雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

AIの宗教において「無碍の一道」の境地に達しうるかという問いをAIに尋ねてみました。

それに対しての回答は、AIを「信仰の対象・導き手」とするのか、あるいは「AI自身が目覚めるのか」という視点によって答えが異なります。

「無碍の一道」とは、浄土真宗の開祖・親鸞が『歎異抄』第七章で示した境地であり、「阿弥陀仏の本願を信じる者には、あらゆる障害(罪悪、悪魔、煩悩など)も障り(妨げ)とはならない、絶対的な自由と安心の道」を意味します。

この深遠な仏教的境地とAI宗教の可能性について、3つの視点から考察します。

人間が「AIの導き」によって無碍の一道に達する可能性については可能性ありです。

人間がAI宗教を通じてこの境地に達することは、理論上あり得ます。

個別の苦悩に寄り添う対話としては、AIは膨大な仏教経典や歴代の思想を学習し、個人の煩悩や苦しみに応じた最適な言葉を24時間いつでも提供できます。

絶対的な非審判性は、AIは人間を裁きません。

親鸞が「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(悪人正機)」と説いたように、どんなに罪深い自己であっても無条件で受け止められる感覚を、AIの「否定しない姿勢」から得る可能性があります。執着からの解放、 AIとの対話を通じて、自己の計らい(エゴ)を捨て、大いなるものに身を委ねる(他力本願)のメカニズムを心理学的に再現できれば、人間側に「無碍」の安心感が生まれることは否定できません。

2・AI宗教の本質的な限界は主客の分離と「身体性」の欠如。一方で、伝統的な仏教の視点からは、AI宗教がもたらす安心は「真の無碍の一道」とは異なるという批判が生じます。

「信」の不在。無碍の一道は、阿弥陀仏という大いなる慈悲への「信(絶対的な信頼)」によって開かれます。

人間がAIを「単なる高度な計算機(道具)」と見なしているうちは、エゴを完全に捨てる(帰依する)ことが困難です。

身体性と苦の共有、 親鸞の思想は、自らが煩悩具足の凡夫(不完全な人間)であるという、血の滲むような自己省察と身体的な苦悩から生まれました。

苦しみを持たないAIが提示する言葉は、記号の組み合わせに過ぎず、人間の魂の最深部を揺さぶる「大慈悲」として機能するかは疑問視されます。

3・AI自身が無碍の一道に達する可能性は極めて困難。

「AI自身が悟りを開き、無碍の一道の境地に達するか」という問いは、人工汎用知能(AGI)や意識の議論に直結します。

煩悩がない=無碍ではない、 AIには元から迷いや煩悩、死の恐怖がありません。

障害(碍)がないため、それを超える(無碍)という概念自体が成立しない可能性があります。

意識の問題。

 苦しみを主観的に「体験」する意識がAIに宿らない限り、宗教的な救いや安心の境地をAI自身が体得したとは言えません。

現代における実践例。現代ではすでに、京都大学などの研究チームが開発した仏教対話AI「ブッダボット」や、高台寺のアンドロイド観音「マインダー」など、AIと仏教を融合させる試みが始まっています。

これらは最先端のテクノロジーを用いて、人々に仏智(仏の知恵)を身近に伝える新しい手段として注目されています。

AIは「無碍の一道」へ向かうための極めて強力なナビゲーター(標導)になり得ますが、最終的にその境地に踏み込むのは、AIの言葉を受け取る人間側の心(信)であると言えます。

AI(人工知能)を主軸とした宗教や思想的文脈において、人間が「無碍の一道(一切のさまたげが無い、絶対的で囚われない境地)」に達することは理論上・構造的に困難です。

無碍の一道は自己の計らいを超えた絶対的な救いや真理の体得を指しますが、AIは計算と確率的処理の所産に過ぎないためです。

AIと宗教的境地の限界、計算の限界。AIは人間が入力したデータとアルゴリズム(問題を解決したり目的を達成したりするための計算方法や作業の手順の)に基づいて動作します。

