angoの世の中フラリフラリと -752ページ目

集団登校

集団登校

 

黄色いひよこが、みんなで列に並んで学校へ行くようになって随分経つ、むかしは、6年生が一緒にそうしていた。 

そのときに気をつけていたのは、自動車の通る道を安全にという事だったし.交通戦争という戦争の中を怪我をしないで学校までたどり着く手段だったのだ。

 

雪村いずみの

「泣かないで ぼうや」 なんていう歌が悲しく流れたりしていた。

よく聴くとあれは、交通遺児の歌だったのかな。 癌かな。

「約束」って言うほうのは、本当の戦争の歌だったと思う。

意味は違うのかな、けど、子供でも泣いた。 本当は、大人が泣くべきだけど。

まあいいや、

今も安全にという考えは変わっていないと思うけれど、事故ではなくて事件に対する警戒色が前面にあるようだ。 さらわれずに、殺されずにみんなで行く、通りすがりに殺されてはかなわんし、何しろ物騒だけれど。 

 

集団登校なんて無い頃、学校への道すがらには、いつも近所の人の目があったので、子供には安全でもあり、悪戯もばれてしまいそうでもあり。

いずれにしても、そう悪くも無かったように思う。

 

クラスのかわいい子のお母さんがあっちから来る様な事があれば、いい子の振りなどして緊張し、「こんにちわ」 ナドト言い。 寺の境内で、はとに餌をやっている人がいれば、帽子を高く高く投げて鳩とその人を脅かして、怒られてみたりしたのだ、その事で子供が大人の目のナカにいて、安全であったことも本当だったのだ。 

 

その町で育てば、大きくになると悪戯をしないので叱られない方と、どうしようもないので、極少数だけれど、街の怖い人になる方と、分かれたりした。 

怖い側の人には、守らないといけない事が割りと多いので、普通の静かな人よりもいい人もいるのだが、そうは見えづらい。

 

今怖いことは、普通に静かな、いい人が、誰彼構わず人を殺したりする事なんだなと

今回日本で思ったのです。  

 

見ず知らずの人はみんな危ないかも知れない。 と思わない状態が今すぐ出来るとは思わないけれど、いつかそうならないと困るのだ。

 

10年もたつと、街には年寄りがもっといっぱいで、その時には、私も年寄りで、みんながみんな不信感を捨てきれずに神経症者の大行進で、安全の為にケプラーのチョッキを中に着て外に出るようになったら、これからの気候温暖化の中で暑くて仕方が無いでしょ。

 

ひよこの行進が、温暖化を涼しく過ごしたい話になってしまった。

上手にこじつけてしまえば根っ子のところは同じだ。

教育

教育

 

子供がある年齢になると学校へ行くようになる。 

それに慣れてくると、その親たちがいつの間にか学校は教育機関なのだから、、、、。 と言い出す。 

 

「いじめ」と今は言うらしいが、カツテは、「弱いものいじめ」といったような気がする。 が

まあ、そういうキッカケで、どこかの子供が自殺をしたりするわけだ。 そのこは学校や教育環境に殺された様な事になって、死んだ子供の親は、今度は学校にねじこむ。 

「しっかりと教育していない学校のセキニンについてどう考えているのか」 と。

 

それで学校は、あれこれ惚けたり言い訳をするか、「申し訳ない」 などといってペコリと頭を下げたりする。

 

よくある景色ではあるけど、納得がいかない。

「学校は学習機関である、よわい者イジメが良い事なのかどうか、そんな程度のことは、家庭の中で教育するべきのことだろう、だからといって、がさつな家の子供には何も学習させないとは言えないのだ。 子供が変なのは学校のせいだとでも言いたいのか!トンデモナイマチガイダ!」 位のことを言ってしまう校長が、まず一人くらい居てもよいではないか。

そのことで、明日から校長でいる事が出来ないほどに子供を家庭から放して、国に預け切っているのだろうかな。

国は、人間としての基礎の基礎まで請け負った心算でいるのだろうか、まず国の子である事が、考えの始まりなのか? 

