。
人が生きている時間なんて言うのは大して長くも無く、何処にでも行ける世の中だと思っていても出入りの自由ではない国はマダマダあり、世界中の国で使われている言語の総てを話せると言う訳でもなく、殆ど総ての国に生活をして一生を過ごす訳でもなく、アラユル学問が身に付けられる訳でもなく、コウシテミルト、人は何かを知る事は出来そうだが何でもを知る事はないし、何かが出来ても、何でもは出来得ないのだ。
何でも知っている、分っている、と思い込むより、殆ど知っていない、分ってもいないと言う事を知っている方が為にはなるのではないのか。
なんだか私には当たり前すぎる。
心臓を掴んだと思い込んだら、毛細血管まで掴んだと思って良いものだろうか。
私には、人はせいぜい毛細血管しか掴めないのではないかなと思っている私には、心臓を語ることは出来ないので、此れまでも此れからも、私の言う事は毛細血管でしかないと思っているのだ。
子供ではない若い世代で、今の時代の常識を何にでも当て嵌めて、外れたものを評価批判し、自分を品行方正な常識者に仕立ててしまう事をする人がいる。
そんな人と会うと、はみ出しの私はイライラする。
若い時期は不都合や不満が目に付いて仕方が無いのではないかな。
と思うからだ。
今の年寄りの人が作った物なんて、ダメな事ばかり目に付いて、親父らがお陀仏したらこっちの天下だぜぃ。 位で良くはないか。
何時までも前世紀の尻尾に掴まって生きるのだろうか。
ガラッと変えようぜナンテ言っていない。
そうなる筈も無い。
言われた事をスンナリ何でも受けるなって言う事だけなんだ。
聞き分けの良い子が、何かを創った話なんて聞いたことが無いのです。
皆で悪くなろう、不都合な社会に対しては極悪になろう。
それで変わって行く事が良いのではないか。 活字を組み替えよう。
あ。 あっ、そうだ!
おい!国!
アンタ、二ホンの国!
随分自信あるのかぁ、押し付けかぁ! なんだなんだぁ
「これからの子供たちよ、私を愛いしなさい」 って、どー言うことナンダイ。
国は実体じゃないんだ、状態だ、そっちから物言うな。
何を勝手に決めているのさ、大事かどうかって言うことは、サレタイ側の意見ではなくて、スル側の意見で決まるように思うんだよね。
ここにいる人達が、気に入る様になったら二次的にここが愛されないとも限らないんだからね。
この先の人達が自分達で気持ち良くする方が、アテガイブチを好きにさせるよりも好いと思わないのかい!
なになに?イヤだイヤだと思っていたってイズレ受け入れるって?
SM倶楽部じゃないんだからね。 やだよ!
それに
アンタが、私も愛してよ~。って言い始めた最近のキッカケは、いつの何だった?
中国での反日運動の時だったよねぇ。 確かに少し嫉妬してたよね。
憶えているぞ~。 何考えているんだい。 アンタ
大日本愛国心アレルギー症候群患者はマダマダいるぞ。
この先の事は、これからの人が考えるのだ、創るのだ。
死に掛けているアンタではない。
なになに、上手く行き掛けている時にこんな事を言う輩はぶっ潰してしまえって?
どうせ、たかが毛細血管だって?
