Catherine, Princess of Wales

ウェールズ公妃キャサリン妃

ウィリアム皇太子の妻


Katharine, Duchess of Kent
ケント公爵夫人キャサリン妃
ケント公爵エドワード王子の妻

※英語表記でキャサリンの綴りがKとCで異なります。


2人のキャサリン妃には名前以外にも共通点があったようです。


※この記事ではケント公爵夫人キャサリン妃を「ケント公爵夫人」、ウェールズ公妃キャサリン妃を「キャサリン皇太子妃」と記載します



●メンタルヘルス
ケント公爵夫人は数々の健康問題を抱えていました。
1961年、故エリザベス2世女王の従弟であるケント公爵エドワード王子と結婚したケント公爵夫人は、3人の子供をもうけました。

1962年7月16日、ケント公爵夫人と生後3週間のセント・アンドリュース伯爵の最初の写真

1962年に生まれたセント・アンドリュース伯ジョージ、1964年に生まれたレディ・ヘレン・テイラー、そして6年後の1970年に生まれたニコラス・ウィンザー卿です。


1964年、娘レディ・ヘレン・ウィンザーを抱くケント公爵夫人と長男ののセント・アンドリュース伯ジョージ


しかし、1975年、42歳だったケント公爵夫人は、4度目の妊娠中に風疹に感染しました。医師の診断と司祭に相談した後、公爵夫人は中絶手術を受けました。報道によると、彼女は「このことについて決して自分を許すことができなかった」と語っていたそうです。
それからさらに悲劇的だったのは2年後の1977年、ケント公爵夫人は息子パトリックを死産で出産した事でした。その悲しみは計り知れないものでした。


「それは私にとって最も壊滅的な影響を与えました」「女性にとって、このような出来事がどれほど悲惨なものになるか、全く知りませんでした。この経験を通して、死産に苦しむ他の人々のことを深く理解できるようになりました。」と後に明かしています。



1977年頃、ケント公爵夫人と3人の子供たち、左から、セント・アンドリュース伯ジョージ・ウィンザー、ニコラス・ウィンザー卿、レディ・ヘレン・ウィンザー


ケント公爵夫人は、1975年に風疹罹患により妊娠中絶を余儀なくされ、その2年後には死産を経験しました。
その影響か、彼女は深刻な鬱病に苦しみました。王室の職務に身を投じることで悲しみに対処しようとしましたが、1978年には「神経の緊張」とされる症状で入院し、慢性疲労症候群に苦しみました。セリアック病とエプスタイン・バーウイルスを患っているともBBCが報じました。



1982年5月24日にロンドンのセント・ジェームズ宮殿で、障害のある子供たちを支援するバラエティ・クラブのレセプションに出席されたケント公爵夫人。

その後、ケント公爵夫人は、流産、死産など同様の悲劇に見舞われた人々への深い共感を示し、信仰に目覚めました。1994年1月、当時の君主であるエリザベス2世女王の承認を得てカトリックに改宗されたのです。ケント公爵夫人のカトリックへの改宗は、1685年にチャールズ2世が臨終の時に改宗したとされる件以来、イギリス王室では309年ぶりのことでした。




1990年10月25日、イタリア大統領フランチェスコ・コッシガの公式訪問中の晩餐会に出席するケント公爵夫人。

彼女のカトリック信仰への道は歴史的に意義深いものであり、個人的な喪失と苦しみから生まれたものだと考えられます。

ケント公爵夫人は、メンタルヘルス慈善団体「サマリタンズ」のパトロンとなったり、貧困家庭の若い音楽家を支援する慈善団体「フューチャー・タレント」の共同設立者になったりするなど、様々な慈善活動に時間とエネルギーを捧げてきました。
メンタルヘルス慈善団体サマリタンズのロイヤルパトロンに就任すると、彼女はこの役職のために研修を受け、ボランティア活動も行いました。自身のうつ病と死産の経験から、この活動に深く関わり、熱心に活動されたそうです。
※Samaritans(サマリタンズ)は、イギリスとアイルランドで精神的苦痛を抱えたり、自殺を考えたりしている人々を支援する慈善団体です。24時間年中無休の電話相談を中心に、感情的な苦痛を抱える人に無料で、秘密厳守で、判断を挟まずにサポートを提供しています。電話でのサポートだけでなく、精神的健康状態の研究や、自殺を防止するための活動も行っています。

