今回はシドニー、ゲイル、デューイといった1作目から登場している登場人物が引き続き登板している半面、ある人物が本当に退場してしまったことにはとてつもない衝撃を感じたのだが、過去シリーズのリスペクト・オマージュが散りばめられていて、なおかつ作品の魅力であるメタ構造が効いていて、「映画」の本質的な問い直しをしてくれているスラッシャーホラーの代表作の5作目をご紹介します。

スクリーム(2022)

主演︰ネーヴ・キャンベル

出演︰コートニー・コックス/デヴィッド・アークエット/ジェナ・オルテガ/メリッサ・バレラ/ジャック・クエイド/マイキー・マディソン/ディラン・ミネット


・あらすじ
ティーンエイジャーのタラにかかってくる不穏な電話。出るとタラをゲームに誘う不気味な男の声が…。怖くなり外へ出ようと玄関を開けると、ゴーストフェイスの仮面を被った人物が待ち構えていて、タラは腹部を切りつけられる。辛うじて逃げ惑う中、家中のドアの鍵が誤作動で開閉を繰り返し始め、ついに、ゴーストフェイスが家に侵入し、タラを襲うのだった―。この事件から、また連続殺人鬼がウッズボローの若者を標的にしていることを知ったデューイは、シドニーをウッズボローに連れ戻し、ゲイルとともに、再びゴーストフェイスに挑む。新たな犯人の狙いとは?やがて襲われている犠牲者の共通点を知った彼らは、ゴーストフェイスの謎を解き、無事その魔の手から逃れることができるのか―!?
("cinemacafe.net"から引用)
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感想・考察
この映画は『レディ・オア・ノット』のマット・ベティネッリ=オルピン監督&タイラー・ジレット監督コンビによる1996年の人気ホラー映画『スクリーム』のリブートであり、2011年の『スクリーム ネクスト・ジェネレーション』から10年ぶりとなるシリーズ第5作目。1996年の『スクリー厶』〜前作の『スクリーム ネクスト・ジェネレーション』の過去4作を手掛けてきたウェス・クレイヴンの遺志を引き継いだ待望のシリーズ最新作であり、アメリカ本国では2022年1月14日に劇場公開されていたものの、日本では5月25日にはBlu-ray&DVDがリリースされています。

この作品、全米で2022年1月14日に公開され、1月第3週の全米週末興行収入ランキングでは本国では2週連続1位とヒットを遂げていた『スパイダーマン︰ノー・ウェイ・ホーム』の連覇を止めていたほどの大ヒットを果たしていて、1本のホラーシリーズの続きの物語としては批評的にも興行的にも成功していて、2023年6月には本作、5作目の続きとなる6作目の公開が決定してはいるのですが、これまで、1996年の『スクリーム』~2012年に日本公開された『スクリーム
ネクスト・ジェネレーション』にかけてはちゃんと劇場公開されていたにも関わらず、日本のパラマウントがどういう事情で判断を下したのかは察しがつかないのですが、ご多分に漏れず、日本では劇場公開されず、5月25日にBlu-ray&DVDリリースでのDVDスルーになったわけなんですよね。で、6月~7月は時間とお金がいくらあっても足りないほど、大作、話題作が公開されているなかで、未公開映画好きの私としては非常にもったいない案件だし、『ハロウィン』や『クライモリ』などのホラー映画をかじってはいるので、この機会に1〜4作目を順を追って鑑賞していったうえで、今回の5作目となる『スクリーム(2022)(原題︰『Scream』』をおうちで観賞しました。先に結論から申し上げますと、今までの過去作と比べると、前作『スクリーム ネクスト・ジェネレーション』の繰り返しに近い構造にはなっていたのですが、元々1にあったメタ視点、要素をふんだんに盛り込んでいき、そして、本来4作目にあった「ネクスト・ジェネレーション」、つまりは新しい世代への受け継ぎを見事にやってのけたかなり満足度の高い1作ではないのでしょうか。

ただ、これはネタバレなしでやろうか迷ったのですが、ネタバレありで書いたほうがやりやすくて、シリーズの今までとこれからの歩みを語るうえではちょっと過去作のネタバレまでしなくてはいけないと思うので、どうしてもネタバレを食らいたくない方は他のレビューを読んでいただけると幸いです。で、この記事では構成上、過去4作品の評価、5作目において素晴らしかった思ったところ、そして、シリーズ5作品を追ったからこそ、込み上げて来る幾つかの不満点、この3つに分けて評論していきたいと思います。

まず、本作、5作目を含めた『スクリーム』シリーズ、ざっくり言えば、『ハロウィン』シリーズのようなサイコな覆面の殺人鬼が刃物で常人たちを殺害していく様を描いた、いわゆる従来のスラッシャーホラーに1970年代~80年代の代表作『ハロウィン』やウェス・クレイヴン監督自身の名刺代わりとなる代表作である『エルム街の悪夢』のリスペクト・オマージュ、パロディを盛り込ませ、そこから物語の中でホラー映画のあるある、生き残るための法則を提示させていくことによるある種のメタ視点、メタ構造でコメディ的な面白味を与えている作品になっていて、更に言えば、作品を重ねるごとにアイコン化、マスコット化され、恐らく『最恐絶叫計画』では『スクリーム2』の冒頭の映画館での殺人シーンを完全にパロった観客たちの集団殺人シーンによって有名になった死神マスクを被ったシリアルキラー、"ゴーストフェイス"、そのシリアルキラーの中の人がそこまで手慣れてない一般人が殺害に及んでいることで生じる滑稽さ、面白おかしさと主要人物の中に"ゴーストフェイス"の正体が紛れ込んでいて、犯人は一体どの人物で、どういった犯行動機で人の命を奪っているのか、といった謎解きの要素で楽しませてくれる言わずと知れたミステリーホラー、もしくは、ホラーコメディなんですよね。だから、90年代のホラー映画の代表作にして、あらゆるジャンル的な面白さがミックスされていることから、当時としては画期的かつ新鮮味に溢れていた作品であって、映画史的にはホラー映画の歴史を語るうえでは重要な1作ではないかという風に思われるんですよね。

