今回は男性からの女性差別や搾取、厳しくて受け入れ難い体罰、違法な臓器移植…母親からの愛情を受けてこなかった女性に待ち受ける不幸の連続と全く報われない人生には見るに耐えきれないものがあり、絶望的な醜さと忌々しさ、悲しさ、苦しさ、痛ましさ、辛さ、容赦の無さがこれほどまでに落とし込まれているのに、安易ではない希望、救済を観客にもたらしている色んな意味での今年のナーメテーター映画をご紹介します。

マドンナ

主演︰ソ・ヨンヒ

出演︰クォン・ソヒョン/キム・ヨンミン/ユ・スンチョル/ピョン・ヨハン/コ・ソヒ/チン・ヨンウク/イ・ミョンヘン/パク・ヒョミョン



・あらすじ
金銭的に苦しい生活を送るムン・ヘリム(ソ・ヨンヒ)は、ある病院で准看護師として働くこととなる。配属されたVIP病棟に入院している患者は、病院に莫大な額を出資している全身麻痺の老人・チョルオで、彼は過去10年間で何度も臓器移植を受けて命を繋げられてきた。また新たな心臓が必要なタイミングで、謎の交通事故で脳死状態となったチャン・ミナという妊娠中の若い女性が病院に運ばれてくる。贅沢すぎる身勝手な暮らしをしながら病院を牛耳るチョルオの息子・サンウ(キム・ヨンミン)は、ミナの心臓を提供させるため、ヘリムに協力を求める。お金の為に引き受けたヘリムは、かつてミナが「マドンナ」というニックネームで呼ばれてきた過去をたどっていくこととなる。
(Wikipediaより抜粋)
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感想・解説・考察
この映画は第34回(2022年)東京国際映画祭のコンペティション部門に出品され、ワールドプレミア上映された『オマージュ』などを監督している気鋭の女性監督、シン・スウォン監督による格差社会韓国における女性の生きづらさを描いてみせた社会派サスペンスドラマ。第35回(2015年)韓国映画評論家協会賞では新人女優賞を受賞、第36回(2015年)青龍映画賞で新人女優賞にノミネートするなど、韓国国内の映画賞で受賞・ノミネートを果たし、第68回(2015年)カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品され、高い評価を得ている作品です。ちなみに、第68回カンヌ国際映画祭のには黒沢清監督の『岸辺の旅』、河瀨直美監督の『あん』などが本作と同様、「ある視点」部門に出品されています。

今年、2022年は新作映画の本数を減らして、旧作映画を多めに観ていることもあって、今年ベスト級の作品はある程度見つかっているのですが、『猿楽町で会いましょう』のようなドスンと来る作品が少なくて、どうしても2022年の上半期のベストに割りと物足りなさを感じていました。ただ、2022年の上半期、劇場で公開されている作品がかなりの量で渋滞していて、作品の出来次第では口コミで話題になって、多くの支持者が生まれているにも関わらず、2週目になると、初週の上映回数と比べると、上映回数が1回切りになってしまい、興行的にヒットしている作品に埋もれて、人知れず上映終了になってしまう作品が幾つかあるなか、劇場未公開(DVDストレート)作品もナーメテーターな1作があり、面白そうな作品が埋もれているんじゃないかなと類推しています。そんな中で、昨年、2021年は未公開映画の中では貢献度が高いライツキューブさんが配給した作品を数本観たので、何故か未公開となったこの作品も傑作なんじゃないか…と思って観てみたのですが、これが想像の斜め上を行く二度と観たくないぐらいキツイ映画でした。ただ、「もう二度と観たくない」映画というのは、褒め言葉であり、これもまた万人にはオススメできない映画なんですが、重くて、辛くて、苦しくて、DVDプレーヤーの一時停止ボタンを押したくなる瞬間が何度もあったんだけど、最終的には安易ではない希望、救済を救いようのない登場人物に与えていて、僅かながらホッとさせてくれる映画だと思いました。