また、キャサリン皇太子妃も自身は精神的な問題を抱えてはいませんが、「Heads Together」や「Early Childhood Centre」といった様々な活動や後援を通して、精神的な健康と幼児期の発達の促進に長年尽力しています。キャサリン皇太子妃は、メンタルヘルスに対する偏見を減らす取り組みを主導し、若者の心の健康を支援し、幼少期の経験が成人のメンタルヘルスにどのような影響を与えるかを強調してきました。


キャサリン皇太子妃の弟ジェームズ・ミドルトンは、精神的な問題を抱えていた自分を姉のキャサリン皇太子妃がどのように支えてくれたかをインタビューで明かしたことがあります。

ピッパ・ミドルトンとジェームズ・ミドルトン

デイリー・ミラー紙のインタビューで、ジェームズ・ミドルトンはキャサリン皇太子妃とピッパ・ミドルトンが「私の最高の時も最悪の時も」見守ってくれたと語りました。


2017年、ジェームズ・ミドルトンは自殺を考えるまでの精神的な危機にありました。その危機を乗り越える手助けをしてくれたのは、2人の姉と母キャロル・ミドルトンであり、周囲にそのような「強い女性たち」がいたことで、「傷つきやすさは弱さではなく、強さなのだ」と学んだと語りました。

キャロル・ミドルトンとジェームズ・ミドルトン

ジェームズ・ミドルトンは、これまでも失読症、注意欠陥障害(ADD)、うつ病などの診断を含め、自身のメンタルヘルスについて公表しています。キャサリン皇太子妃は身近な存在である弟との関わり等の背景もあって、メンタルヘルスに対する偏見を減らす取り組み尽力されているのかもしれません。




2025年5月12日、英国メンタルヘルス啓発週間の開始を記念し、ウィリアム皇太子とキャサリン皇太子妃は屋外で一緒にいる心温まる動画を投稿し、がんとの闘いの中で自然がいかに彼女のメンタルヘルスを改善してくれたかについて語りました。精神的な健康における自然の役割を強調し、デジタルによるプレッシャーが高まる中で、人々が自然界と再びつながることを奨励し、「Mother Nature(母なる自然)」と題した新しいビデオシリーズの立ち上げを発表し、英国全土の四季折々の自然の美しさを四半期ごとに紹介していくことを発表しました。


2024年9月10日、新聞の見出しにキャサリン皇太子妃の化学療法治療完了か報じられました。

キャサリン皇太子妃自身は精神的な問題について公表されていませんが、闘病や再発の恐れなど、ご本人とその家族にしかわからない精神的な苦しみや負担もあると思います。この動画は、2024年にがん治療を受けるために休暇を取った後、徐々に公務に復帰している中で公開されました。
2025年1月にはロイヤル・マースデン病院で癌が寛解していることを確認したと公表されています。



●音楽
ケント公爵夫人は、故エリザベス2世女王が崩御した後、存命の王室最年長者でしたが、2002年に王室の公務から退いており、近年は公の場に姿を見せることは稀でした。


1991年のトゥルーピング・ザ・カラー・セレモニーでケント公爵夫人とダイアナ皇太子妃



数十年にわたり王室関係者として尽力した後、ケント公爵夫人はは異例の決断でHRH(殿下)の称号を返上し、音楽教育に専念する道を選びました。1990年代半ばから公務を減らし始め、その間、ハルのワンズベック小学校でひっそりと音楽教師の職に就きました。

