朝寝坊弁慶のささやかな交湯録 -91ページ目

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

忙しくてボロボロです。このご時世、そんなことを言うとうらやましがられるかもしれませんが、会社は全面的に社員の募集を出しておりますが、ほとんど応募がございませんよ。入社してくれないと、ブログ書く時間がますますなくなるので、お願いします。

それに、私がどんなに忙しく働いても、私の収入は増えないですから!

 
さて、随心院から本来なら西に向かって深草少将の邸宅のあった深草を目指すべきなのかもしれないが、目指すべき場所は事前予約が必要らしい。
 
地図を見ると南に道なりに行けば醍醐寺があるので、南下する。
 
 
 
醍醐寺 三宝院
 
下調べも何もしていないので、醍醐寺ではとりあえず拝観受付らしき場所に行って拝観チケットを購入する。説明では、こちらの三宝院の他、伽藍、霊宝館は無料で入れるのでぜひとのこと。
 
御朱印所も三宝院の中にあるそうなので、まずは三宝院に上がる。
 
 


三宝院の本尊は弥勒菩薩であるが、初めての醍醐寺なので御朱印は醍醐寺の本尊である薬師如来を頂く。

 
さて御朱印を頂いたが、実は三宝院で拝観を出来るのは大玄関まで。その先は特別拝観料が必要だとわかった。なんだか二重課税的だと一旦玄関から外に出る。
 
 
でも外から眺めた庭園は美しかったし、なんだか奥に見える建物(純浄観)も気になるじゃないか。せっかく来たのにここで引き返すのはちょっともったいないよな、と思い直して特別拝観料を支払って奥に進む。
 
 
 
表書院から眺めた庭園。手前右に見えるのが亀島で、正面奥が三段の滝。更に左上に見え隠れしているのが枕流亭。亀島の先の橋を渡った方向にあるのが藤戸石。
 
豊臣秀吉が醍醐の花見の折に基本設計をしたという。
 
 
 
本堂は内部には入れなかったが、特別公開で通常非公開の純浄感、奥宸殿には入ることが出来た。
 
 
 
裏の建物。非公開なので名前もわからないけれど、あのレトロなガラス戸がすごく気になる。古いちょっと波を打っているかのような微妙な表情を持つガラス板。子供のころ、今はもうない本家の居間のガラス戸がまさにそんなレトロなガラスだったので、懐かしい。
 
 
 
絢爛な唐門(勅使門)は、無料で外から眺められる。その唐門を左に見ながら伽藍へと向かう。
 
 
 
仁王門でチケットのチェックがあるが、ここに通じるのが桜馬場という通路で、桜の枝が張り出しているので、仁王門の全景は直近にならないと現れない。すごく迫力のある仁王像だと感じたが、平安後期の物だとか。
 
 
 
行きは右側を中心に見ていくとまずは清瀧宮本殿がある。醍醐寺の総鎮守清龍権現を祀る。
 
 
 
国宝の五重塔は醍醐天皇の冥福を祈るために、承平6年(936)に着工し、天暦5年(951)に完成した。高さは約38メートルで京都府下で最も古い木造建築物である。
 
でも、なんとなく殺風景というか、樹木が切り倒された造成地のような周囲の様子が気になる。

 

 
 
日月門。ここから奥に広がる堂群を大伝法院と呼ぶ。これらは醍醐天皇一千年御忌を記念した昭和5年の建立。
 
 
 
観音堂
 
殺風景な周囲の理由がなかった。これらはみんな台風の被害なのだ。この観音堂もまた被害を受けている。伝法学院は

屋根も落ち、立ち入れない状況ですらある。

 
 
 
池の先に見えるのは弁天堂である。
 
 
 
弁天堂の奥にある無量寿苑という庭園。
 
 
日月門から戻る。
 
 
真如三昧耶堂には黄金色の寝釈迦像があった。
 
 
 
不動堂
 
比叡山無動寺以来、不動明王がすごく気になるようになった。以前は不動堂といわれても、なにが動かないのかなという程度だったが(笑)。
 
 
 
