6月5日の今日~明治150年の今年・足跡を辿る ① | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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この地球は今大きく変わろうとしている。自国主義からコロナ禍を経て、調和・融和へとイノベーション(変革)し、人生100年時代へ向けて脱炭素の環境優先へとベクトル(地球的エネルギー動向)が動いた。
常に夢を持って波に乗ろう!

 

 今年明治150年でもある2018年。この150年という短い間に日本は多くの血が流れ、そして大きく舵をきった。いや無能な輩が無理に大きく舵をきったから、多くの日本人の血が流れたというべきか……。

それまでの日本は、戦国~天下統一を経て封建制ながら士農工商という身分制度のもと文化も栄え泰平の江戸徳川政権時代が永く続いた。

250年以上続いた井の中の蛙とも称せる徳川政権に、突如百余発の空砲艦砲射撃がとどろき日本の歴史を変えた。「ペリー来航」である。

歴史に、if もし……はないが、ペリーが来なかったら? 米軍B29による非道な原爆実験的投下で多くの罪もない一般市民が無残に殺傷されるカタストロフィ悲惨もなかったろうが、代わりにブータンのような世界一幸福な国になっていたという保証もないのである。

 飛躍してしまったが、先ず歴史的時代背景からおさらいすると、と言っても明治維新という大転換に至った要因、事案に絞ってスポットをあててみよう。

 

江戸徳川政権は外圧に弱いと全国の志士に知られた。 が、

その昔の日本、弘安4年夏の頃の鎌倉幕府は蒙古襲来を神懸かり的に退けたのに……。

拙ブログ 

「”蒙古襲来”に神風は本当に吹いたのか? 

外敵なぞ何する者ぞ、団結すればこわいものはない。

 

 

惜しむらくは1853年ペリー来航以前、事前にオランダから米国艦船が鎖国中の日本に来航する旨知らされていたのに何の有効な手も打たなかったし、太平の世が永く続いたせいか元寇のように外敵を想定した朝駆け、夜討ちなど闘志に溢れる実践士道魂の練磨が薄れていたのである。

それは鎖国による弊害から世界水準の兵器・軍事力推移に関して疎くなっていたのも事実で、当時は香港島など植民地政策が非であると国際社会が認めていなかった時代である。

 

外圧に対して幕府の弱腰外交を天下の志士たちは批判し憤慨した。なかでも朝廷、孝明天皇は外国嫌いで条約を勝手に結んだ幕府に対して不信感を抱いていた。

その頃のブーム流行として「尊王攘夷」が各藩の若い志士たちの間で流行った。

例えば近年の例でいうと、70年安保闘争などの学生運動。 学生運動といえば、六四の天安門事件などが挙げられよう。

さらに自然に例えるなら、水琴窟の如く外からの一滴で甕の水面に波風をたてる。

 

 

 

 

これは隕石の地球衝突や核ミサイル、MD構想さえ連想させる。

これに以下、日本史の事蹟を重ねる。物事の因果応報が見えてくると思うが。

 

11代家斉 1834年 この年諸国は大飢饉になる。 (天保5年)

     1837年 大塩平八郎の乱起こる。   (天保8年)

12代家慶 1840年 清で阿片戦争起こる。

     1842年 阿片戦争で英国が武力により清国の香港島を占領。

     1846年 米国東インド艦隊ビッドル司令長官、浦賀に来航。 (弘化3年)

     1853年 6月 米艦隊ペリー代将、黒船4隻で浦賀に来航。 将軍家慶薨去。(嘉永6年)

13代家定 1853年 10月徳川家定13代将軍になる。

     1854年 ペリー再来航す。(安政1)   

          日米和親条約調印。吉田松陰、密航を企て囚わる。西郷隆盛、島津斉彬のお庭方役となり人脈を広げる。

     1855年 江戸大地震(安政大地震)。水戸藩の徳川斉昭公、海防参与となる。

     1856年 アロー号事件(第2次アヘン戦争~1860年) 