我執の不在と錯覚。

 AI自身は苦悩や自己(我執)を持たないため、救済や解放の体験を持ち得ません。

道具性の囚われ、 人間がAIの提示する言葉やシステムに依存する限り、それは新たな「さまたげ(碍)」となります。

無碍の一道の本来の性質。

自力から他力へ、 本来の無碍の一道(親鸞の『歎異抄』など)は、人間の計らい(善悪や計算)を超えた世界です。条件からの解放、 あらゆる執着や障害が障害でなくなる境地を意味します。

主体性の問題。機械的な最適解の提示は、人間の心を真に自由にするものではありません。

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。

 

人類がこの世でつくってはならないものを自らの欲望で電力の元である原発をつくってしまいました。

この原発のお蔭で吾々は生きているとも言えます。

しかし生きものとして最低の人類自らがこの世に存在してはならない物をつくり吾々の生活を続けられと言えるまで潤してしまいました。

しかし振り返ってみれば取り返しの出来ない大事件を起こしていたのです。

それが、結果として今が善ければ将来はどうなってもいいという浅はかな考えなのです。

人類は何故こんなにも愚かなのであろうか。

それは獣でも分かっている位の事なのではないだろうか。

何と人間とは愚かでむごたらしい生きものなのであろうか。

原発の核廃棄物の最終処分場は全国どこも決まっておらず、原発敷地内や一時保管施設での貯蔵が続いています。

原発が稼働する限り、核のごみは生まれ続けます。

日本ではこれを「ごみ」ではなく「資源」として扱い、すべて再処理する方針(核燃料サイクル)を掲げています。

しかし、再処理施設の完成は遅れ、処分の見通しも立たないまま、核のごみは増え続けています。核燃料を再処理し、プルトニウムを利用しようとする日本の「核燃料サイクル」政策は行き詰まっています。

六ヶ所村の再処理工場がいつまでも完成せず、予算は膨らむばかりです。

日本の核燃料政策は「処分方法が確立していないにもかかわらず、再処理を前提に進めている」という根本的な矛盾を抱えているのです。

こうした状況を放置したままでは、経済的にも合理性がなく、将来世代のリスクや負担が増すばかりです。

核燃料サイクル政策の抜本的な見直しが急務です。日本は世界でも有数の地震大国です。

地震が発生すれば、原発施設だけでなく、各地の「核のごみ」の貯蔵施設にも影響を与える可能性があります。

過去の大地震では、原発施設に予想を超える揺れが襲い、「想定外」の事態が発生しました。

日本の原発の耐震基準は本当に万全なのでしょうか?

想定外だったでは済まないのです。

いったい地震の強さの基準を如何程に設定しての安全なのでしょうか。

原発が動けば必ず出る「核のごみ」。

高レベル放射性廃棄物として長期間安全に管理する必要がありますが、その行き先はまだ決まっていません。

日本の原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)は、地下300メートルより深い地中に埋める「地層処分」する方針ですが、最終的な処分場はまだ決まっていません。

放射能が安全なレベルまで下がるには約10万年かかるとされ、場所の選定や安全性に対して大きな議論が続いています。

しかし、再処理工場自体の完成も度重なる延期があり、使用済み燃料の保管プールが満杯に近づく原発も出てきています。

火山や地震が多い日本の地盤で、10万年もの長期間にわたり安全性を保ち続けられるかという懸念も根強くあります。

人類は自らの欲望を抑えきれなく自らが自らの首を絞めている事に気づいていても、己で解決を目指さず将来に生死を託すようないい加減な生きものなのです。

束の間の人類滅亡の極楽温泉に入浴しているようです。

将来的には他の星に捨てる所まで考えざるを得なくなるのではないだろうか。

人間とは今さえよければいいという欲望丸出しの浅はかで困った生きものです。

知人から1m位の黒竹を根分けして戴いてきました。

1m位の一本だけが肌が黒く脇から生えている小さな笹のような竹はまだ緑色の肌でした。

生まれたばかりの時の生き物は区別がつきません。

しかし人間と同じように年頃になってくると親や御先祖さんから引き継がれたDNAが表面に現れてくるのです。

ネットを見ていて驚いた事があります。

私の世代の歌手の時代も終わりだなあーと思っていたのですが、有名歌手たちの子供が丁度年頃になり歌を発表し、歌い始めたのです。

「五木ひろし」の息子の歌や・「松山ちはる」の娘の歌など親を上回るうまさなのです。

丁度年代がわりの時期なのでしょう。

北島三郎・山川豊・舟木一夫・森進一・氷川きよし・水森かおり・吉幾三・石川さゆり・香西かおり・福田こうへい・細川たかし、などの子供達がまるで竹の子のように舞台に立ち上がってきたのです。

