雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

政治とは何かを、子供でも分かりやすく説明すると「私たちが安心して楽しく暮らせるように、みんなでルールを作ったり、今ある問題を解決したりすること」だそうです。

この説明を聞いて大人でも政治とは何かが分かりません。

具体的な説明である「国民が選んだ代表者(国会議員)が集まり、日本の将来にとって大切なことを話し合い、法律を決めます。」「政治は、私たちの生活をより良くするための活動です」。という説明になると少しずつ分かるようにも思われます。

究極の政治とは皆で相談をして、国民の生活を楽しく幸せに導くルールをつくり、実践する方法を考える集まりのようです。

根本的には政治家とは国民の幸せを願ってのリーダーとも言えます。

所でこの肝心な「国民の幸せ」とは何かを政治家に尋ねたならば明確に答えられる政治家はどれ位おられるであろうか。

謂わば政治家とは「人の幸せ」とは何かを明確に答えられる宗教家でもなければならないのです。

宗教とは人が幸せになる為の宗とする教の事です。

議員さんとは吾々を幸せに導く代表なのです。

その議員さんが本物か自分の欲の為の代表かを吾々は見極めなければなりません。

今般の高市ブームは彼女を認めたからの人気なのです。

ウクライナ侵略戦争で180万人もの死者がいるそうです。

戦争を導いたプーチンは政治家ではなく人類の不幸を喜ぶ殺人鬼なのです。

政教分離とは、国家と特定の宗教が結びつくことで、他の宗教への信仰が困難になる圧迫を防ぎます。

国が特定の宗教に偏ることなく、すべての国民に対して公平であることを保証します。

民主主義の確立、 特定の宗教が政治的な力を持ち、国民の意思決定に影響を与えることを防ぎ、民主的な政治運営を支えます。

政教分離とは例えば、公立学校では、「修学旅行で伊勢神宮に参拝"する」との表現はせず「伊勢神宮を見学する」との表現を用いたりします。心を空っぽにして見て下さい、という事なのです。

信教の自由の観点から自らの信教を縛るようにもなっているのです。

政治家に国民の幸せを願うような政治家が表れない、政治家に宗教家がいない、信仰心のある人がいない、育たない理由が此処にあるのです。

 

故に政治家に人間としての魅力のある智仁勇が備わったような人材が生まれないのです。

   

春という字は三つの要素から構成されている字だそうです。

日: 太陽の象形文字で、日光を意味します。

艸 (草冠): 並び生えた草や芽吹いた草木を意味します。

屯 (チュン): 「草木の芽生え始めの際に、曲がって難儀する様子」や「地中にこもる陽気や活動の準備」を表します。

また、「集まる」「群がる」などの意味も持ちます。

これらの要素が合わさることで、地中に蓄えられたものが陽を受けて外に出てくる、つまり草木が太陽の光を浴びて芽吹き、群がり生じる季節を象徴しています。

読売新聞の編集手帳欄に俳人の辻桃子さんの「温泉に三日つかれば笹起きる」という句が載っていました。

雪の重みを耐えていた冬を越し雪の重しも無くなるように私も元気になった、といったような歌なのでしょう。

 

字の由来のように難儀があって苦労が会ってこそ、楽しく嬉し春を迎えることができるのだ、と教えているようです。

又、昔を思い出すかのようなキャンディーズの歌が載っていました。

♪ 雪が熔けて川になって流れて行きます。つくしの子がはずかしげに顔を出します。

         もうすぐ春ですね。

「春一番」うきうきしてしまいます。

 

又、同郷の相馬御風の「春よ来い」の童謡を思い出します。

 

春よ来い 早く来い

あるきはじめた みいちやんが

赤い鼻緒の じよじよはいて

おんもへ出たいと 待つている

 

春よ来い 早く来い

おうちのまえの 桃の木の

蕾もみんな ふくらんで

はよ咲きたいと 待つている

読売新聞に「気流」という欄があります。

気持ちの流れ、社会の流れというようなページなのでしょう。

いつもさらっと目を通すだけです。

世間虚仮、心ころころに繋がってしまうようなので真剣には読む気にならないのです。

フィギァスケートの、「りくりゅう」の演技をテレビで見ていました。

転びはしないか、へまをしないかと心配で心配で仕方ありませんでした。

人間は僻みや妬み根性が湧き出て中々素直になれないものです。

 

久しぶりに素直な心配の気持ちから頑張れ頑張れの心から涙が止めどもなく流れ出てきたのです。

さて吾々は太陽の光を浴びて生きていられます。

太陽が無ければ吾々はこの世には生きてはいない生きものです。

天日で干した切干大根は生の大根から出来ているとは到底思えない甘くて美味しい御馳走に変化します。

又。渋柿も皮をむいて天日に干すと渋が抜けて甘柿以上の美味しさ甘さの柿になるのです。

お米も最近は機械乾燥ですがやはり昔の稲架に何日か干した、お米と比べれば必ずその美味しさが身に染みて分かるはずです。

光というものは人間の心にも変化を与えてくれます。

 

