バンコック1993-2007 その3
高校の先生
1993年この国へ来た当事、ある工場の人間は、皆が私を何か武道でもやっている上に可也の達人と見た。
それをその工場の日本人から聞いて、頓狂な感覚なんだな此処の人は、と思っていた。
工場へ行くとみんなが緊張するので其の儘にしておいて、仕事を進めていたのだが、どうやらその訳らしいものが見えてきた。
腕を組む癖、眩しいので眉間に皺がよるか、サングラスを何時でもかけていた事、
痩せているのに、当事はシャツを着ると肩幅が広く見えたこと、昔からそうだが少し運動すると何故だか腕だけがあっという間に筋肉が付くので、長袖のシャツを捲っているその二の腕が妙に怖かった。 これに 初対面に訳のわからなさが原因だったらしい。
タイの人は、怖がり屋が当時多かったと思う。
当時、言われたものだ。
怖がられても気にしない方がいい、気さくにいけると思うと馬鹿にし始める。
確かにそうかも知れない状況ではあった。
カラオケ屋に行く様になると、今度はヘビーと言われた。
Heavyの意味が解らなかった。
髪の毛が長くて、ガンガンのロックミュージシャンが、ヘッビーィなんだそうだ。
当時は長い髪だったし、服が黒ばっかりだったけど、多少のメタルを聞いていた位で、今の様にオジ-、オズボーンにクルっては居なかった。
珍しがられたので、タニヤの子にお金を払ったことが無い。
タニヤより全然安い街の安クラブでは、霊能力の持ち主だった。
無表情で相手を暫らく眺めて、こう云うのだ。
「貴方の後に居るおばあさんが、無理をしたり、悪い事をしないようにって」
その次にそこへ行った時には、後にお爺さんや、お姉さんやそう云う人が居る女の子が、私の周りに花盛りになる。
「大丈夫、心配ないから怖がらなくていい。優しい人が守ってるよ」
とか言うと相手も安心して、何時になく神妙に独りじゃないんだと言う気持ちになって、誰にも迷惑がかからない。
今の住処に住み始めた頃、ある朝、電話があった。
その少し前まで私は、絵を描いていて、やっと寝付いた頃だったので、何だ一体こんな時間に迷惑なやつだと思ったが、時計は、午前10時半位だった。
なら仕方がない、出ると
「学校で美術の時間を担当して欲しい」とこう云った。
「なんで」
「絵描いている日本人でしょ?」
「そう、で、どこで」
「インターの学校で」
「なんで」
「紹介された」
「なんか人違いでしょ」
「そうかな」
「たぶん」
「でも電話番号が合ってるし」
「だねえ」
「間違えかな」
「うん、先生じゃないもん」
「確認します」
「さようなら」
同じ階にどっかのインターでスペイン語を教えているおばさんが、居る事がわかった。
その後なんの問合せもこなくなった。
ずっと世話になってきた日本からの会社の社長から、造型の監督になって工場に時々来てくれよ。と言われてそうした事があった。
朝バスで30分ほど駆けてそこへ行く事は至難の業であったけれど、何時死んでも良いほど金がなかった。
そこで始めてあった日本からのスタッフが、ある晩、区切りも付いたし、と言うより土曜日だし、ゴーゴーバーのクネクネを見たいと言ってきた。
彼がどんなに感動したかは解らないが、私には普通の景色で、その頃はジンなど飲んだと思う。
そして彼は誰にも聞かれない様にこう云った。
「少し分けてください」
「何を」
「知ってますよ。聞いたんだから」
「だから何を」
「葉っぱ」
「そんなのそこらで買えば良いじゃん」
「ダッテ凄い持ってんでしょ」
「無いよ」
アンナうるさい所で全部日本語なんだし、小さい声で云う事もないのに、可也感じは出ていた。
彼が聞いた相手が悪かった。
以前から知っていたが、どうでもいい嘘をつく馬鹿者だった。
暫らくは、そういう事で葉っぱの売人で、私は通した。
「ねえ、誰にも言いませんから」
未だ諦めない。
「コナイダ、ソックリまとめてコンテナーのウネウネの隙間に詰めて、日本に出したんで、もう暫らくは無い」
「今度の時は、少しお願いします」
何にも気が付いていないので、ほって置いた。
