広島市中心部の広島スタジアムパークにサッカーのサンフレッチェ広島が本拠地を移転し、新スタジアムのエディオンピースウイング広島内に広島サッカーミュージアムを開設した。三本の矢を意味するサンフレッチェの紹介に先立ち、広島県でのサッカーの歴史が綴られている。サンフレッチェ広島の語る歴史をみてみよう。
日本での公式なサッカー導入は本場イギリスの海軍教育団が日本の海軍士官に余暇活動で教えたのが起源となっている。広島県では江田島に移転してきた海軍兵学校でサッカーが親しまれた。これとは別に広島高等師範学校でもサッカーが行われていた。
県立広島中学(現国泰寺高校)は英国式パブリック・スクール教育の一環としてサッカーを重視。松本寛次を東京高等師範学校から1911年にスカウトして蹴球部の顧問に迎え、競技水準を引き上げようとした。サンフレッチェ広島のユニフォームの紫は、広島中学のスクールカラーに由来している。
第一次大戦でドイツ人捕虜が似島俘虜収容所にやってくると、捕虜のサッカー団と学生チームの試合が1919年1月に実現。学生チームは大敗したが、ドイツ人のチーム戦術を学んだ広島中学などの選手たちは全国的な強さを誇った。サンフレッチェの源流となる東洋工業(マツダ)にもサッカー部ができた。
原爆投下により広島のサッカーも致命傷を被った。サンフレッチェ広島の初代総監督に就いた今西和男(1941年生まれ)は左足にケロイドが残った被爆者である。しかし、1948年にはサッカーの高校選手権、国体、全国区で広島県の3校がそれぞれ優勝し、黄金時代をもたらした。社会人の部でも1965年に始まった日本リーグで初代王者に輝いたのは東洋工業(現マツダ)だった。銅メダルを獲得した3年後のメキシコ五輪でも長沼健ら広島出の選手が7名もいた。
エディオンアリーナの看板として話題の壁画「ピースウォール」の主は高橋陽一『キャプテン翼』である。これは静岡県「南葛市」を少年期の舞台としているが、ワールドユース編で広島が会場になった。同作が1980年の開始から世界的人気を獲得していく影で広島県のサッカーは停滞期に入り、静岡県にサッカー王国の地位を譲っていったという。