国宝の金堂
 
当初は釈迦堂が建っていたが二度の焼失にあい、その後、秀吉の命令で紀州から移築されたという。御朱印を頂いた本尊薬師如来像はこちらに安置されている。
 
その後、仏像棟を見学したが当然画像はない。もう少し足を延ばすと光秀の討たれた明智藪があると思ったのだが、歩き始めてみると思いのほか遠かったので、通りかかった駅から三条まで帰った。
 
 
 
先斗町を抜けて河原町へ。もちろん夜は戻ってくるつもり。
 
ね。


 

浄土宗法雲寺

久坂玄瑞、吉田稔麿等の寓居跡とあるが、法雲寺を訪ねた目的はそれではない。それにどうも住んでいたというよりは、寺に謹慎させられていたらしい。



もともと関白太政大臣藤原兼家の邸宅、二条第があった場所で、兼家が出家して建立した法興寺があったが、焼失し荒れ果てて森に戻った。応仁の乱の頃は鬼が出ると人々に恐れられていたが、源蓮社然譽上人が鬼を沈め庵を結んだのだ法雲寺の始まりである。本尊は阿弥陀如来。



こちらがその法雲寺の本堂。ちょっと観光としては訪問しにくい雰囲気であるが、目的は受付の奥にある菊野大明神である。

その御神体は石である。



まずはもう一つの社、豊川大明神。こちらは火災、厄、災難除けの神様。



こちらが菊野大明神。建物の中は撮影禁止なので、説明するしかないのだか、中央に祠があって、この中に御神体の石がある。

その石は悪縁切りの神様である。名前を深草少将腰掛け石という。


元となっているのは百夜通いの伝説である。深草少将は紫式部に求愛し、百夜通ったら願いを叶えましょうと言わる。そこで、ひたすら通い続けたが九十九日目の雪の夜に倒れ、そのまま息絶えてしまう。こちらは能の作品なので美しく描かれているが、もう一つの逸話として、九十九日目が雪の夜だったので、家来を代理に立てて愛想をつかされてしまったというのもある。さて、どっちが本当なのだろうか。

この深草少将が紫式部の元へ通う時に途中で休憩したのが、この深草少将腰掛け石なのである。

願いが叶わなかったのが、鉄輪の女と同じで九十九日目なのは、やはり物語だからなのだろうが、なぜか同じように悪縁切りの神様になってしまうのは、なぜなのか。




御朱印を頂き、最寄りの市役所前から地下鉄東西線で小野に向かう。




随心院

真言宗善通寺派大本山で、小野流の開祖、仁海僧正が創建した牛皮山曼荼羅寺の塔頭であった。小野流とは、真言密教を実践する方法と理論により分かれた流派である。

開祖仁会海は雨乞いの祈祷のたびに雨を降らせたので、雨僧正と呼ばれた。



随心院は小野小町の邸宅があった場所でもあり、玄関前には歌碑があった。

花のいろはうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに

「ふる」は「福る」と書かれているのかな・・。



随心院は門跡寺院なので、平安の雅を思わせる装飾や物も展示されているが、やはり小野小町がメインということだろう。



能の間にある極彩色梅匂小町絵図は小野小町の生涯を描いた現代作品である。



洛巽の苔寺と呼ばれた庭園を眺めていると、仏前結婚式をしたカップルが写真撮影の為にこちらに来た。随心院ではそのようなことも積極的に行っているようだ。



深草少将が通う度に、庭の榧の実に糸を通して日を数えたという。九十九日目に倒れた深草少将の手には、榧の実が一つ握られていたというから、通う度に小町に渡していたということになる。



曼荼羅寺の塔頭だったので、御朱印は曼荼羅殿。

預けてあった御朱印帳を貰い受け、外に廻る。



薬医門を梅園側から眺める。奥に見えるのは表玄関。映しているあたりには梅園があり、春は美しいらしい。



小野小町化粧井戸は小野小町の邸宅にあり、おそらく小野小町が化粧をしたのではないかと言うことで名付けられた。残念ながら、この時は長梅雨の影響であまり化粧したくないような水質になっていた。