何年か前にEメールと言う物を使える人になった。
ただし、PCを持っていないので、近くのネット屋に行く事になった。
あっちに出来たりこっちが無くなったり、している内に日本語がどの機械でも使える便利なヤツが出来たので、ここをいつもの店と言う事にして通っている。
送られて来たファイルのエッセイや小説もそこで読む。
そして返事やこちらからの駄文も送る。頻繁に使うので、何者なんだろうと言う気があっちに起きたらしい。
そうは云っても「アンタは何者ダイ」こう聞くほど親しく無いので、ジロジロ観られるだけで過ごしていた。
この店が出来る前に使っていた所は、住処のまん前であった為に「あいつは、何かのレポートを日本へ頻繁に送る仕事をしている様だ」と噂が立って、勇気のあるガードマンが、「なにを報告してるんだ、いつも」と来た。
薄笑いを浮かべて、眼だけでニヤリとしてからは聞かなくなった。
そこが無くなったので今の所になった。夕方早い時間は、子供たちがゲーム屋として使うので、なかなか空いていない事が多い。夜になってからノソノソ行くようになって、あっちも閑だし何かと話かける様になって来た。
どっかから日本語で書いている文章を覗いたり、時々いじる絵の原稿も覗いていたらしい、ある夜、閉店間際になっても2チャンの書き込みが可笑しくて読み耽ってしまっていたが、閉めるよと言わないで待っていてくれた事があった。
仕事だと勝手の思い込んでいたらしい。
ソシテ云った
「あんた、高校の先生でしょ」
こういう景色の人がそうだと思える神経、学校の先生がPC 持ってない筈が無いと思わない常識感、絶対に馬鹿に出来ない。
色々な人になったり誤解されたり出来るここは、いいかも知れない。
でも本当の仕事が何か知ってる人が居ないと云うのも寂しいが....。
近所に来た人
何と無く日本で言う工場の作業着のような色のズボンに、ランニングシャツ、髪の毛が短く刈ってあって小太りの人が増えた。
今度の人は、歩道にパンダみたいに坐って背中を丸くして、ユーックリと指で文字をなぞりながら読んでいる。
声にはならないけれどゆっくりと口が動くので、「ああ読んでいるな」とすぐに解る。
公衆電話の本体には、よく見ると繋ぎ目があって、タイテイ其処は,お弁当箱のような感じになっているが、その箱と蓋の間に詰まってしまった文字を上手に引っ張り出して読む事もその人は出来る。丁寧に引き出す。
山下清に似た感じで怖くもないし、近所の子供に読んであげたりしているところに遭遇した事があるし、やはり邪魔にはされていない様だ。
ある時から夕方のセブンイレブンで子供も集まって、4、5人に囲まれながらタイルの目地に書かれた読み難い小さい文字を読むことになったらしい。
夕方そわそわして、セブンイレブンの前を過ぎながら集まりを確かめているのを見た事があったけれど、最近上手く集まら無くなったらしくて、冷たいタイルに腹ばいになって独りで読み耽る様になった。
昨日の晩、夜遅くそのコンビニへ買い物にいった。
私がレジを済ませて出ようとする頃、清さんが、一寸中を覗きながら、にこにこ入ってきた時、レジのオカマが優しくこう云うのを聞いた。
「きょうは、もうかえったわよ」
その人は、挨拶して外へ行き、其処にある丸みのある新しい公衆電話の隙間に文字を発見した。
バンコック1993-2007 その2
タマゴ
何故そう云う事になったのかは、知らないけれど。タマゴ一個の値段というのは、
台所会計の基準になっているらしいことを、日本で聞いたことがある。
その一個の値段というのは、余り変動せず、十円玉が、いつまでも十円なのと
おなじくらい、家計の景気基準になるらしい、
だから、タマゴ一個の値段が変わり始めると、なぜか、ほかの物の値段は、
既に変わっていて、月給もこの頃には、それに負けないほどに上がり、つまり、
人件費が上がり、世の中に流通するお金の総量が増すという事らしい。
タマゴが、景気を創りだす秘密では、無いだろうから、
目安になるという事だろうと思う。
バンコックで、はじめて卵を買ったとき、一個が一バーツだった。
