今日は七草だ。松の内だから電話でもまだ「おめでとうございます」と冠詞がつく頃だ。
多分こんな感じののんびり世相にあってその太平の眠りを覚ますあの黒船がやって来たんだな。
ううっ、いかんもっと巻いていかなければ、150年前の志士の意気込みに追いつかない。
今年は2018年。150年前というと1868年。ペリー来航が1853年。大政奉還が1867年。1868年は明治元年。だからその間の15年間が、日本にとって最も密度の濃かった大転換の激動の時代だったのだな。
何があったのか? なんでそうなったのか?
事実を基に調査していこう。 (疑問を調べるのも楽しいが、発表するのもわくわくするね。歴史の隙間に光や風をあてるようで)
先ずその頃の関連する主な歴史的事実から俯瞰していくと……。
1776年米独立宣言、1803年米船、鎖国中の長崎に来航し通商を求める。
1818年英船浦賀に来航し貿易を求める。
1825年幕府は異国船打払令を出す。
1834年水野忠邦、老中に就任。
1840~1842年阿片戦争で清国の一部を英国に占領される。
1840年長崎の砲術家・高島秋帆が西洋式軍装砲術訓練を披露。
1844年オランダ、幕府に開国を勧める。
1846年英・米・蘭・露船植民地物色に頻繁来航。
1850年佐賀藩、日本初の反射炉稼働し鉄製大砲の鋳造開始。そのころ海防が盛んに。 (老中・阿部正弘)
1853年6月米国代将ペリー、4隻の黒船艦を率いて浦賀に来航。空砲艦砲射撃などデモンストレーションをして条約批准などを求める。フィルモア米大統領の親書を久里浜応接所で手渡す。将軍家慶薨去。 (老中・堀田正睦)
同 8月幕府、天領豆州韮山代官・江川英龍の指揮で品川沖台場の築造開始。
1854年1月米ペリー代将、今度は旗艦サスケハナ号以下7隻(フリゲート汽船2、帆船5)で再来航。以後旗艦をポーハタン号に移管し、品川沖に並んだ砲台場に畏れて戻り横浜村に上陸。世界情勢を恫喝説明し艦上接待など硬軟混ぜた折衝で日米和親条約を締結させ、下田・函館の二港を開けさせる。(神奈川条約)
またこの頃、慶応義塾の(1万円札の)福沢諭吉が友人たちと異国人を観に横浜まで50kmを歩いて物見見物に来ている。
1854年4月ペリー代将、下田湾に来航。旗艦ポーハタン、汽船ミシシッピ、以下帆船マセドニア、バンダリア、サザンプトン、サプライ、輸送船レキシントン。
1856年在清国米領事だったタウンゼント・ハリスが下田港の玉泉寺を領事館とし、着任す。
なぜこんな辺鄙な下田港に米国総領事が?
江戸まで踊り子号で2時間半。しかも事務所と呼ぶには程遠い漁村の玉泉寺というお寺さんだ。
わざわざ黒船で江戸表まで条約交渉に行き来したとも思えない不便な地である。
不思議だ。疑問は解決すべく下田に飛んだ。
↓黒船のレプリカがあったので多分ここは下田だろう。
しかしここじゃよく分からん。そこの山に登って観てみよう。
いや、こっち側じゃない。反対側だ。
寝姿山とある。 右の紅い花はきれいだな。なんというんだろう。
この下田湾内に7隻の帆船汽船が入ってきて当時の漁師たちは驚いただろうな。
この写真の湾内左下の方にハリスの米国領事館・玉泉寺がある。
あの中央の犬走島にペリーの旗艦ポーハタンが釜を炊いて煙をモクモク出して湾内を威圧していたんだな。
そしてその近くにあの赤と緑のサボテンだか花だかよく分からない草花があった。
道端の花草へ如雨露で水を遣っていたご婦人に、思わず尋ねていた。その花が訊いてくれと言わんばかりに。
昼下がりの下田港、潮の香りがする漁の船が波に揺られ、海面には午後の光がキラキラ煌めいている。
ペリー上陸地の辺りにあるこれは何だろう・・・・・・佇んだ緑と赤のコントラストがふと僕の心を揺らす。