          米総領事ハリス下田着任。

          徳川家定と島津斉彬の養女・篤姫が結婚。

     1857年 日米下田条約調印。ハリス領事が将軍に謁見。

     1858年 幕府、日米通商条約の勅許を奏請するが朝廷はそれを許さず。攘夷を譲らない孝明天皇は逆に8月8日先ず水戸藩に。そして10日幕府に「戊午の密勅」を下す。  

       (関連頁)「 ○○の秋~DISCOVER JAPAN~③

 

 

 

 

    (安政5年)大老に井伊直弼就任。(将軍家定、南紀派の思惑絡みと譜代筆頭の実績から)

          日米修好通商条約調印。慶喜の対抗嗣慶福(家茂)将軍後嗣になる。

          将軍家定薨去。(大老らの)幕府、徳川斉昭・松平慶永らを処分。島津斉彬歿す。

         9月、安政の大獄始まる。家茂将軍になる。

14代家茂 1859年 1月 橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎ら刑死。

(万延1)1860年 3月 桜田門外の変で水戸浪士らに暗殺さる。 

      「桃の節句・雛祭り <前半>

         8月 政敵を失くして張り合いが無くなったか徳川御三家水戸藩第9代藩主・徳川斉昭、謹慎中の水戸城中で歿す。 

     1861年 5月 水戸浪士ら高輪東禅寺で英国公使らを襲撃。尊王攘夷の世風、流行する。

(文久2) 1862年 1月  坂下門外の変。老中安藤信正が水戸浪士6名に襲撃され負傷。

         2月 孝明天皇の妹・和宮、もとい、将軍家茂・皇女和宮真親子内親王降婚儀。(公武合体実現か) 

         4月 寺田屋騒動。(薩摩藩内の内紛、尊攘先駆を粛清)

         8月 生麦事件。島津久光一行の行列妨害した騎馬英国人男女4人が殺傷さる。(これが後に薩英戦争に発展す)

        閏8月 尊攘の騒擾を鎮める為、会津藩主松平容保、京都守護職に任命される。

       1863年 3月 先月清河八郎に率いられて京都入りした浪士隊、会津藩預り壬生浪士(新選組)結成、騒擾たる京の治安にあたる。

         5月 幕府、英国に焼き討ち事件や生麦事件の賠償金を支払う弱腰外交。

           長州藩、攘夷の期限(5月10日)を守って下関海峡を通航中の米船砲撃。長州の井上聞多(後の井上馨)、伊藤博文(後の首相)ら長州ファイブ中国を経て英国に密航。

          6月 四国(英米仏蘭)軍艦が長州藩に反撃。高杉晋作、四民混成の奇兵隊を結成。

         7月 薩英戦争。(生麦事件の報復か、しかし英軍は多くの戦死者を出し薩摩から撤退した)

         8月 八月十八日の政変。七卿落ち。新選組会津候より褒美賜る

 

 (元治1)1864年 6月 池田屋事件で新選組、名を成す。第一次長州征伐。伊藤博文と井上聞太、英国より帰国。

 

          7月 禁門の変。長州兵が(蛤御門)で朝敵となる。

         8月 馬関戦争(英仏米蘭連合艦隊、下関を砲撃)

        12月 長州藩内で幕府軍と交戦するか、和睦し責任者を切腹させるか藩論がまとまり幕府に屈す。

 (慶応1)1865年 2月 長州藩の諸隊、内戦で勝利する。正義(討幕)派が藩論をまとめていく。

          4月 幕府、西国諸藩に第二次長州征伐発令。四面楚歌、絶体絶命の長州藩。

     1866年 1月 京都で秘かに薩長同盟が西郷、桂(木戸)らの間で口約束として交わされた。後日坂本龍馬が成文化す。また長州藩に禁じられていた武器の横流しが龍馬の亀山社中を通じて取引される。