殻が厚くて、当たり前に地鶏のいいタマゴだ、それが、卸値が下がって農家が文句を言ったことがあった。
その後、一個が一バーツ五十サタン位に落ち着いていた物が妙に綺麗につるつる
したパック入りのタマゴが売られる様になってからそうではない今までの地鶏タマゴもつられて値が上がり、二バーツになり、二バーツ五十になりして、こんどは、
石油価格の高騰につれて運送費が上がり、いまはタマゴ一個三バーツで街中のら売りがされている。
これは、遠くから運んできて、市場で卸して、近所の小売値なので、田舎で鶏にタマゴを生ませているところでは半分くらいだろうと思う。
今では値が三倍になったタマゴだけれど、こうなるまで十二三年かかっているから
それが遅いのか早いと判断すべきなのかそれは判らない。
いつも夕方にはニュースを見ることにしているのでタイでどんな事がおきたりしているのかが、少しはわかる。
時々気になるのは、ニュースの内容とキャスターの表情とが同調していないことが
ある。
「どこどこで、悲惨な交通事故がありました」
「麻薬の取引に絡んで三人撃ち殺されました」の後に、ニコッとする。
このところの大雨で、どこどこでは大変な洪水です。
今晩も大雨の予想が出ています。
「それでは天気予報です。」
その時、BGMが、「雨にぬれても」 だったりする。
最近多いのは、自動車、バイク、の窃盗団、これは、ラオスやカンボジアに、
それらを密輸してもうけるらしく、後を絶たない。
犯人のほとんどが、十代で、いい小遣いを貰って、影には、マフィアが絡む。
あっという間に2サイクルエンジンが無くなり4サイクルエンジンのバイクに
変わってしまった。
これは、日系の工場でそれを作り出すと、時期を同じにして、随分と長い月賦で
誰でもすぐに買い換えることが出来る様になったためで、どこにでも、
新車のバイクがある、それに目を付けた新しい犯罪で、
警察が、てんやわんやで犯人を捕まえている。
ニュースキャスターも苦々しい顔をして毎日それを伝えている。
その流れで、ある田舎で、また泥棒を捕まえた。
とつづいた。
畑のあぜ道に三人の犯人が、顔を伏せて、しょぼんとして、しゃがんでいる。
この十代の三人は、近くの農家からタマゴ1200個を盗んだために捕まったのだ。 女の子も一人いた。
長閑でもあり、気の毒でもあった。
再び近所のこと
住処の建物の一階に、コンビに風の店がある。
そこへは這入らず、通りへ出て、右手に五十メートルほどいくとコンビニがある。
セブンイレブンで、バス停の真ん前にある。
以前そこは、PCゲームばっかりのゲーム屋であったが、ある夕方、
同じ番号のバスが、より早くそこにいる客を自分のバスに乗せようと、
猛スピードで争った結果、二台とも縺れて、そこに突っ込んで、店は、大破した。
と同時に電話回線の大きなボックスが歩道に在ったが、これも潰したので、
近所の電話が何日か無くなった。
そっちへは行かず通りを左手にいくとすぐ左にはかつてファミリーマートがあった。
セブンイレブンとは、少し品揃いが違っていて、まあ良かった。
そこの三軒となりに、セブンイレブンが在って、これは、今も在る、
すぐ先の横断歩道を渡ると、余り知らない名の、でも、ちゃんとしたコンビニがある。
以前ファミリーマートだった所は今はもう随分長い事空き家だが硝子張りのファサードには間も無くセブンイレブンになります。
と書いた張り紙がある。
この様にコンビニエンスな町なのである。
何年か前には、建物を出るなりイサン料理の屋台があって、真夜中でもそこにいさえすれば、いつまでも店をたたまないから、朝まで居たりしてやっぱり重宝していた。
これが、何を思ったのか、少しはなれた所に店を構えたが、
そんなのは、もう便利でも何でも無く、一年ももたずに店を潰した。
表に出たなり店を構えていた頃のイサン料理の屋台の脇に、ある日、
ビール1本と線香が、立っていた事があって、「なにこれ」と聞いたところが、
「昨日、ここで乞食が死んだから」と答えた。「車がひいたの」と聞くと、「雨で死んだ」と答えた。