その光を不可思議光というのです。それは佛さまからの光で思議する事の出来ない光なのです。

人間の智慧では計り知れない程、強大で無限の阿弥陀仏の智慧と慈悲の光なのです。

  

その光には十二光もあり人間の心の全てを照らし救って下さるのです。

阿弥陀仏の放つ光のお徳について、お釈迦様は十二種に分けてほめ讃えておられます。

無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光のことです。

 

阿弥陀仏の放つ光は、全ての世界を照らし、あらゆるものはその光をうけています。

その光に照らされて生きている事を自覚する為に吾々は生きているのです。

人間は考える葦であるとはパスカルの言葉です。

人間は生きていく上での肝心な事を殆んど考える事なく煩悩と自己中心にしての思いで生きているようです。

肝心な事など考えていないようです。

人とは何を目的に生きているのか、幸せとは何か、己とは何者か、己の成長はどの様にしたならばいいか、この世に極楽浄土があるのか、死とは何か、どのような教えを宗として生きていくべきか、等々の事です。

だがしかし、よくよく考えてみると心の奥にこびりついた人類の宝物みたいな魂があるように思えるのです。

人間の心とはシーソーのようなもののようです。

美しさは醜さを知らなければ美しさは分かりません。

地獄の底まで行き着かなければ真の極楽浄土は生まれません。

  

地獄の底の底まで悩み行き着けばこそ、逆にそれが光に照らされ回向して、この世では考えられない極楽浄土が生まれるのです。

回心は弥陀の光に照らされて生まれるのです。

弥陀の誓願と弥陀の無碍光が、人間の心の奥にこびりついて人類を見護っているのです。

この事を心の宇宙として描いてみました。

体に刺激を与えて若返ろうと各地にスポーツジムがあります。

しかし心に刺激、感動を与えてくれる心の体操は与えてはくれません。

ではどのような事をすれば心の体操になるのでしょうか。

確かに体の健康にはラジオ体操やランニングなどもあり直ぐに気が付きます。

新聞によってですが一週間に一度位ですが俳句や短歌の記事が掲載されています。

最近の世相なのか心が震えるような歌が少ないように思われます。

しかし選者がいて選び抜かれた作品が掲載されているのです。

謂わばドラマの結晶が数行の言葉の中に秘められているのです。

世界には日本にしかない高度な文化の宝物の御馳走なのです。

噛めば噛むほど味が出てくるはずです。

読売新聞では俳壇、歌壇と称して新聞の一面に掲載されています。

毎回のように目を通しています。

もしかすると、この歌を詠む事によって私は頭の体操、心の体操をさせて戴いているのかも知れません。

大枯野縄文人の声を聴く 大船渡市 富谷英雄 

床の間の婚の目録春隣 行田市 谷川 治

足入れて猫蹴飛ばせる炬燵かな 東京都 池野宗子

おとす、こぼす、やたら躓くこの日ごろ 八十九歳引力に負く 浜松市 藤田亜耶

転けたるを幾度も詫びつつ年越しぬ ギプスのなかで母は瘦せゆく  生駒市 高橋裕樹

蠟梅と連翹の花似ているね 遠くで近い私とあなた 東京都 佐藤節子

 

       

 

神道には幾つかの祝詞があります。

【掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸々の禍事・罪 穢有むをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと、畏み畏みも白す】