あ、小町文塚を見忘れた。

ね。




宿泊先は昨年の秋に予約しておいた三福である。3部屋しかないので、なかなか予約が取れない宿である。
 
それ故、これまでも書いてこなかったし、これからも書くことはないと思っていたのだが、曲げて書くのはコロナで何処もたいへんなのだということだけである。
 
玄関を入ると「お帰りやす」と女将に迎えられ、何することもなくそのまま二階の部屋に案内される。最初に頂くのは大女将のお手製、お付き菓子とお茶。
 
玄関に置いたキャリーケースを大女将が運んでくるのが心苦しい。
 
 
 
もともとは芸妓 三福さんが引いて始めたお茶屋さんでした。
 
 
 
それが宿屋に変わって70年。京町屋の風情もありますが、それなりに老朽化している部分もあります。すべてに心地良く何もかもピカピカで不便もない宿舎をお望みなら、他に幾らでもあるでしょう。基準は人それぞれで何を大切に思うかです。
 
 
 
窓からは鴨川と東山が見えます。左の山は一昨日LEDで大の字の灯った大文字山です。アホな話です。茶化してはいけない部類の事です。でもそんな事を思うのはおじさんになったからで、若い時はそんなことは関係なかった(爆)。

でも、今時こんなことやっちゃうのは、ある意味真面目な京大生くらいなものかと思っていたら、京大OBはTwitterで京大生の仕業と断言していました。

なんでもフランクザッパが京大で講演した時に、大文字山にZの文字を灯した前科があるそうです。
 
 
 
持参の浴衣に着替えて、夕御飯を待つ。
 
ところで左右には川床があるので、あまり窓に近づくとお客さんと目があってしまうかもしれません。2階はちょうど川床と同じ高さなのです。
 
 
 
三福には遊菴というお料理屋さんが併設されています。完全予約制(3日前まで)でお二人様からとなります。その為に今まで利用したことがありませんでした。
 
料理は記憶がないので(笑)わかる範囲で書きますが、付け出しは海老と緑は胡瓜の摺り下ろしです。

祇園祭の間は山鉾町の方々は胡瓜を食べないと言いますが、それは切口が八坂神社の神紋と似ているからと言われています。でも本当はこの時期は胡瓜より青瓜の方が美味いから、それを後付けの言い訳としたのだと何処かで聞きました。何処だったろう。思い出せません。
 
 
 
昨年は急病で前日キャンセルしたこともありますし、今年は5月の予約はコロナ自粛でキャンセルさせてもらいました。昨年秋の生残りの会も無理を言って3人受入れてもらいました。今回はその分少しでもお返しするつもりでお食事を予約させてもらいました。

いつも通り一人旅ですから、連れは先斗町の亜弥さんにお願いしました。いわゆる「ご飯食べ」というやつです。それもあっての浴衣持参です。

 

 
 
この宿を知ったのは昨年の鴨川をどりの帰り道、先斗町をうろうろしていた時でした。

 

京都には宿も一見さんお断りということがあります。早速メールで泊めてもらえるものかどうか連絡させてもらって、最初に予約したのが「京の賑わい」という、五花街合同の南座の公演の日でした。
 
 
 
鱧です。祇園祭は鱧祭とも言います。鱧は梅雨の水を吸ったあとに味が変わると言います。それが祇園祭の頃ということからでしょう。
 
その初めての予約を前日に発熱しキャンセルし、当日にはさらに悪くなって入院したわけです。なんというタイミング(爆)。

 

 
 
今年の初めての鮎は、目の前で串に刺され焼かれます。小ぶりな鮎です。ちょっと楽しみ。

 

 

 
何事もないと通り一遍の関係からなかなか先に進みにくいものですが、何かトラブルがあると一歩踏み込んだ関係になれるということは、仕事でもよくあります。もちろん、どう対応するかが大事なのは言うまでもありません。

入院はそれなりにたいへんでしたが、お陰ですぐに覚えてもらえたような気がします。

 

 
 