「あったかい国でもそんな事あるか」 と思いながら、ビールと料理を頼んだ。
近所の乞食は大概おとなしい気違いで今も幾人かいるがその後にも運河の脇に寝起きしていたのが一人ずっと起きなかったことがある。
すぐ近くの、コピー用の紙を卸している老夫婦が同時にコピー屋もやっているので、便利に使わせて貰っているが、最近その店の間口を広げて、業務拡大を試みた。
内装が出来てシャッターが綺麗に塗られて店先のたたきには新しいタイルをはって、雨避けの軒をかけた。
「店、大きくするんだね」というと、
「そうだ」と小母さんが、もう寝ちゃったような親父さんの横で、答えた。
そこの新しい軒先に新顔の乞食が、これは未だ若く、女の人で三十路にはなっていないとも思えるが分裂症者の外見上の特徴の1つは実際よりも随分若く見えるというのがあるのでハッキリしないがいずれにしても、そこに住んだ。
だからコピー屋の間口は、まだ昔のままでやっている。
この人は、大概寝ているが、どこかで手に入れた小さな漫画の本を持っていて、広げて読まずページとページの間を捲りたくて仕方が無いらしい。
非常に注意深く、本のページの角を食い入る様ににらみ親指を湿してゆっくりと剥がそうとするが、いつも上手くいったためしがない。
コピー屋さんの前にだけいつも居るのではなく、昔ゲーム屋だった今のセブンイレブンの前で、バスを見ながらそうしている事もある。
イサン屋台
ブリラムから出て来て、ヤワラのカフェで稼ぎ、堅い商売に変えようと思ったらしいが服が派手であった。
料理をすれば、そのままのイサンなので人気が出て一年半以上屋台で通した。
私が降りていく時間と坐る場所が決まっていて食べる物ものむ物もみんな決まっていて、なんの面倒も無くて便利だった。
そこを始めた頃には居なかった10歳位の子供が手伝い始めてイナカッペであったが気が付く子だった。
この女の子、普通には歩かず、いつもスキップで用事をこなすのが特徴である。
子供達がどうしてそうなのか知らないが、何かが急に流行ることがある。
何処の子でも同じ事かも知れないが遠くチェンマイで始まったサムライというのは、チョイト怖かった。
日本のサムライはバサバサ人を斬っていたのだと思い込みそれを其の儘やる。
タイのまッすぐな、変な刀を持った奴がバイクの後にのって、だれ彼という事ではなくなんと無く切り付ける遊びで、斬りっぱなしでバイクは逃げてしまうから、どうしても
このサムライが捕まらない。
いつでも脂肪の厚いおじさんばかりが切られていればかなりずばっといっても
死にはせず、縫い付けて如何にかしていたものが、そんな事では済まず死ぬ人が出て来た頃には首都バンコックにも伝染していた。
バイクのグループを作ってそれぞれ用意した刀を持って、アッチヘ行ったりコッチヘ来たりしているのを見ながら屋台で「馬鹿どもメ」などと言いながらビールを飲んだりしていたが
たまたま、二つのグループがすれ違うとこれは見事に刀を振り回すがどっかが上手なのか下手なのか人には切り掛っていないのが不満といえば不満で「日本の暴走族は怖かったな」などと思いだして居る内に、侍に鉄砲が伝わってピストルが出て来た。
古いタイの友人と屋台に座り、「サムライ来た来た」などと冷やかしていたが
時々聞きなれない音が混ざるので、
「なんだかね、あれ」 と聞くと。
「ピストルの音だね、親父の持ってきたかな、あたりゃしない」
見たいな話だった。
暫らくはこんな事も続いたが、鉄砲伝来以後、エスカレートしなかったし、すぐに去り行くのが流行であって、サムライは、何時しか消えてしまった。
スキップのナンシーを呼んで、
「今日は、少しいつものとは違う物を頼もうぞよ」と思っていると、遠くの方が何と無く忙しいそれがジワジワと近付いて来るので
「おい、ナンシーそこよけなって」
って云っているのに、
ふざけてると思ってるナンシーは
「なんで」
とかいって、くねくねしている。
その脇を上半身血みどろで、
デカイ包丁を持ったデブが過ぎた。
バンコック1993-2007 その1
外国で知ること
