【鐘叩く煩悩多くて打つ手なし】をAIで漢文にすると「叩鐘以滅煩惱 然煩惱多 終無可打之手」叩いて鐘をもって煩悩を滅せんとす。
しかれども煩悩多く、ついに打つべき手無し、となりました。分かったようで分からないのが、煩悩がそのまま菩提であるという煩悩即菩提という言葉です。
煩悩即菩提とは、人間を苦しめる欲望や怒りなどの迷い(煩悩)が、そのまま悟り(菩提)の智慧に変わるという大乗仏教の教えです。
煩悩を完全に断ち切るのではなく、それを正しく理解しエネルギーに変えることで、真の幸福や成長に繋がると説かれています。煩悩即菩提のたとえ苦しみがそのまま幸せになることなんかあるのかと思うかもしれませんが、ある遊女がこんな歌を歌ったそうです。
見れば見るほど たのもしそうな そうて苦労がしてみたい。この女性は苦労が好きなのではありません。
誰でも苦労は嫌なものです。苦労したいという物好きな人はありません。
ところが、あのたのもしい人と結婚したら、苦労が楽しみになるということです。
では苦労でないかというと苦労はあります。 ところが苦労とは少しも思わない。
それが楽しみになります。
苦労以外に楽しみはない。
苦労がなくなって楽しみになるのではありません。
たのもしい人が、苦労を楽しみに転じてしまうのです。
水と氷は、もともと別の体(たい)ではありません。おかれている条件や環境の違いから、別の状態になっているだけなのです。
菩提と煩悩の関係も同じで、体は無二(むに)、その状態の違いから別々の名前がつけられているのです。
水のような性質を持つ菩提は、相手に応じて自在に自分を変化させ、ピッタリと寄り添うことができますが、氷のような性質を持つ煩悩は、頑(かたく)なに自分の形を変えず、自己中心的な関(かか)わり方しかできません。
一方は、身心が柔軟で平等、もう一方は、身心が凝(こ)り固(かた)まって差別的。一つの体ではあるけれど、その状態次第で、ずいぶんと違っているわけです。
気がつけば氷のように硬くなっていた身心を、どうすれば、水のように自由で、柔軟にすることができるのでしょうか。
氷は、氷自身の力で水になることはできません。
他からのはたらきかけによって、はじめて自分を変えることができるのです。
そこで、ためしに、氷を水のなかにつけてみたらどうでしょう。
たっぷりの水の中に氷をつければ、水が氷に作用して、ついに、氷を融(と)かしてしまいます。
完全に融けてなくなるまでには、相応の時間が必要ですが、少しずつ少しずつ、水は氷を融かしていくのです。
この水と氷の道理を菩提と煩悩、また、阿弥陀さまと凡夫の関係に置き換えることはできないでしょうか。
つまり、阿弥陀さまの菩提の中で、凡夫の煩悩が融かされる、というような味わいをさせていただきたいと思うのです。
阿弥陀さまの菩提(さとり)は、煩悩を離れることができない凡夫(ぼんぶ)を悲しみ、その凡夫の救いを目当てに成就されたものですから、逃げる凡夫を追いかけて、捕まえ、摂め取ってくださいます。
凡夫の側は、「摂め取って捨てない」という阿弥陀さまのお心を聞いて、その智慧と慈悲にすべてをおまかせするのです。
そうすることで、この上もない菩提(功徳)の水の中につけていただき、煩悩の氷が融かされるのです。
凝り固まった見方に縛られた自己中心的な私が、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきによって、少しずつ、自由で柔軟な方向へと転じられていく。
自分中心の生活が阿弥陀さま中心の生活へと転換されていくのです。
お念仏を申しながら、柔軟で寛容な生き方をさせていただきたいものです。
南無阿弥陀仏というのは仏心ですが、その仏心と一体ということは、仏心と凡心が一体となります。
これを「仏凡一体」といいます。
「凡心」というのは、煩悩具足の私たちの心ですから、救われても煩悩は減りもしなければなくなりもしません。
救われても煩悩は変わりません。
それが仏心と一体になります。
一体というのは、ちょうど、炭に火がついたような状態です。
黒くて冷たい炭に火がつくと、炭のままが真っ赤な火、真っ赤な火のままが炭、炭と火と区別がつかなくなります。
煩悩具足の私たちの心が、南無阿弥陀仏と一体になりますから、腹を立てているままが喜んでる、喜んでいるままが腹立てているのが、煩悩即菩提です。
切り干し大根も渋柿も太陽の光で美味しく甘くなるように生きたいものです。
























































