で、作品の魅力、特徴を深く掘り下げるとするならば、この『スクリーム』シリーズはミステリーの謎解き要素、メタ的な要素でただ単純に面白いだけでなく、1本の線で観れば、滅茶苦茶味わい深くて、滅茶苦茶噛みごたえのあるように作られているわけなんですよね。そのひとつがホラー映画でいうところのファイナルガールであって、シリーズ通しての被害者でもあるシドニー・プレスコットの過去のトラウマへの葛藤とそこから脱却することへの成長の記録で、彼女が1~2では多くの大切な人を犯人から奪われ、3では山奥のコテージで隠遁生活をしていたはずなのに、ビリーによって殺害された自分の母親、モーリーンの悪しき面影に苛まれ、結局、モーリーンや本作の黒幕と向き合わなければいけなくなる。そして、4~5は旧ヒロインとして次の世代にバトンを渡すような役割を担っていて、彼女の精神的な強さ、逞しさは4~5で明示されているのかは評価が分かれるところではありますが、本作に限っては、今支えてくれている人々のケアのおかげなのか、完全に過去に受けた心の傷から脱却していると言える。更に言えば、もうひとつ、シリーズ過去作(1~4)に出てきている準ヒロインに位置付けされているゲイル・ウェザーズとウッズボローの地元の保安官、デューイ・ライリーの恋愛ドラマが一貫して描かれていて、1作目だと、この恋愛要素が織り込まれているせいか、テンポが停滞している原因を作ってしまっているんだけど、この物語全体の"ゴーストフェイス"の殺人きっかけで2人の距離感が近づいたり、離れていったりした末、3作目ではようやく結婚している。

とにかく本作、5作目の『スクリーム』はシリーズの過去作をあらかた観ていなくても、最低限度楽しめるような親切設計は取れていて、冒頭でジェナ・オルテガさん演じるタラ・カーペンターが何者かに脅されて、犯人であるその人物がこの作品内で登場する1作目のビリーとストゥ(スチュアート)が起こした連続殺人事件、通称"ウッズボロー"事件、またはゲイルのノンフィクション本を基にした、スラッシャーホラーシリーズ『スタブ』の1作目に関するクイズを出題するくだりがあるんだけど、そこでシリーズ過去作全てに出てきたシドニーやゲイルの名前が出てきて、後の展開で登場した時にはちゃんと観客に分かるようにはなってるんだけど、個人的な見解なんですが、シリーズ過去作(1~4)は必ず1度は観賞したうえで5作目を観ていたほうがより楽しめると思います。そんな中、私がシリーズ過去作(1~4)はどのような評価を下しているのかと言うと、例えば、定番中の定番、オリジナル版とも言える1996年の最初の『スクリーム』は最初の1作目でいわゆる"お約束"の展開を見せていて、シドニーがレポーターのゲイルにワンパンお見舞いさせていくところであるとか、デューイが犯人に殺されていたのかと思えば、実は辛うじて生きていて、最後には救急車に搬送されていたりとか、そして、何よりも映画オタクのランディがホラー映画で生き残るためのルールを説いていたりとか、今振り返ってみると、ニヤリとさせられますし、軽くネタバレすると、シドニーの恋人、ビリーとシドニーの高校の同級生で、お調子者のストゥ(スチュアート)が犯人なんだけど、首謀者であるビリーは犯人かと思いきや、犯人じゃなくて、犯人じゃないかと思えば、最終的には犯人だったという結構などんでん返しがあって、ミステリー好きな人からすれば、犯人が誰が読めるかもしれないけど、2回目以降に観賞すると、実は1作目が1番犯人が行った犯行に辻褄が合って、納得度が高いように練り込まれている印象はあるんですよね。

それから、この1996年の『スクリーム』が興行的にも批評的にも成功を収めまして、フランチャイズ化されるにあたって、一旦は3部作として続編が作られるようになって、1997年の『スクリーム2』、真犯人はいつもの種明かしのくだりになるまではかなりサブキャラみたいな扱いだから、良くも悪くも真犯人の登場には思わず「あなたはだぁれ?」みたいなことになる恐れはあるけど、ある種の加害者家族が抱える苦しみ、痛みを描いていて、シドニーが真犯人に放つ言葉はごもっともで、真犯人にも凄い非があるはずなのに、真犯人の立場になって考えてみると、胸が痛くなりましたし、1作目ではテレビニュースの映像のみでの登場だったコットンという男性が本当に冤罪を晴らして、シドニーを助けたヒーローとして人生を再起させるエピソードなんかは滅茶苦茶好ましい。ただ、2000年の『スクリーム3』は1作目の犯人であるビリーと2作目の真犯人で、彼の母親、デビーの人生を狂わせ、殺人事件を起こすよう動かした黒幕が後出しじゃんけんで登場していって、"ゴーストフェイス"として次々と人の命を奪っていくわけなんだけど、いちいちどこがダメか説明するとキリがないんだけど、とにかく脚本がガタガタで、3部作の中の完結編のはずなのに、手放しでは見事に幕を閉じた最終章とはとても言い難い作品ではあった。その後、10年ぶりの続編、2011年の『スクリーム4︰ネクスト・ジェネレーション』では1作目の物語構造、構成を意識していて、それまでの3部作を踏襲しつつ、テーマ的には現代的、今日的に語られていて、今なお現在進行形で続いているSNS時代に警鐘を鳴らしている作品になっている。個人的には1作目はミステリーとしても、コメディとしても、結構面白くて、ホラー初心者には割りと気軽にオススメ出来そうな1作にはなっているんですが、1997年の『スクリーム2』と2011年の『スクリーム4︰ネクストジェネレーション』、この2つが絶対支持かつ滅茶苦茶好きな1作で、なんなら、2は1とセットでオススメしてもいいぐらいだと思います。ちなみに、2015年6月にはNetflix限定でドラマ版の『スクリーム』が配信されているのですが、映画版の『スクリーム』とは別の世界線に設定されているため、敢えて、映画版の『スクリーム』シリーズのみで話を進めていきたいと思います。