夜7時を過ぎた頃に階段を二段飛ばしで上がると、中が真っ黒で、舞台照明の効果で綺麗に見えるところが、かつてあって、其処についこの前までは日本に居ましたと言うタイ人だがマレーシアのパスポートを持っていた若いお母さんがいて、独特の日本語を駆使して、数年間の日本生活で、色々知ってるぞ。と言うので聞いてみた。
その日本語で、こう云った。
「まえまえに ニッポン行くにダメでしょね。 あと もしタイ人じゃないに いく出来るもあるぞーだって。 そー、そんなにあるするのー じゃあ いくしたいぞーでしょね。 あと あれひといってるは 少しにお金いるするけど かんがえしないもいーよだって。仕事するに少し少しかえすでいいでしょね。 あと行くにドンナだーに聞くするや。 いくするは マレーシアじん するしてーだって、 あと 日本つくだったにひこうじょーでタイ語しないな!でしょね。 あと 服にするは、マレーシアのヒトみてるにしてねー。でしょね。 すぐよ!」
これは判りやすい日本語かもナ。 と思った。
大阪、名古屋、川崎、蒲田、茨城、随分と引っ越して、休みの日には、「京都の太秦行くに着物で写真だったぞー」 とか、 「おい ! ディズニーランド なんかい なんかい だったぞー」 なので、かなり楽しんだのでしょう。
その中で、一つの確信に似た事実に出会っていた。
「ねー タイに ナンデ ビンボーだ? わかるにあるか?
わたし わかるにだったぞー。 さむいだ! さむいにおかねある出来るじゃないの!ファランに寒いあるでしょね 日本に寒いあるでしょね タイに寒いあるじゃないや!」
「じゃあ タイはお金ダメな!」
と言ってみた。
「ちょっとな...。 あと もし いっしょけんめいするは 寒い寒いに買うする出来るじゃないの?」
つづけて
「あなたに どんなに かんがえするに あるだ」
「いっしょけんめい するでいいや」
と励ました。
タクシー
どこかに用事のあるときは、タクシーで、行く。
まだバスの路線を覚えていない頃は、そうだった、仕事の打ち合わせに行く時もそうだった。メーターをつけたタクシーが出てきだして、屋根の上に電飾でメーターだぞと書いてある。
タクシーを止めて、行き先を云って、運転手が行きたいかどうか聞く。
「行かない」と言う答えだってかなりある、遠いから、とか、混んでる所だから、とか、会社で車の交代の時間だから、とか、いろいろだが、単に行かない、いや、と言うのも随分ある。
単に「行かない、いや」、この理由がわからない。
でもまあ、行かないのだから無理なことをお願いしても仕方ない。
次の車をとめて、また聞く、「いいよ」といったので、おお、行くんだな、と思って乗る。
こっちは、二人か、三人で、用事が有っていくので、何か話す。段段運転手の様子が変になってきて、ラジオのボリュームが少しずつ大きくなってきて、解り切っていた筈の渋滞に文句を言い出すこともある。
雨でも降ってきたら、それにだって文句を言い出したりする。
後でわかった。
タイの人同士だったら、世間の無駄話を出来るのに、よりによって外人を乗せてしまった事への後悔、閑でそれが嫌。というのが、第一因、 此れは、こっちが少しでも、この国の言葉がわかれば、もう解決する、そうならば黙っていないでもいいから。
第二の原因、自分の理解できない言葉を聴いているとイライラする、これは、まあ、解らないという事だけは、お互い様であろう。 こちらは、イライラには発展しない。
第三の原因、第二番目に加えて、この理解できない言葉の間に笑い声が混ざる、つまり、乗っている客は、いま自分のことを馬鹿にしていて、面白がっているに違いない。なんの根拠も無い被害妄想狂、実はこれが多い。
そう思い込んだ運転手のとる行動は、何が何でもラジオのボリュームを上げまくる。
どうしてもその妄想が解けないと、渋滞のひどさ、会社に車を返す時間が迫った、何かにこじつけて、「もう、この先は行かない」こう宣言する。
渋滞していなければ、兎に角スピードを上げて、ほかの車を追い越し、追い越し、早くそこについて、客を下ろす。
あの頃のタクシーは、そういうことがよくあった。