2000年5月 22日、ロンドンのチェルシー フラワー ショーに出席したケント公爵夫人


2004年にハル・デイリー・メール紙のインタビューで教師としての役割を明かすまで、その活動はほとんど知られていませんでした。毎週、ワンズベック小学校の生徒たちに音楽と歌を教えるために、往復400マイル(約640キロ)を移動したと言われています。



後にワンズベックで教えることを選んだ理由を尋ねられると、ケント公爵夫人はこう答えました。「ヨークシャーとのつながりがあるからです。故郷に近いし、故郷は心の拠り所です。私はヨークシャー出身なので、ヨークシャーの子供たちに教えることができるのは素晴らしいことです。」

彼女の王族としての身分は秘密にされており、正体を知っていたのは校長先生だけでした。

また、ケンジントン宮殿の公邸近くの借りたワンルームマンションでピアノのレッスンも行いました。1999年から2007年までは、王立ノーザン音楽大学の学長を務め、国立青少年音楽財団の理事長も務めました。


2007年8月31日、ロンドンにある衛兵礼拝堂で行われたダイアナ元皇太子妃の生涯を称える式典に出席したケント公爵夫人。


2022年、ケント公爵夫人は英国紙「テレグラフ」のインタビューで自身の教師としてのキャリアについて語りました。王室メンバーへのインタビューは稀なことです。
「私が誰であるかを知っていたのは校長だけでした。保護者も生徒も知りませんでした。誰も気づきませんでした。全く公表されませんでした」「なぜかは分かりませんが、うまくいったのです。私は幼い頃から小学校卒業まで子どもたちを教えました」



音楽はケント公爵夫人の人生において大きな役割を果たし、ピアノとバイオリンの演奏、歌う事も好きだったそうです。結婚前には短期間、幼稚園の先生として働いた後、1990年代半ばからは故郷ヨークシャー州ハルのワンズベック小学校でひっそりと音楽教師として働きました。

2004年にハル・デイリー・メール紙のインタビューに、10年間目立つことなく教師生活を送ってきた後のコメントとして「私は生涯ずっと音楽を学んできました。それが私の情熱です」「もう一つの情熱は子供たちです」と語りました。



学校の生徒の多くは音楽教師が王室の出身者だとは気付かず、若い生徒たちにとって彼女はただの「ミセス・ケント」でした。「Her Royal Highness(殿下)」という称号を使うことをやめたキャサリン公爵夫人は職員室では「キャス」、子ども達からは「ミセス・ケント」と呼ばれていたそうです。

音楽への献身はそれだけにとどまりませんでした。2004年、ケント公爵夫人はあらゆる背景を持つ若い音楽家を支援し、すべての子供たちが才能を伸ばす機会を得られるよう尽力する慈善団体「Future Talent」を共同設立しました。また、小学校で音楽を教えていた数年間の経験から、彼女はニコラス・ロビンソンと提携して、子供たちが音楽の道を志すのを助けるために、資金援助、指導、マスタークラス、演奏の機会提供を支援しました。


ケント公爵夫人(2013年)


2016年5月には「Future Talent」の創設者として、バッキンガム宮殿で幼児向けコンサートを主催しました。
そして、Future Talent は、2004年に1人の若いバイオリニストを支援したことから始まり、個人指導、奨学金、カスタマイズされたパフォーマンス、レコーディング、開発機会のプログラムを通じて毎年150人の若い音楽家を支援するまでに成長しました。




2025年9月5日、ウィリアム王子とキャサリン妃は、Xの公式アカウントにケント公爵夫人へ追悼メッセージを投稿していました。ケント公爵夫人の音楽への愛を強調し、「私たちは今日、ケント公爵とそのご家族、特にジョージ、ヘレン、そしてニコラスに心を寄せています。公爵夫人は、音楽への愛を通して、他の人々を助けるために精力的に働き、多くの活動を支援しました。私たちは、彼女がいなくなることを大変寂しく思います。」


