朝寝坊弁慶のささやかな交湯録 -92ページ目

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

新型コロナウィルスが蔓延しています。国は新型コロナについて責任を放棄したのか、明確な評価をしないし、政策も迷走しています。自分のスタンスは自分で決めなくてはいけません。

 

夜の街を徘徊すれば日本国民は民度が高いとは程遠く、居酒屋にはコロナ以前と同じような騒ぎ方をしている集団もいて、通りを歩けば普通にカラオケの声が聴こえてくるわけです。自分が感染者だと想定して、うつさない行動を基準とすれば、そんなこともなくなるはずなんですが、これは社内でもなかなか理解してくれる人がいない。
 
 
 
日々の検温はもちろん、強い倦怠感を感じたり、階段を登ると以前より苦しかったので、オキシメーターを購入してみました。異常を感じたら測定してます。ただ階段で苦しいのは、自粛で太ったからですが。
 
幸い家から京都まで行こうとすると、新幹線の乗り継ぎだけで済みます。新幹線の換気は計算上8分で入れ替わるそうなので、乗っても大丈夫だということに決めました。市内の交通手段も混雑していたら歩けば良いのです。プレコロナだって京都駅から八坂神社までは普通に歩くことがありましたからね。

さて、
 
京都駅から山陰線に乗って花園駅で降りて荷物をデポし、駅の反対側へと歩かなくてはならないのだが、目的地はちょっと離れているので、地図アプリで確認しながら向かう。
 
 

 
木嶋坐天照御霊神社
 
「このしまにますあまてるみたまじんじゃ」なんて、とても一回では覚えられない読み方の神社は、簡単に木嶋神社とか蚕ノ社と呼ばれている。
 
 
 
鳥居をくぐりまっすぐ進むと正面に拝殿がある。社務所を思われる建物、蔵と思われる建物などが右側に並んでいるが、お守りの配布などをやっている気配はない。
 
 

拝殿の奥に本殿がある。拝殿の写真の右側になんとなく写っているが、本殿の右手には蚕養神社があって、それで蚕ノ社を呼ばれている。養蚕の技術を持っていた渡来人の秦氏との関連が推測されるし、近くの太秦は、秦氏の拠点だった場所でもある。太秦を「うずまさ」と読むのは、絹布がうず高く積まれた様子から朝廷から兎豆満佐の性を与えられ、太秦に当て字したらしい。
 
神社はすでに701年に文献に登場するの京都に都が誕生するよりも古いが、社殿はすべて明治以降の再建となっている。
 
 

 

木嶋神社の最大の特徴は、全国で唯一ここにしかない「三柱鳥居」の存在である。中央の石組は本殿御祭神の神座である。

 

補修中らしく足場が組まれているのが残念だが、実はこの三柱鳥居の建っている場所は池の中である。もともとはこの神社から湧き出した泉により池となっていた場所なのだが、その水位が下がって枯れてしまっている。その名を元糺(もとただす)の池と云い、周囲の森を元糺の森という。そして、この元糺の池に土用の丑の日に手足を浸すと諸病にかからないという信仰がある。現在でもその時だけは水を汲み上げて祭式を行うそうである。

 

これはまさに下鴨神社の糺の森、御手洗池、みたらし祭との関連が想像されるがどうなのだろうか。

 

下鴨神社の起源は、木嶋神社より古く紀元前にすでにその存在が記録に残っているが、こちらは元糺であり、あちらは糺である。どのような関係になるのか興味深い。

 

  

 

こちらは末社、椿丘大明神である。この建物の中に祠がある。小さな祠がだか、供物等は必ず持ち帰ることと書かれていたのは、この祠が信仰厚く御供物が供されるというこの証なのだろう。

 

 

 


周囲にも小さい祠がいくつかある。

 

 

雨が降って来たので駅方面に戻り、妙心寺を目指すことにすると、途中に鳥居が見えた。

 

 

 

 

今宮神社

 

京都には紫野にもうひとつの今宮神社、吉田山の吉田神社には今宮社あるが、全て御霊会(ごりょうえ)に起源があるされる。御霊会はもともとは怨霊を鎮める為の国家的行事であったが、それを民衆は疫病を鎮める行事として展開した。祇園御霊会、つまりそれが祇園祭の起源だというが、祇園社(八坂神社)の御神体も、こちらの御神体も素戔嗚尊である。

