藤田西湖(ふじたせいこ)は特番、徳川、幕府に仕えた隠密を先祖に持つ甲賀忍術術14世として明治32年東京に生まれている。


祖父に忍術の技を教え込まれ、山伏について山中で寝起きを共にする事もあった。

 

父親が警察官で、少年千里眼として捜査協力し全国に知られていて、

身元不明女性の職業、犯人の居場所なども透視。


新聞記者を辞めたのち、政府の特命スパイとして大陸に渡る。

戦時中は陸軍、海軍で武術も教えていた。


植芝盛平(うえしば もりへい)は和歌山県田辺市、明治16年生まれ。


栄光に包まれた人生を送り、田辺市の扇ヶ浜公園には彼の銅像がある。


開拓事業で北海道白滝に入植中、父親危篤の知らせを受け、帰郷の途中、出口王仁三郎に会いたいと思う。


人間と霊界の実相を聞き、思い詰め、大元教の本拠地綾部に一家で移り込み、次第に霊能の世界に感応していく。


出口らと内外蒙古独立軍として大陸に渡った際に一斉攻撃を受けたが、植芝の目と心は飛んでくる銃弾の一つ一つを取られることができ、全員が生還できた。

昭和44年、86歳で生涯を閉じる。



著名文化人にも愛された「静座法」を流行させた。

彼が霊術家とも称されるのは、精神病治療を行なっていた事にもよる。


彼は明治5年、愛知県渥美郡の生まれ。体質は虚弱。

「静座とは、正しい姿勢で座る事で心を健やかに保つ単純な修養」


妻子を捨て山籠りなどしたが、最盛期には静座会参加者は二万人以上になったらしい。


人気を博し、自分を省みて以前捨てた妻と大正8年に復縁するが、翌年、尿毒症により死去。48歳。




過去生に興味がある人が多くて、

見ることがあります。


先日の依頼者は若い女性でしたが、

この方の過去生に家柄は割と良いが先祖に武士の家系を持つ男性だった事がありました。


裕福そうな佇まいで、その土地の名士という感じ。


仕事は、家を守ることのようでしたが、

勉強熱心で、

個人的に先生を呼んで好んで様々な知識について教えを乞うていました。


「中でも医療に興味があったようですよ。

貴方は勉強がお好きですよね」と聞くと、


依頼者さんは、

「はい照れ

そして私は今、医療の仕事をしています」



過去生でこの様な話の展開になることは頻繁にあります。


この時の過去生の依頼者さんは、

医療の道へ進むことはできなくて、

今世でも医学を学び、ようやくプロとなることができたんですねピンクハート











田村霊祥(たむら れいしょう)


東洋の古来の考えに基づいた「田村式健康法」

朝鮮で身につけた霊術と言われている。


生まれは1900年明治33年の館林で、昭和42年まで活動。


催眠術を柱とした霊術を操るが、その目的は健康。


戦後の著書では

「病は気から、とは古来人口に膾炙されている事」とある。

西洋医学にも造詣はある。

10代で朝鮮に渡り、土俗的導師より朝鮮の養生法、健康術、心霊的治療法を伝授された。



村上辰午郎(むらかみ たつごろう)は、

東京帝国大学卒の超エリート。


「村上式注意術」という他の催眠術と立場を変えた催眠術を行った。


生没年、出身は不明。


注意術の対象は、盗難、虚偽癖のだから吃音、夜尿症、肺病、胃腸病、心臓病と幅広く、全国を回った。

治療費は150円、今の物価で30万円くらい。



江間俊一(えましゅんいち)

衆議院から霊術師へ


1861年生まれ、明治法律学校(今の明治大学)を卒業し、衆議院議員選挙にも四度当選。

大正7年に政治家業を引退し、

「江間式心身鍛錬法」と言う気合術の普及に努める。


名声を高めたのは、

横綱大錦を生み出したこと。

大錦が3段目にいた時、坐骨神経痛を治し、綱を締めるまでになった。


73歳で死去。


新年明けましておめでとうございます。


いつもこちらにお立ち寄り下さりありがとうございます。


スピリチュアルな学びの一部として、主に書籍から投稿させていただいています。


自分勝手な投稿ですが、

きらりと光る小さなかけらが届けば良いなとも思っています。


本年もどうぞよろしくお願い致します。




桑原俊郎は岐阜県、今の美濃加茂市の農村に生まれる。

秀才の誉高く、漢文教師だったが、催眠術に没頭し教えていた学校をやめ、明治35年に東京へ出る。

催眠術を応用したのは病気治療で、結核、腎臓病を治療した。


明治39年に結核で死んでいる。

大著7精神霊動」を残した桑原天然の影響は大きく、死後、弟子が全国に散った。


明治11年、紀州長島町生まれ。


本名は熊蔵。

13歳の時、突如現れた老僧に導かれ、那智山で修行を始める。

山を降りたのは17歳、仏教を学ぶが、気合術で騒がれるたび、警察に700回以上呼び出される。


彼はこの気合い術を「人身自由術」と名づける。


特に抜歯術は見事であった。


患者から大金をせしめることはなく、有罪にはならなかった。


昭和18年、死去。