そんな事ばっかりしてきたから、アンタは末端冷え性が治らないんだ。
そのうちに壊疽起こして、端から腐るぞよ。
さてさて、、、まあいいや と、ビール、、冷えたのがまだあるんだ、、、、、。
あぁ、、、、わさびマメが、、、。 、、、湿気てるか。
ふと PART-2
ふと
PART-2
すると次に、最もウルサイ一団が勝手に入ってきた。
肩にカメラを担いだ頑丈な奴と、女のリポーターと、もう一人、音声らしい。
カメラには、7チャンネルのマークが有った。
リポーターは、顔を見るだけでも腹が立つような下品な顔つきだった。
しかも、私は、報道関係者だ!という一種の自負が態度に満ち溢れていた。
カメラを担いだ男は当たり前のように看護婦を押しのけてカメラで隣を覗き見している。
リポーターは私には何も聞かずに全体の様子を伺っている。
「骨折してる」 と医者が言い、当て木のような金属板とべリッと、くっ付くテープをその華奢で可愛い看護婦が、今度はカメラを押しのけて、フェンスに乗り出して医者に渡した。
私は、放し飼いのイグアナたちが暴れないといいが、と思いながらバルコニーでチップスを手に様子を見ていた。
頑丈な担架の男が、担架を如何にかこうにか隣に入れた、ドアーはまだ開かない。
看護婦はこんどは点滴の用意をして、それらを隣に乗り出しながら医者に渡した。
合鍵屋が上手く行かないので
そこに居る皆が其々に自分の意見で解決しようとしだして、殊更うるさくなった、
隣のバルコニーのサッシを割って内側から鍵を開けろと誰かが言った。
警察官はこれに賛成した。
「誰がガラスを弁償するのだ」 と問うのが居て、これは、すぐにやめになった。
この質問はボンヤリからだった。
担架に縛り付けたまま、皆でコッチに担ぎ渡せばいいと言うものもいる。
警察官は、これにも賛成だ。
これは、実行されそうになった。
人の配置やなにかが検討されたが結局はやめた。
「でも、もし、その時にまた落としたらモット大変だ」
と言う看護婦の意見で却下されたのだ。
そりゃそうだ、今度落としたら、また7階まで落ちる事になるのだ。
今なら、まだ右足の骨折だけなのだ。
看護婦だけが落ち着いているんだなと私は思った。
テレビ屋は、空に向かって医者に様子を聞いている。
医者は、隣からそれに答えている。
警察官達は、そろそろ自分達の仕事では無い事に気が付き始めている。
看護婦の二人は真剣な面持ちで、きりっとして更にいい感じで、最初の野次馬の子と母は、入り口の外に立っていて、中を覗きながら目が会うと愛想笑いをして、2人とももっと近くで見たそうだ。
ボンヤリが、私は何をしていたのかと聞くので、「本を読んでいたのだ」と答えた。
等のパキスタン人は、あまり声も出さず、されるままに自らの運命を図りかねているのだろう。 静かだ。
点滴のチューブまでは繋がれたのだ。
そして、皆で合鍵屋を待つことになった。
合鍵屋は、汗だらだらで頑張っている。
私は、廊下に出て、その様子を最初に来た可愛い野次馬と冷かしながら見ていた。
何処の大学で何を専攻しているかも分ってしまった。
お母さんもまだ居る。
バルコニーのイグアナは、止まり木の陰にしがみ付いたままで、 暴れそうも無く、皆もそんな物が数匹ジッと様子を伺っている事にまだ気が付いていない。
30分くらいして、カチッといい音がした。
隣の部屋のドアーが開いて、威張ったように入って行ったボンヤリが、サッシを開け、担架がカチャンと音を立て手押しの高さになってゴロゴロと出てきた。
カメラの男は、廊下を行くゴロゴロに附いて、怪我人の顔をアップで撮っている。
私以外の皆がエレベーターの方へ移動していった。
バルコニーが急に静かになり、踏みつけられた植物の整理をしようとしていたら、その時また廊下がうるさくなった。
今度は、担架がエレベーターに入らないのだ。
担架に縛られたパキスタン人は、縦にされて(その時一寸声がした)積み込まれ、無事に1階まで降ろされて目出度く病院に向かった。
その後、ほぼ二ヶ月間彼は入院したのであった。
バルコニーの配置を元に戻し、新たにビールの栓を抜いて、書簡集を読む事を続けた。
夕方、ニュースを見たが、これはボツになったらしい。
ソモソモ報道するほどの事でもなかったのだ。
その時になって私は気付いたのだった。
ふと PART-!
ふと
PART-!