それは、アロエの花だと言う。その情念細やかな話し方はとてもここには表現しきれないが、奥ゆかしさの中に打てば響くような知性が渦を巻いている、女優で言うなら吉瀬美智子か。
目は口ほどにものを言いと云うが、会話を交わす中に互いのやりとり、こんなことを言ってつーかーで分かる方だろう、もっと強い球をクイックで投げてみようか、とか。出し引き 知識、理性、教養、感情の深さを探り合いながら、時々、ああこの方はいい人だなと目の光を確かめながら、時々キラッと輝くのを見逃さずここらへんが丁度心地いい会話かな、と。ジョークも織り交ぜながら、率直に分からないことを質問してみる。
具体的に列記するとペリーはどこらへんに上陸したとされているのでしょうか?とか
何でここ下田を開港地としたのでしょうね。
唐人お吉さんは英語を話せたんですか。
そしてあの山は寝姿山ですか?なんの寝姿でしょう?岩がゴロゴロむき出しているから牛さんでしょうか?とすっとぼけて訊いてみた。
するとそのご婦人、少し照れたように小声で、「女性の寝姿と言われております」
「そうですか。するとどっちが頭でしょう?」
と変な方向に行きそうなので、慌てて舵を切る。「そうですか、沖合から見たら女性の寝姿に見えるんでしょうね。ところで1854年開港一番ペリーはここをマーチングパレードしたわけですね。この地図にある了仙寺まで」
「はい、その頃はこんな岸壁なんかなくて岩ばかりだったので短艇で乗り付けたらしいです」うーん、現地ならではのリアルな取材。
ここで僕は意地悪く「1853年ペリーは浦賀に来航したのになんでこんな辺鄙な漁師町の下田を開港地にしたんでしょうかね」
そして目の表情、光を追っていくと、なんとも艶やかな潤いのある瞳がしなやかに応えてくれた。
「できるだけ江戸から遠いところにしたかったんでしょう」
口よりも目が語っていた。察した。そうか、ここの当時の領主はできた人だったのだな。
江戸幕府はここ天領豆州韮山代官、江川太郎左衛門英龍に厄介な外国関連を押し付けた。
そしてペリー来航時内政を担当していたのが老中阿部正弘で外交を担っていたのが下総佐倉藩主で老中の堀田正睦。
当時の阿部政権は尊攘派、朝廷、水戸学など海防を唱える国内反対派の声を無視して開国、自由貿易へと破滅の道へと踏み込んでいった。
裏には締め付けを嫌がる大奥の阿部支持や外国貿易で富国強兵を目指す考え方もあり、日本の今後の在り方も幕藩によって温度差がまちまちであった事と、清国で阿片戦争から香港島などを植民地化された脅威も開国に舵をきったものとみられる。
ただ、日米和親条約で止めておけば良かったものを、老練なハリスに執拗に迫られ1857年5月日米下田条約に調印してしまった。
その頃、老ハリスは胃を悪くして看護婦の派遣を幕府に要請している。
幕府、特に堀田正睦はこれはハリス懐柔、籠絡のチャンスと思ったか、いや当時日本に看護婦が無かったから勘違いしたのかもしれないが、ハリスの元にお吉という酌婦を派遣した。
これが世に名高い「唐人お吉」という有名な伝説を産み出し、今では地域の観光産業及び雇用にも一役かっている。
よく考えたら分かる事だが、ハリスは唐の人ではない。米人だが、唐とまんざら無関係でもない。清国の領事をしていたのだから。しかし、米人お吉とは言わない。
しかし、堀田正睦もよく調べもせず、下田奉行・井上清直や目付・岩瀬忠震の注進を鵜呑みにして斎藤お吉には許嫁の鶴松がいたことを調べなかったところに手落ちがあり、それが幕府瓦解の蟻の一穴だったとはよもや気が付かなかったろうて。
さて時を戻ってかのペリー代将は上陸してその後どうしたか?
どうやらパレードをしたようである。ペリーロードを。
どうだろう、スマホできれいに見えるかな
それでは下田のレトロなペリーロードをお楽しみください。
これは下田の名士旧澤村邸のなまこ壁
今日はこれで おしまい(。´・∀・)ノ゙ バィバィ~