 

 

 

疫病退散ならちょうど良いのでお参りして御朱印を頂くことにした。社務所の呼び鈴を押し、御朱印帳を預けてしばし拝殿から本殿を眺めていると、蝉がことのほか賑やかに鳴き始めた。

 

 

 

雨が上がって良かった。

 

ね。


 

 

 

珍しくまじめに企画書を書いた新しい倉庫が完成したので、引越しのお手伝いに静岡に集団で出張した。総勢9人の予定で実際は8人になったが、車3台で春日部、入間、八王子にそれぞれ集合して向かった。私は入間組で、なおかつ好き勝手を通しやすくする為に、あえて車両もだした。
 
 
 
生憎の天気だったが、外での作業中は雨も上がった。多少、蒸し暑かったが、それは仕方ない。当日はひたすら作業して打ち上げの宴会を厳かに実施し、2次会もなくおとなしく寝た。

 
 

翌朝は8時起床、帰りは新東名でまずは清水PAに立ち寄った。

 
 
 
ここのPAにはバイクライフを提案するショップや、バイクのレンタルショップもあって、おもしろい。
 
 
 
同乗者の海鮮丼コールが煩く、どうせ11時くらいまで開店しないだろうと立ち寄って諦めさせようとしたところ、10時開店だったので30分待つことになり、作戦は完全に失敗だった。
 
次は朝霧高原の牛乳を飲みたいということになったので、こちらとしても山梨に抜けるのにそれは便乗させてもらうことにして、富士宮で新東名を降りる。窓の外の看板を見て、今度は富士宮焼きそばならまだ入ると言い出したが、それは完全無視することにした。
 
そしてひさびさの山梨市である。
 
 

 

岩下温泉旅館

山梨県山梨市上岩下1053 TEL 0553-22-2050 FAX 0553-22-2067

 

新館の駐車場に車を置いて、旧館を訪ねる。入ると正面右側がカフェになっていて、以前訪問した時とはかなり印象が違った。時節柄検温と住所氏名を記入してからの入浴となる。

 

 
 
歴史を感じる廊下は、奥が浴室となっているが、この撮影は一歩間違えると盗撮で捕まるリスクがある。もちろん帰りがけに風呂には誰もいないのを知ったうえで撮影してるから大丈夫ではある。
 
 
 
なぜ盗撮のリスクがあるかといえば、奥の左側にあるのは男女の内湯、そして右側にあるのは(以前は混浴だった)半地下の源泉槽で、そこの行き来は廊下を渡る必要がある。たまたま撮影した瞬間に裸で横切る人がいたらと考えると、リスクは否定出来ない。
 
 
 
久しぶりに来てみると、半地下の源泉槽は、真新しい板の仕切りで男女別に区分けされていた。以前は浴槽は分かれていても、部屋は一緒だったのだが、いつ頃からこのようになったのだろう。
 
混浴時代の訪問記はこちらになる。
 
まるでプールのような色だと思われるかもしれないが、見た目通りプールなのだ。泉温28℃の源泉である。

疲れた筋肉のクールダウンには程よいかもしれない。我々が出てくると入れ違いに山ガール軍団が受付に群がっており、なるほど、なかなか人気があるようだ。
 
さて、温泉に入ったことだし、またお腹もすいてきたので、次は遅い昼食に向かう。



お食事処 はくさい
080-5033-8931
山梨県山梨市牧丘町窪平453-1 山梨市営温泉"花かげの湯"内
https://tabelog.com/yamanashi/A1901/A190104/19006151/

こちらの温泉施設はこの時はまだ県内からの来館者のみの対応となっていた。

海鮮丼、富士宮焼きそばの同乗者である。食べてばかりいると、こんなお腹になるのである。
 
 

 
おすすめは天丼だというので天丼をお願いした。ご飯は普通にしたので、油さえ乗り切れれば、それほどでもない。



駐車場にはミニひまわりが咲いていた。可憐でひまわりの印象とはちょっと違って、これも良いなあ。胃薬飲んで帰ろう。

ね。
智積院から三十三間堂の手前を左に曲がり進むと養源院と法住寺がある。
 
 

残念ながら養源院は新型コロナによる拝観停止を続けていた。伏見城の床板を供養の為に張り替えた血天井は、かなり生々しいと聞いていたが今回見ることは叶わなかった。
 
 