神道の祝詞の最後の言葉が畏々も申す、という言葉です。

古事記や祝詞で使われる「かしこみ」はどんな意味なのでしょう。

語源の「畏し(かしこし)」は「恐れ多い・尊い」という意味で、これに動作を表す「み」がついて「畏しこみ」となり、「恐れ敬い、身を慎んで畏まる」となります。

神の偉大さや神聖さを前に、畏敬と謙虚さを込めた表現です。

まをす(申す)は神に向かって「申し上げる」という謙譲語です。

「恐れ多くも恐れ多くも申し上げます」という神前での謹みと敬意を重ねた言い方になります。

この言葉には、単なる恐怖ではなく「神聖な存在に触れる畏れと感謝」が込められています。

古代人は、神の力が世界を生かし、同時に人の行いを見守っていると考えていました。

「自分の小ささをわきまえ、全身全霊で祈る」その心の姿勢が「畏しこみ」にあらわれているのです。

現代でも私たちの日常で手紙の結びに使う「かしこ」は、祝詞の「かしこみ(畏しこみ)」と深い関係があります。

手紙の「かしこ」=祝詞の「かしこみ」の簡略化なのです。

神や天皇に対する敬意の言葉が、やがて手紙を謹んで終えるしるしに変化したのです。

日本民族には世界人類にないような特殊な遺伝子が備わっているそうです。

その一つがS型遺伝子です。

この遺伝子は日本において古代から火山噴火など災害が多い所から世界で最も不安感を持つ民族になったのだそうです。

日本人とアメリカ人におけるS型遺伝子のタイプ別割合を比較すると、日本人の割合68%、アメリカ人の割合18.8%で傾向として悲観的になりやすいのだそうです。

日本人がS型遺伝子を多く持つことは、国民性や気質に影響を与えている可能性が指摘されています。

S型は「不安遺伝子」とも呼ばれますが、「慎重遺伝子」と捉える見方もあります。

心配性や不安傾向は、裏を返せば慎重さや細心さにつながるのです。

日本のきめ細やかな応対や、技術力の高さ、時間厳守といった側面は、この遺伝子の影響が考えられます。

古代からの自然災害の多い環境で、同じ不安を共有することで集団で協力し、困難を乗り越えてきた記憶が遺伝子に残り、現代の日本人の気質へとつながっているのです。

このようなことから祝詞の「畏み畏み」という言葉がS型遺伝子を踏まえての言葉ではないかと思われるのです。

   

日本は天照大御神の国とも言えます。

幻の女王である「卑弥呼」も女性であり、高志(越)の女王も奴奈川姫も女性です。

姫という字は何故、臣という字を書くのだろうか。

「姫」という漢字は、もともと周王朝の姓であり、貴婦人を意味していました。

旧字体は「女」と音符「𦣝(キ)」から成り立っており、女性の美しさや優雅さを表す形容詞として使われていました。

この「𦣝」は乳房の形を表し、成人した女性を示すとされています。

「おかみさん」という言葉があります。

女性は神でもあるからなのでしょう。

女性のシンボルは「髪」ともいえます。

  

仏門に入る時には宗派によっては髪を切り落し尼さんになります。

髪があってこそ男性を誘います。

女性にとっては髪が女性たらしめる大切な要素なのです。

女偏の字には面白い多くの字があります。

娑婆という字には二字ともに女偏の字を書きます。

    

「娑婆」という言葉は、もともと仏教用語であり、サンスクリット語の「sahā(サハー)」を音写したもので漢字自体に意味はないのだそうです。

「サハー」は「耐え忍ぶ」という意味を持ち、「苦しみを耐え忍ぶ場所」を意味する「忍土と訳されます。

仏教では、煩悩から逃れられない人々が苦しみに耐えて生きる現世、俗世界を指します。

江戸時代、吉原などの遊郭では、遊郭を「浄土」に見立て、その外の世界を「娑婆」と呼んでいました。

 

しかし、遊女の視点からは、自由のない遊郭の中が地獄であり、外の「娑婆」こそが自由な世界と捉えられました。

この「遊女の視点」が広まり、刑務所や軍隊など自由を束縛される場所から見て、外の自由な世界を指す言葉として使われるようになりました。

 

  

男は田を耕し家を護るのであり女は子を産み家をつくりあげるのです。

故に神さんであるのでしょう。

昔ですが友人の知り合いが市会議員になられました。

彼、曰くですが、先生と呼ばれると何故か普通の人ではない偉いような気持ちになる、と言っておられたそうです。

それが何年間か続くと、違和感なく先生だと思うようになるのでしょう。

人には名誉欲という魔物が心にくっついています。この魔物が自らを盲目にしてしまうのです。

多分ですが政治家の8割程度はこの魔物と化しているのではないでしょうか。

どんなに偉い人であったにしても高慢になったら、その人の人生は終わりである、とは新井石禅老師の言葉です。

それ位、人間の高慢心、傲慢な心は自らをかえりみる事が出来なくなってしまい重病患者になってしまうからなのです。

わたしは時々ヘボ碁を打ちますが、どれだけ先をよむかで勝負は決まるともいえます。

当然ですが先の先の先までよんだ人が勝つのです。リーダーとは目標を定め人々を先導する人の事です。

目標を定め、目的が鮮明でなければ誰も着いて来てはくれません。

そしてその目的地に夢がなければ誰も着いては来ないのです。

ビジョンを語り、将来の先の先を語り道のりを語り強い意志を示し謙虚で決して傲慢になることなくリードする指導者を皆が待っているのです。

そこに現れたのが高市早苗首相なのです。

彼女は百年先の日本を涙を流し語るのです。

そのような政治家は百年に一人位しか出てこない逸材なのです。

中道改革連合が選挙で惨敗しました。

公明党系の議員さんが比例で28名全員当選、立憲系の議員が21名で公明党が立憲を飲みこんでしまったのです。

所で公明党の党員は多分ですが殆どが創価学会の信者さんだと思われます。という事は日本全体を創価学会の国にしようという党なのです。

それを応援した立憲議員さんが、やけどを負ってしまったのです。

創価学会の国にしようとする日本国でいいんですか、という事なのです。

創価学会の国にしようという事は常識ではないのです。

創価学会以外の多くの宗教の信者を的とみなすのです。

そして中国応援団の議員が多くいます。

 