鱧の柳川です。
 
そういう関係を面倒くさいと思う人は多いでしょうし、私も基本的に近所付き合いとか全くしないタイプです。親戚付き合いもほぼない。でも、旅先はツテがあるとなにかと楽しい。特に京都はツテがあってこそだと思うのです。

 

 
 
頭から頂ける鮎でした。蓼酢で頂く。
 
知り合い、またその知り合いと6人をたどると、世界中に繋がるという仮説があります。これを六次の隔たりといいます。
 

 

 
京都には行くに行けない、見るに見られない場所がいっぱいありますが、ツテを辿るともしかしたら行きたい、見たいという希望がかなうかもしれません。期待してはいけませんが、そう思えば夢もひろがるじゃないですか。

 

 
 

生意気を言いました。でも、そんなことを感じた食事でした。



ちなみに料理長は女将さんの旦那さんです。料理長の料理は初めてではありません。

 

 いつもの朝食。これも料理長が作っているのです。いつもご馳走様です。

ね。
退蔵院で思いのほかゆっくりしたので、あとは妙心寺だけ参拝することにした。
 
 

 

私が入ったのは南総門からであるが、その左に勅使門があって、そこから大方丈までが直線上に並んでいる。まずは放生池と三門だが、残念ながらこの石橋は閉ざされていて、渡って参拝することはできない。三門もまた非公開である。

 

 


三門の先には江戸時代に創建された仏殿があり、非公開ではあるが正面の扉は開かれており、参拝することはできる。
 
 

その後ろにあるのがこちらも江戸時代の創建となる法堂である。法堂は有料だが公開されている。
 
 

一番奥にあるのが大方丈である。まずはこちらで拝観と御朱印をお願いするが、拝観はガイド付きということで、時間まで少し待つことになる。大方丈に上がり、拝観しながら待つ。
 
 

 

所定の時間に戻り、まずは御朱印を受け取った。限定御朱印などもあったが、お願いしたのは本尊である釈迦如来。

 
この時間の拝観者は私を含めて3人で、すべて男性だった。
 
 

 

もちろん堂内の撮影は禁止なので、パンフレットを写したものだが、狩野探幽作の雲竜図は法堂の天井に描かれている。天井は吊天井になっていて、雲竜図は天井を下に下げて書かれたというが、その創作に費やされた年月は8年にも及ぶという。

 

見る方向によって昇り龍にも下り龍にも見える技法で描かれているが、そういえば雲龍院の屏風の龍の絵も見る角度で顔が延びたり縮んだり変化するものだった。龍の絵は、そのような技法が使いやすいのだろうか。


もう一つの見どころは梵鐘なのだか、こちらは徒然草にも記されているほどの名鐘で、昭和48年までは実際に突かれていたという。我々の世代は行く年来る年で実際に突かれる様子を観ているかもしれないのだが、現在は保存の為、法堂の中に吊るされ、CDでその音を聴くことができる。



昭和48年まで実際に吊るされていた鐘楼はこちらで、現在は新しい梵鐘が吊るされている。


 

 

大方丈の左奥にあるのは大庫裏で、こちらも案内付きで見学する。大法要などの時に何百人もの食事を作る大きな窯の部屋と普段使いの小さな窯の部屋があって、共に窯は四つ並んでいた。当番の僧侶が寝泊りする部屋は一人一畳。建物の真ん中には半地下の食料を保存する部屋があったが、驚くほど冷んやりとしていた。

 

花園駅前から四条河原町行きのバスに乗るつもりでいたが、駅に戻って荷物をコインロッカーから取り出して信号で待っていると、四条河原町行きのバスが通り過ぎていった。バス停まで行き時刻を確認すると20分待ちだったが、そこに四条烏丸行きのバスが来たので乗ることにした。

四条烏丸から河原町まで歩いて行ってもいいかなと思ったのは、途中に御旅所があるからだ。

 

祇園祭の前祭と後祭の間、八坂神社の御神体は鴨川を越えて御旅所にやってくる。今年はそのお清めをする山鉾も、御神体を運ぶ神輿も中止となったが、御神体は白馬に乗ってこちらに移られた。