 

本当は、学校は学習機関で、教育の殆どは家庭に由来する事柄ではないのか。

 

カツテは子供たちの起こす悪戯の責任は親にあった。

 

私は悪童ではなかったから

何がナンだか憶えていないけれど、母は時々小学校へ来ては、何かに困っていた。

アルコール、タバコ、マリファナ

アルコール、タバコ、マリファナ

 

お酒は、日本ならば20歳、タバコも同じ。

実際は、本人が興味を持ったとき、周りが進めたとき。

例えばオランダなら、マリファナを街のカフェの一角でも吸える、ハワイからのもアジアからのも、南米のも、カリブのも、色々アル。 

オランダでなくても、いい所はアル。 

いけなくても有る所にはアル。

良いと言う所とダメと言うところが、それぞれ当たり前にアル。

 

煙草を吸い始めると、どうしても急には止められない。 

お酒を呑み始めると、これもまた急には止められない。 

朝から晩までタバコが吸いたいし、此処で少し飲めば、目の前のの書類がサラサラと書き込める人もいる。 

中毒になっておる訳なのでしょう。

ニコチン中毒とかアルコール中毒とか言うやつです。

 

コレハ イケナイ事かどうか。

 

カッコいい事ではありませんが違法ではないので、いけない事ではありません。

 

あるポルトガルからの人と私と仕事の後、ビールを飲んでいる時に彼が聞きました。

「マリファナとタバコとアルコール。 どれが悪いって言われる?

「マリファナ?」

「ナンデだと思う」

「なんでって?」

『ナンデ色々の国がマリファナが、ダメだ、違法だって、言っているのかって事だよ。 それにほかの二つは中毒にもなるでしょ』

「アアそういう事?

「うん、ナンデだと思う?

「税金でしょ?」

「そう、そう思うよね?」

「忘れたんだよね、カケルノ!」

「そう思うんだ」

そして税金の掛かっている毒物のお代わりを頼んだ。

 

グルメ紀行

グルメ紀行

 

おいしい物を求めるという事は、人の欲からは無くせはしないと思う。

時代時代の違いこそあれ、常に旨い物を求めて来たのだから、それでよいのだ。

 

美味しい料理と、温泉と、綺麗な自然と、そこで、のんびりと過ごす事が出来る今と言う時間は、結構幸せかも知れんなぁ。

そう 思うのです。

朝飯なんかは適当に済ませて、冷えた瓶ビールで庭をナガメテ、、、。 でもな

 

510円の食品の値上がりに、生活に窮しているとか訴えながら、夕飯時にテレビを見ながらグルメ紀行と洒落込む訳だろうけれど。 

時々思う、山で刺身でマグロだったり、北の海の温泉でフレンチだったり、江戸前鮨をシャリの方から舌に乗せて食う様な奴がグルメかなぁ。

 

ローマの皇帝がフェニックスの卵を食べたとしても、無知な悪趣味の産物じゃあなかったのかな。 ローマでの変なのは大好きだけど、、、、、。

 

いつかの秋、湘南江ノ島の近くのある店で食べたイワシの刺身は、トロなんてとても及ばない位上手かった。 

それ以来どうせ凍ってたトロなんか食べない! 

つまむけど、、、

 

どこか地方へ行って、いい物はみんな東京にいちゃって何も無いんだけど、と言われたものが実は凄く美味い。

 

日本のタイ料理屋で、タイにはない高級で高いソムタム食べても、彼女と二人分でパエジャが頼めるようなインチキスペイン料理、夜景で食っても、だめだよね。

 

グルメって、贅沢とか珍しいとかそういう事とは関係ないんだ。

そのものに拘って、そのものらしい料理を解るって言うことなんだ。

地球温暖化

地球温暖化



 

このごろは、話題の中に、地球環境問題というのが頻繁に取り上げられる様になった。

アル、ゴアが、アレコレして公開した映画をキッカケに、まるで知らなかった事を知らされた様に、皆で「これは大変だ」と思った様なわけだけれど。

 

気の小さい私は、子供の頃、東京湾が埋め立てられると、そこにあった海水分だけ海面が上がる様な気がしたものだった。

 

「イチゴ白書」(70‘)と言う映画にもなった本を読んでいくと学生運動に傾倒した主人公が、
ジェット機の空路の下にある森が筋になって枯れているのだ、アメリカが金儲けする為に森は殺されているのだと、自分が乗っている飛行機のスチュワーデスを睨み付けるシーンがある。



勘違いでなければ、「ヘアー」と言うミュージカルの中の歌にも、人が壊していく地球に歌った様な歌詞があったような気がする。



 