本作、『マドンナ』は韓国の総合情報サイト『K-Style』に掲載されているシン・スンウォン監督のインタビューによれば、元々は偽の診断書を発行して、入院しようとする高位公務員、またはそういったお金持ちに対する記事を読みながら脚本の構想を練っていて、尊厳死のない韓国の現実、後に韓国国内で「延命治療決定法」が2018年2月に法制定される以前、物語に「安楽死」「尊厳死」を容認させることへの意義をメッセージに反映させようとしていて、物語内では病院に出資をしている会長チョルオの息子、サンウのエピソードが「安楽死」「尊厳死」の必要性、重要性をストレートに問いかけているんだけど、そこに監督自身の友人の実体験、実話を織り込んだうえで、非正規雇用の問題、出産と命の尊さに関わるエピソードを取り入れていて、自分たちが生きている現実と地続きであり、日本の現実社会でも当てはまるようなその当時、2010年代前半の社会の有り様、或いは、その社会のシステムによって男性に消費され、搾取され、支配され、底辺にいる女性たちの生きる姿をリアルに映し出しているんですよね。それで、製作されたのは2014年、本国で上映されたのは2015年で、公開規模は中規模公開なので、ミニシアター系の韓国映画にはなっているのですが、「延命治療決定法」があっても、例えば、物語の舞台のひとつとなる病院のVIP病棟で主人公のヘリムが働くシーンでは悪しき男性性が浮き彫りにされているシーンがあって、女性たちがどうすれば、より良く職場で働けるようになるのかというのを考えさせてくれますし、VIP病棟で組み込まれている人間関係の図式、言ってみれば、上下関係、力関係は自分たちの現実世界のどこかに実在しているかもしれないという風に思えてくるんですよね。そういう意味では、エンタメ的な面白味はあんまりないんだけど、韓国の醜い一面を表した社会派映画としては滅茶苦茶面白くて、ある種のフェミニズムを取り扱った映画としても非常に価値のある作品なんじゃないかなと思わされるんですよね。
だから、私のような男性側すれば、悪しき男性性には嫌な気持ちにさせられて、妊婦の患者であり、主人公のひとりであるチャン・ミナが抱えてきた女性の生きづらさには激しく伝わってくるんだけど、女性側がこの作品を観れば、より女性の生きづらさが伝わってきて、彼女が歩んできたこれまでの人生には普遍的に共感するところがあるのではないかと類推しました。

で、物語は構成上、いわゆる二重構造になっているんだけど、主要人物の3人のメインエピソードが同時進行で語り切られているかたちで話が進んでいくわけなんですよね。主人公の看護補助師のムン・ヘリムが身元不明の患者としてVIP病棟に運ばれてきたチャン・ミナがどういう人物なのか身辺調査を行う現在の視点、10年間、植物状態でいるチョルオ会長の息子サンウの思惑で臓器提供者にさせられている妊婦のチャン・ミナがどうして川辺で放置されてしまっていたのかを描いた過去の視点、そして、時系列からして、ヘリムの現在の視点の中で組み込まれてはいるんだけど、会長の息子、サンウが病院の出資を途絶えさせよう父親の意志に反して、臓器移植で何とか生命を維持させようとするエピソード、正確に言えば、前の世代にあたる両親(父と母)から愛情を受けてこなかった人物の3つのエピソードが群像劇的な語り口で対比されて見せられていて、特にヘリムの視点とチャン・ミナの視点では過去と現在が前後するかたちで構成されている。更に言えば、チャン・ミナの過去の視点というのは回想シーンで時系列を前後させてだんだん川辺で放置されてきた真相が明かされて行って、終盤以降でやっとヘリムとチャン・ミナ、過去と現在、この2つの視点が絡み合い、最終的にはヘリム、チャン・ミナ、サンウのメインのエピソードがそれぞれ着地するように作られている。

ただ、物語の主人公は明らかにVIP病棟で看護補助師として働いている女性、ヘリムなんだけど、ヘリムは物語上の立ち回りからして、実質語り手、狂言回しの役割を果たしていて、社会的な弱者に置かされている立場になっているから、全体的には明確に心情や葛藤を表現している心理描写というのが割りと少なめに落とし込まれているんですよね。もちろん、物語の後半、彼女が決定的に感情を表に出して、ただただ上の立場に従われて、心を無にしているだけではなく、自分なりの「正しさ」で何かを成し遂げるために何かを犠牲しなきゃならない行動を取っているんだけど、ヘリムの物語としては何を持ってゴールにしているのかは曖昧にされている分、割りと準主人公に近いような立ち位置と言ってもいいような気もしなくもないんですよね。なので、看護補助師のヘリムと妊婦なのに売春婦をやっていたチャン・ミナ、どちらも受け身、受動的な立場にあるんだけど、どちらかと言えば、チャン・ミナのほうが物語の真の主人公なんじゃないのかな…という風に感じられるようにはなっている。個人的には物語の構成の妙、取り扱っている題材、メッセージそのものはかなり違うんだけど、大庭功睦監督の『滑走路』とちょっと近いものがあるんじゃないかと思いました。


