”蒙古襲来”に神風は本当に吹いたのか? | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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【起】この時機に蒙古襲来など微妙な問題だが上記10/29号の拙ブログ「え”っ、まだ台風?と映画『先生!』」で検証する旨掲げてあったので調査・研究したその考察結果をここに発表します。

 

その件に関しまして先ず歴史事実を列記しますと、

①1267年 蒙古王クビライの命により高麗の使者来る。1271年 元の使者が国書を持ち来たる。1273年、元の使い、大宰府に来る。

②1274年(文永11年)元軍、対馬より九州に攻め寄る。(蒙古襲来、文永の役)

③1281年(弘安4年)蒙古・高麗軍再度侵攻に及ぶが退却。(蒙古襲来・弘安の役)

④この時の天皇は即位したばかりの後宇多天皇。当時鎌倉幕府の最高権力者は第8代執権の北条時宗で、その後度重なる元からの使者をことごとく死者にしてしまう剛腕ぶり。

 

それらを踏まえた上でここからは史料に基づいた独自の考察を一つずつ構築していきます。

今回興味があるのは「神風」であり、それに付随する「蒙古襲来」もしくは「元寇」という事実が浮かび上がってきたのでそれらについても解明したい。

元寇の元というのは古代一部中国の一つの時代名で寇というのは、襲うとか侵略する、とかの意。

そもそも何で独立国家である日本が遊牧民族の蒙古なんかに侵略されなければならんのか。

これには万里の長城も少なからず関係がある。長城の内(南)側は農耕民族の漢族。そしてその外、北側には遊牧民族の蒙古族など。

移動して家畜を飼育する遊牧民族である分には大して問題がなかったのだが、ある時冷害に似た天候異変が起こり、北側には羊の餌である牧草がどこにも見当たらなくなった。家畜が飢え、飢狼の餌食に晒される。

南の農耕民族の食糧を交換したり分けて貰えるうちはよかった。が、儒教思想などの教育に恵まれていなかった遊牧民族は飢餓からある一線を越えて今度は狩猟民族になり代わってしまう。とうとう南下侵攻し漢民族の南宋を武力で隷下に納め、占領した漢民族の女は売り、男は反乱や謀反を企てさせないよう兵士(徴兵)へと追いやられてしまう。

そうして俄か拵えの何万何十万の兵士で、隷属となった高麗佞臣の進言により船を仕立てて日本を襲う計画を立てた。

 

遊牧民族である彼らの指導部層は「なんでわざわざ海を隔てて遠征する必要があるのか」。と訝しんだ。高麗族は「はい九州には温泉があります」と、どこで聴き込んだのかそう吹聴した。「ん?温泉に行きたいのか?」「いえ、温泉に浸かるのではなく採取です。温泉では火薬の原料である硫黄が採れます」

そこでこれまでの戦いでもっと多くの火薬の必要性を感じていた蒙古王クビライは、「ならお前たちが船を造って我々に従軍し兵站や武器輸送もやれ」となった。

そして文永11年(1274年)10月3日、約4万の兵を約九百艘の船に積み込んで朝鮮半島の合浦を出港。単純計算だと1艘に約44人積み込めるからそんなに小さくはないし武器や食料も詰める。

同年10月5日 元寇は宋資国らの治める対馬に猛然と襲いかかってきた。

宋資国以下島民たちは果敢に戦った。が何しろ多勢に無勢。島民に残虐非道な仕打ちをしたあと蒙古軍は次に10月14日壱岐に侵攻、そうして元寇九州北部へ上陸。

 

 

【承】多分皆さん上の絵図一度は教科書等でご覧になっている筈の「蒙古襲来絵詞(えことば)」で二度従軍した武家の竹崎季長が、体験図を絵師に細かく指導して書かせた第一級の歴史史料で、当時鎌倉時代に火薬「てつはう」(鉄砲)が初めて登場している。1543年ポルトガル人が種子島に鉄砲伝来するより250年も前だ。

これを書かせた竹崎季長の蒙古軍と対戦した命懸けの驚きは到底言語に尽くせず、思わず私財をはたいてその興奮をビジュアルで残させた気持ちも分からなくもない。昔ベトナム戦争を扱ったマイケル・チミノ監督の「ディアハンター」とかジョン・ボイトの「帰郷」とか戦争の恐怖体験を映像に納めた映画に劣るものではない。