キャサリン皇太子妃はテニス、絵、写真撮影の才能を披露してきましたが、2021年には新たにピアノ演奏の才能を明らかにしました。

2021年12月8日、キャサリン皇太子妃はエリザベス2世女王の生涯と功績を称えるコンサート「ロイヤル・キャロル:クリスマスに共に」を主催。このコンサートはクリスマスイブにテレビ放送され、キャサリン皇太子妃はウェストミンスター寺院に灯るキャンドルに囲まれながら、スコットランド出身のシンガーソングライター、トム・ウォーカーと共演し、力強くピアノ伴奏をされました。 

このアイデアは子供の頃にピアノを習っていたキャサリン皇太子妃が、新型コロナウイルスのパンデミックの間に音楽を演奏することで「大きな慰め」を感じていた経験から発案されたそうです。

さらに2022年5月、ヨーロッパで毎年行われている国別対抗の歌謡祭「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」(以下ユーロビジョン)の決勝において、キャサリン皇太子妃がサプライズで映像に登場して、ピアノ演奏を披露。キャサリン皇太子妃が公の場で演奏するのは、これが2度目でした。

キャサリン皇太子妃は、「音楽が人々を結びつける強い力」を理解しており、特に困難なときこそ、音楽はそうした力を発揮すると考えているとのこと。2度のサプライズパフォーマンスへの参加に積極的だったのはこの考えによるものだそうです。



●テニス
2人のキャサリン妃を結びつけているもの。最後は毎年ウィンブルドンで開催されるテニス選手権です。


1981年7月3日、ウィンブルドン選手権の女子決勝を観戦

左から:ケント公爵夫人キャサリン妃、レディ・ダイアナ・スペンサー、妹のサラ・マコーコデール(旧姓スペンサー)

ケント公爵夫人は長年にわたり、センターコートでの表彰式に欠かせない存在でした。
1962年に全英ローンテニス・クロッケー・クラブの名誉会員となり、ウィンブルドンとの数十年にわたる関係が始まりました。1976年から2001年まで、わずか3回の例外を除いて女子シングルスのトロフィーを授与しました。


チェコのヤナ・ノボトナ選手は1993年の女子シングルス決勝でドイツのシュテフィ・グラフ選手に4-1とリードしていたにもかかわらず、最終セットでそのリードを失い、敗れました。

トロフィー表彰式で涙を見せた準優勝のノボトナ選手に対して、ケント公爵夫人が王室の伝統的な礼儀作法を無視して、ノボトナ選手を抱きしめたエピソードが有名です。ケント公爵夫人はノボトナ選手の優勝を予言し励ましました。
ノボトナ選手を慰めたケント公爵夫人の思いやりは広く知られるようになり、この瞬間は真摯さが称賛され、彼女の公的な温かさを象徴するものとなったと言われます。

5年後の1998年、ノボトナ選手がケント公爵夫人キャサリン妃の予言通り優勝を果たした時、二人はまたしても共に涙を流しました。「公爵夫人はノボトナ選手の両手を握りしめ、誇りに思うと伝え、震えるチャンピオンに1993年と1997年には手に入らなかった銀の優勝プレートを手渡しました」とタイムズ紙は報じています。

ケント公爵夫人が最後に表彰式のプレゼンターを務めたのは、2001年の優勝者ビーナス・ウィリアムズへの授与でした。



そして現代、キャサリン皇太子妃がその役割を担っています。オールイングランド・ローンテニス&クロッケー・クラブのパトロンとして、キャサリン皇太子妃は毎年トーナメントを観戦し、トロフィーを授与しています。



ケント公爵夫人の棺はケンジントン宮殿のプライベートチャペルに安置されており、9月15日にウェストミンスター寺院の聖母礼拝堂に移送される予定です。そこではカトリックの儀式である遺体受領が行われ、棺が正式に教会に受け入れられます。棺は葬儀の前にそこで一晩安置され、翌日に葬儀が執り行われ、レクイエムミサが捧げられます。これは近代史上、英国で初めての王室カトリックの葬儀となる予定です。




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