で、まずは冒頭のアバンタイトル、主要キャストとスタッフがハングル文字で紹介されていて、本編が開始されても、テロップが表示されていくわけなんだけど、ど頭から物語の本筋に関わるようなシーンが2シーン続けて流れてくる。その1つはVIP病棟に搬送されてくる直前のチャン・ミナの姿で、高速道路の下の川沿いでズタボロの状態で仰向けになって横たわっている姿が画面に映し出されていていて、金髪のウィッグに動物の柄モノのスカート、赤いワンピース、黒いヒールを身に付けているのが確認できる。で、冒頭で夜明けに彼女が高架下の川辺で倒れているシーンと序盤で彼女が身元不明の患者としてVIP病棟に運び込まれるシーンの間は「空白」になっていて、恐らく推察するにあたって、発見者はたまたま川沿いで倒れていた女性(チャン・ミナ)を発見した通行人で、チャン・ミナを一時的に保護していた女部屋の主や売春婦ミヨンとは無関係の人物が病院に連絡を入れたんじゃないかという解釈が取れる。もしくは、通行人が奇跡的に病院のVIP病棟で働いていた可能性だって考えられるんだけど、後々の展開を鑑みると、彼女の人生にとっては滅茶苦茶救われたと言える。で、もうひとつ、そのあとのシーン、映画タイトルが表示されたあと、看護補助師のヘリムとみられる三十路過ぎた女性が赤子が積まれたキャリーケースを湖に遺棄するシーンが見せられていて、キャリーケースが水面に放置された瞬間、「オギャー、オギャー…」と赤子の鳴き声がSEで挿入されている。このヘリムの視点として語られているシーン、冒頭で観ている限りでは話の流れからして、彼女が睡眠中に見ている幻想的な夢のシーンのように捉えられるんだけど、終盤以降の展開で彼女が抱えていた辛い過去が判明されていくと同時にこのシーンが如何にして残酷なシーンだったのか、後の展開で効いてくるようになっている。で、物語内では新人の看護補助師ヘリムが受け身のかたちで立派な病院に設けられているVIP病棟で勤務していくなかで大企業の社長や政治家が入院しているとされるVIP病棟でここの病院の出資者である会長チョルオの息子、サンウが権力と支配力でこの病院を牛耳ていることを知ることになる。これによって、愛情を受けてない人物のひとり、サンウのエピソードが語られているんだけど、それと並行するように、ヘリムが語り手、狂言回しとして客観的な視点であらゆる出来事を経験している分、VIP病棟の院内で起きている歪さ、異常さがくっきりと浮き上がっているし、サンウの道徳的にも、倫理的にも「正しくない」行動というのが分かりやすく伝えられている。

それで、本人の意志に反して、勝手に臓器移植をさせようと目論んでいるサンウに依頼されて、ヘリムは身元不明の患者として搬送されてきたチャン・ミナの臓器提供の同意書に拇印を押させるために彼女の親族を探していくことになるわけなんだけど、序盤で認知症を患っているチャン・ミナの祖母がどういう書類なのか認知せずに拇印を押しているから、ここで物語が終わってもいいはずなのに、その後の展開でヘリムが意識不明の重体で目を覚まさないはずのチャン・ミナがどういうわけか、幻聴なのか、奇跡的に目覚めようとしているのか、「哀れな女…」と彼女の言葉をはっきりと聴いたことによって、彼女が妊娠したきっかけとなった生みの父親を突き止めるために、学生時代の先生や同級生、職場の同僚などに聞き込みを行って、身辺調査を開始することになっていく。そこから本来の主軸になっているのは主人公であるヘリムの現在の視点にチャン・ミナのこれまでの過酷な人生を描いた過去の視点が挟まれていって、交錯し始めるよ。このチャン・ミナのこれまでの過酷な人生、時系列順にざっくりまとめておくと、「高校生時代、生まれつき茶髪だったせいで女性教諭から校則違反だと注意され、体罰を受けてきた」→「保険会社のコールセンターに勤務していたが、セクハラ被害に遭っていた。」→「ある日、課長とふたりきりになっていた時にふとしたことで不倫関係になってしまったが、幸せはそう長くは続かず、課長の操り人形にしか過ぎず、課長に命じられて入社2年目で退社した。」→「課長の推薦によって化粧品会社の従業員として働いていたが、今度は従業員送迎バスの運転手からセクハラ被害に遭い、最終的にはレイプされた。」→「生活に困窮して売春婦になったものの、妊婦だったこともあり、本番行為を行わないで、生計を立てていた。」→「レイプをした送迎バスの運転手が部下を引き連れて彼女に輪姦行為をした。」→「復讐を終えた運転手たちが高架下の川辺に捨てた。」…そういった経緯が語られているんだけど、彼女の過去の視点、或いは、彼女の物語では韓国における格差社会のみならず、性差別、性的搾取、教育問題、そして、労働問題など…韓国の世の中の闇を容赦なく描き出していて、とにかく悲しさ、苦しさ、痛ましさ、辛さばかりで、陰鬱な気分にさせてくれるんですよね。