では、5作目となる本作、2020年3月中旬に2015年に亡くなったウェス・クレイヴン監督に代わる監督が決まり、それから夏秋にかけて新旧の役者陣が正式に出演することが決まって、3作目で明かされる『スタブ3』の製作事情のように複数のバージョンが撮影され、そこから5作目をどのシナリオにするか、決定されていったわけなんですが、ぶっちゃけ、前作同様、物語の構成そのものは1作目の『スクリーム(1996)』のストーリーラインをまんまなぞっている方向で話が進んでいて、あらゆる意味で前作の別パターンになっているため、犯人が誰なのかは割りと簡単には読めるようにはなっています。ただ、前作の『スクリーム4︰ネクスト・ジェネレーション』と本作の『スクリーム(原題︰『Scream』)』、新ヒロインに当たる主人公にしろ、犯人の犯行動機によって浮き彫りになるテーマにしろ、話全体の味わいにしろ、似て非なるものになっていて、平たく言えば、ウェス・クレイヴン監督の最後の監督作品となる前作だと、ホラーとコメディのバランスが上手い取られていて、これが良質なホラーコメディなのに対して、本作を観る限りではほぼほぼホラー、スリラー路線に舵を振り切っている。もっと言えば、前作のクライマックス、主人公のシドニーが犯人を1度倒した時の捨て台詞で「オリジナルを改悪しちゃダメよ。」と言っているんだけど、改悪されたリメイク、リブート、或いは、その続編が観客、ファン、支持者、信者が阿鼻叫喚してどのような有害性をもたらしていて、いわば、その先をテーマに組み込んでいる。そして、前作の『スクリーム4︰ネクスト・ジェネレーション』が旧ヒロインが新ヒロインに受け継がれていなかったとするならば、本作こそが本当の意味での"ネクスト・ジェネレーション"、本当に旧ヒロインであるシドニーとゲイルが新ヒロインであるサム(サマンサ)とタラ、カーペンター姉妹に継承させている素晴らしい続編になっていると思いました。

ここからはシリーズを1作目から順番に観たからこそ見えてきた、5作目の素晴らしかったところを挙げていきたいと思います。まずは冒頭のアバンタイトル、前作の『スクリーム4︰ネクスト・ジェネレーション』だと、『スタブ6』、『スタブ7』、実際の犯人が起こしたとみられる女子高生ふたりを殺害した様子、物語の構成上、入れ子構造で捻りに捻って見せられていたわけなんだけど、今回の冒頭のアバンタイトルでは『X』などに出演しているジェナ・オルテガさん演じるタラ・カーペンターが何者かによる非通知の電話をする様子が映し出されていき、彼女が生まれつき喘息持ちであるとか、実母と彼女がホラー映画好きであるとか、スマートに説明されていくんだけど、そこで犯人とみられる人物が「好きなホラー映画は?」とお決まりの質問をすると、タラは「『ババドック』が好きだな。」と言っていて、犯人が「一体どんなホラーなんだ?」と聞くと、タラは「複雑な感情やテーマが根底にあるの。怖がらせるだけのホラー映画じゃない。」と答えるんですよね。その後のやり取りではデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の『イット・フォローズ』、ロバート・エガース監督の『ウィッチ』が出てきて、今時の若い映画好きにとっては親しみやすいホラー映画の名前が固有名詞として出てきて楽しいんだけど、タラが好むホラー映画には一貫性があって、割りと寓話的なホラー、スリラーが好きであって、スラッシャーホラーはあんまり意欲的には観てないんじゃないか…というのが読み取れる。だからなのか、日本ではかなり馴染みがない言葉なんだけど、エレベデッド・ホラー(アートホラー)というホラー映画の中の1種のジャンルを指す言葉が出てきていて、中盤でランディの姪に当たるミンディが犯人の動機を推測するくだりでもその言葉が引き合いに出されているんですよね。で、ここで固有名詞で出てくるジェニファー・ケント監督の『ババドック 暗闇の怪物』、後の展開である意味機能するようになっていて、非常に気が効いている。それで、そこからさっき書いた通り、シリーズ過去作を観ていない人にとってある程度分かるように、犯人が出題する劇中の映画『スタブ』に関するクイズのくだりで親切設計がされていて、タラは事実上、クイズの3問目で不正解を出したことをきっかけに、ようやく死神のマスクを着けた殺人鬼"ゴーストフェイス"が襲いかかってくる。これは予告編で使われていたところで、そこからタラが左の脇腹を浅く切り裂かれた直後、彼女がスマホのアプリの機能を使って、留守中の家の防犯システムをタップしていくわけなんだけど、その防犯システムのオン・オフ・オン・オフの繰り返しが緊迫感の持続を生み出していて、非常に新鮮味に溢れていて、ゾクゾクさせられるんですよね。そして、この冒頭のアバンタイトル、今まではこの冒頭の一連のくだりは3作目のコットンもその一例に入るのですが、冒頭で襲われた人物は全員最初の犠牲者として物語から退場されてきたわけなんですが、"ゴーストフェイス"が馬乗りでそういった人物を刺殺するところでタイトルが挿入されるのは律儀に継承されているんだけど、このタラは幸い、重傷で済んでいて、今後も物語に深く関わるようになっている。これこそが5作目の最大の新要素なんじゃないかなと思うと、物凄く見事なんじゃないかな…という風に思いましたね。