絵を見ていただきたい。中央付近左側に着物に長靴のような蒙古兵が弓を射ているその右に花火玉のような砲丸が破裂しているでしょう。

中国の年表では1069年 羅針盤、火薬の発明、木版印刷とある。だから鉄砲或いは大砲の可能性もある。

またこの頃の馬は打ち上げ花火のような爆破音に馴らされていないのか怯み、中央右の馬首が下に垂れ下がって騎馬武者を振り落しているのか空馬が描かれている。

それだけ火薬の強烈な戦争体験を本土防衛参考記録として残しておきたかった防人の使命さえうかがえる。

しかし、そんな勝手が違うような戦さで怯むような日本武士道ではない。埋伏の計など織り交ぜながら後退するが、元寇は進撃してこない。騎馬軍団の馬が積載されていなかったのだ。そして夜間になると海岸近くに戻って野営する。そこに夜襲をかける。元軍が船に戻ったところを小舟で夜討ちをかける。これを絶え間なく繰り返すうちに。夜の酒盛りをする蒙古軍の戦意は次第に勢いが失せていった。

食料だって陸地ならたき火で暖かい肉が食べられる。所詮寄せ集めの混成部隊、厭々引っ張り出されていつ夜中に襲われるか知れない狭い船内、こんなところはもうまっぴら。と元軍の士卒は思っていたに違いない。

種々の史料を捲ると元・高麗軍の士気はそんなところだったのではないか。

 

 

【転】さて、それではそろそろ今回のテーマである「元寇に対して神風は吹いたのか」に沿って的を絞っていきます。

 

 

ところで一般的には元・高麗軍の第1回目は文永11年10月20日、博多湾岸に上陸し合戦したとある。それは西暦・グレゴリウス暦では1274年11月26日となる。(当時はユリウス暦であったが現代暦に換算)この季節には台風はこない。この時期南海の海水温が台風に適した26.5℃以上ではないからだ。戦前・戦後を通じての不動の定説だった「神風」説に対して、根本的な疑問を呈した人物は福岡管区気象台に勤務した荒川英俊氏でその説によると、統計に明白なように11月後半に九州に上陸した台風はない。

上陸日時が遅い台風 ↓

http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/statistics/ranking/late_early_g.html

 

荒川氏は、遠洋航海に堪えうる大型船が沈むのは、台風以外には考えられない。神風は吹かず、遠征軍は自主的に退去していった。これが昭和33年(1958年)に発表された荒川氏の主張骨子である。

 

また「勘仲記」に10月20日、京都の天気は晴れで、「朝霜太」とある。その頃は地球温暖化ではなく10月に氷点下の霜が降りること。また12月14日討ち入りは雪だったという定説から読み解けることは、当時の博多湾近辺は今と違って寒かったという事。

しかし寒いからと言って、草原のようにたき火をすることはできなかったろう。

10月20日寒冷前線が南下して北風が吹き船の上は揺れて寒かったに違いない。

それは厭戦気分に拍車をかけるような天候だったに違いない。

 

いかに元・高麗軍と雖も気象学に通じて深読みできた者はいなかったのだろう。

そしていわゆる元寇(弘安四年夏の頃、閏7月)は蒙古軍が高麗の東路軍と征服した宋、江南軍計14万の大軍で当時の戦艦数千艘を順次繰り出して北九州沖に展開させてきたが、遊牧民族蒙古軍得意の騎馬軍団も積載かなわず進撃できないことや停泊中に倭軍の小舟による夜討ち(夜襲)に遇い続けたとある岩井三四二さんの「異国合戦」では元軍側は糧食融通など連環の計のように三千艘の戦艦を板で繋いで集団安全性や利便性を優先した。台風暴風雨が続いたある朝それら戦艦が急に見えなくなった。いやよく見ると船腹に船同士がぶつかり破壊されたのか連環が裏目に出て避けられず巻き込まれて沈んでいく蒙古軍船が遠目に見える。海面には物資や蒙古兵やらの戎衣が漂っている。----と詳しく述べられています。

 