順を追って、各エピソードにコメントすると、あまりにもキリがないのですが、例えば、中盤の始まりに明かされる学生時代のエピソード、ここではヘリムが高校に来て聞き込みをしていた時にたまたまその場にいたチョイ先生の証言からそのエピソードが語られているんだけど、どういう事情かはそんなに詳しく語られていないけど、学生時代の時点では実の両親はいなくて、祖母とふたりで暮らしていているようなんだけど、先天性の疾患で髪が茶髪だったようで、厳格な英語教師から厳しい体罰を受けてきたことが明かされるんですよね。この描写そのものは韓国における教育の一環としての「体罰」、或いは、「ブラック校則」の実態を端的に映像で示しているものなんだけど、製作されたのは2014年で、上映されたのが2015年なんだけど、現代的な視点から観れば、チャン・ミナが抱えている先天性の疾患から来ていたとされる見た目、容姿を英語教師が無理解、無知に捉えていて、なおかつこの高校の厳しい校則のせいで、彼女の個性を全面的に否定していたように思えるんですよね。個人的にはこのエピソード、プライバシーの問題でぼやかして書きますけど、高校時代、高校の同じクラスでおんなじような子がいてて、その子と高校時代のチャン・ミナをちょっとだけ連想させちゃったのですが、私の務めてた高校は厳しい校則や体罰が無かった分、高校1年生の時に生まれつきそういう特徴があるとの説明があったので、理解は求められているようにされていたのですが、それにしたって、作中に登場する英語教師がやっていた体罰は非常に非人道的で、本当に暴力的なシステムで行われている行為でしかないし、高校時代からチャン・ミナは厳しい校則と体罰に苦しめられて来たのかと思うと、滅茶苦茶辛い気持ちにさせてくれる。で、高校時代、チェ先生はチョイ先生自身の視点からすれば、救いの手を伸ばそうにも、様々な理由で伸ばしづらいということが読み取れるんだけど、でも、客観的な視点から見れば、クラスの他の同級生のように、見て見ぬフリをする心理が働いてて、結果的にチャン・ミナが不登校のひきこもりになるまでは一歩を踏み出せなかったんじゃないかなというような邪推が観て取れる。あと、この学生時代のエピソード、高校生のチャン・ミナが体罰を受けているシーンではこっそりマニキュアを塗っていたのか、両手の爪に青灰色のマニキュアが塗られていて、その直後のシーンでは彼女の祖母がゴミ捨て場から拾ってきたマニキュア液を使っていたことが明かされているんだけど、チャン・ミナ自身が自分の祖母がきっかけで好きだったものに出会い、夢や目標を見つけた。言い換えれば、生きている意味をひとつ見出していたとも言い切れる。ただ、このことが明かされているチャン・ミナと彼女の祖母の帰り道での会話シーン、ミナの祖母が娘が拾ってきた物を見ていのに対して「ミナの好きな物が入ってる。」「みんな物を大事にしないからね。」と話すんだけど、「みんな物を大事にしないからね。」という台詞、皮肉にも命より金のために父親を延命させているサンウに当てはまるような言葉で、凄く別の意味に聞こえてくるようになっている。

また、物語の後半、チャン・ミナが売春婦を生業にして稼ぐ以前、彼女が散々操り人形にしてきた保険会社『AK生命』の上司、パク課長の推薦状がきっかけで『レボム化粧品』の工場でシール貼りの仕事をすることになるわけなんだけど、ここで彼女がシール貼りの作業を行うシーンで呆然とした顔で何か考え事をしていることが示されている。ここでこれまで学校の校則、操り人形にしてきたパク課長によって痛みつけられてきた彼女が何を思っていたのか、恐らく、彼女はこういう人生を望んでいたんだろうか、非人間的な作業のせいで生きている実感が感じられないと思っていたんだろうけど、物語的には凄く味わい深いシーンになっている。或いは、チャン・ミナが工場内の食堂で少量の雑穀ごはんやキムチが並べられたワンプレート定食を食事するシーンと彼女が倉庫でティファールの電気ケトルの中に入れた袋麺を貪るように食べる食事シーンが対比して描かれているシーンがあるんだけど、ここで彼女の希望と絶望、欲求不満と円満具足が表現されていて、フード演出が上手く見せられているんだけど、彼女の元同僚で、ある転機から事務職に昇進しているジュニ曰く、「何で食べ物と服に執着するのかと聞いたら、それがないと生きてる感じがしないって…」と証言されていて、他者から本当の愛を受けることがなかった彼女にとっては「衣」と「食」が生命を繋ぐ源であり、自分自身を保つエネルギーであり、なおかつ自分が幸福だと感じさせてくれるものとして機能していて、非常に忘れられないシーンになっている。あと、細かいところを挙げると、ヘリムが工場に到着したシーンでど頭からチャン・ミナの過酷な人生の中だと、最も彼女に償うべき人物である工場の送迎バスの運転手パク・チョンテがヘリムを事務室まで案内してくれている描写があるんだけど、ここで彼が右足を引きづった状態で歩行していて、これが話が進むに連れて、彼がチャン・ミナを性的、加害的な視線で見た末、彼女をレイプしていた時に起きた名残りであることがちゃんと分かるようになっている。で、チャン・ミナが「私がいったい何をしたっていうの?」と言って空き瓶でパクに襲いかかるところ、あれこそが、彼女がずっと内側に隠していた悲痛な叫びが開放されたようで、本当に胸が苦しくなるんですよね。