で、前作と本作が似て非なるものであって、本作の最大の新要素としてもうひとつあるのがシリーズの1作目に出てきた登場人物と血縁関係がある人物が主要人物として物語を動かしているところに尽きると思うんですよね。特に前作では新ヒロインに当たる人物、ジル・ロバーツがシドニー・プレスコットのいとこだったにも関わらず、自分が事件の被害者のいとこであるがゆえの苦しみから、"ゴーストフェイス"になって犯行に及び、自分がシドニーに成り代わって有名になろうとしていた。別の意味で前の世代が次の世代に世代交代する話だったわけなんだけど、本作ではシドニーとの血縁関係のある人物がそこまで彼女に手を出さないとでも言うべきなのか、今回の新ヒロインに当たる人物、メリッサ・バレラさん演じるサム・カーペンターはタラの実母と1作目の犯人であるビリー・ルーミスの間に出来た子供、つまりはビリーの隠し子であり、彼女が加害者の娘として生きなければならない葛藤と苦悩に直面していき、殺人鬼にはならないで、自分の存在を自分で肯定していく物語、或いは、実質血の繋がってない姉の彼女が妹を守るために本当の姉になる物語として語り直されているんですよね。これが大正解で、そもそも根本的にはこの後付けの設定、ビリーがどのような経緯でタラの実母と肉体関係を結んでしまい、その母親がサムを生まなきゃいけなかったことは描かなければいけないといった今後の課題は付きまとってはくるんだけど、仮にビリーが両親が離婚した直後とモーリーンを殺害した間の時系列で高校生の時のサムとタラの実母に出会っていれば、かなり辻褄を合わせることはだいぶ可能だと思われる。言ってみれば、前作のジル・ロバーツが被害者のいとこであることを拒絶していた人物だとするならば、本作のサマンサ・カーペンターは加害者(殺人鬼)の娘であることから向き合おうとしている。前作のジルとはある種、対照的な人物が新ヒロインになろうとしているのが非常に物語の組み立てが見事だなと思ったんですよね。で、序盤でサムがビリーの隠し子だと血の繋がってないとされる妹のタラにカミングアウトするシーン曰く、サムは13歳の時に母親の屋根裏部屋に眠っていた高校生時代の実母が書いた日記に彼女が今の父親と付き合っていながら、ビリーとも交際していて、関係を持っていたらしく、自分から妹のタラの家族関係を築けられなかった原因になったきっかけになっているんだけど、彼女が自暴自棄になってドラッグに手を染めたからなのか、或いは、実母の日記に書かれた真実が因果関係にあるのか、抗精神薬を飲まないと、1作目のクライマックスの時のビリーの幻覚が現れては悪魔の囁きのような声で彼女を精神的に苦しめている。これは多分、ビリー・ルーミスを演じているスキート・ウールリッチさんの顔を最新のVFX技術で1作目の頃に若返りさせていると思われるんだけど、登場シーンは少なめなんだけど、ある種の強迫性障害から生まれた彼女を悪へと導く存在なんだけど、クライマックスでは彼女が自己のアイデンティティを獲得して精神的な成長を後押しする存在へと変化している。ここは実に味わい深いところだとは思いました。ただ、シドニーは実質的に1~3をかけて、自分の出生と母親の幻覚に悩まされ、どう解放していくのかを描いていたのに対し、本作のサムは映画単体で自分の出生と生みの父親であるビリーの幻覚に悩まされて、そこからどう血統、血筋の呪いから解放していくかを描き切ってしまったせいで、6作目以降は彼女が成長する余地を与えられなくなってしまったという弊害があるんじゃないかと思います。

加えて、これまでのシリーズ過去作同様、『スクリーム』シリーズの魅力であるメタ視点、メタ構造を全編に渡って織り込んでいて、近年におけるリメイク・リブート、続編の量産のみならず、その先を行くような系譜の作品を本作の物語内で批評して見せているんですよね。物語の中盤、ランディの姪に当たるタラの同級生、ミンディがサムの話を聞いて、犯人の動機が『スタブ』のリメイク版かLegacyquel と呼ばれる枠組みで作り上げようとしているんじゃないかというのが語られてるんだけど、これは冒頭のアバンタイトルで微妙に通じているところなんですが、ミンディがその前置きとして前作でクリスティン・ベルさん演じるクロエが出ていた劇中映画『スタブ7』の次に当たる『スタブ8』の監督が『ナイブズ・アウト』や『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』のライアン・ジョンソン監督がメガホンを取っていたことになっていて、字幕版で台詞が短縮されている分、日本語吹き替え版によれば、監督の作家性で社会性を持ったアート系のホラーにしたことで、その映画のファンが子供の頃の思い出をブチ壊されたと阿鼻叫喚の嵐を呼んでいたことがそういう物語の世界での事実として明かされるわけなんだけど、その監督が職人監督として人気ホラー・シリーズの続編で社会性を盛り込んでいるというのはディテール的に少し違和感を覚えてしまうんだけど、有名監督の自虐的な笑いを生んでいるのはしっかり的を得た笑いどころで面白いですね。ただその半面、ここで彼女が語っていた人気シリーズを愛する観客、ファン、信者、支持者が抱える激烈な怒りや怨みというのがそのまんま、あからさまに本作におけるテーマ、犯人が犯行に及んだ決定的な理由と絶妙にリンクしているのが脚本の巧みさを感じさせてくれるんですよね。また、その中で彼女が言う台詞を日本語吹き替え版と字幕版を織り交ぜながらで引用させていただくと、「シリーズ物で全くの新プロットは許されない。ファンが許さないから。『ブラック・クリスマス(2019)』、『チャイルド・プレイ(2019)』、『フラットライナーズ(2018)』、上手くいかなかった。だけど、普通の続編もつまんないし、新しい角度が必要なの。でも、新しすぎてもネットで大炎上しちゃう。筋書きは現在進行形の設定じゃないと。新しい主人公は昔の登場人物と関わって支えられる。リブートでも、続編でもなくて、新たなる『ハロウィン(2018~)』でも、『ターミネーター』『ジュラシック・パーク』『ゴーストバスターズ』『スター・ウォーズ』…そう、必ず第1作目に回帰するのよ。」。この一連の台詞、その後の展開からして、この過去作から継続している要素と新要素が上手く絡められているのかは諸手を挙げて成功しているとは言えないような気はするのですが、過去作と最近のドラマ版とは繋がりがない世界線とされるリブート版の『チャイルド・プレイ』のような批評家からも、一般観客からも、批評的には成功を果たしていなかったことをディスっているのはクスッと笑えて、なおかつ日本では興行的にそれなりに売れてても、現実的には本国からすれば、そういう扱いなのには学べるところではある。そして、何だって、1作目の『スクリーム』、或いは、ウェス・クレイヴン監督に対するリスペクトに溢れていて、非常に誠実に作られていることが明確に表現されている。