養源院と法住寺の間には後白河天皇陵があり、参拝時間の案内があったが、鍵がかかっているように見えた。どうやら土日は閉められているらしい。
 
 
 
法住寺は、天台宗の寺院である。従一位右大臣(後に太政大臣・贈正一位)藤原為光が夫人と娘の第六十五代花山天皇の皇后、忯子を弔う為に建立した寺で、その権勢を示すように南は八条、北は七条以上、東は法輪寺、西は大和大路に至るという広大な寺院だった。
 
第七十七代後白河天皇は譲位するにあたり、この地に院の御殿を造設し、上皇として院政を敷き、平清盛に命じて敷地内に三十三間堂を造営した。
 
先に拝観した妙法院は、後白河上皇が43歳の時に授戒し法皇になったのちに比叡山から移したもので、法皇を第一世とする門跡寺院となったのだが、もともと法皇となった時に住まわれていたのは、この法住寺であった。法王亡き後、その御陵を守ってきたわけだが、明治維新により天皇陵は宮内省の管理となっている。
 
 

 

 

 

 

 
本堂
 
本尊は慈覚大師作の不動明王で、「身代わりさん」と呼ばれて信仰されている。また親鸞上人作の阿弥陀如来像、蕎麦喰いの坐像がある。山科に住んでいた大石内蔵助は、この不動明王に大願成就を祈願におとずれていて、この法住寺を浪士の会合に利用したりしたことから四十七士像がある。
 
 
 
境内のある蓮の鉢植え。
 

 

 

 

 

 

御朱印は本尊の身代わり不動尊であるが、後白河法皇、親鸞上人の蕎麦喰いの御真影、赤穂義士なども選べるようで、種類は豊富だった。

 
 
法住寺からは三十三間堂に向かい、さらには方広寺を散策したが、ここからは時間との競争でかなり急いだ。七条からの道すがら、「まむし」と書いた雰囲気のある鰻屋があって帰りに寄りたいと思ったのだが、それも諦めた。
 
 
 
 
豊臣秀吉を祀る豊国神社はここからお参りして通過した。元々の豊国神社は家康により廃されたが、明治維新で方広寺の大仏殿跡に再興されたのが、現在の豊国神社である。朝廷にしてみれば幕府を造って権力を奪った徳川よりも、天皇の権威の元で天下を治めようとした豊臣の方が忠臣というわけだ。
 
方広寺の大仏は、とうの昔に無くなってしまった物だとばっかり思っていたが、確かに何回も壊れたり燃えたりしながらも復興され、最後の大仏は天保年間に再興された。そして1973年に焼失している。弁慶が刑事コロンボに憧れていた頃の話だ。
 
調べるとその変遷は紆余曲折なのであるが、そんなに興味はないのでスルーする(爆)。
 
 
 
豊国神社を通り抜けて最初にあるのは鐘楼である。まずはその大きさに驚かされるが、この鐘こそが豊臣家滅亡につながる方広寺鐘銘事件の鐘である。今でも国家安康、君臣豊楽と書かれたままだということは、家康も実は気にしていなかった証だと思うが、いずれにしろそのような文字列を気にせずに書いてしまったことは、やはり豊臣側に隙があったということだろう。
 
 
 
こちらが方広寺の本堂があるが、鐘の大きさに比べると小さな本堂である、こちらに御朱印授与所があったが、御不在だったので御朱印は諦めた。
 
 
 
方広寺から大和大路を渡たると耳塚がある。秀吉の朝鮮出兵から帰国した武将がその武勲の証として持ち帰った耳や鼻を、この地に供養したものである。
 
 
 
五条大橋を渡って向かったのは、すでに書いた鉄輪の井である。
 
川の端に自転車で来て読書をする人が見えたが、なんとなくうらやましいと感じた。普段、京都に生活していない私は、京都で過ごす時間を惜しんであくせくと動いてしまう。
 
 

体調悪いかもと思いながら、終わってみればこんなに歩いている。
 
 

ちなみに前日の比叡山と歩数だけならほとんど変わらない。
 
 
 
遅い昼食は新幹線の改札内で買った。コロナの影響か改札内のお弁当コーナーが無くなってしまったので、いつもとは違う鮭の弁当にした。
 
ね。
智積院へは妙法院から三十三間堂に向かう途中で立ち寄った。
 
 
 

