いつもはこの時間は寝ているが、目が覚めたのでブログを書く。
2016年上半期ベストセラー。「天才」。石原慎太郎著。
書評も仕事の一つ。
田中金権政治批判の急先鋒だった石原が万感の思いを込めて描く、
田中角栄の生涯。
石原は「この歳になって田中角栄の凄さが身にしみた」と言っている。
本書のメイン部分をを述べる。
田中角栄は、「高等小学校卒」
おさないころから見につけた金銭感覚とたぐいまれなる人間通を武器に、
総理大臣までのし上がった男の知られざるを素顔を描いた。
この書は章立てがない、まあ、ワンマンで有名な石原らしいと言えば、石原らしい。
田中は新潟出身。私の持論だが、わがふるさとに誇りをもっている人は、
「本当の国際人」といえる。
田中角栄は高等小学校を出た後、土木関係の会社を起こす。
故郷の新潟は田中は愛する。あまり知られていないが、田中は無理の映画好きだ。
以後は、戦前の話が多い。
田中の悲劇は長男を亡くしたことだ。
5歳の時、風邪を引き、肺炎で逝ってしまった。
長女は有名な田中真紀子である。
その反動で田中は飯田橋に事務所をかまえ、事業を拡張する。
そこで会社の顧問である男に、国政選挙に出てみないか、と誘われる。
二回目の選挙で旧新潟3区で見事、当選を果たした。
小学校しか、出ていないのにである。
その後は、すぐに法務政務次官に抜擢される。のちに大蔵大臣。
そして、54歳の時に、『日本列島改造j論』を発表し、内閣総理大臣に就任する。
私はこの時小学生だったのだが、NHKの単独インタビューを聞いて、
隣県の方が、こんなによどみなく話す彼に好意に親しみを感じた。
史上最年少で総理まで登りつめた感ももちろんある。
庶民感情がにじみ出ていた。
だが、1974年。月刊誌『文芸春秋』に、評論家の立花隆が「田中角栄研究」を発表。金脈問題を追及した。これを受けて、田中は内閣総辞職を表明した。
翌年の2月、ロッキード事件が発覚。
田中は5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法容疑で逮捕。
自由民主党を離党。以後無職属に。ほどなく保釈された。
1983年。ロッキード事件の一審で懲役4年、追懲金5億円の実刑判決。即日控訴。
1987年。同事件の控訴審で東京高裁は一審判決を支持。即日上告。1995年、最高裁が田中の5億円の収賄を認定。
この程度は、読者の方々はお分かりいただいていると思う。
が、このロッキード事件というのは、田中に関していうと、「冤罪」ではないか。
たとえば国民の多くのさまざまな精神に多大な影響を与えているテレビというメディアに造成したのは、ほかならぬ田中という若い政治家の決断によったものだし、狭小なようで、実は南北に極めて長い日本国土の機能的なものに仕立てた高速道路の整備や、新幹線の延長配備、さらに各県各県に一つずつという空港の促進を行ったのも田中だった。
またエネルギー資源に乏しいこの国の自活のために未来エネルギーの最たる原発を目指し、アメリカ傘下のメジャーに依存しまいと、田中は独自の資源外交を思い立った。
これがアメリカを怒らせた。
田中は、100億、200億を集める集金力があった。
田中にとってはロッキードの5億円など、単なる「はした金」だ。
米国はどのポジションで田中に攻撃をやってのけたのは、わからない。
推測の域を出ないが、ニクソン大統領とその側近あたりがやったのだろう。
案の定、ニクソンはウォーターゲート事件で、辞任におい込まれた。
私から言わせれば、ニクソンは「バチ」があたったに間違いない。
田中は公営住宅法、首都建設法、建築士法、官庁営繕法、道路法、原子力基本法などなど
提案者となって成立した議員立法は数知れない。
この書が「天才」と石原はつけているのだが、私も田中が「天才」だと思う。
最後が脳卒中で倒れた田中の一生であるが、
もし、彼が存命なら、日本の政界はもっといい意味で変わっているのかも知れない。
最後に話す。私は、田中の元側近に会ったことがある。彼もやはり田中のことを「天才」と言っていた。できることなら、ジャーナリストとして、是非、存命中に田中に会ってみたかった。
オールドパーというウイスキーを田中が大好物なのは知っていたので、おみやぎげも用意するつもりだった。
田中以外の政治家を超える人は彼をおいていないであろう。