              6月 第二次長州征伐開戦。西郷ら薩州勢は幕府の長州討伐出兵令に応ぜず秘かに長州支援策動していた。

        7月 将軍家茂薨去。

15代慶喜     9月 勝海舟、安芸広島厳島で長州藩との休戦を協議する。

         12月 徳川慶喜第15代将軍に就任。攘夷派の孝明天皇崩御。

(慶応3)1867年 6月 大政奉還の薩土密約。

        10月 大政奉還。薩長両藩主に討幕の密勅。王政復古の大号令下り三条実美ら許される。

        11月 京都で坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺される。摂政、関白、将軍を廃し総裁、議定、参与職設置。

 

 

(明治1)1868年 1月 戊辰戦争(内戦)開戦。薩摩・長州・土佐藩兵ら伏見で幕府軍と戦う。

          桑名藩、鳥羽・伏見の戦いで敗北し桑名城明け渡す。慶喜へ追討令下る。

          王政復古(政権交代)を各国公使へ布告。

        3月 五箇条のご誓文。会津藩、軍制改革で朱雀、玄武、青竜、百虎隊編成し農兵を募集。

        4月 会津藩と庄内藩の軍事同盟締結。新政府軍、江戸城を開城。

        5月 奥羽越列藩同盟成立。徳川家達を駿府70万石に封ず。

          長岡藩、奥羽越列藩同盟に加盟。佐賀藩の反射炉で造った大砲で上野彰義隊を砲撃、潰走させる。 

        7月 江戸を東京と改称。東北戦線、会津藩の白虎隊自刃。

        9月 会津藩降伏し、会津若松城開城。藩主家松平容保父子、妙国寺に入る。

        10月 江戸城を皇居とす。旧幕府軍、蝦夷地を占領。

(明治2)1869年 1月 薩長土肥藩主、版籍奉還を上奏。(版=土地、籍=人口) 

        3月 天皇、東京城に到着(東京遷都)「皇城」と称す。横浜・新橋間の鉄道着工。

        

 

 こうやって幕末の日本史を紐解き、あらためて俯瞰すると近代日本史に大きな影響を与えたのが、ペリー来航から10年後の1863年、京の治安部隊として江戸から上洛してきた戦闘集団・新選組の奮闘ではなかったか。

一部では歴史を後戻りさせたという浅慮も働こうが、彼らの生き方が純粋、デカダンスに殉ずる士道の潔さという国際感覚騎士道”ノーブレスオブリージュ”と通ずる道徳の美学は今こそ賞賛すべき生き方とも言えるのではなかろうか。

治安維持の為に剣技、士道という法秩序で不逞浪士を捕殺、取締ったがゆえに、恨まれもしたが、天然理心流を世に出し、尽忠報国の鑑としてまた尊攘~尊開国派志士らの重石・試金石として逆に日本を国際的に良い方向に目覚めさせのではなかったろうか。

エンジンでいうなら吸入~圧縮~爆発~排気の四工程の中で圧縮作用を果たし、また当時の列強諸国が産業革命で蒸気船を含む動力を利用した時代にあって、出遅れた幕府対応の不甲斐なさ頼りなさは尊王攘夷~倒幕開国という大きなエネルギーを生じさせ国内に撹拌し、やがて後の経済大国へと繋がっていくのである。 

ただ、ここに双方の立場の違いによる悲劇が生じた事績として今でも歴史上、史蹟上人々の間に現存する当時のエピソードはいかんとも忍び難い。

ことに先祖代々の武士ではない、多摩農民出の俄侍が徳川幕府の瓦解を救う、ひいては国を救う尽忠報国、佐幕攘夷として武士らしく規律を重んずべく局中法度で自らを縛り、時代の流れを巻き戻すような剣の道に徹した実践派の面々の生活史実が浮かび上がってくる。