--そうすると前述の竹崎季長が、体験図を絵師に細かく指導して書かせた中には元軍船や日本軍の家屋での軍議風景は見られますが、戦果を表現するべく敵の沈没船や嵐などの絵やなんらかの痕跡が見当たらないのはどういう事でしょう。元軍船が沈んでいくさまなり、なんらかの暴風雨の絵が描かれていて当然だと思いますが、それが無いということは、現在伝えられているような元寇撃退の現象としての「神風」は当時一般的に認識されていなかったか、日本人の自然を敬う信心次第、そうぞうの集合体次第で歴史を塗り替える奇蹟も起る可能性があるということでしょうか。

 

 

さてこれらの事象から結論に導くべくまとめていきます。

 

【結】当時の船の主な動力源は?……風ですね。大航海時代が15世紀半ばから17世紀半ばでこの頃はまだ帆を張った帆船でしょう、布か板かの。

その大航海時代でも風を読まなくては思ったところには行けません。

例えば帆船で南下するには北よりの風を利用する秋~冬場で、逆に北に行くには南風(はえ)の吹く春~秋場でしょう。

元・高麗軍の船内の一部食料が腐り食中毒から伝染病、船内感染や夜討ちなどで夜もおちおち眠られない厭戦気分が蔓延してきていたことや、さらに思うような風が吹いてくれるかどうか不安に陥っていた。……北へ向かう南風が吹かなければ来年の春まで留まらなければならない。遊牧民族である彼らは、もしかしたらもう草原のモンゴルに帰れないのではないか……。

 

そんな時、そこに待っていた南からの風が吹いてきた、これは千載一遇の好機と見て元・高麗軍はその風に乗って我先にと逃げ帰った。半月型の急造船ゆえか、はたまた船頭船員の熟練不足なのか、多くは脆い船腹から衝突により浸水し海底に沈んだ。

逃げる元軍船に我先に大将首を挙げんと小舟で追っかける日本武将たち。こうなるとどっちが狩猟民族だか・・・・・・。その意気に呑まれたのか船足の遅い元軍は士気の低下もあったのだろう次々と武士に乗り移られて元兵は船底に隠れるか海中に避難したりして這う這うの態で朝鮮半島に逃げ帰った。

また志賀島沖合で沈んでいる船の竜骨が見つかっている。多くの元軍将兵が海中に沈んだのだろう。農耕器具などと共に。

 

それでも生きて帰れた者がいるだけでも幸せだ。

それは日本軍にしても同じだろう。何の恩賞、領地も貰えない防戦の無益な戦さ。

それがいきなり南から風が吹いたかと思うや、それまで海面を覆い尽くす雲霞の如き敵の大船団があるとき、さっと蜘蛛の子を散らすように我先にと退散していくではないか。

おおい、大将首待てえーと追っかける武将。

 

大宰府、幕府、朝廷にしてみれば、ひとまずこれで厄介払いができて安堵したことだろう。

その南風、史料等から客観的に眺めるにそんなに大暴風雨でもなく季節外れの単なる南風か東風ではなかったろうか。

つまりのちにこれを「神風」と謝意を以って崇め称したのではなかろうか。

然しどちらにとっても好都合な神の助けの風……それこそ「神風」が吹いたのである。

 

 

これでめでたしめでたし。だが、今度は新たな疑問が湧いてきた。「漢委奴國王」の金印の問題である。

江戸時代(1784年4月12日)福岡藩内の志賀島の農耕田で甚兵衛という百姓が発見し届け出た金印で「漢委奴國王」とあった。

 

もしかしてその元・高麗軍が日本を占領したらその屈辱的な金印を授与し代理統治させるつもりだったのではないか。

 

しかし、そうすると年代的な乖離がある。

漢委奴國王は女王卑弥呼のずっと前、弥生時代(西暦57年)で中国では後漢、光武帝の時代のこと。

一方天才少女卑弥呼が登場してくるのは大和朝廷時代の239年で中国の史書「魏志倭人伝」では中国はいわゆる三国志で知られる魏呉蜀の三国時代で日本からの使者を「邪馬台国の王・卑弥呼」と記している。

時代錯誤にしても「漢倭奴國王」金印を元寇の落し物に結び付けるのはいくらなんでも無理があろうというもの。  

そうすると、今度は中国内蒙古か朝鮮半島に元寇時代の神風が吹いたなどの史料がないか都立図書館か国立国会図書館等で洗い直しする必要が出てきた。  (吟)

 

 

 

【参考文献】服部英雄・著「蒙古襲来」

       湯浅治久・著「蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡」

       岩井三四二・著「異国合戦」      他・Wikipedia 参照