かつて、国連の事務総長が、ウタントと言う人だった頃に、「私は、国連の事務総長として穿った事をいいたくはないが、、、」で始まる宣言をした。  

ローマクラブのまとめたその内容は、人類がこの先にも地球で生きようとするならば、人口爆発、戦争、環境破壊、等々を直ちに抑止する必要があるという内容だった。 

「回避の為の行動を起こす為に許された時間はあと10年しかない。」で終る。 



今はその期限を更に10年以上すぎたように思う。

 

月から地球に戻った宇宙飛行士は、再突入の直前に見えた大気の厚さは、地球にとっては玉葱の表の皮一枚程度と同じでしか無かったとも言った。



 

何も知らなかった訳でもない事なのだ、今更驚いて見ても仕方が無いのではないか。

 

尤も今は、これらを回避するのではなく、この中でどう生きましょうかと言う方向になっている様で、何だかその道があるように事を運んで行こうとしているけれど、人が増え、戦い、煙を吐いている事に変わりが無いので、どう生きましょうか、と言う話には乗っていない様に思う。

それは兎も角、取り合えず、まず金だけは儲けようと言う、ある大国の無恥もマダアル。

 

確かに100年先に気温がどうなっても、海面がどうなっても、今、生きている総ての人には体験出来ない事なので、どうでもいい気もする。 ところが、それは、

実際はジワジワと来るのだ、


先のウタントの読み上げた宣言に予測されていた、「先ずは食料が不足しはじめ、、、、。」と言うことは、すでに起き始まった。 高くなったんじゃあなくて、無くなって来たのだ。 金で解決できる問題ではない。

 

2025年までに人類は、自らの殆どをを死滅させる事にも成りかねない」と言ったあの宣言を知らなかった訳ではない。

 

日本でも、きっとほかの国でも、余裕の中に生活している人達は、電気を使わない様にしようとか、ゴミを減らして再利用しようとか工夫をしているのです。 無駄が出来るので、こういった発想が湧くのでしょう。

今時、ガソリン安くして喜んでいる様な現状じゃない。 とも思うのです。



金と言うのは人が作り出した、ただの概念、物、でしかなくて、地球は実体なんだし。

 

一軒の家族4人が、色々やって、かなりエコな生活したぞって言ったその時に、

例えば、自衛隊の基地で、どこの国の軍事基地でも同じだけれど、一機の戦闘機が、一度Touch & Goすれば、この家族の一年間にした事が、只の流行の中のエコごっこになって、無になってしまう。 



 

いい気になって、何処かにバラバラと絨毯爆撃をする様な戦争があれば、町中の人が一年したエコライフの成果は、一機の爆撃機の一回の仕事で無になってしまう。

今我々、小市民がしている事はそういう事なのだ、と知っていて良いと思う。

 

こんなコトを言っているけど、本当のところ、私にはどうでも良い事なのかも知れない。

人は、感知する、予知する、そういった能力がほかの動物に比べて劣っている分だけ、進歩と言うかどうかは知らないが、様々な概念を作り上げて、その中で結構楽しんできた生き物なのであれば、、、。

ソモソモが反自然である筈だから。 

人が自然について真剣に自分達の事と認識が出来ないのも納得がいくのである。



 

でも、そうは言うものの、何だか未練は残るのです。

今私は、日本ではなく、再びタイという国に戻り、海まで10キロほどの所に住処を見つけ、これを書き、昨日はドリアンをマルッポ一つを美味しくいただいたのですが、この海岸線は、以前は、2000年の頃までは、15キロ向こうにあったのです。 そこにあった塩田も村も浅い海の中に消えたのでした。

 

もしも此処まで海に来て欲しくなかったら、どう考えても何かを止さなくてはいけません。

一人のする事はTouch & Go一回で、一年間にした事は、何の意味も無さない。

 

もしも、例えば今、日本の様に仕事が無いし、あってもワーキングプアーで、

なんだこの野郎メ!

と言う状態で腹立つならば、軍隊へつれ!戦争するな!仲間に入ってそういう事するなら税金払わないぞ!のデモを連日やってみるのも良いかなと思うのです。 

世界中で。



 

戦争が、一番、温暖化の進行に寄与していと言う事を何故マスコミが言わないか?