一方、『スクリーム』シリーズを支えてきた登場人物5人、正確に言えば、そのうちの1人は前作から参戦したばかりなんだけど、このシリーズを追っている人からすれば、まるで同窓会のような感覚であり、里帰りできるような体験を堪能することができる。特にこのシリーズの顔である主人公のシドニー・プレスコット、シドニーは3作目の『スクリーム3』と同じく、中盤以降での登場にはなるわけなんだけど、予告編などでは意図的に見せていなかったんですが、4作目と5作目の間に何があったとでも言うべきか、なんと3作目のロス市警に配属していたマーク・キンケイド刑事と結婚していて、今は子供を授かって、幸せな暮らしをしていることが明かされているんですよね。この物語上、現状、パトリック・デンプシーさんが演じていたキンケイド刑事はデューイの台詞でさり気なく出てくるだけで、サプライズ的に登場しているわけではなくて、シドニーに至っては隠し子である兄や事件の被害者を家族に持っていたせいで辛い思いをしてきたいとこに命を狙われる心配はないから、完全にあらゆる問題から立ち直ったと言ってもいい。要するに、彼女の物語はもう終わったと言っても過言ではないんですよね。なので、本作のシドニー・プレスコットは厳密には2度目なんだけど、新ヒロインにバトンを渡す役割に徹しているわけなんですよね。で、対する、1作目では番組のレポーターであり、本作だと、ニューヨークのニュース番組の看板キャスターであるゲイル・ウェザーズ、ゲイルはシドニーと違って、本作から初めて新ヒロインにバトンを渡す役割が与えられていて、シドニーより先に登場している旧ヒロインなんだけど、シドニーとゲイル、どっちも誰かをワンパンチする展開は無いのはちょっと寂しいんだけど、特に終盤、シドニーとゲイルが車でサムたちの足取りを追う道すがらでの会話シーン、ここで彼女は「私があなたの母親の話を本にして書いたから全ての始まり。全部私のせい。」と言ってて、"ウッズボロー殺人事件"から25年にして、モーリーンの事件をノンフィクション本にしたことに対して自責の念を入れていて、その解答としてシドニーは「いいえ、違う。ビリーのせいよ。」と言うわけなんですよね。ここから察するに、諸悪の根源は3作目のローマンなんじゃないかと突っ込みたくはなるっちゃなるんだけど、確かに、そこでローマンからのバトンを渡したのがビリーなのは言うまでもなくて、でも、ゲイルがあの事件を書籍化させたことでシドニーを有名人と化してしまって、4作目のジルを殺人鬼にさせた原因に繋がってくるから、簡単には「あなたのせいじゃないよ。」と割り切れないところはある。つまり、彼女はこれまでの歴史を作ったことに重大な責任を感じているというのが大きく出ている。

そして、この本作を語るうえでは1番欠かせない登場人物になっているのか元保安官代理のデューイ・ライリー、どうやらゲイルとデューイはあれから10年後、数年前にニューヨークに住んでいたけど、ウッズボローを離れたことに葛藤していたデューイはそのせいで別居してしまい、デューイは"ゴーストフェイス"の一連の事件で体がボロボロになっているせいで、保安官を退職し、トレーラーハウスでひとり暮らししているようなんですが、これまでシリーズ過去作(1~4)、共通して、あまりにも役に立たないキャラとして描かれていて、過去に囚われてしまっているデューイがその根幹にある新たなる"ゴーストフェイス"の事件で決着をつけようとシドニーとゲイルに町に戻らないよう警告する辺りなんかはデューイの歴史を物語る背中も相まって、物語的には非常に厚みが伝わってくるし、特に中盤のウッズボロー病院での犯人との戦闘シーン、ここでは3作目のクライマックスにあった犯人のローマンが防弾チョッキを着用していたことで、頭を狙撃して止めを刺したシーンをオマージュしているのですが、あの時の教訓を忘れないように、デューイが犯人に止めを刺そうと思いきや、殺られてしまうという衝撃的な展開、あれはもうはっきり言って、子供の頃に通ってた習い事の先生であるとか、よく行く近所のコンビニの店員とか、友達とは言えないけど、自分の日常にはいる身近な存在が突然いなくなったような漠然たる気持ちがあって、2、3回観賞しているのですが、ここは不思議と涙腺が強く刺激させられちゃって、本当に涙が出そうなくらいに感動させられましたね。あとは前作の『スクリーム4︰ネクスト・ジェネレーション』から引き続き登場していて、前作と連続している世界線であることを明示させている人物であるジュディ・ヒックス保安官代理、本作においてのジュディの扱いは文句を言いたいんだけど、彼女は上司のデューイが退職してから数年経ってるだけあってか、既に1人前に成熟していて、町を守る地元の保安官としては親近感のある立派な女性になってて、同窓会映画としての役割が本当に凄く効いているし、何よりもシングルマザーとしては『ドント・ブリーズ』などのディラン・ミネットさんが演じる息子のウェス・ヒックスに対しては肝っ玉母さんのようなどっしりとした佇まいで愛情を持ち合わせている。とは言っても、彼女の部下であるヴィンソン保安官代理と比べたら、比較的、無能じゃない保安官ではあるんですが、サムが生まれ故郷のウッズボローで家族に迷惑をかけた以上、ちょっと感じ悪い一面も感じられる人物にはなっている。なので、サムの立場からすれば、助けを求めたくても、求めにくかった人物であり、ジュディ含めこの組織全体、あんまり頼りにならない存在だったんじゃないかなと思われます。あと、これはちょっとうっかり初見時の観賞中では気づかなかったんだけど、中盤、サムら3人が2作目までは生きていたランディがかつて暮らしていて、彼の甥と姪であるチャドとミンディのいるミークス家に入って早々、ランディの妹、マーサ・ミークスさんが一同に振る舞うお菓子を用意して現れるわけなんですが、なんと『スクリーム3』の時の同じ俳優を起用して、マーサを演じられていて、同窓会映画としては当たり前のことではありますが、ここはシリーズを愛してやまないファンのために最大限の敬意を払っていると証明していると言ってもいいんじゃないのでしょうか。