一方、主人公であるヘリムの現在の視点、看護補助師のヘリムは前半こそは受け身、受動的な立ち回りが結構際立っているんだけど、後半以降に差し掛かると、チャン・ミナが本当に意識を取り戻しそうになることが発覚していくと、サンウの思惑で勝手に臓器提供者にされたチャン・ミナのお腹の子を巡って、自分の「正しさ」を訴えていて、チャン・ミナのお腹の子の生みの父親、チャン・ミナが川辺に捨てられて意識不明の重体になった経緯を知っていくうちに自分の悲しい過去と向き合うようになっていき、そこで葛藤や苦悩が繊細に見せられているんですよね。このヘリムの過去、かなり説明台詞を省いて描かれているため、多少何が何だか伝わりにくい恐れがあるんだけど、恐らくこれは推測するとすれば、クライマックス手前のシーンで「私は…自分を守るために殺したわ。」という台詞があることから、ヘリム自身もまた、男性からの暴力的な支配や搾取に耐えていて、性的同意のない性行為、もしくは、強姦、淫行で妊娠させられたと思われ、その男性の血、遺伝子を受け継いでる子を持ちたくない、罪深い子供を育てたくないから自分の心の傷を広げようにしたかったと推測されるんだけど、彼女は自分が野原で分娩させた赤ちゃんをキャリーバッグに入れて湖に遺棄したことを内心後悔していて、命の重みを重々理解していたからこそ、例え、"生みの父親"が悪い人間だとしても、チャン・ミナのお腹の子を救いたいという動機にとても共感できるようになっている。だからこそ、2回目以降に観賞する時はヘリムの無我夢想とでも言うべき覇気のない感じがより説得力を持って受け入れることができる。特にさっき書いたクライマックスの手前、ここはある意味現実と妄想、夢と現実が入り交じった超現実的な展開になっていて、初見で観た時はちょっと困惑したんだけど、悲しい過去を思い出したヘリムが夢の中の存在と思われるチャン・ミナと同じ者同士として病室で対話するシーンがあるんだけど、ヘリムが「何故堕ろさなかったの?生まれてくる価値がないわ。」「愛情から生まれてないから…」と単刀直入に質問をすると、チャン・ミナは「私は愛されたことがないの。でもこの子は…私を愛してくれている。」と答えるんですよね。その後にヘリムが「私は…自分を守るために殺した。」と言うんだけど、同じ者同士がコミュニケーションを交わし、短い時間の中で心を様子は非常に心にグッと来るシーンではあるし、このシーンがヘリムが内面で思い描いている想像で、意識が戻っているとされるチャン・ミナと意志を取り合っている示すものだとすれば、後のヘリムの行動が効いてくるようになっている。もっと言えば、ヘリムにとっては強姦に及んだ男との間に出来たお腹の子にはこの世に出る"価値"はないのかもしれないけど、ミナにとっては愛情を貰っていたのは今亡き実の両親でも、保険会社にいた時の課長でもなく、お腹の子だった。だからこそ、お腹の子にはこの世に出て愛情を受ける必要があって、生まれてくる価値が絶対にあるということが言えるんですよね。それこそ、例を挙げると、例えば、赤ちゃんの遺体が都会の駐車場に遺棄されていた事件、多分、母親とみられる人物が何らかの悲惨な事情で置き去りにしたのか、もしくは、よっぽど悪質な動機を持って捨てられていたのか、どちらかだとは思いますが、両親に捨てられていたとしても、この世に産み落とされたことへの意味、意義がどこかにあったはずなのにと思うと、残念でならないんですよね。