 

 

おりしも今日は6月5日である。元治元年の今日六月五日、京では池田屋事件が起こり此処に近代日本へ向け導火線の火ぶたは斬って落とされた。

 

明治150年 記念特集 ~明治150年の今年・足跡を辿る


①起 「ペリー来航」 関連ブログ 「年が明けたら明治150年だった……。

 

②承 「幕府威信堕つる~桜田門外の変」 関連ブログ 桃の節句・雛祭り <前半>

 

③転 「六月五日 池田屋事件」 当ブログ及び「TOKYOウォーク2015 第3回大会 ~その④~

 

④結 この後の展開次第で長州征伐~薩長同盟~大政奉還(予定)

 

さて、そろそろ本題に入っていこう。

時代は桜田門外の変やそれに続く坂下門外の変などで幕府の権威失墜。逆に水戸浪士、土佐勤王党などが意気盛んなご時世。

弱腰幕府政権のなか、公武一本化の筋を通そうと公方様が朝廷から攘夷決行の勅許を得る為に上洛するので、ついては将軍警護の浪士を募るゆえ腕に覚えのある者は申し出でよ。という幕府のお触れに応じて参集した芹沢、近藤ら浪士組は清河らとは袂を分かち京に残り、守護職会津藩お預かりの治安部隊・新選組となった。

 

朝廷が置かれている京では尊王攘夷の風が吹き荒れ市内の治安、秩序が大いに乱れていた。

勤皇倒幕熱に浮かれた志士、公卿たちが京を跳梁跋扈暗躍していたのである。

奉行所、京都所司代だけでは手に負えず会津候の京都守護職預かりのもと新選組として京の治安取締りにあたった。隊の統率も執れてきて一目置かれる戦闘集団となった。

 

先だってもほれ、八月十八日の政変で長州藩士や長州系の公家の横暴が目に余り、孝明天皇がご英断下されたいわゆる「七卿落ち」で長州系公卿及び尊攘派を京都より追放。

このとき会津藩預かりの新選組、芹沢鴨局長以下の働きが会津藩容保候のおぼえめでたく褒賞金を賜った。

 

それに気をよくしたのか調子に乗ったのか配下の副長・新見錦は勝手に金策をするし、酒乱癖の新選組局長・芹沢鴨は揃羽織代260両の掛取りに来た太物問屋菱谷太兵衛の妾、一説には盆暮れ女房と言われる元島原遊女お梅を白昼堂々手籠めにするわ、新選組に献金しない尊攘派びいきの豪商大和屋に対し芹沢派は腹に据えかね業火で大和屋を焼き討ちさせるなど、御所近くでの放火は危うく逆賊になりかねず、この頃はすでにもう正常な判断ができかねるほどの酒毒に犯されていたのか。

消火せんと駆け付けた所司代、奉行所を隊士に通せんぼさせて芹沢らは焼け落ちるまで見届けていたと云うことだ。

近藤一派はこの騒ぎに居なかった。別の場所、方法で軍用金調達の為に相撲興行を催していたという。

 

この焼き討ち事件にはさすがの会津容保候も怒り心頭に発し、天然理心流の試衛館派に局長の芹沢を斬れと下知した。

そうなれば先ず芹沢の腹心の副長・新見錦を局中法度に照らし勝手な金策(公金横領)をしたかどで近藤派数人が囲み詰め腹をきらした。

新選組の局中法度書にはこうある。

一、士道にそむくまじきこと。

一、局を脱するを許さず。

一、勝手に金策をいたすべからず。

一、勝手に訴訟取り扱うべからず。

一、私闘を許さず。 以上の条々相背き候者、切腹申し付くべく候也。

 

そして近藤勇と土方歳三は京島原の揚屋角屋を総揚げして新選組全隊士数十名に及ぶ大宴会を催し芹沢一派を油断させようと企んだ。どうやら決別、お別れ会の意味もあったらしい。