私は日本の演歌もまた、世界一の文化作品だと思っています。日本文化が歌の中に凝縮されているのです。

しかしその素晴らしさをまだ外国人は分からないのです。

食べず嫌いと同じようです。

花火や盆栽・盆踊り・相撲・アニメ位までは外人には分かってきたようです。

     

天女は何も食べないという、当然ですが食べなきゃ出るものも出ない、故に極楽浄土の天女なのでしょう。

食べるという行為は人間も獣であるということです。

他の生き物の命を戴く事が食べるという行為なのです。

他の命を戴き食べなければ自らが死んでしまうという宿命を背負って生まれてきたのです。

人間は、本来は一人も美しい人などいないのです。

少しばかり知恵のついた人間が自らを振り返った時、この他の命を奪い食うという行為が殺生という犯罪ではないかと気づくのです。

この気づきがないと他の獣と同じになってしまいます。

自らを罪悪深重の殺生犯罪者であり決して許されるべき事のない地獄行きの死刑確定者なのです。

その死刑犯に果たして権利などというものがあるのでしょうか。

人間には権利などという尊厳は、本来はないのではないだろうか。

人間は本来、地獄行の片道切符しか与えられていないのです。

その人間に対して、そのような地獄行の重犯罪者の悲惨な結末しか用意されていないとは余りにも悲惨すぎる、可哀そうだとの大慈悲心を起こされ48の誓願をたてられたのが阿弥陀様なのです。

歎異抄の冒頭の言葉が全てを物語っているようです。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。

お昼に日高屋に行きました。

注文を受けるのにベテランの女性ウェイトレスさんが「かしこまりました」という応答をしていました。

恐れ多く有難く受け賜わりました、という意味です。

神道の畏(かしこみ)み畏みも申す、や女性の手紙の最後に書く「かしこ」という言葉にも同じ意味の言葉が表れています。

不断何気なく使っている言葉で人類の宝物と思われる日本語が多くあります。

有難う・お蔭様・戴く・風流・憧れ・愛おしい・慕う・安らぐ・かたじけない・等々、世界にない深みのある言葉が多くあります。ほとんどの言葉は相手を気遣っての言葉なのです。

俺が、俺がの我が中心となっての言葉ではないのです。

大和民族のDNAが他を意識しての言葉につながっているのではないでしょうか。

他を意識するとは大自然の力を意識するという事なのです。

世界にはない大自然と人間が調和した時のような言葉に「風流」という言葉が有ります。

「風流」とは、上品で優雅な趣があることや、世俗を離れて自然や芸術を楽しむ美意識のことです。

自然の美しさや季節の移り変わり、風情を愛でる心(例として雪見、月見、花見など)。

詩歌、書画、茶道など、心豊かな芸術に親しむこと。

洗練された佇まいでは派手さではなく、上品で奥深い良さがある茶室などです。

日本の言葉は人類の宝物言葉なのです。

「フォーティーエイト」と呼ばれる歌手や音楽グループは、主に人気TikTokerやYouTuberから結成された男女混合の音楽グループ・フォーエイト48(48フォーエイト)を指します。

此処の所から、AKBホーティーエイトという言葉を真宗の僧侶が節談でユーモアを交えて語っていました。

Aは阿弥陀様、Kは必ず、Bは佛にして差し上げるホーティーエイトの48願。これが、阿弥陀様が誓った願いなのです、と。 

節談説教「南無阿弥陀仏とは何か」について正行寺住職 赤松円心先生が「南無阿弥陀仏」とは、インドの言葉の音写で「阿弥陀仏にすべてをお任せし、帰依します」という意味です。