あと、本作を語るうえで忘れてはいけないのが、物語の中では悪役的な存在として配置されている病院を牛耳るチョルオ会長の息子、サンウ。彼はヘリムとチャン・ミナと同様、両親からまともに愛情を受けて育っていなくて、10年間、植物状態にいる父親チョルオよりも病院の運営のために何度も臓器移植で生かしている非人道的な行為を長きにわたってやっている人物なんだけど、サンウの印象に残る台詞はいくつかあるんだけど、その中でも後半、お腹の子を救いたいヘリムとチャン・ミナとお腹の子を犠牲にしてでも、移植手術を成功させたいサンウが意見を交わすシーンがあるんだけど、ヘリムが「これは殺人よ。」と訴えているのに対し、サンウが「胎児は人間にならない。犯罪にならない。」と言うわけなんですよ。このひと言はサンウが父親のチョルオを大事にしてないどころか、妊婦のお腹の子供まで大事にしてないのかとカチンと来る台詞になっていて、この台詞が出てきた時はもう思わず笑っちゃいましたね。しかも、その直後、サンウは「生まれても親がいないし、それで幸せになれるか?もしかすると、彼女もこうなることを望んでるかもな。生きる事が死ぬより辛いこともある。」と真っ当そうなことを言っているんだけど、そそれって自分が延命しようとしているチョルオにも当てはまることなんじゃないかなと言わざるを得ないんですよね。なので、10年間、植物状態にいるチョルオとそれまでずっと過酷な人生を送ってきたチャン・ミナ、明らかに「辛さ」は違うのに、チャン・ミナのような社会的な立場が弱い弱者はどうして不条理で理不尽な日々を送らなければならないのかと複雑な気持ちにさせられる。ただ、サンウが予期していなかった最悪の事態、チョルオの側に寄り添い、「自由になれて嬉しいか?」と語りかけるんだけど、あそこで彼が見せる人間的な弱さはヘリムによって父親を実質殺されたことへの怒りが含まれているのか、チョルオへの愛が欲しかったが故に見せた心情だったのか、彼のエピソードの最終的な着地は彼が完全なる悪役ではないのではないかというようなバランスが取られているんじゃないかと思われる。

そして、クライマックス、サンウの父親であり、会長のキム・チョルオが受ける移植手術当日、ここでチャン・ミナのお腹の子がへその緒を首に巻き付けて、命の危機にあることが明かされていて、ヘリムが「キムさん、手術が始まります。でも、ドナーのお腹の子はこの世界に出る前に死にます。」と言って、彼の酸素注入器を外すんだけど、それは病院で働いている人の人生を大きく左右しかねない決定的な行為なんだけど、映像で語られていることは「正しくない」行為なのに、ヘリムが言葉に出して話せないチョルオと意思疎通が取れるような描かれ方がしていて、チョルオが10年間、息子のサンウに生かされている状態から解放されたかったことが伝わってきて、酸素注入器が外された直後は妙な解放感、安心感がというのが感じられる。つまり、これは最期を迎える選択肢として「尊厳死」という別の選択肢は必要だったんじゃないかと2015年当時の作品として語っているんですよね。で、その直後のシーン、新人医師のリム医師がそれまではサンウによって本来、看護補助師がやる雑務をやらされたり、移植手術を進めようとアルハラで拷問にかけたりと主従関係からして、従われる側にいる可哀想な人物だったんだけど、ここでひとりでも命を救うために、帝王切開でお腹の子を子宮の外から出して出産させるわけなんだけど、客観的にはチャン・ミナがお腹の子を出産したことが希望や救いに感じられて、ハッピーエンドに見えるんだけど、チャン・ミナのお腹の子、後の娘のミナにとってはあの産声が生きていることを実感してるようで、本当は死にたいと思っているような印象を受ける。つまり、それって、バッドエンドなんじゃないかという解釈が取れてしまうわけなんですよね。

更に言えば、ラストシーン、ヘリムがチャン・ミナのお腹の子を救うためにチョルオの酸素注入器を外して、その責任を追及されないようにしたのか、病院の仕事を辞めたと思われる展開が見せられるわけなんだけど、人混みに溶け込むように彼女が路線バスに揺られているんだけど、そこで繁華街にある写真館にチャン・ミナと思われる写真がショーウィンドウに飾られているショットが映し出されるんですよね。つまり、写真館のショーウィンドウに映し出されているチャン・ミナの写真は売春婦を生業にしていた時期に撮影されていたのが明らかなんだけど、彼女が生きづらい世の中を生きてきた中での唯一の生きてきた証、確かな証拠というのがあの写真だったんじゃないかなという風に明確に伝わってくるんですよね。だから、あの写真がある限り、チャン・ミナ自身がちょっと報われたような気がして、非常に感動的なシーンで幕を閉じているんですよね。