もちろん、本作の主要人物である犯人ふたりが扮している殺人鬼"ゴーストフェイス"の犯行スタイルはスラッシャーホラーの肝を押さえていて、3作目の『スクリーム3』では住宅街の中にある一軒家をガス爆発で爆破するというジャンル的に反則的な見せ場があったんだけど、そんな派手な見せ場は無くて、ジャンル映画でよくある定番的な見せ場なはずなのに、"ゴーストフェイス"の容赦無いナイフでの攻撃が一定以上の面白さを果たしていると思います。その中では"ゴーストフェイス"は基本、ナイフの滅多刺しが多くて、冒頭の1度目のタラの襲撃とか、ジュディの殺害なんかはあまりにも犯人に同情の余地を与えてないような感じが取り入れられているのお見事で、特に中盤にあるジュディの自宅前で彼女を滅多刺しにするシーンは『殺人鬼から逃げる夜』並みに助けを求める声が周囲に届かないのは本作でノイズになりかねない突っ込みどころにはなってると思いますが、まるで"ゴーストフェイス"がいとも簡単に人の命を奪っていく様は『必殺仕事人』のようで滅茶苦茶カッコよく映っている。あと、"ゴーストフェイス"の殺害シーンで緊迫感、緊張感を持たせてヒヤヒヤさせてくれているはずなのに、前作よりもホラーに振り切っているはずなのに、シリーズ過去作から一貫しているコメディ要素が盛り込まれていて、終盤、ストゥの家のリビングでテレビで劇中映画『スタブ』の終盤のシーンを観ていて、恐らく2と4で描かれていた『スタブ』と同じ作品だと思いますが、ミンディが劇中映画の物語の中のランディに笑いながら突っ込むのは4の入れ子構造を応用したような笑いどころでこれまた巧みだし、そこで1作目のように劇中映画でランディが『ハロウィン』を観ながら突っ込むシーンと今起きている現実でミンディがランディみたいにそのシーンに突っ込みを入れる様子が絶妙にリンクして、そこからの"ゴーストフェイス"の襲撃は新旧、シリーズを愛しているファンには堪らない爆笑必至の笑いどころだったと思います。


ただ、これまで『スクリーム(1996)』~今回の『スクリーム(2022)』を全部観てきた分、『スクリーム』という1本のホラー・シリーズに愛着を持ったからこそ、「なんでこんな展開にしたの?」と不満点、疑問点、問題点が見受けられる作品にはなっていると思います。まず、これは前作の『スクリーム ネクストジェネレーション』とは直接繋がりがあって、シリーズ4作品を観た記憶がうろ覚えな人からすれば、ちょっと味わいにくくはなると思うけど、前作に引き続き続投しているジュディが母親であり、保安官代理でもある立場になって登場しているんだけど、前作の冒頭で描かれていたアナ・パーキンさんとクリスティン・ベルさんが出演していた『スタブ7』は本作では台詞の中に出てきてはいるんだけど、肝心の犯人であるジル・ロバーツとその共犯者のチャーリー・ウォーカーが起こした連続殺人事件は10年前のことなだけあって、直接的に絡んで来るんじゃなくて、間接的に絡んでいるんですよね。これは現実的に考えて、10年前のジルとチャーリーが起こした事件は完全に風化し切っていて、有名になりたいからという理由で罪を犯したことが序盤の車内でのサムとリッチーの会話シーンでスマートで説明されてはいるんだけど、この物語の中では事実、史実が残されているとはいえ、4作目にあったチャーリーとによるシネマ部の存在は本作で誠実に継承させたほうが1本の線が続いていることが強調されていて、少しはプラスに働いていたんじゃないかなと思わなくもないんですよね。むしろ、ミンディがシネマ部の部長で、前作みたいにまたシネマ部の部長が犯人じゃないかと匂わせ程度で観客が予想できるように、ミスリード的に機能させていてもいいぐらいだと思いました。

また、前作の繋がりで言えば、保安官代理のジュディ、中盤、ミンディが犯人の動機を推測するくだりでは元凶の"ウッズボロー殺人事件"の関係者が次の犠牲者になると推測していて、彼女の息子のウェスは「僕の母さんは?」と聞いたら、ミンディは「1作目に登場してないから平気。」と答えている。裏を返せば、前作に関係がある人物でさえも犠牲者になる危険性は少なからずあって、デューイ、ゲイル、シドニーが今後のシリーズが語られ続けるにあたって、"ゴーストフェイス"を着けた誰かによって死ぬ前兆ではあったことを示してはいたんだけど、彼女は前作で3作目から登場したマーク・キンケイド刑事みたいな役割を果たしていて、かつ前作では唯一の事件の生き残りとなる人物であったんだから、割りと無防備な状態で、"ゴーストフェイス"と格闘しないまま、殺されるのはちょっと受け入れづらかったです。もちろん、10年ぶりの続編で過去作から引き続き登場している人物をバッサリ退場させて、新ヒロインであるサム・カーペンターや2代目ランディのような映画オタクキャラのミンディといった新世代が本作以降で物語を引っ張っていくわけだから、必要と言えば、必要だったかもしれませんが、私を含め、前作でジュディに思い入れがあった人ほど彼女の扱いが物凄く可哀想に感じられてならない。それに、ディラン・ミネットさん演じる息子のウェス、せっかく前作から登場しているジュディの息子で、序盤ではミンディらがお見舞いに行ったあとの会話シーンでタラに好意があったとされることが語られていたのに、母親から受け継がれていた何かが語られていないどころか、結局、ウェスがタラに恋愛感情を寄せた事実がそのまま誰かに伝えられずに葬られてしまうのはちょっとどうかなと思わなくもなかったりする。

