法住寺と方広寺 | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

智積院から三十三間堂の手前を左に曲がり進むと養源院と法住寺がある。
 
 

残念ながら養源院は新型コロナによる拝観停止を続けていた。伏見城の床板を供養の為に張り替えた血天井は、かなり生々しいと聞いていたが今回見ることは叶わなかった。
 
 

養源院と法住寺の間には後白河天皇陵があり、参拝時間の案内があったが、鍵がかかっているように見えた。どうやら土日は閉められているらしい。
 
 
 
法住寺は、天台宗の寺院である。従一位右大臣(後に太政大臣・贈正一位)藤原為光が夫人と娘の第六十五代花山天皇の皇后、忯子を弔う為に建立した寺で、その権勢を示すように南は八条、北は七条以上、東は法輪寺、西は大和大路に至るという広大な寺院だった。
 
第七十七代後白河天皇は譲位するにあたり、この地に院の御殿を造設し、上皇として院政を敷き、平清盛に命じて敷地内に三十三間堂を造営した。
 
先に拝観した妙法院は、後白河上皇が43歳の時に授戒し法皇になったのちに比叡山から移したもので、法皇を第一世とする門跡寺院となったのだが、もともと法皇となった時に住まわれていたのは、この法住寺であった。法王亡き後、その御陵を守ってきたわけだが、明治維新により天皇陵は宮内省の管理となっている。
 
 

 

 

 

 

 
本堂
 
本尊は慈覚大師作の不動明王で、「身代わりさん」と呼ばれて信仰されている。また親鸞上人作の阿弥陀如来像、蕎麦喰いの坐像がある。山科に住んでいた大石内蔵助は、この不動明王に大願成就を祈願におとずれていて、この法住寺を浪士の会合に利用したりしたことから四十七士像がある。
 
 
 
境内のある蓮の鉢植え。
 

 

 

 

 

 

御朱印は本尊の身代わり不動尊であるが、後白河法皇、親鸞上人の蕎麦喰いの御真影、赤穂義士なども選べるようで、種類は豊富だった。

 
 
法住寺からは三十三間堂に向かい、さらには方広寺を散策したが、ここからは時間との競争でかなり急いだ。七条からの道すがら、「まむし」と書いた雰囲気のある鰻屋があって帰りに寄りたいと思ったのだが、それも諦めた。
 
 
 
 
豊臣秀吉を祀る豊国神社はここからお参りして通過した。元々の豊国神社は家康により廃されたが、明治維新で方広寺の大仏殿跡に再興されたのが、現在の豊国神社である。朝廷にしてみれば幕府を造って権力を奪った徳川よりも、天皇の権威の元で天下を治めようとした豊臣の方が忠臣というわけだ。
 
方広寺の大仏は、とうの昔に無くなってしまった物だとばっかり思っていたが、確かに何回も壊れたり燃えたりしながらも復興され、最後の大仏は天保年間に再興された。そして1973年に焼失している。弁慶が刑事コロンボに憧れていた頃の話だ。
 
調べるとその変遷は紆余曲折なのであるが、そんなに興味はないのでスルーする(爆)。
 
 
 
豊国神社を通り抜けて最初にあるのは鐘楼である。まずはその大きさに驚かされるが、この鐘こそが豊臣家滅亡につながる方広寺鐘銘事件の鐘である。今でも国家安康、君臣豊楽と書かれたままだということは、家康も実は気にしていなかった証だと思うが、いずれにしろそのような文字列を気にせずに書いてしまったことは、やはり豊臣側に隙があったということだろう。
 
 
 
こちらが方広寺の本堂があるが、鐘の大きさに比べると小さな本堂である、こちらに御朱印授与所があったが、御不在だったので御朱印は諦めた。
 
 
 
方広寺から大和大路を渡たると耳塚がある。秀吉の朝鮮出兵から帰国した武将がその武勲の証として持ち帰った耳や鼻を、この地に供養したものである。
 
 
 
五条大橋を渡って向かったのは、すでに書いた鉄輪の井である。
 
川の端に自転車で来て読書をする人が見えたが、なんとなくうらやましいと感じた。普段、京都に生活していない私は、京都で過ごす時間を惜しんであくせくと動いてしまう。
 
 

体調悪いかもと思いながら、終わってみればこんなに歩いている。
 
 

ちなみに前日の比叡山と歩数だけならほとんど変わらない。
 
 
 
遅い昼食は新幹線の改札内で買った。コロナの影響か改札内のお弁当コーナーが無くなってしまったので、いつもとは違う鮭の弁当にした。
 
ね。