やはり、未だに何かの熱にうだされているのが世の中だからなのでしょう。



 

テレビが大好きな私は、ある夜遅くに井上陽水が何かシャベリソウナ番組を見つけて喜んだものでした。

何か面白いこと言わないかなと思っていましたが、やはり言うのでした。

 

「皆が、色々な事をハッキリしようと努力すると、北極の氷が解けちゃうんだと、僕は思うのだけど」

 

坂口安吾が、政治家は、たった50年しか生きられぬ人間の今必要な事を今考えるのが仕事でなくてはいけない。 政治家が、遠い将来に思いをはせて、今を考えなくなったらその国の将来は無いと言う事になる。 という様な事を言ったのだと思うけど。

今は、政治家であっても、どうしても将来の事をも考えなくてはいけない事になっている。



さらに、こうも言っている。 将来の事は国民一人一人の考えるべき事柄だ。

 

水野広徳と言う元軍人が、これこれの理由を上げて反対した太平洋戦争を始めて、この人の書いたものを世に出さなかったかつての日本は、アゲク、その予想の通りに悲惨な状況に陥ったのであった。

この人の言葉は、戦後立派な全集になったけれど、今は絶版で手に入りづらい。   

切って捨てるには、あまりにも勿体無い。 



 

戦後の日本の外交を思うがために、日記(後の暗黒日記)を書いていた清沢きよしは、確信していた日本敗戦の前に病死し、書物は残されたが戦後に活動することが出来なかった。



 

私は、近代戦争ナンテモノは経済戦争なのだから外交で、かたが着くと思っている。

それでも、それが起これば、総力戦なのだろうから子供だろうがなんだろうが参加者で、街なんか、国なんか破壊してしまうだろう。 

打っ潰して、生き残りを手懐ける訳だ。



このやり方が無駄だと言っている訳だ。私じゃない歴史がだ。

交渉の為の近代戦なんて、その場限りの答えしか出し得ないのだ。

 

平和なやり方であっても、この後、中国とアフリカの時代が来たら、きっとその時は、

殆どの事が終わるのだろうと、私は、思っているのです。



金なんかドンドン作ればいいよ、地球が持つかの話なのです。

 

今の現状の中で追いかけている者が、それに到達すれば、現状はもっと悪くなる。

新しい発想が (過去に捨てて来た物であっても、実行する事自体は、新しいのだろと思う) 今をひっくり返さないと、そういう事が起きないと、きっと良くないんだろうなと。 

 

以上、地球温暖化を軸に枝葉でした。

今日の御免なさい

      今日の御免なさい

何時からあんなにペコペコ頭を下げる様になった物かは知らないけれど、どうも去年は、御免なさいの年であったらしい。 

いまだそうしているのかなぁと思う。


別に以前は正直だった訳ではない筈で、意図的に彼是探せばいくらでも出て来るアリフレタ嘘を特にフォーカスしたのだと思う。


毎日毎日の事なので、嘘と偽装ボケに成ってしまうのではないかと思った。

それにしても日本の社会はよく謝る。

その結果何かが改善されて行くのならまだ良いのでけれど、どう考えてもそうなって行くよりも早く国民の方が、「元々信用なんかしていませんよ」そう云う事に慣れて行く様な気がしてならない。


正直者は馬鹿を見るのだ、そんな社会に今更ながらなるような気がする。

日本中が疑心暗鬼で埋め尽くされてしまう。

企業家であれ政治家であれ、問題があるなら頭でも下げて、責任を取ってと言って、その立場を退陣してやり逃げ状態なのだ。


支持率が下がったから止めろ、事故を起こしたから止めろ、不祥事が発覚したから止めろでは何も前に進まない。


日本を出ればすぐに気が付くと思うが、問題が起きたこと事態に謝らない国は幾らでもある。 

そこでは責任者は普通辞めない。 

その代りに問題の元凶に迫って間違いを正すのだ。

 

