五百佛山 根来山 智積院 | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

智積院へは妙法院から三十三間堂に向かう途中で立ち寄った。
 
 
 

真言宗智山派 総本山智積院 金堂

 
光秀と同じ桔梗の紋が見えるが、この桔梗紋は秀吉の子鶴松の菩提を弔う祥雲禅寺から受け継いだ物である。祥雲禅寺を造営した奉行が加藤清正で、加藤清正の紋といえば真ん丸の蛇の目だが、秀吉から賜って使っていたもう一つの紋が桔梗であったことによる。なぜ関係の無さそうな祥雲禅寺を受け継ぐことになったのかといえば、まさに戦国時代の栄枯盛衰なのである。
 
 
 
智積院はもともとは根来山大伝法院の塔頭であった。秀吉のよる根来攻めの時に全山焼討ちにあったが、住職であった玄宥は直前に弟子共々高野山に逃れ、のちに再興に尽力をした。苦節十数年ののち、家康から豊国神社付属の寺院を賜りようやくこの地に智積院を再興した。豊臣氏の滅亡後、更に祥雲禅寺を与えられ併合し、今に至っているという。

 

 
 
金堂の右手にある明王堂は、明治期に四条寺町の大雲院の本堂だった建物を移築したものである。現在の大雲院は八坂神社のすぐそばにあるが、以前は四条寺町にあった。大倉財閥の創始者である大倉喜八郎旧宅を買い取って移転したが、あの祇園閣(銅閣)は、その大倉喜八郎が建設した物だという。
 
 
 
金堂の裏には紫陽花園があって、ちょうど満開となっていたので、賑わっていた。紫陽花の咲いているうちに京都に行けたらいいなと思っていたが、どうにか間に合ったわけである。
 
 

 

拝観料を支払ってみることができるのは収蔵庫と名勝庭園「利休好みの庭」、および庭に隣接する講堂と書院の内部である。撮影禁止の収蔵庫には長谷川等伯らによって描かれた祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画などが収められている。

 

庭へは唐門をくぐり講堂へと上がる。

 

 

 

庭園を眺められる講堂の広間でしばらく休むことにした。左に立ってるのが羅漢石で、僧が滝に向かって合掌している図だという。智積院を訪れるとはあまり考えていなかったので、そんなことはまったく知らずに庭を眺めていたのだが、ふと、この石が僧侶みたいだなと気が付いた。そうすると築山の白い石が観世音菩薩のように見えてきて、池の奥から鯉が背鰭を水面で裂くように泳ぎ出てきてくる様子が、龍のように見えた。やはりまだ意識が朦朧としていたのかも知れない(爆)。

 

こうして改めて見ると、むしろ正面の石が仏が合掌しているかのように見えるが、白い石は観世音菩薩には見えない。

 

 

 

講堂の布袋唐子嬉戯の図は月梢道人作。特に撮影禁止の表記はなかったが、一般的には襖絵等は撮影禁止が普通なので、はたして本当に撮影して良いのか悩んでしまう。もしかしたらどこかに書いてあったかもしれないと不安になる。本当にどうしようもなく日本人なんだと感ずる。でも一応撮っておく。駄目なら消せば良い。これもどうしようもなく日本人である。

 

ところで、あの撮影禁止というルールは、大嫌いである。いちいち目で見た物を覚えておける記憶力があればともかく、そんなものはあるわけがない。およそ通り一遍見たら忘れる。確かにそれでも記憶に残るような素晴らしい物もあるかもしれない。それは、どのくらいの確立で会えるのだろうかと思う。出会えれば幸せだろうと思う。その場ではそこまで良いと思わなくても、後で見返すことでまた別の感情が浮かれることもあるし、興味を持って調べたくなる物もある。できればそうしたい。

 

さて、智積院は広くまだまだ見るべき物があると思うが、あまりにもくつろいでしまったので、先を急ぐことにした。

 

 

 

入口に戻って行くと、寺紋の桔梗も咲いていた。

 

 

 

御朱印は本尊の大日如来である。

 

御朱印所は入口を入るとすぐ左側にある。御朱印帳を最初に預けて帰る時に受け取ったのだが、どうやら別の方と勘違いをされた御詠歌も書いてしまわれたとのことであった。そんなことも一興である。

 

 

 

ちえをつみ とくをみがくの てらなれば このよをてらす のりのともしび

 

そんな偶然から「のりのともしび」って何?と思ったりするから、それを調べるわけであり、仏前にともす灯明であると知ることになる。

 

ね。