真言宗智山派 総本山智積院 金堂

 
光秀と同じ桔梗の紋が見えるが、この桔梗紋は秀吉の子鶴松の菩提を弔う祥雲禅寺から受け継いだ物である。祥雲禅寺を造営した奉行が加藤清正で、加藤清正の紋といえば真ん丸の蛇の目だが、秀吉から賜って使っていたもう一つの紋が桔梗であったことによる。なぜ関係の無さそうな祥雲禅寺を受け継ぐことになったのかといえば、まさに戦国時代の栄枯盛衰なのである。
 
 
 
智積院はもともとは根来山大伝法院の塔頭であった。秀吉のよる根来攻めの時に全山焼討ちにあったが、住職であった玄宥は直前に弟子共々高野山に逃れ、のちに再興に尽力をした。苦節十数年ののち、家康から豊国神社付属の寺院を賜りようやくこの地に智積院を再興した。豊臣氏の滅亡後、更に祥雲禅寺を与えられ併合し、今に至っているという。

 

 
 
金堂の右手にある明王堂は、明治期に四条寺町の大雲院の本堂だった建物を移築したものである。現在の大雲院は八坂神社のすぐそばにあるが、以前は四条寺町にあった。大倉財閥の創始者である大倉喜八郎旧宅を買い取って移転したが、あの祇園閣(銅閣)は、その大倉喜八郎が建設した物だという。
 
 
 
金堂の裏には紫陽花園があって、ちょうど満開となっていたので、賑わっていた。紫陽花の咲いているうちに京都に行けたらいいなと思っていたが、どうにか間に合ったわけである。
 
 

 

拝観料を支払ってみることができるのは収蔵庫と名勝庭園「利休好みの庭」、および庭に隣接する講堂と書院の内部である。撮影禁止の収蔵庫には長谷川等伯らによって描かれた祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画などが収められている。

 

庭へは唐門をくぐり講堂へと上がる。

 

 

 

庭園を眺められる講堂の広間でしばらく休むことにした。左に立ってるのが羅漢石で、僧が滝に向かって合掌している図だという。智積院を訪れるとはあまり考えていなかったので、そんなことはまったく知らずに庭を眺めていたのだが、ふと、この石が僧侶みたいだなと気が付いた。そうすると築山の白い石が観世音菩薩のように見えてきて、池の奥から鯉が背鰭を水面で裂くように泳ぎ出てきてくる様子が、龍のように見えた。やはりまだ意識が朦朧としていたのかも知れない(爆)。

 

こうして改めて見ると、むしろ正面の石が仏が合掌しているかのように見えるが、白い石は観世音菩薩には見えない。

 

 

 

講堂の布袋唐子嬉戯の図は月梢道人作。特に撮影禁止の表記はなかったが、一般的には襖絵等は撮影禁止が普通なので、はたして本当に撮影して良いのか悩んでしまう。もしかしたらどこかに書いてあったかもしれないと不安になる。本当にどうしようもなく日本人なんだと感ずる。でも一応撮っておく。駄目なら消せば良い。これもどうしようもなく日本人である。

 

ところで、あの撮影禁止というルールは、大嫌いである。いちいち目で見た物を覚えておける記憶力があればともかく、そんなものはあるわけがない。およそ通り一遍見たら忘れる。確かにそれでも記憶に残るような素晴らしい物もあるかもしれない。それは、どのくらいの確立で会えるのだろうかと思う。出会えれば幸せだろうと思う。その場ではそこまで良いと思わなくても、後で見返すことでまた別の感情が浮かれることもあるし、興味を持って調べたくなる物もある。できればそうしたい。

 

さて、智積院は広くまだまだ見るべき物があると思うが、あまりにもくつろいでしまったので、先を急ぐことにした。

 

 

 

入口に戻って行くと、寺紋の桔梗も咲いていた。

 

 

 

御朱印は本尊の大日如来である。

 

御朱印所は入口を入るとすぐ左側にある。御朱印帳を最初に預けて帰る時に受け取ったのだが、どうやら別の方と勘違いをされた御詠歌も書いてしまわれたとのことであった。そんなことも一興である。

 

 

 

ちえをつみ とくをみがくの てらなれば このよをてらす のりのともしび

 