此れが責任を取るという言い方に対応した行動なのだ。

どうしても謝って逃げたいのであれば、切腹でもしては如何なものか。

そう思うのです。


毎日毎日、ニュースの時間は脳天禿の品評会で、何か別の大事なニュースを省かれている様な気がしたものです。

同じ様な話題を繰り返し報道する社会というのは健康な状態ではないのです。

元々ニュースの少ない番組構成に増して此れでは、変にもなるな。

と思ったものです。


こう云う方法が日本的なのですよ、と言われれば、それで良いのかも知れない。

でも、その常識だけで生きてしまうと、外国の事が解りづらくなってしまう。

只、謝りさえすればその場が納まると言う社会は、本当は良いのか。


今日の御免なさいをニュースだと思って見ている人に随分会った。

誰も知らない

誰も知らない



 

 こんな題名の映画が以前あったなぁ。 

何もかもを詳しく言う必要の無い、日本で、その言わなくてもいい部分を大きく省いて報道されたかつての事件が、映画になったと記憶している。

これを見たのは、私がバンコックにいる頃で、映画祭に来て上映された時だったと思う。

 

タイの人というのは、子供を大切にする。 どこの誰の子供でも、弱いもの、可愛い者と決めてかかっている様なところがあるので、映画館の中には、涙を拭き拭きどうやらこうやら見続けた人達が、ずいぶん居たけど、、、、、。

 

この映画のことは横においておいて。  



 

去年の暮れ前に親しい友人だけにEメールを送った。

さよならご近所。 とその後に、さよならバンコク。 そして、日本へ帰った、と言うよりは

行った。



確かに東京にはわたしの知らない地下鉄やらが何本も出来、高層ビルが随分と増えていた。 人もカツテよりも200万人ほど増えているはずだが、人の数が数えられる訳でも無し、どうでもよいことだった。



ほかにも無い訳ではないが、この国、電車の中では携帯電話が使えない、移動中には便利な物ではなくなるわけだ。

この理由の一つは、心臓の良くない人などが電波を嫌うので、、、、。


これなら尤もだと納得できる。 けど、メールだってなぁとは思う。

ほんとのとこは、他人が煩いだけだろうし、しょうがない常識だなと感じた。

 

私の知人も一人、自ら携帯電話を持つことが出来ない健康状態で生活している。

私が近くに行くと時々チクチクするらしい。 



 

今回の一時帰国の際に、私は携帯電話を持とうと当初思わなかった。 

しかし、世の中を見渡して見ると圧倒的に公衆電話が少なくなっていた。



それが、どんなに不便な事かと言うことは、みんなは知らない。

 

コンビニの外にある公衆電話を使っていると、ナンデだろうという顔で見られることもあった。 

たしかに、誰も使わない埃だらけの公衆電話を使うなんて世の中から外れた変な人かも知れないが、私の心臓が生身か機械仕掛けかだって誰も知らないのだ。

 

 

日本で

 

日本で6ヶ月間過ごしました。

やはり、ある意味では先進国だった様に感じたのです。 



私にとって良かった事と言えば、本が安く買えた事だけだろうか。

日本に生活するのであれば、かなりの本腰を入れてくださいよ。
 管理する側の身にもなってくださいよ。

そんな雰囲気が私には強く感じたのです。



それは、どこの国だからと言っていい加減に住んでくれと言う事は無いが、何だか窮屈で不便な所だった。 



懐かしい海へは一度行った。

海はズットおなじだったのでホッとしたものです。



 

いつも歩き慣れていたはずの東京の街が、随分変わって目印の建物は殆ど変わってしまったのかのようでした。

よく見るとそうではなく、新しい大きな目印に隠れているのでした。



 

何かが物足りないなと思って、何だか解らずに暫らく過ごしていたら、犬が居ない事に気が付きました。 みんな殺したか、とがっかりしたものです。



そう言えば、以前から、羽田の対岸に東京都動物愛護ナントカがあって、大量に殺していたコトを思い出しました。 昔、犬殺しは子供の敵でした。



猫も随分減った気がします。邦楽ブームで三味線になった訳でもなさそうです。

 

訳の解らない殺人事件が後を絶ちません。

人が多すぎるのです。



昔飼っていたハツカネズミの共食いを思い起こさせるような感じでした。



 

そんな中でも良い事があるものです。

邦画が、この10年ほど前から良くなって来たコトを密かに喜んでいたのですが、

映画館へは行かず仕舞いでした。



それでも、このところの日本の映画がいい事には変わりありません。

日本を離れてから、DVDでユックリと何回も見ましょう。

 