ただし、今夜の仕事がある自派各組長には酩酊を許さず、と土方から内密に指令が飛ぶ。

八木邸に帰隊し呑み直し、泥酔昏睡した芹沢鴨を一番隊組長・沖田総司らが寝込みを襲い、布団ごと白刃を突き刺した。何本も何本も。

さすがに恰幅のいい鴨だけあって串刺しになっても刀架の剣をとろうと太い腕を伸ばした……ところで息絶えた。こうして隊の粛清をはかった近藤一派であった。

 

そういう内部事情もあってか局中法度(隊の規律)により脱走者や士道に背く者をことごとく切腹させ、非情の幕府方取締り集団としての求心力を高めなければ市中見廻りで不覚を取り、京に潜伏する不逞浪士を一掃できないと戦慄していたのであろう。

一定の戦力を確保するためには、当然ながら事あるごとに隊士を募集し、度胸があると認められれば適材適所に、また非番時は道場で各自腕を磨く日々に追われた。

 

禍福は糾える縄のごとしと言う言葉がある、塞翁が馬と置き換えても良い、八月十八日の政変で長州系を一掃し、うかれて大宴会の後内紛などしておる場合ではなかった。物事にはなんにでも反動という物理現象が伴うものである。窮鼠猫を噛むでもいい、圧縮され逆にしぶとく生き残りをかけて死にもの狂いの過激な勤王志士の集団を増殖してしまった。

 

探索方の山崎烝から緊急連絡が入った。

手負いの志士となった長州など西国の脱藩浪士が焼け糞になって京の町を焼き払うというようなことを聞いてきた。という。どうやら長州勤王党の一味は敗色濃厚となって一か八かの大博打に打って出ようというのだ。で、風の強い宵を選んで御所に近い風上から火を放つという。大文字焼きか。いや、京の町ごと焼き払うという大それた計画のようだ。

京の治安をまもる新選組の名に賭けても阻止しなければ、これまで御厄介をかけていた容保候をはじめ帝や京の町衆に申し訳が立たない。

いつ、どこで、だれが集まるのか。それに焦点を絞って怪しい動きをしている者を片っ端から捕えて調べているうちに、四条寺町の道具商、桝屋喜右衛門が浮かび上がった。

密偵の山崎烝がホームレスに化けて張り込んでいたら、捜査線上にある熊本脱藩で勤皇の志士・宮部鼎三の出入りを確認したので、新選組の所属長である会津藩に許可を得て武装した隊士ら数名が桝屋に踏み込んだ。

 

桝屋喜右衛門は密書や血判状など焼却隠ぺいしようとしていた。が、店内には大砲や小銃、弾薬などぞくぞく出てきた。

屯所に引っ張って行き、取り調べにあたって「拙者は古高俊太郎である」と言ったきり黙秘権を行使してしまった。

Sぎみの土方歳三が火責め水責めで拷問を繰り返す。一刻が経ち二刻が経ったが、未だ口を割らない。

新選組の存亡をかけて自白させようと、古高の足の甲に五寸釘を打ち込み血管に蝋のただれた熱い液体を流し込んだ。

これには堪らず、とぎれとぎれに知っているいつもの集まり場所とメンバーの名を吐いた。

そのいつもの寄り合い場所は四国屋と三条小橋の池田屋であった。人数は三十人前後という。

その席で御所の風上に火を放って、守護職、所司代など幕府側要人の暗殺と帝を奪い長州に遷移させるという大それた計画の実行計画を練る予定だった。

 

これには新選組はもとより会津藩一同驚愕した。

そして会津藩には応援援兵を要請し宿御用検めの踏込み許可を得た。

非常呼集と公用以外の外出禁止令が出された。

武器庫から槍、胴鎧、着込み、鎖帷子など出され、それらを着用、装着し、鉢金をつける者、襷を架ける者、目釘を検める者、等々緊張に包まれた新選組屯所であった。

 