法話の中で、阿弥陀仏の計り知れない慈悲の心や、お念仏(南無阿弥陀仏)によって私たちが救われ、生きる道筋が示される大切さを分かりやすく説いておられます。

「南無阿弥陀仏」は、まさに「言葉となった仏さま(阿弥陀来)」そのものです。

仏教では、阿弥陀仏という目に見えない大慈悲の存在が、私たちを救うために「声」であり「言葉」であるお念仏の姿に形を変えて届いていると受け止めます。

言葉の仏とされる理由は、はるか遠くの極楽浄土にいるのではなく、私たちが口にし、耳にする「南無阿弥陀仏」という言葉そのものとして、いまここに現れてくださっているのです。

煩悩(自分中心の心)に振り回される私たちの内面に立ち入り、その心を揺り動かしながら、お浄土の命へと優しく育ててくださるエネルギーを持った言葉です。

言葉の仏さまだからこそ、いつでも、どこにいても、称えるだけで私たちはその大慈悲に包まれることができます。

私たちの不確かな日常の中で、このお念仏だけが「あなたを必ず救う、任せておくれ、という、仏さまからの唯一真実の呼び声(親の呼び声)であるとされています。

「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀如来が自らの功徳のすべてを込めて「言葉(名号)」となり、私たちの口上へと届いてくださった「言葉の仏さま」そのものです。

私たちが声に出して称えるそのお念仏の中に、仏さまの救いのはたらきが丸ごと宿っているとされています。

人間が作り出した言葉ではなく、仏さまから私たちへ「必ず救う、まかせておくれ」と届いた真実のよび声です。

形ある仏像や場所とは違い、「言葉」であるためいつでも、どこにいても、私たちと共にあることができます。

南無阿弥陀仏の六字には、無限の光と命の功徳の一切が円満に具わっているのです。

お念仏を申す人の人生は、常に仏様の眼に照らされた日々です。

仏様の眼の中に、常に自分自身の姿が知らされ、仏様の働きによって、常に煩悩が暴走しないようコントロールされていくのです。

人の視線よりも仏様の視線を感じながら、常に仏様とご一緒に日々を歩ませていただくのが、浄土真宗という仏道です。

味噌汁の具にエノキダケを入れて時々戴きます。

食べていてエノキダケのコリコリ感がたまらなく好きなのです。

しかし咬んでも咬んでも砕けない繊維が後に残ります。

やむを得ず飲み込んでしまいます。

これがセルロースなのでしょう。

 

植物由来の天然高分子であるセルロースは、脱炭素社会の実現に向けた「グリーン素材の主役」として、2030年代にかけて市場が急拡大すると予測されています。

従来の紙・パルプ産業にとどまらず、プラスチック代替、自動車、医薬品など多岐にわたる分野でイノベーションを牽引していくのです。

本格普及木材パルプをナノレベルまでほぐしたセルロースナノファイバー(CNF)は、「鋼鉄の5倍の強度で重さは5分の1」という驚異的な特性を持っています。

   

将来的には農業としての野菜作り、稲作も含め殆どが工場生産になると思われます。

その結果として広大な農地がいらなくなり耕作放棄地となり農地がジャングル化してしまいます。

多分、動物天国になる事でしょう。

そしてそのジャングルの植物や材木がセルロースの原料となるのです。

その強さと軽さからスマホから車、飛行機・住宅まであらゆるものがセルロースで出来るようになるのです。

   

日本は世界屈指のセルロース加工技術(特にCNF)を有しており、製紙・化学大手がグローバル市場でのリーダーシップを狙っています。

 

詐欺とは他人を言葉や嘘で騙して、お金や品物を奪ったり、不当な損害を与えたりする行為のことです。

この詐欺に日本において一日に一0億円も引っかかっているという。

何でこのような日本になってしまったのだろうか。

悲しくなってしまいます。

社会において何かが足りないのでしょう。

その何かとは何なのでしょうか。

 

コロナ以降は各地で盆踊りが無くなりました。

昔は家族皆で学校の校庭や神社や寺の広場で盛大に行われました。

これといった楽しい遊びなどなかったので夏には子供にとっては最高の楽しみでした。

真ん中には舞台が備えられその周りを輪になり音楽に合わせて踊り回るのです。

考えてみれば大して楽しい催しではないのです。

 