日本は四季があって、居るだけでもよい所です。

そうではなくて、居るだけならば良い所です。



山あり谷あり海あり、川あり

街にいても天気も気温も毎日違うし、風も毎日違うし、イヤでも自然の中で、大気の中でひっかっき回されているのですね。

だから本当は何かが、とても豊かなわけです。



アア勿体無い。 日本でいいのは、自然です。だけです。それを知っている人だけです。

 

外交政策はアメリカと協議の上、経済はアメリカ次第、外国の文化はファッション誌、一歩外へ出て途上国でなら偉そうに、そうでなければ卑屈になって、国会は何時まで経っても政局争いの罵り合い、国民はそんな事より朝から晩までエンターテイメント、そうでなければ時代の犠牲者。



自然が在って、人がモットモットもっと少なくなったら、日本はよい所です。

人間には向上心が必要かもしれませんが、欲のカキスギ、過当競争にまで発展してしまって、比較論競争になってはモトモコモないのです。

 

そんな事を一人考えていましたが、今回再び日本を出られる事になって命をつないだと同時にアソコデ思っていた事って何だったんだろうと思いだしたり、出た後の事を混ぜたりで今度はポツポツ書いてみようと思ったのです。



思った事を書いて、書く為に書く事は止しにしましょう。

断章 2

 

パパイヤ


 

今、私の前にパパイヤが実をつけている

パパイヤを食べた後 その種から発芽した見る見る伸びてたわわに実るのだ

大地母神の乳房のようだそう想いながら眺めているのだ



バルコニー



なぜ耳のそばにだけ寄ってくる蚊があるのだろうかな


蚊を殺そうとしているのか

一人でビンタしているのか全く此れだけは我慢がいかない


 