あらぬ事をふと思い出す事がある。
しかも、そのこと自体何の役にも立たず、何年の前の出来事だが懐かしくも無く、意味すらない様な事なのに或る事が蘇えってしまう。
そうなると、なかなか消え去らない様な事がある。
ある常夏の天気のいい午後に部屋のバルコニーヘ肘掛け椅子を出して、大量の氷とビールを用意し、チップスとドリアンを用意し、或る人の書簡集を気分よく読んでいた。
東向きの部屋は、午後になると涼しくなり風が気持ちいいので、よくそうしていたのだが、その日は、急に騒がしくなった。
先ずは、ズシンと言う振動と少し後に人の悲鳴のような声が響いた、何度か叫んだのだが、女の人が取り乱した様な声だったので、斜め上の10階の部屋で何かモメタかと思ったので暫らくほっておいた。
何度か繰り返すので、ウルサイ奴らだなと思って無視していたが本が読めない。
いい加減腹が立って、声の元を探そうと耳を澄ますと、10階では無さそうだった。
彼方此方エコーするが、どうも同じ階のすぐ隣のバルコニーから、ラシイ。
隣は、空き家だ。
フェンスの植え込みに登って、覗いてやった。
人がいる、、、。
こっちを見て顔を歪めていやがる。
どッから来たんだろうと思ってよく見ると、右足を抱いている。
パキスタン人だ。
奴は11階だから、降って来たのかも知らん。
「一寸待っとけ」
と言って、先ず書簡の区切りまでを読んでから、管理事務所に人が降って来たぞと伝えた。
隣の空き家のバルコニーだから合鍵持って来てくれと言ったが、無いらしい。
まずは、管理事務所の所でそれを聞いていた野次馬が、私の部屋をノックした。
これは、二十歳位の可愛い女の子だった。
その子の部屋は7階の廊下の向かい側なので広いバルコニーが無いといった。
すぐ後にお母さんも来たが綺麗ではなかった。
折角だから中に入れて、バルコニーを見せて、「この向こう側に居る」 と教えたが、覗くのが怖いので、遠慮して今は廊下に居る。
つぎに、管理事務所のぼんやりした方の男が、開けっ放しのドアーをノックした。
様子を見に来たのだ。
くっ付いて来た事務所の女事務員は、見世物では無いのだ!と そのボンヤリにどやされてスゴスゴ帰っていった。
ボンヤリは今回、いつに無く気が利いて、合鍵屋を呼びに誰かを行かせたらしい。
少ししたら自信満々の合い鍵屋が来た。
道具箱を提げている。
その合鍵屋が隣のドアを開けようとしているが、緊張して手元が鈍って上手くいかない。
その後も、沢山の人が私の部屋のズーッと開けっ放しのドアーをノックした。
先ずは、警察官が当たり前のように勝手に私の部屋を横切り、バルコニーヘ出て、「どこだ」と聞く。
隣だと言うと合鍵屋の仕事を急かしに行った。
合鍵屋は、尚も緊張し手先が鈍ったままなので、フェンスを越えて隣に行くらしい。
警察官は半ば野次馬なのだ。
仮に事故でも事件ではない。
この国の事故は多くの場合保険屋の管轄だ。
奴が隣のバルコニーへ行って見た所で隣のドアーが開く訳でもない。
しかも、手摺の植え込みで私の育てているトロピカルな植物をぐちゃぐちゃに踏みつけて行ったり来たりしながら、どうにか警察官らしく振舞おうとしている。
気が付くと三人に増えていた。 なんだか嬉しそうだ。
この国には公共の救急車は無いから、どこかの病院から呼んだのだろう、医者と看護婦が二人と担架を持った男が二人、私の部屋のバルコニーに、どんどん入ってきた。
医者は、警察官によって踏み均された植え込み伝いに隣へ入って、何やらしている。
看護婦二人には、そんな冒険は出来ないので、私の部屋のバルコニーに居て、医者の指示する物を手を伸ばして渡している。
どっちの看護婦も綺麗な人だった。
1人はどちらかと言うと華奢な可愛さがあった。
死刑
死刑
死刑制度というのが日本にもある。
それに値した罪を裁かれ、死刑が確定すれば日本の場合は絞首刑になるのであるが、中々執行されないという事実もまたあるのです。 考え方の問題だから諸説あるが、兎に角そうなっている。
たぶん、確定判決に至るまでの裁判の経過が、どうも信用できず。 マゴツイテイルノカモシレナイナ。
