智積院から三十三間堂の手前を左に曲がり進むと養源院と法住寺がある。
法住寺は、天台宗の寺院である。従一位右大臣(後に太政大臣・贈正一位)藤原為光が夫人と娘の第六十五代花山天皇の皇后、忯子を弔う為に建立した寺で、その権勢を示すように南は八条、北は七条以上、東は法輪寺、西は大和大路に至るという広大な寺院だった。
第七十七代後白河天皇は譲位するにあたり、この地に院の御殿を造設し、上皇として院政を敷き、平清盛に命じて敷地内に三十三間堂を造営した。
先に拝観した妙法院は、後白河上皇が43歳の時に授戒し法皇になったのちに比叡山から移したもので、法皇を第一世とする門跡寺院となったのだが、もともと法皇となった時に住まわれていたのは、この法住寺であった。法王亡き後、その御陵を守ってきたわけだが、明治維新により天皇陵は宮内省の管理となっている。
本堂
本尊は慈覚大師作の不動明王で、「身代わりさん」と呼ばれて信仰されている。また親鸞上人作の阿弥陀如来像、蕎麦喰いの坐像がある。山科に住んでいた大石内蔵助は、この不動明王に大願成就を祈願におとずれていて、この法住寺を浪士の会合に利用したりしたことから四十七士像がある。
境内のある蓮の鉢植え。
御朱印は本尊の身代わり不動尊であるが、後白河法皇、親鸞上人の蕎麦喰いの御真影、赤穂義士なども選べるようで、種類は豊富だった。
法住寺からは三十三間堂に向かい、さらには方広寺を散策したが、ここからは時間との競争でかなり急いだ。七条からの道すがら、「まむし」と書いた雰囲気のある鰻屋があって帰りに寄りたいと思ったのだが、それも諦めた。
方広寺の大仏は、とうの昔に無くなってしまった物だとばっかり思っていたが、確かに何回も壊れたり燃えたりしながらも復興され、最後の大仏は天保年間に再興された。そして1973年に焼失している。弁慶が刑事コロンボに憧れていた頃の話だ。
調べるとその変遷は紆余曲折なのであるが、そんなに興味はないのでスルーする(爆)。 豊国神社を通り抜けて最初にあるのは鐘楼である。まずはその大きさに驚かされるが、この鐘こそが豊臣家滅亡につながる方広寺鐘銘事件の鐘である。今でも国家安康、君臣豊楽と書かれたままだということは、家康も実は気にしていなかった証だと思うが、いずれにしろそのような文字列を気にせずに書いてしまったことは、やはり豊臣側に隙があったということだろう。
五条大橋を渡って向かったのは、すでに書いた鉄輪の井である。
川の端に自転車で来て読書をする人が見えたが、なんとなくうらやましいと感じた。普段、京都に生活していない私は、京都で過ごす時間を惜しんであくせくと動いてしまう。