とはいえ、このラストシーン、前述して書いたように、"ヘリムの物語"としては人混みに溶け込むように、路線バスに揺られて、自宅のアパートに帰るのか、別の場所に向かっているのか、彼女がこの先どこへ向かおうとしているのか曖昧になっているんだけど、彼女がショーウィンドウに飾られていたチャン・ミナの写真を見て、今いる世の中が生きづらくても、彼女が生きてきた証を胸に留めておこうと心に誓ったというような解釈が取れそうだし、逆に言えば、"チャン・ミナの物語"として観れば、彼女の主観的な視点で通して観れば、彼女の人生の終わりはハッピーエンドじゃなくて、最悪のバッドエンドに過ぎないんだけど、植物状態にされていて、息子のサンウによって10年間、臓器移植で生かされているチョルオと過酷な人生の中で不幸の連続を味わい、最終的には化粧品会社の送迎バスの運転手のせいで命を奪われる結果となったチャン・ミナ、この両者と比べると、「生きることへの価値」「命の尊さ」は同じ重みのはずなのに、社会的な立場からして、弱者であるチャン・ミナのような人間はどうして可哀想な目に遭わなきゃいけないのかとどっぷりと考えさせられる。もっと言えば、韓国の教育問題、女性問題、労働問題、様々な事柄を現実社会で生きている観客に投げかけてくる作品ではあるんだけど、それでだけでなく、「人は何のために生きているのか?」、「生きていることに意味や価値はないのだろうか?」、「人生で必要なことってなんなのか?」、そして、「生まれてこなきゃよかった人間はこの世にいるのだろうか?」「生きていることは罪なのだろうか?」…そういった人生の本質について奥深く考えさせられるようになっていて、物語の中で生きていることへの根源的な問いかけが観客に伝わってくるような映画だったんじゃないかなと思いましたね。

もちろん、役者陣の演技は言うまでもなく、素晴らしい演技を見せていて、演技の重み、深みがプラスに働いている。まず、ヘリムを演じた主演のソ・ヨンヒさんは抑制の効いた演技でヘリムの僅かな感情の変化、心情の揺れを繊細に表現されていて、表面的にはヘリムの感情表現はちょっと分かりづらいことにはなっているんだけど、ひとつひとつのシーンで様々な表情が観て窺えますし、それとは対照的に、物語の中では真の主人公と言っても過言ではないチャン・ミナを演じたクォン・ソヒョンさん、私が観た範囲だと、『虐待の証明』では虐待する母親ミギョンであるとか、『暗数殺人』だと、殺人鬼カン・テオの犠牲者であるホステスのジヒを演じられていたりとか、キャリア的割りと感じ悪い人の役が適役な中堅の女優といったイメージなんだけど、役作りのために体重を5kgほど増やして太らせていて、その後、撮影後は体重を15、16kg減らしたとのことなんですが、特に中盤の保険会社のパク課長に仕返しをする一連のシーン、仕返しをする手前で鍋に入った袋麺を貪るように食べているフード描写があるんだけど、まるで何かが憑依してるんじゃないと言わんばかりに、見事に体現されていて、圧倒的な演技パフォーマンスを見せていました。これは韓国の映画賞で新人女優賞を獲得、ノミネートするだけあって、彼女にとっては間違いなく名刺代わりになる1本なんだろうと確信せざるを得なかったですね。あと、研修を終えたばかりの新人医師リム医師を演じたピョン・ヨハンさん、劇場版の『太陽は動かない』で悪い意味で名前を覚えられているのかもしれないけど、2014、5年当時なので、脇役として演じられていて、サンウが絶対的な地位にいて、ヒエラルキーがある以上、医師としては真っ当なのに弱い立場にいさせられている人間といった役柄で、特に後半、サンウがリム医師が正しい診断としてチャン・ミナが意識を戻ったと伝えたはずなのに、病院の経営と自分の財産を守るために断固として移植手術を決行しようと、彼の口にボトルに入った酒を注いで強引に飲ませて、意識が戻ってないと吐かせる。いわゆるアルハラを行うシーンがあるんだけど、役柄上、結構体を張った撮影で、よくもこんな役をやってのけたなと思わずにはいられなかったですね。だからこそ、後々、韓国では大手シネコンでかかってるようなメジャーな作品では準主役級、主役級と着々とキャリアを積んでいるから、凄いとしか言いようがない。あと、脳卒中で植物状態になっているチョルオ会長を演じられていたユ・スンチョルさん、植物状態だからとはいえ、顔や両手は動いてて、細かい顔の動きで息子に生かされている彼の心理を体現していて、クライマックスのヘリムがチョルオの酸素注入器を外してしまうくだりはチョルオに言葉、言語が無くても、彼の微細な表情で心境を示す。これは本当に見事な名演だと思いました。