戌の刻を過ぎた。守護職や所司代からは何の知らせもない。

これ以上応援の援兵を待っていたら奴ら散会して見失ってしまう。

やむを得ん我等だけで踏み込む。

 

やがて「松平肥後守御預 新選組宿」と大書した檜の看板を背にして新選組局長・近藤勇の訓辞が始まる。

「これより不逞浪士の一斉取り締まりに出動する。が、油断するな。奴らは追い詰められて何をするか分からん。京の町に火をつけかねん。会津藩からはなるべく捕縛しろとの沙汰であるが、抵抗する奴は斬っても構わん。ただ、取り逃がして京を火の海にするな。(一同を見渡して) 分かったな」

「おうっ」

「総司と藤堂、永倉、原田、谷、武田、安藤、奥沢・・・・・は俺と一緒に池田屋に行く。あとの者は土方副長に任せる。歳さん四国屋を頼んだぞ」

「うむ」

 六尺四方赤地に白抜きの誠を染め上げた隊旗を掲げて京雀にデモンストレーションなのか隊士34名が山形浅葱色の揃羽織で目指すそれぞれの標的である旅館に向かった。

祇園通りから三条通へと進んでいく。それらしき不穏な空気はない。今日ではないのか?

 

鴨川の湿気と柳の混じった宵のせせらぎが鞘音や草履の音と共に耳をさらさら流れる。

ともすれば気の重くなる重圧を打消し士気を鼓舞するようにいずこからかともなく祇園祭の祭囃子の稽古なのか笛の音や太鼓の音が聞こえてくる。 こころなしか勇も多少弾んでくる。

 

 もしかしたらもうあの白い柔肌を吸えなくなるかもしれん。深雪太夫……。あれは佳かったな。ふふふ。 ふとよぎった。

 

いかん。この先の事に集中せよ。敵は何人だ。それによって配置を考えなきゃならん。 ザクザク・・・・

 

 江戸に置いてきた義父・周助翁が病に倒れ妻のつねが看病の毎日だという。これも何とかしなきゃ……。そうだこんなところでやられるわけにはいかんな。

きょうを精一杯死力を尽くして踏ん張らんと明日はないな。

やらなきゃやられるだけのことだ。

道場剣なんかに負けられるか、桃井が何だ、斎藤弥九郎が何だ、千葉が何だ。こっちは実戦の天然理心流だ。修羅場をくぐってきた場数が違う。

 

 これらの葛藤が走馬灯のごとく瞬時に勇の脳裏を駆け巡った。

 

足が止まった。

 

池田屋の前の往還に着到した。辺りは鴨川の涼風を団扇で煽ぐ町衆が表店の灯明りに照らされて談笑している。

池田屋の階上を見上げると奥の楼に2、30人の長州志士らしいのが集まって談義しているのが窺える。

内から古高がどうのと喚いている。

 

勇は隊士を見回し、素早く配置を指示した。

「沖田、永倉、藤堂、踏み込むぞ。原田ら後の者は表口と裏口を固めろ」

「はっ」 と言って散った。

 

四人は股立ちを取って入口からつかつかと土間を通って裏階段に向かう。見取り図は頭に入っている。

 

近藤勇が奥へ通る声で「主人はおるか、ご用あらためでござる」と、土間に響き渡る。

 

八方に目を配り、上ろうとすると亭主の惣兵衛が階段のところへ駆けつけて、急ぎ大声で階上に

 

「みなさまお調べでございます」「みなさま……」

「どけっ」と勇が亭主の頭を拳固で殴り飛ばした。亭主は気を失った。近藤勇は階段を駆け上がった。

 

志士の北添佶磨が「おう、桂ぁ来たか」と奥座敷の襖を開けて階段の手すりまで出てきた。

 

 

               ~字数制限につき、以下次号につづく~

 

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