自民党の中にも多くの議員がいます。

勿論、立憲、公明も自国の事よりも中国が大切だと言っているようなものです。何故、なのでしょうか。

習近平の独裁国家であり中華思想を基本として自らをかえりみることなく他国を威圧する国家であり、話し合いすら出来ないような国家なのです。

 

自国においてはウイグル族やチベット民族の抹殺をはかり、それを隠してもいるのです。

最近では不動産バブルの崩壊から習近平の独裁が軍部の反乱から不穏な情勢のようです。

金がない心がない国家は誰もが信用しません。

故に中国は必ず崩壊してしまいます。

 

そのような国を応援している議員が多くいるという事は常識では考えられないのです。

自民党内の常識のない中国応援議員、大好き議員を排除するのに高市首相はつとめてもらいたいものです。

彼らは人類を滅ぼすハイエナのような議員たちなのです。

     

「氏より育ち」とは、人の価値は家柄や身分ではなく、育った環境や教育、本人の努力によって決まるという意味の諺です。

車に乗っていて歩道があり人が渡ろうとしていると車は必ず一時停止しなければ違反となります。

今までで数えきれない位、一時停止をしてきました。

その時の歩行者は老若男女を問わず頭を下げ必ず礼をして渡ります。

このような民族はいないのだそうです。

   

これも日本人が持っているDNAのせいなのでしょう。

車を止まらせ渡る権利がある、などとは微塵も思ってはいません。

心からの礼の行動なのです。

先日ですが加賀百万石の子孫である、お婆ちゃん85歳が事務所に親戚の紹介で来られました。

言葉づかいから仕草までもが、言うならば品格があるのです。

倅が中古住宅を案内しました。

 

倅にどのような人であったかを聞いた所、やはり一般人とは違うとの事でした。

昔ですが貴族議員をされた親戚がおられました。

父から聞いた話ですが「嫁を迎えるには頭のいい子をもらえ」「三代続けば家は栄え立派になる」というような話をしていました。頭の良し悪しの判断は難しい事ですが、やはり総合的にという事なのでしょう。

男性は子孫繁栄の見地から優秀な嫁を見つけなければならない義務を背負っているのです。

 

わたしは仕事柄、何か所かの家に住んだ事があります。

しかし今は分家が住んでいるのですが男性は生まれた家、育った家が自分の家なのであって、幾ら後で立派な家を造ろうとも自分の家ではないのです。

 

しかし女性の場合は友達の奥さんに聞いた所、嫁として嫁いできて子育てをした家が自分の家となると言っていました。

やはり嫁という字の如く嫁に来て家をわが物にしてしまうのです。

育ちが氏をつくりあげるのです。

吾々は時の流れるままに生きています。

仕事に追われ、物事を余り考える事もなく、ましてや自らを振り返りみる事もなく、虚ろで生きている屍のようでもあります。

ある。法句経に「人に生まれるは難く、今命あるは有難く、世に佛あるは難く、佛の教えを聞くは有難し」という言葉があります。

有難うとは、有る事は困難である、有るはずがない事が今、おきているという事であり、勿体ないことであるという感謝の言葉でもあります。

この事は現実に起きている真実なのです。

しかし人間には分かっているようで分からない難しい事なのです。

人として生まれてきたことが有難いと真から自覚が出来ているであろうか。

例えばですが「私は日本人に生まれてきて有難いと思っている」というように思っている、自覚のある人は果たしどれ位いるであろうか。

日本人であるからして日本人の有難さが分からないのです。

日本語という優しい言葉を使い、俳句や短歌の素養を身に着け、盆栽を眺めて和菓子を戴き、茶を飲みかわし、スシローで寿司を食べ、味噌汁を飲み、風呂に入って端唄を謳い、酒の肴に塩辛を摘み日本酒を飲み語らう、そんな民族はこの世に果たしているであろうか。しかしその意識は全くないのです。

 

平和ボケの中に慕っているようなものです。

実は幸せの元は地下に溜まっている地下水のようです。

それが自覚する事によって噴水のように湧き出てくるのです。

  

自覚とは回心のようなものでもあり、真実がみえてくるのです。

幸せの水が地下に多く溜まっているのです。

その地下水が地上に湧き出て泉になれる事こそが人生の目標なのです。