そんな偶然から「のりのともしび」って何?と思ったりするから、それを調べるわけであり、仏前にともす灯明であると知ることになる。

 

ね。

 

体調不良で、わずか一駅だが七条駅までは京阪に乗った。不安はあったが大丈夫そうなので散策を再開してまずは妙法院まで歩く。



妙法院は天台宗五門跡のひとつに数えられる名刹であるが、何をおいてもあの三十三間堂を有する蓮華王院を塔頭に持つお寺なのである。

残念ながら妙法院は普段は一般公開を行なっていない。しかし、参拝すれば御朱印も頂けるし庭を眺めることもできる。



寺務所は本堂の左手にある。

御朱印は現在、書置でしか対応していない。御朱印帳からの感染を警戒してのことではないかと思う。天台宗五門跡の御朱印帳を集めようと思っていたが、残念ながら妙法院にはないらしい。

 

御朱印をお願いするとパンフレットと清浄歓喜団というお菓子を頂いた。志納料は300円である。

清浄歓喜団とは奈良時代に遣唐使によってもたらされた唐菓子の一種だそうで、製造元の亀屋清永は、その製法を比叡山の阿闍梨から伝授されたということが説明されている。

亀屋清永
075-561-2181
京都府京都市東山区祇園石段下南側534 
https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260301/26005883/



庭園の普賢堂

重文の本尊普賢菩薩、後壇には元三大師、五大明王像が祀られている。



宸殿はちょうど掃除中であった。前の通路がそれほど広くないので、奥行きをもって全体を撮影するような構図にならない。



七卿碑

幕末に尊王急進派である三条実美以下7人の公家が妙法院の眞殿に集結し、協議のうえ西国へ落ちたことを伝えるものである。


さて、三十三間堂までの移動だが、約10分ほど歩くことになる。



三十三間堂の入口はまるで三十三間堂を隠すような構造物で、真ん中に券売所と入口がある。



蓮華王院 三十三間堂

清水も根本中堂もそうだが、三十三間堂も工事中でその全容が見え無い。手前からは気にしないように見ればそれらしくみえるが、



奥からはまるで見え無い。反対側の通し矢を行う廊下もまるで見え無い。



境内の法然塔

土御門天皇が後白河法皇の十三回忌で六時礼賛という法要を修した時に、参集の人々に写経を勧めたということを記念するものである。



夜泣泉(よなきせん)

本当は酉をへんに書い泉(酉泉で1文字)と書く。堂僧が夢の御告げにより発見した泉だが、夜になると静けさから湧き出す音がすすり泣く声のように聞こえるらしい。いつの頃からか地蔵尊が置かれたが、転じて子供の夜泣きが治るお地蔵様となった。



太閤塀

秀吉の作った物だが、もともとは方広寺の境内の南限を示す南門から連なる塀であって、ここまでが方広寺というわけだ。それが三十三間堂をも飲み込んで作られている。

時の権力とはやはりすごい物で、後白河法皇が平清盛に作られせた物を、秀吉はいとも簡単に取り込んでしまったわけだ。


外周をひと回りしてから堂内に入った。仕方ないけれど堂内は撮影禁止なので、何も紹介できない。拝観者はそれなりに少ないのだと思うが、今回参拝した寺社の中では最も多く、先に進むのに気を使う場面もなくはなかった。横川の根本中堂と同じように中央の本尊の周りに写経をする場所があるのだが、全く落ち着かないのではないかと思う。



さて、いずれにしろ御朱印帳がいっぱいになったので、曼殊院門跡から妙法院門跡塔頭蓮華王院へと移行した。



御朱印は堂内の本尊の近くで頂く。観音菩薩なので大悲殿である。

ここもコロナで書置のみ(御朱印帳からの感染拡大を防ぐ為)であったが、御朱印帳を購入する場合は直書きして頂けた。

前にも書いたように妙法院門跡には御朱印帳がないらしい。そこで塔頭である蓮華王院の御朱印帳をその代わりということにした。残すは毘沙門堂門跡と青蓮院門跡となるが、五門跡の御朱印帳を集めるといっても、ただ買うのではなくてちょうど切り替わるタイミングで揃えると決めている。共に紅葉が素晴らしいお寺である。ちょうどその頃に行ければ良いのだけど。

ね。