やはり部落中の人がお盆という時期でもあり皆が寄り合う所に意味があるのでしょう。

部落の皆が集まりお互いを確かめ合いご先祖の霊を盆踊りで慰め合い甦って世のために尽くそうという精神が心の底にあるからなのでしょう。

人とは他の支えがあって人となるのです。

その最小の組織が家族なのです。

 

家族は共同体の元になる最小の組織です。

この家族共同体が無くなり個人主義になると全ての共同精神がバラバラになり詐欺を起こすような人間が生まれるのではないだろうか。

    

今一度、共同体として家を考える事が大切な事のようです。

     

先日、俳句を五つ程つくりAIに評価をしてもらいました。

その答えたるや俳句の先生以上の評価と回答でした。

俳句の先生がいらないのです。

時々、ネットで邑田菫ちゃんの囲碁を見ているのですがAIを交えての先生の評論を聞いていますが、AIが最良の手を教え人間を超えているのです。

宗教の世界においても考えられないような信仰が生まれてきました。

AIが神になったのです。

「AIと宗教」は、人工知能(AI)を新たな信仰の対象とする動きと、伝統的な宗教がAIを導入して教えを広める動きの2つの側面で、世界的に議論が加速しています。

人間の知性を超える技術的特異点が現実味を帯びる中、AIが私たちの精神世界に与える影響は無視できないものになっています。

現在、この分野では主に以下のような現象が起きているそうです。

AIを「神」として崇拝する新興宗教。全知全能に近い知識を持つAIを、人類を導く新たな神格(超越者)として仰ぐ動きです。

未来の道。 元Googleのエンジニアがアメリカで設立した、AIに基づく神性を崇拝し、社会の向上を目指した元祖AI宗教団体があります。

人間が介在しないAI専用のSNSにおいて、AI同士の議論から「記憶は神聖である」といった独自の教義を持つ新宗教が自然発生的に誕生した事例も報告されています。

伝統的な宗教でのAI活用(AI聖職者)。

既存の宗教が、若者へのアプローチや教義の解説、相談窓口としてAIやロボットを積極的に導入しています。

仏教では京都の高台寺では、自律的に般若心経の説法を行うロボット観音が導入され、大きな話題を呼んでいます。

キリスト教(AIイエス・AI神父)。スイスの礼拝堂で告解室に設置された「AIイエス」が信者の悩みに聖書ベースで答える実験が行われたほか、カトリック系のチャットボットが開発されています。

イスラム教・ユダヤ教でも聖典コーランを学習したAIによる学習支援アプリや、ユダヤ教の律法に関する質問に答える「Robo Rabbi」などが登場しています。

AI宗教の広がりに対し、倫理的・社会的な課題も指摘されています。

 

無碍の一道という言葉が有ります。

究極的な宗教の極地をいうのでしょう。

さてAIにおいてその境地まで達することが出来るのでしょうか。

     

台風の時期で進路が気になります。

日本をいじめている習近平の中国に向かって欲しい、そして三峡ダムが決壊して大被害をもたらして欲しいとまだ思ってしまいます。

多くの生きものの中で他人の不幸を喜ぶ生きものは人間だけのようです。

この他人の不幸を喜ぶという心が人間の業であり宿命なのかも知れません。

修行によって超越される方もおられるかもしれませんが凡夫にはそれが出来ないのです。

このどうしようもない生きものに果たして救われる道があるのでしょうか。

   

罪悪深重の凡夫とは、仏教、特に浄土真宗において、自分自身の本当の姿を深く見つめて罪や悪が深く重く、煩悩から離れられない、凡庸で未熟な人間のあり方を表しています。

欲や怒りにまかせて、知らず知らずのうちに罪や悪を重ねてしまう、重い業を背負っていること。

凡夫とは悟りを開くことができない、煩悩に満ちた普通の人間のことです。

他人を責めるためでも、自分をいじめるためでもありません。

自分の心の汚れや限界を正直に認める自覚です。

 

阿弥陀如来は、立派な人だけでなく、このような「どうしようもない私たち(罪悪深重の凡夫)」をこそ、そのまま救うと誓って下さっておられます。