あと、これまでの過去作に登場してきた登場人物と過去作の人物との血筋を持った人物、そして、過去作の人物とは無関係な人物…あらゆる人物を最小限に描き分けているのはいいんだけど、新しい登場人物に関してはミスリード的な要素を盛り込んだ結果、良くも悪くも作り手の意図だけが前に出ているようなことにはなっている。特にクライマックスの手前、かつてのストゥの家のリビングでひとりになったばかりのミンディとチャドを探しに行って帰ってきたタラの同級生のリヴのやり取り、そこでは2作目と3作目で意外な人物が犯人だった割りには「あなたはだあれ?」みたいな感じで登場シーンが少なかった人物だったことを思い出させるかのごとく、リヴが「私には犯人は務まらないんでしょ。意外な"ひねり"があるかも。"専門家"の意見はどう?」といかにもな感じでミンディに揺さぶりをかけてくるんだけど、初見で観た時はリヴが犯人じゃないかとちょっとだけ怪しんだんだけど、よくよく考えると、家の地下室でビールを取りに来たアンバーと彼女を追ってきたミンディの会話でふたりのどちらかが犯人だと観客に疑わせるシーンだけで、充分だったように感じられます。事程左様に、例え、リヴが犯人なんじゃないかと観客に思わせるシーンがあってもなくても、クライマックスの最初、リビングで彼女が死んだとみられるチャドを発見して一同に報告するシーン、あそこで話を聞いた犯人が唐突に彼女を銃殺するシーンはいくら計画的な連続殺人を現在進行形で実行しているとはいえ、物語的には単に雑さが際立っていて、もう少し犯人の正体が暴かれるくだりは焦らしてやったほうが自然だったんじゃないかなと思います。雑さと言えば、旧ヒロインのシドニーとゲイルがかつてのストゥの家の前で犯人に刺されたとひと芝居を打っていた真犯人と対面してからの対峙、真犯人がゲイルがこれまでの経験上からか、芝居をしてると見抜かれたから先手を打ってきたのはいいんだけど、段取りが丁寧じゃなくて、それでこそ、そのくだりでリヴが1作目のランディのようにシドニーとゲイルに助けを求めたほうが前作にはなかった1作目のオマージュを提供することができたんじゃないかなと思うんですよ。

あとは本作、ぶっちゃけると、マイキー・マディソンさん演じる同級生のアンバーとジャック・クエイドさん演じるサムの恋人、リッチーが殺人鬼ゴーストフェイスの正体であり、今回の事件の犯人の正体だということが明かされていて、シリーズ過去作を観ている人からすれば、かなり犯人が誰なのか読めるようにはなっていて、過去作を観ていない人が観れば、終盤までは誰が犯人か分からないようになっているんですが、この2人が犯人であることは割りと簡単に読めるようにはなっています。で、サムの彼氏であるリッチーはデューイが生き残るためのルールをサムとリッチーに教えている中に「恋人を信用するな」といったルールがあることとか、パソコンで『スタブ8』を批判する動画を観ていたりとか、そういった布石があるから、犯人がリッチーだと分かっていたとしても、面白く観れるんだけど、主犯格のアンバーは「あなたはだあれ?」みたいな存在感の無さは全然無いにせよ、冒頭の1度目のタラの襲撃の時点で結構怪しいんだけど、何度も同じシーンを挙げて悪いけど、中盤でミンディが犯人の動機を推測するくだりでは最後に彼女がサムが犯人だと疑いをかけてくる展開は妙にアンバーだけが質問や意見を言うのが少なくて、彼女の表情で考察の幅を広げてくれるような僅かなカット、ショットが無いからか、いわゆる彼女の心理描写が見せられていないこと自体が犯人だと示すような伏線、布石というよりも普通に手落ちになってるんじゃないかなと疑問に思わざるを得ない。

で、これが最大の問題点なんですが、この犯人のアンバーとリッチーの犯行動機、良く言えば、例えば、『ターミネーター』シリーズとか、『ゴーストバスターズ』シリーズであるとか、一部の続編に不満を持っている支持者、信者、ファンがその映画を愛するがゆえに怒り、憎しみを内側から芽生えるようになってしまい、それが有害性、暴力性を引き起こしてまう恐れがある。つまり、大きく言えば、映画ファンの歪んだ映画愛、作品愛を動機にすることによって、アンバーとリッチーは続編、リブート・リメイクを観てきて激烈な怒りを抱えてきた観客、ファンを象徴化させたキャラにさせていて、長年のシリーズ物の作品におけるリブート・リメイク、待望の続編を作ってファンサービスするのはいいとしても、それが作品を深く愛してきた、長年付き合ってきた映画好き、映画ファンを傷つけてないか、本当に誠実に愛を込めて受け手に向けて作っているのかと深く考えさせられるようには作られている。もっと言えば、これって最近で言えば、例えば、日本の配給会社が漫画の実写化作品だったり、外国映画のリメイク作品をお金をかけて作って、シネコンで大きい規模で上映されていく中で、元ネタが知りたいことはあっても、個々がそれぞれ抱えていた期待が裏目に出ていたり、作り手がおとなの事情でなんとか頑張っていても、単純に志が低くて、不誠実さが露呈していたりする。だからこそ、観客をナメたまんまで映画を作らないようにするべきだという批評的、批判的なメッセージが炙り出されているような側面もあるわけなんですよ。ただ、この動機そのものは裏を返せば、アンバーとリッチーの歪んだ映画愛、作品愛を連続殺人事件の犯行動機を結び付けたことによって、アンバーとリッチーが人命を軽視して4人を殺害しているはずなのに、メタ視点、メタ構造に物語内に落とし込み過ぎた結果、ある意味寓話的には機能しているんだけど、現実的には人気シリーズにどハマリしたライトな映画ファンのしょうもない動機であって、あまりにも共感しづらい犯行動機に設定されていると考えられるんですよね。もちろん、この『スクリーム』シリーズの世界にいたアンバーとリッチーは現実にある人気シリーズに強い作品愛を持っている映画ファンを代弁してくれていて、ひょっとしたら、自分と重ね合わせて観ることができる観客もいると言えば、いるかもしれないんだけど、1作目のビリー・ルーミス、2作目のビリーの母親、デビールーミス、3作目のローマン・ブリッジャー、そして、4作目のシドニーの従姉妹のジル・ロバーツと高校のシネマ部部長チャーリー、これら過去作の犯人と比較すると、シリーズの中では群を抜いてくだらなさ、幼稚さ、稚拙さ、身勝手さは遥かに上回っている犯行動機だと思いました。しかも、クライマックスで別居中の夫を殺されたゲイルが仇討ちする展開は滅茶苦茶アガれるんだけど、犯人の犯行動機に対する解答はリメイク・リブート、続編をアートホラーのテイストにしても、社会性を盛り込んだ作風にしてもいいと肯定しているようで、人気シリーズを愛してきたファンへの作品愛がちょっと否定されているような気がして、現段階だと、どうしても整理がつかない部分ではあるかなと思いました。