死刑制度そのものに反対する向きもあるが、それよりも、その刑罰に値する行為の実行を控えるべきのものかもしれない。
よって、私は死刑制度に反対を唱える立場に立ったことは無いのです。
むしろ、死刑確定から執行までの平均年数が勘定できること自体が、既に可笑しいと思うのです。
死刑囚が真犯人であるならば、その健康を国費で管理し、平均7年もの間生かしておく事が正義なりやと思うのです。
この問題、死刑制度がよく無い物なのか、裁判制度の中にぼんやりとニオウ不信感がいけないのか。 よくは解らないのです。
執行に踏み切れない件について、やり直しの裁判もまたしないと言うのは、如何理解したものでしょう。
確定した刑の執行をしないというのは、法務大臣がいまの裁判制度に、判決の真価に、疑問を持っているようなものでしょか。
これはこれで、立憲君主国として怖い状況ではあるのだろうけど。
わたしは、別の意味で
裁判員制度が怖い。
鹿
鹿
聞くところに依ると北海道では鹿が増えすぎていて、人間が保護林だと指定した場所の木々が森が危機に瀕しているらしい。
鹿の天敵の狼はもういない、人によって害獣と言う事にされて、とうに消えたのだ。
鹿は平和に生きていたけれど、食料が不足するほどに増えてしまった。
そこで一番困っているのは鹿達だろうと思う。
鹿が邪魔になって、今度は鹿を人が食べ様としているが、今時、鹿を食べる食習慣を失った人達が此れをすぐに喜ぶのかどうかは知らない。
家畜の肉よりはずっと旨いとは思うのだけど。
狼を殺し始めた時から、狼によって食われていた分位の鹿を人間が継続して食していれば今回の様な馬鹿な事にはなっていない。
今度は、害獣になった鹿を取り過ぎたなんて言い出さなければ良いナと思う。
ほかの動物でも同じだろうけれど、人が何かを殺すと、それに殺されていた何かが増える事になる。
その何かが増え過ぎると、また人が邪魔にする。
身近な邪魔者を人が殺してしまうので、それの裏側に居た者が表に出てくる。
邪魔ではなかったものが邪魔に思えてくる、なってくる。
何だか当たり前すぎる。
人と言うのは余程頓馬で、良い生き物、悪い生き物を勝手に決め付けて来た様だ。
生態系の中の駒を人が1つ外すと全体が組み変わると言う事は、多分多くの人が知っている筈なんだ。
人がある駒を外す時、人は、その外された駒の代わりを人がしなければ、次におこる事が人に都合が悪い事かも知れないと言う事だと思う。
鯨の問題は殆ど政治の問題見たいだけれど、政治に真実などある訳も無く、その時々の対処にすぎないのだから、この際政治なんて無視して、鯨が減れば何が増えて、それが増えると次に何が起きて、イズレ如何なって行くのか。
という事、それが一番大切な様に思う。
私は、ほっておけば鯨が増え過ぎて、海洋生態系に取って困る動物だとは思って居ないし、変な意地張ってでも、今捕って来て貰わないといけない程の大事な食料だとは、まして思わない。
鯨の話を日本の文化の話に拡大されるのがイヤなのだ、単に業界の意地と面子だと正しく言い直して欲しい。
日本人のお前らは鯨食う。
こんなコトを言う単純馬鹿は世界中に居る。
迷惑なのです。
あれば食べるさ、美味いんだから、でも、無ければイカン物では絶対にない。
他のどんな食べ物だってみんな同じでしょう。
雑食の人間にとって無くてはならない食べ物なんて無いと思うのです。
ましてや養殖出来ないんだ、無理して食べる事なんか無い。
既にマグロだって同じ状態だ。
世界中に迷惑掛けて、赤身だトロだ言っているのだ。
鯨が知能が高い動物だから、保護すると言うのは説得する論拠としては、まったく弱い、牛だって豚だってバカな生き物ではないし、日本人は昔から食べて来たのだ我々の文化だと言う言い方も、今のような大捕鯨船団の規模で言うならば、それは全くの大嘘のコンコンチキです。
生態と生息数を調査する為に出会った奴は殺しますと言うのはモットおかしい。
昔の人だって鯨だから食べていた訳でもないんじゃないのかな、昔の人にとっては,只のでかい肉だったんじゃないのかな。
しかも、元々はチカクに来たのを捕って、それを食べてたんだ。
何かが解ってから如何にかすれば良いのに。