時にまだ刺す前の蚊を手のひらに確認すると

完全な勝利だ

こいつは殺されるために成虫になった様な者だ

そう思うと妙に気持ちが良い



蚊というのは人間にとって最も恐ろしい存在なのだ

人間を死に導く害虫の筆頭は蚊なのだ

あまり身近に矢鱈と居るので慣れてしまうのだ


それにしてもイライラさせられる


もう刺して血で膨らんだ奴だって此れが

卵になる前に潰してやれば完全な敗北ではない



私を刺した蚊の奴は私の血で塗られて死んだのだ


一体何処から来るんだ

バルコニーのどこかでわいて当たり前のように

手の届かん所や耳によるんだな


まあそれならそれでもいい


本当は蚊に刺される位は何でも無い

私にとっては
手の届かない所に止まろうとしたら

邪魔してどうにか手の届くところに止める

止まろうとしている最中の蚊は

止まる事に気が取られているので

刺して居る蚊よりもたたき易い


完全勝利はこの時がチャンスだ


私はすでに十分な経験を持っている

よって

さっき産まれたばかりの蚊たちには勝ち目が無い

たといまんまと刺した所で

奴が勝ったとはお世辞にもいえない


なぜなら


いつまでも血を吸わせた蚊の奴は体が重くなり鈍くなり

やはり私に潰されてしまう運命に変わりは無い


経験と観察が勝利に導いたと言って良い訳だ


最近では随分と自信が付いた


天井にヤモリがくっ付いてるな待ってんだろうな


あいつは待つとなったら覚悟を決めて

朝まででも一と所にジッとしているものだ


飛んでるものがそう滅多にあんたの前に来るものか

と思うがトカゲの類は妙にかわいいので

此れも観察の価値はある


羽蟻がどこかで発生したりすれば

こやつも間違えなくバルコニーにやってくる

夜そこで暗い灯りを頼りに本を読むので

パラパラ寄ってくるのだ


このとき一番頼りになるのがヤモリ達なのである


半透明の腹に羽蟻がたくさん詰め込まれると

見る見る腹が黒くなり

プックリとした体形がヤモリにいっそうの

愛嬌を感じさせるものだ



食え食え


どんどん増えて何でも食っちまえ

あんた達は私の仲間だ


ヤモリはここに五六匹居てさらに

たまにチビを見かけるので将来が楽しみだ


泣き声が可愛いではないか



しかし


此れも長い経験と観察によると

当たり前ではあるが実はかなり色々話をしているのだ


人の其れとは比べられないが

幾つかの決まった言葉がハッキリとある

そして私は既にその声の出し方でそれらの関係と気分が

ハッキリとわかる


これは決してデマやはったりではなく

そもそもこんな事ではったりが効く人の世界がある筈が無い



それで時々その会話を聞きながら

あいつは意地悪なんだなとか

色目使ってんのかとか思いながら本を読んでいるので


読み終わった本に書いてあった事はあまり覚えていないので

本がぐちゃぐちゃになるまで繰り返して読め

そのつど新鮮なのだ




本題に入ってもいいころだ


まず私が蚊に刺される


器用に逃げ切ってフラフラとんで喜んでいる蚊が

なんとなく明かりに引き寄せられ

満腹感を楽しんでいる


そこはヤモリのいい餌場で

駆け寄られた蚊はきっと食われるだろう


それで増えるはずの蚊は少し減るんだ


そしてヤモリがふとって育って卵産んで

増えて羽蟻やなんだを食べる


普段は羽蟻は居ないので

蚊や何かを食べるわけだ



私はいつの間にかヤモリになってはいないのか


 


街で


足のない子 靴を磨かぬかと愛想を振る


 

目のない老楽師 手を引かれ過ぎ行く


 

これはひどいぞと糜爛みせる 夕飯


 

お金だけが欲しいのと涸れかけの媚態近づいてくる


 

洪水に流れにおさるる少女 街に流れ出でる


 

罪を隠したケロイドに睫毛がない


 

死ぬに死なれずと口がない


 

知らぬふりして 娘の帰郷よろこぶ


 

気の毒でならぬと ダイヤの指輪で小銭を入れる


 

何もわからぬがと 小さき手を取る偽善


 

知らぬがいいさと三泊四日


 

本当は 好いてはいないと善人もらす


 

本当はねと 更なるウソが泪とともに


 

薔薇売りの息子 学士となった


明日はないのと 今日だけ生きる


 

死ぬではないがと 腕きる三十路


何も知らぬ人 元気があるな と褒めつつ帰る


断章 1

* 文章が映像と音のなって見える時絵画も言葉として聞こえる

書き残す事、声で音で文字で色で


*人が物を作るとき、創造力だけに頼るわけではない

歪められた破壊の結果でもある

何を歪め壊し集め配列するかだ

ひとつの細胞が出来るが全体の完成には至らない

完成には破壊の不安が付き纏うから

 

 


* 孤独は権力だと発言する時

相反する力が同量に平均する永遠に


2000年1月21日


 

 

* 一般的な計りは知ることを満足させるほどの確かな

重さも長さも形も測る精度を持ち合わせては居ない


 

* さあいよいよ終わりだ
それで幸せになどならないだろう

これを持つ為に捨てた物は

目的の為に使ったものと同量だ

上手くいって自分は半分だ


 

* 未知の事柄に出会ったとき不機嫌になる愚か者は

どうやって生きながらえたのだ

当たり前のことに恐怖してそちらが正しいのか


 

* 真義の定義がないように虚義の定義もない

好期な嘘は真になる


それに自らも騙され騙された時それが真義となる


2000年2月15日


 

* その見方でしか評価しないのであれば


満足させてやろうではないか  

別なところでは三次元の中でゆっくりと自由に

移動するものだとしても


 

* 死に近づいた時片付けている時不安は無い

不安は欲望と夢の中で生まれる


2000年2月16日


 

* 同心円と水玉模様の社会では

中心に善と権利が周辺に罰が存在している

中心が任を解かれ

永遠の空間が残った


 

* そのことを知りたいと思わない

そこにあるのは不要な物だと知りすぎている


 

* 壁に取り付いている梯子の幅は


肩よりも狭く隣に移るには離れすぎていた


2000年2月19日


 

* トレドからマドリードへ戻る途中

農家を使ったドンキホーテの贋宿の前を

ゴヤが葬式で通りました


 

* バルセロナのピカソ美術館で

そうでしかないのに

ナンダこの下手は誰だと思った

パブロ ピカソ

脇のプレートに そう書いてあった


 


 

 

* 芥川の間借りの近くの水呑みが

書いたので読んでくれともって来た

そこには

水呑みに産まれた子を育てると 

親子共倒れになる

父母も苦しい 

故に

この子を殺し石油缶だか何だかに詰めてこれを埋めた

という様な小説があった

芥川に答えて

おらがそうしただが

と言った

追って

あんたはおらが悪いことしただと思うだか

と訊いた