敢えて言えば、物語上、実質物語の語り手になっている主人公の看護補助師のムンのヘリムがチャン・ミナの身辺調査を行う現在の視点と妊婦のまま売春婦を生業にするしかなかったチャン・ミナがどうして川辺で放置されてしまっていたのかを描いた過去の視点、病院の経営を支えている会長の息子サンウのエピソードを交えつつ、そのどっちかを前後させるかたちで話が進んでいくわけなんだけど、物語上、物語の比重からして、真の主人公であるチャン・ミナの視点に偏っていて、ヘリムの視点だと、彼女の物語として話を追っていくと、登場人物の関係性が構築する過程に物足りなさを覚えてくるんですよね。特に看護補助師のヘリムと同じ社会的な弱者にいるとされるピョン・ヨハンさん演じるリム医師、彼だけはあの病院のVIP病棟にいた主要人物の中だったら、ヘリムの唯一の理解者になる人物のはずなのに、ヘリムとリム医師が会話でお互いに唯一の理解者だと成り得ると確信するシーンがあんまり描かれていないんですよね。そのせいか、ヘリムとリム医師が職場の中では顔見知りの医師と看護補助師の関係であるとはいえ、リムがヘリムと同じ弱者、つまり、従われる側の立場に置かれていた人物の割りには、割りと受動的なヘリムと対になってなくて、ましてや、物語内では内側に溜めていた心情が爆発する様子も見せられてないんですよね。せめて、これはヘリムと彼が違法な臓器移植のせいで親と子の命を奪うんじゃなくて、チャン・ミナのお腹の子を救いたいとの思いが一致して、短い時間の中で連帯感が生まれてくる描写があったほうが作劇的には心にグッと来たように思えます。

あと、物語では終盤以降、現実と妄想、夢と現実が混ざり合う超現実的な展開が繰り出されていて、ヘリムとチャン・ミナが愛情を受けて来なかった者同士が理解し合えるようなシーンが用意されているのは滅茶苦茶素晴らしいんだけど、その直後のシーン、ヘリムとリム医師が臓器移植をする手前でイム医師が「へその緒を首に巻いている。何が起きてるか分かってるんだ。母親が死ぬのを分かって…」と言って、彼女のお腹の子が自発的に臍帯巻絡(さいたいけんらく)で窒息死しようとしていることが明かされるんだけど、そういう説明台詞を入れてしまうと、ちょっとフィクション過ぎる展開だという側面が前に出ちゃってて、へその緒が胎児の首に巻き付いてる原因を一面的に決定付けているのは流石にどうかなと感じちゃったりしました。少なくとも、お腹の子(チャン・ミナ)が自分が生まれてきた罪を胎内で自覚しているのかもしれないんだけど、ここはお腹の子が自発的、主体的にへその緒を首に巻き付けているのか、偶然、へその緒が小さな首に巻き付けてられて、最終的に窒息死に至りかねないことになっているのか、そういう原因を観客に委ねさせたほうが良かったんじゃないかなと思います。あとは細かいところを挙げると、後半、チャン・ミナの病室でヘリムとサンウが彼女のお腹の子と移植手術を巡って意見をぶつけるシーン、ヘリムを映したカットとサンウを映したカットをカットバックで交互に見せて、両者を演じたソ・ヨンヒさんとキム・ヨンミンさんの演技アンサンブルを生かしているはずなのに、2人の位置関係とか、距離感とかにズレが生じているように見えてて、編集の繋がりが少し不自然に見える印象があるんですよね。

あとはこれははっきり言って、わがままなんですが、ラストシーン、ヘリムが病院の仕事を辞めたと思われる展開が続いていくんだけど、彼女がリム医師や産婦人科に託すのはいいんだけど、ここは彼女がチャン・ミナだと優しい嘘をついてでもいいから、チャン・ミナの娘と彼女の祖母を何らかのかたちで対面させてほしかったなという風に感じました。ただ、最初から最後まで容赦の無い展開がほとんどなので、ラストでベッタベタに感動的な展開にさせなかったのは逆にリアリティが持続されていて、映像が示されている希望、救いというのが全然説教臭く無いから、これはこれで全然アリなのかなという風に感じましたね。

ということで、観賞する前にベビーな内容だということを頭に入れておいたから、「そう来たか…。」と思いながらDVDプレーヤーの一時停止ボタンを押す瞬間があっても、観終わってみると、「これは観て良かったなぁ。」と実感することが出来たんだけど、絶対に万人には9割型オススメしづらい、なんだったら、精神的な辛さを味わいたくはないと心底思わされるぐらい根深い爪跡を残してくれる作品になっているのは間違いないと思います。ただ、ひとつの物語の中には日本の現実に起こりうるようなエピソードが散りばめられていて、非正規雇用者、派遣労働者による労働問題とか、無理解、不寛容に繋がるような教育機関のブラック校則であるとか、そして、男性からの女性差別や搾取、様々な観点から多面的に議論の余地があると考えられますし、そして、何よりも「人生で必要なことってなんなのか?」「人は何のために生きているのか?」「生きていることに意味や価値はないのだろうか?」…そういった人生の根源的な問いを投げかけてくれるため、自分の人生とは何なのかを奥深く考えさせられるようになっていて、描かれていることは本当に残酷なんだけど、映画を観終わってから、この先、幸福が訪れたにせよ、苦難、困難が突然訪れたにせよ、必死に生きたいと思わずにはいられない正真正銘の傑作だと思いました。観る前は相当な覚悟が必要なんですが、是非是非色んなかたちで観賞してみてください。