東京では下町の犬まで居なくなって、猫には、餌をやらないで下さい。 だってさ。
イズレみんな殺してしまうんだろう。 その後、何が起きるのかなって思わないで、今後も其の侭で良いのかどうか、ボンヤリト考えた。
ボンヤリト考える事が私は得意だ。
ネコの居ない日向ぼっこなんて、頼りに成らないちんちくりんの犬バッカリだなんて、、、、。 猫の変わりは、誰がする、、、野良犬の変わりは、おまわりか、、、、。
一体、人は自然を支配したり、管理したり、本当に出来ると信じているのだろうかな。
そうしようとして、本当に成功した事なんて今まで1つも無いのに。
アッ、そうだ、モーゼさん、貴方、昔、余分な事言ったでしょ。
エッ! こんなに何時までも本気にされてるとは思っていなかったッて。
まあそうだよね、いいんだ、そうなんだモーゼ。
いけないのは、何でもかんでも拡大解釈ばかりして、都合のいい様に信じるだけで、自分たちの事と金儲けしか学ばなかった、後々の我々だ。
オリンピック
オリンピック
今年はオリンピックの年で、オリンピックに参加することが出来るほどのスポーツ選手のいる国では、それぞれの選手が国内で競い合い、それぞれの国のまたがった地区で競い合い、代表権の獲得に一生懸命なのだ。
1964年に東京大会があったとき、何だか凄いことのように思っていたし、その次のメキシコ大会で、日本選手を応援するメキシコの観衆に親しさも覚えた。
市川昆監督の映画「東京オリンピック」だって見に行った。
この映画は当事のお上には不評であったけど。
その後、ずっと後になって映画「白い恋人たち」がヒットし、タイトル曲もヒットし、血の通った記録映画もあるのだと言う事がわかってきて、お国柄があるにしても国粋ではなくて、いいなと子供ながらに感じたような記憶がある。
今年は、北京だ。
食べ物の無い日本は、中国も随分食っているが、餃子事件だ。 チベットだ。
日本では、余りそうは言っていないみたいだが、アフリカの地下資源開発に絡む現地での中国人による人種迫害も全くひどい。 恐るべき中華思想。
ムードは、良くないのだ。
世界中が、何と無く気持ちが悪い。 が、市場としては、ほっとけない。
いい年になってこんなことを思うのも可笑しいけど、
オリンピックと言う行事、近代オリンピックの憲章に則っている平和の何とか、と言うのは嘘だろう。
ある時オリンピックは、政治、経済、宗教、人権の問題であり、開かれた国際市場参加への登龍門の様なものにも使われるだ。
これを開催する事で、これらの問題を改善していきなさいよと言う事なのだ。
世界の市場の仲間に成ったんだから自覚を示せよ。
と言う事なのだ。
開催国に指定した代償を求めるだけの価値を持った行事なのだろうと思う。
そんなだからと言う訳ではなく、わたしは、その選手が日本の選手であるからと言う理由だけでは、絶対に応援をしない。
特に興味は無い、どこの誰でもいい、その競技に強い人が勝つことで満足なのだ。
私は今回の予選会を古い友達と、そのかみさんとでテレビで見ていたが、カツテあれだけ冷めていた男が一生懸命に日本選手を応援していた。
わたしは、ただ見ていた。 試合の流れを見ていた、負けても悔しくないし、勝っても嬉しくない。 オリンピックそのものがどうなるかが知りたいのであって、テレビに向かって騒いだり、変な顔をしたりはしない。
その、冷めた私の態度に彼らは呆れ返ったのだった。
いい年をして、こっちで何をしたところで、テレビのあっちに何かが通じるとは、
私には思えなかったのだ。
勝つ筈のない者に何を騒いで見ても急に強くなるとも思えなかったのだ。
北京へ行くべき聖火が、ボッと炎を上げると問題が、表面化した。
ある意味、オリンピックと言うものを純粋に受け止めている人がとても多いと言えるのかもしれない。 まったくその反対かもしれない。
世界中を聖火が周り北京へ付くということになっているし、そのこと自体は、お祭りの前宣伝として良いのかも知れない。
それにしても何だか強引な様に見える。
我々は聞く耳は持たんよ、中国を非難すること自体の恥を知れよ。といわんばかりの発言をする今回の開催国って何だ。
中国の手で今回の大会を成功させるべきかどうかを考えてもいいと思う。