夏になると街にずっと流れている祇園囃子の音が、今年はちょっとだけ小さい気がする。

ね。
 
 位置関係をいまひとつ把握していないまま今宮神社を裏口から出て路地を抜けていくと、左側に立派な白い土塀が見えた。
 
 
 
臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺
 
なぜだか禅寺には足が遠く、これまで京都に来た中で拝観料を払って拝観したのは(金閣寺、銀閣寺は別として、)嵯峨野の天龍寺の庭園だけである。毎回その中を通り抜けるだけで終わってしまう建仁寺はその最たるものだろうか。東山駅あたりはよくうろうろするのに、もうちょっと頑張って南禅寺までは行こうと思ったことはないし、わずかな時間で泉涌寺に行こうと決めた時に、それでは東福寺にどうするんだとも思わなかった。避けているわけではないのだが、たまたまと言うには無理があることのように思えるが、そうなのだから仕方がない。
 
たしかに大徳寺はちょっと行きにくいなあとは思っているけれど、別に禅寺を避けているつもりはないし、瞑想とかはむしろ興味があるジャンルなので、どこに行こうかと考えた時にかならず上位に名を連ねるのも嘘ではない。
 

 

 

妙心寺は日本最大の禅寺で、境内には多くの塔頭があるが、それらがすべて一般に開放されているわけではない。山門には平成11年6月から一般車両の通行を禁止すると書いてあるが、それまでは一般車両が通行していたということなのだろうか。ちょうど女子高生が自転車に乗ったままで通り抜けようとしていたが、それは特別なことではないようで、普通に近所のおばちゃんも自転車に乗って通り抜けていた。

 

 

 

 妙心寺塔頭 退蔵院

 

妙心寺の40にものぼる塔頭の中でも屈指の名刹で、足利義満の弾圧により妙心寺が廃絶されて竜雲寺となっていた1404年の建立である。特にその庭園は素晴らしいと聞いていたので真っ先に向かった。

 

 

 

庭園に入って中央に垂れ桜があるが、左側を向くと白い砂を用いた陽の庭と呼ばれる石庭がある。

 

 

 

振り返ると陰の庭があり、こちらは黒い砂の石庭となっている。黒い砂と聞いても公園の砂場を想像してしまって美的にどうなのかなと思っていたが、濃淡のコントラストに力強さが感じられ、どちらかというと陰の庭のほうが好みだった。

 

 

 

順路にそって進むと左側に池が広がるが、売店の手前の右側に水琴窟があり、その水滴の音は竹筒に耳を当てるまでもなく、心地よく聞こえてくる。

 

 

 

売店と茶室を通り越えた先から眺める余香苑。左に見える東屋は使用禁止でこちら側に座って眺められる席がある。

 

 

 

せっかくなので茶室でお茶を頂いた。運んで来た売店のお姉さんが、このひょうたんと鰻の姿があしらわれた和菓子について説明してくれたが、この和菓子は老松との共同開発であり、名前を「是什麼(これなんぞ)」と云う。その由来は季節により餡が変わるので、何が餡なのだろうかと考えてもらう為にそう名付けられたのだそうである。

 

そう言われると餡はなんだろうと尚更考えてしまうが、マーマレードのような柑橘類の味わいがあった。金柑かな。

 

 

 

和菓子にひょうたんと鯰があしらわれているのは、退蔵院のもう一つの目玉とされる瓢鮎図による。この水墨画は、如拙が足利義持の命により描いたもので国宝である。もちろんこの画像のものは模写なのだが、方丈にこのように展示されている。

 

瓢箪で鰻を押さえるという禅の公案を描いたものである。禅の公案とは、師匠から弟子に語り継がれる悟りへのきっかけを与えるヒントの問答集のようなものらしく、禅独特のものらしい。

 

 

 

方丈の奥にはもう一つの庭園である狩野元信作 元信の庭がある。もちろん狩野元信は画家なのだが、構図ということでは相通ずる物があるのだろうか。

 

 


御朱印は庭園の名前である余香苑だった。ちょっとストレートすぎるかな。
 
ね。