今日は 着物知識について
一目見れば誰でもわかる博多帯についてお話しします。
和菓子を学び始めてから やはり和のものが大好きと様々なものを手にしています
その中でも特に着物👘
なんだか 最近着物がとても素敵だと思えるようになりました
三姉妹を育てながら 自分にかける時間がなかったからでしょうか。
着物を着ることができたのは長女の小学校入学式のみ
それ以外の行事は
どの時期も授乳時期であり 弟の結婚式も三女の授乳期。
流石に着物を着ることもできず残念な思いをいました
それが 長女の卒業式の袴で 着物を久々に手にしてみてから
やっぱり着物っていいなー
と好きな気持ちを ここで広げてみようと決心したのでした
さあ、まず 何を着ようかしら
この歳で似合う着物 アラフォーが素敵に見える着物
そう思って考えていました
この歳だからこそ 普段に着たい着物。
特別ではない 日常着に憧れます
ふと、 博多帯に目がいきました。
「博多帯」 やっぱり 素敵
モダン。 そして このシャリ。
そして これからの季節でも使える帯
博多織。 着物の柄というには ふと考えると不思議な感覚
ですよね。
日本の帯の三大産地である 西陣、 博多、 桐生
その中でも 博多帯だけは どなたがみても
間違えることのない帯でしょう
では なぜ この模様になったのかを
私なりに考えていきたいと思います
これこそが 和を知る醍醐味。
歴史とその重みを楽しみましょう
博多帯が最初に生まれたときその名は
「覇家台織」 だったそうです。 15世紀後半に新しいものを生み出すために
満田彦三郎は明へと海をわたり 命懸けで博多織の原点である織の技術を
日本へ持ち帰りました。
満田彦三郎の祖先が鎌倉時代に 一度 海を渡り
その願いを引き継ぐために 満田彦三郎は命懸けで海を渡ったと記されています。
当時 今の中国へ渡ることは命懸けでした。
遣唐使 遣隋使 ご存知ですよね
命懸けには 祈祷がつきものです。
神や仏の力があり 正しいことは
成し遂げられると 信じられていたからです。
実は 満田彦三郎の 祖先が 最初に海を渡ったときも
聖一国師を共にしています。
荒波の危機を 祈祷により乗り越えれることができたとも
そんな命をかけた技術がここにあることを
ご存知でしたか?
そして そののち 関ヶ原の戦いで勝利した 徳川幕府の誕生。
黒田藩から 江戸幕府への献上品として選ばれたのが
博多織!
そして そのときの柄が 献上柄として今でも
呼ばれ 博多献上柄として
ここに誕生したのです
そのとき選ばれた柄は 博多織の原点と言われています。
その原点が 「独鈷」「華皿」
「独鈷」とは密教法具の一つで、真言宗などでは煩悩を破砕し、菩薩心を表します。手で握ることができる、中程がくびれ、両端が尖った金属製の細長い棒のようなもの。
「華皿」とは 仏の供養の際散布する花を入れる皿のことです。
その他にも 親子縞 や 孝行縞 などがあります。
親子縞
孝行縞
ここまでは 博多織工業組合のホームページの歴史から
知ることができました
ここからは 私の推測 によるものとなりますが。
歴史を調べると
これが空海につながるのではないかと考えています。
空海が日本で最初に開山した 密教霊場 「東長寺」
それは 黒田家墓所の存在する密教霊場なのです。
黒田藩 と 空海 密教の 繋がりの強さを感じます
空海は 遣唐使として 海を渡ったわけですが
帰国後 しばらく 太宰府に滞在しています。
その期間は 留学していた期間よりもさらに長く
7年はいたのではないかと記されています。
その期間 太宰府の太宰府政庁近くの観世音寺などに滞在しています。
私の実家は 太宰府近くのため 観世音寺、その横の戒壇院には
何度も訪れたことがあり、
戒壇院の御住職には親しくしていただきました。
いつも 戒壇院に訪れると裏から鍵を開け、
中の御本尊前に通してくださいました。
両手を広げた毘盧遮那仏。 全てを受け止めるという手のひらが
いつも私に向けられていました。
そして
その御本尊の裏に 鑑真和尚 弘法大師
がお座りになっていました。
観世音寺は 国宝の梵鐘があり
戒壇院は 日本三戒壇の一つであり 毘盧遮那仏は重要文化財指定されています。
そして 飛鳥時代からあり荒廃していた 観世音寺、戒壇院の修復を
命じたのも 3代目 黒田光之。
黒田藩家老鎌田昌勝に再建を命じたと父から聞きました。
その歴史を直接肌で感じていたからでしょうか。
博多織を見たときに
空海と心が繋がったのです
歴史とは不思議なものです。
空海は早く 帰京を望んでいたのかもしれません。
しかし その足止め期間があり
福岡には
空海の足跡が博多の歴史、 黒田藩の歴史に繋がっていたのです。
博多献上の 「独鈷」を見た時から
空海、また 命をかけて
歴史を繋いだ 僧侶たちの 祈りが私には見えました。
博多織が 徳川幕府に伝えたものは
その技術の高さだけではなく
空海から続く祈り。
「東長寺」その名の由来
日本の 東へと長く平和が続くようにとの 祈りそのもの。
徳川幕府への 平和への祈り であったように思います。
平和それは命懸けで守っていくものです。
私は 博多帯を付けない時は
伊達締めでも 博多帯を。 と思っています。
伊達締め
やっぱり なんだかかわいいです
よくしまる。 でも 解けやすい。
素晴らしい 織物です。
博多帯を見た時から 私には キラキラして
なんだか違うエネルギーに見えました。
でも 理由を知ったときは
やはり
これも 命のつながりだなと思ったのでした。
他の伝統工芸にも 織物にも 様々な歴史があります。
でも、まず福岡出身の 私が伝えたかったのは
博多帯です
ぜひ、これからの季節。 浴衣でも楽しめる博多献上 半幅帯も色々ありますね!
楽しんでください。
実は 力士たちも博多帯をしめています。
でも 博多帯をしめることができるのは
十両以上の力士になります
博多帯 私のお守りになりそうです
白も 博多帯です 直線的な所が好き。
アールデコを思わせる 洗練された美しいデザイン
でも、
博多織の歴史は
もっと 古くから
この美しい直線美を 密教というデザインで仕上げていたのです。
素晴らしい