飽くまでもオリンピックは、スポーツの祭典だけの為の行事だけではない。
と考えるならばだけれど。
オリンピックは政治だ、経済だ、その他諸々ドロドロだ、それでも良いではないか。
政治と経済が無関心だったら、IOCはどうやって開催にまで漕ぎ着けるのだ。
ナンデ国旗を表にぶら下げんの。
兵隊の力比べから始まった古代ギリシャの行事を何もいまは平和の祭典とだけ言うことも無いし、ナチスがベルリンで始めた聖火リレーをこんなに大事に、今回は特に、ある大宣伝のために前代未聞の規模でやっている事に、その成功に、神経を尖らせなくても良いではないか。
彼方此方で消されそうな聖火ならそれだけの事だ。
オリンピックを絡めて国際社会の問題を語るのは良くないというが、国際間の問題をオリンピック開催で誤魔化してはいないのだろうかな。 と考えてしまうのです。
毎回ギリシャで開催すれば、それで良いではないか、本格的だし経済的だ。
政治も省かれる。
子供の頃に、選手を引退した後に映画に何本か出ていたトニー.ザイラーとイナ.バウアーのファンだった。
「黒い稲妻」やら「空から星が降ってくる」やらの映画を観たものだった。
テレビでだったんだけれど。
サウンドトラックのソノシ-ト〔ナンだかわかるかい〕アルバムは、なぜか家にあった。
スキーの板の売り込みで、トニー.ザイラーが日本へ来た時には、新任の副担任の女の先生に大嘘を付いて信じさせて、学校を抜け出して、大急ぎで会いに行った。
正担任の先生が長年のイライラした大酒で肝硬変を起こし入院中であったのが幸いしたのだ。
(怖かったけどやさしい科学の先生だった。)
午後の地下鉄を乗り継いで、サイン会場へ着いた時、遠くで、彼は席を立った。
会場から彼が出る途中のエレベーターに滑り込んで握手できた。
スケッチブックの表紙と中にもサインもくれた。
「君もスキーするの?」
「マダしたことはありません」
「いつかやって見るといい。 好きになるよ」
「そうします。 サイン有難う。 あなたとイナ.バウアーのファンなのです。」
その後、暫らくしてスキーを始めた。
カラフルな時代に苦労して板もウエアーも黒で固めて、黒い稲妻になった。
そんな気になった。
オリンピックから始まった、極上のいい思い出だって持っているのだ。
目的の無い人生
目的の無い人生
人生には元々目的は無いのだ、ソモソモこの世に生を受けること事態が偶然であって、単なる何かの拍子に起こったことだ。
目的などを持たず、自分の性分に合ったものに興味をもち続けるだけの事で良いのではないだろうか、ソモソモが自由なのだから何をしても良いのであろう、目的を課せられた人生など真っ平なのではないか。
自らの性分にあった事をする事が苦痛になる事もあるまい、何時か自分が見つかって、それを行動に移そうとするときに反対者が出るのかも知れないが、所詮は本人の問題なのだ、大事な事はそのことが何処から湧いてきた欲求なのかと言う事なのだ。
善悪でもなければ損得でもない、自分の中から湧き出たものに自らを委ねて行けば、それで良いのだと思う。
死ぬまで好きな事をして居れば、それで人生など勝手に過ぎてしまう。
そういうものの中から出来上がって来たもの以外にその人らしいものが残らないのは当然の事なのだ。
如何にかこうにか石に噛り付いてでも長く生きた所で、その時間の中に面白さが無いのなら、そんな時間は、その人にとって長く退屈なものでしかないのではないだろうか。
好きな事に没頭するのだ、毎日毎日、一秒一秒死んでいるのだから、全部の時間を自分のものにシテシマエ。
何か世の中の役に立つ事に意味が有る、社会の為になりたい、それでも良いが、所詮は自分を抜きにして、滅私を旨として生き続ける事が出来る訳ではないのだ。人間だ。
何をしたら良いのか解らない人は、まだ自分に会っていないか、押し付けられた幾つもの目的の中からその選択に途惑っているのかもしれない。
元々人生には目的など無いのだ、ナラバ好きな事だけに時間を使ってやれ、明日死ぬのか50年も生きるのかそんな事は解らないので、性分だけを通すのだ。
自分の人生には、課せられた目的が無いという事が大事なのだと思う。