あと、これはわがままと言えば、わがままなんですが、例えば、デューイがランディのように生き残るためのルールをサムに教える展開、或いは、死んだと思われた真犯人のアンバーが甦って殺そうとする展開、"お約束"の展開は用意されているのに、犯人のひとりが正体を明かす時に言う「○○(主人公の名前)、驚いた?」という台詞がカットされていて、ボイスチェンジャーで「最高の筋書きだ。」と言うのであれば、そこは十八番の展開として必要だったんじゃないかなと思うと、これはこれで物足りなさが感じられる。そして、ラストカット、1作目同様、かつてのストゥの家でウッズボローの地元警察が現場検証を行っていて、ゲイルに似た番組レポーターらマスコミが中継を繋いで報道している。各々の様子が俯瞰したショットで映し出されてはいるんだけど、『ハロウィン KILLS』の回想シーンの撮影で作り込まれていたセットと比べると、見劣りするところがあって、グリーンバックの背景合成と撮影スタジオの中で美術監督たちが作り上げたセットで頑張って撮影しているのが目に見えちゃって、良くも悪くもなんとか頑張ってるということが伝わってくる。厳しく言えば、サービス満点なのは伝わって来るんだけど、1作目にあった1996年の犯人殺害直後の様子と比べたら、もうちょっとVFX技術で再現度を高くできたんじゃないかなと感じちゃいました。ただ、エンディングに入る直前、1作目と同じ文字フォントで「FOR WES」(日本語訳︰『ウェスに捧ぐ』)と文字テロップが入ってて、前作から約4年後にこの世を去ったウェス・クレイヴン監督をマット・ベティネリ=オルピン監督とタイラー・ギレット監督のコンビ、製作総指揮を務め、これまでシリーズ過去作で脚本を担当してきたケヴィン・ウィリアムソンさんがオリジナルである1作目には大変誠実に敬意を払って作られていることが充分に伝わってくる。いわば、製作陣はシドニーとゲイルがサムとサラ姉妹にバトンを渡すように、今後は『スクリーム』の物語を責任持って描こうとしている意志が明確に出ていることが伝わってくるわけなんですよね。

ちなみに、次回の6作目、『Scream6(仮題)』なんですが、どうやらシドニーを演じてきたネーヴ・キャンベルさんは交渉段階で製作陣が出したギャラの額に納得いかなかったようで、現段階では本作の生き残りであるサム役のメリッサ・バレラさん、タラ役のジェナ・オルテガさんの続投は決まってるみたいなんですが、観る前にネイヴ・キャンベルさんが出演しないとの報道を知ったのですが、本作を観て考えると、新ヒロインであるサラの物語は続けられるから、結果的に新機軸で物語を進められるんじゃないかなと予測しています。個人的には3作目でしか登場してなくて、5作目ではデューイの台詞の中でさはか名前が出てこなかったパトリック・デンプシーさんが演じるマーク・キンケイド刑事を本格的に登場させて、ニューヨーク市警の刑事としてサムとタラ姉妹、またはカーペンター家と関わるようにしておいたほうが新規のファンだけでなく、従来のファンがアガれる展開が構築できるんじゃないかな…なんて思っています。もちろん、現状、次回作で登場できないと思われるシドニー、まだ生き残っているゲイル、今挙げたマーク・キンケイド刑事といった過去作の登場人物に頼り過ぎて、新たな登場人物の成長や葛藤、活躍が希薄になる危険性があるとは思いますが、色んな過去の名作を観ているわけではないのですが、少なくとも3作目で語られていなかったマーク・キンケイド刑事の背景を具体的に明かしつつ、ビリーの幻覚からの苦しみから解放されたサムと血の繋がらない姉に助けられたタラのその先の物語をどう展開していくか、その続編は滅茶苦茶観てみたいなと心から思っています。その意味では、例え、日本での劇場公開が決まっても、DVDストレートになっても、来年、2023年でこの目で確かめてみたいです。

ということで、『スクリーム』シリーズの1作目を意識しているのは4作目の『スクリーム4 ネクストジェネレーション』と似て非なる内容にはなっていて、前作と比べると、このシリーズに順を追って観てきたからこその良し悪しの問題が出てしまっているのは明らかなんですが、4作目の新ヒロインとされる人物がシドニーの従姉妹のジルだったとするならば、本作、5作目はビリーの実の娘であるサム(サマンサ)を新ヒロインとして、ファイナルガールとして、呪われた血統、血筋を持った加害者の娘として、物語の中心人物にして語り直しているのは非常に素晴らしい仕切り直しで、新しい物語が始まったことには期待でしかないし、本作ではシドニー、ゲイル、デューイ、前作から登場していたジュディが引き続き登場していた分、『スクリーム』シリーズを順を追って観ていただいたほうがもっと楽しめるうえ、同窓会映画、或いは、ファンムービーのような味わい深さが持ち合わされてはいるのですが、シドニーとゲイルの物語から成る長年歩んできた物語の歴史に加え、カーペンター姉妹(サムとタラ)の物語から成る新しい歴史の1ページ、そして、『スクリーム』シリーズの本来の魅力であるメタ視点、メタ構造が持っている「続編映画」「リブート、リメイク映画」を作り上げていくうえで何が大切なのか、映画ファン、映画好きを傷つけていないのか…そういったフランチャイズ化、シリーズ化されている映画の本質的、根源的な問い直しをしている奥深い作品だと思いました。もちろん、シドニーを演じてきたネーヴ・キャンベルさんが出演しないとの報道がある限り、本作、5作目の続きとなる次回の『Scream6(仮題)』は本当に同窓会映画の要素は極めて最低限度には留められているから、ここから2や3を連想させる事実が明らかになって、歴史が繰り返されるのか、或いは、それとは違う現代的なメッセージが盛り込まれているのか、どんな形であれ、面白い映画になると信じています。映画館で上映されている新作映画もいいけど、埋もれてしまわないようにともっと認知されていてほしいという意味を込めて、是非是非、色んなかたちで観賞してみてください。