雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

今月も本日のありえない一日が過ぎ去ろうとしています。

吾々は自分中心で自分が生きている世界を当たり前だとして自分の描いている、生きている世界が如何にも真実であると思って生きています。

逆らう者がいれば強烈に反抗するのです。

これを自我というのでしょうか。

もう一つの世界はこの自我心を支えつくっているお陰さまの要素、原因の中にもう一つの世界があるのです。

この世界が本来の真実の世界であり、佛さまの世界でもあるのです。

吾々凡夫にはそれには容易には気づくことはできません。

この事を聖徳太子が「世間虚仮・唯佛是真」と述べ教えて下さっているのです。

この世の名誉、お金、人の評価、流行などは、移ろいやすく、絶対ではない。つかんだと思っても変わってしまう「仮のもの」だという指摘です。

 

それに対して、仏の智慧や慈悲、仏教が説く「真理」だけが、変わらない拠り所である、という意味です。

「世間の価値基準は変わりやすく当てにならない。

ほんとうの拠り所は、仏の教えにこそある」というメッセージなのです。

仏教では、すべてのものは変化し続ける「無常」であり、それを永遠のものと勘違いすると苦しみが生まれると考えます。

この言葉は、その「無常」をぎゅっと短く表しつつ、「だからこそ、変わらない真理に目を向けなさい」と方向を示しているのです。

    

法華経に「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」という言葉があります。

「諸法の実相を究めつくせるのは佛だけである」と教えているのです。自分のはからいによる善悪も、学問や修行の誇りも、突きつめれば「仮」であり、ただ「真」に出遇うことこそが拠りどころだというのです。

私たちの毎日の忙しさ、評価、損得、人間関係の揺れも「世間」の姿です。

それを否定するのではなく、それだけを「本当のすべてだ」と思い込むとき「虚仮」の世界に呑み込まれてしまう、という警鐘なのです。

 

 

先日、病院に行った所、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)の広告が廊下の壁に貼られていました。

やつは骨の無い奴だ、など芯のない優柔不断な人を馬鹿にしたような言葉もあります。

しかし殆どの場合を考えてみると己の事を言っているような言葉でもあります。

又、最近の多くの人達の事のようにも思われました。

さて「鬆」という字はどのような字なのかを調べてみました。

鬆の字は、「髪が乱れる」を表しす、形声文字で、「松」が音を表して「ゆるい・す(隙間)」などの意味を持つ字とされます。

主に「髪が乱れる」「ゆるむ」「大根などの芯に隙間ができる」といった意味で使われます。

「鬆(ショウ/ソウ/ス/あらい)」は常用外の漢字です。

骨が有ったとしても中が

 

 

かではヘチマのようでもあり、軟体動物のようなものです。

骨粗鬆症という病気の定義は、「骨の強度が低下し、骨折しやすくなる骨の病気」とされています。

国内には約1,280万人の患者さんがいるといわれており、人口の高齢化に伴いその数は増加傾向にあります。

大根の中がふわふわしているような大根の事を「すがっている大根だ」といいますが、その時に使うのが「鬆がいっている」なのです。

数年前ですが一遍上人を見習って念仏のストラップをつくり三百個程を人様に差し上げました。

なくなったので再度、大阪のメーカーに百個、注文いたしました。

 

以前の説明文も今となれば少しおかしな部分もあり変更したくなりました。

何故かというと原点である一遍上人が賦算(ふさん)を行った事についての理解が足りなかったように思えるからです。

日本の浄土系宗派には浄土宗・浄土真宗・時宗があります。

  

その時宗の開祖が一遍上人です。上人に関する本を、数冊読ませて戴き涙を流して読ませて戴いた事がありました。

一般的に賦算とは、一遍上人が行った念仏札の配布のことを指します。

この札には「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」などと書かれており、一遍は熊野で「人々の信不信を問わず賦算すべし」という神告を受けてから、この札を全国で配り歩きました。

一遍上人にとって賦算は念仏札を受け取ることで、その人はすでに阿弥陀仏の救いの中に入っている事を示すこと、貧富や身分、信じるか信じないかを一切問わず、誰に対しても平等に救いが及ぶことを具体的な形で表すこと。

「今この時」に念仏の功徳が成就している「阿弥陀仏の救いはすでにあなたに届いている」というメッセージを、札を配るという行動で具体化したものだと言われています。

親鸞聖人の教えとともに人生の究極の教えとも言えます。

大無量寿経によると法蔵菩薩が四十八の誓願をたて、苦行なされ成就して阿弥陀仏となられました。

所が吾々凡夫はそのことに気づかないのです。

     

阿弥陀様が衆生を救おうと長いトンネルを掘れる山を御用意されました。

西の方からは阿弥陀様が衆生を救うべく光を、伴い東を目指して掘り進み、東の方からは暗闇の中を阿弥陀様が掘り進んでいる西の方向めがけて掘り進んでいました。

 

そしてついにトンネルが貫通することが出来ました。

阿弥陀仏の光が、衆生が掘り進んできた暗闇の全体を、間を置くことなく光り輝く世界に飲み込んでしまいました。

誓願が成就し光り輝く浄土がこの世にあらわれたのです。

 

このストラップは既に阿弥陀仏の誓願が成就している証しとして身に着け忘れることなく人生の極地を生きられて欲しいとの思いからつくらせて戴きました。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏   釈直来

相撲の「手刀」は、勝った力士が懸賞金を受け取るときなどに行う、手を刀のようにして振る作法のことです。

右手の五本指をそろえてまっすぐ伸ばし、軍配の前で縦や左右にスッと振る動きが「手刀を切る」と呼ばれます。

手刀は、ただのパフォーマンスではなく「礼」の一つとされています。

相撲の解説などでは、三回の手刀を「三方への礼」として説明することが多く、勝利を与えた神仏や関係者への感謝を形にした動きとされています。

日本相撲協会では、懸賞金受け取り時の手刀は昭和四十一年から正式に規則化されています。

一般的な説明では、次のような順で三度振るとされています。

左・右・中央・右手を刀に見立て、上半身の前でスッ、スッ、スッと切るように振ることで、場を清める意味合いも込められているとされています。

日本では、人の前を横切る時、または雑踏に分け入っていく際などに、縦にした片手を体からやや離した位置で小さく数回上下させることがあります。これが「手刀を切る」と呼ばれる仕草です。

これは東アジアでは日本特有のもので、特に人混みへ入っていく場合には、手刀をやりつつやや腰をやや屈め気味にしながら「すみません」「前を通ります」などの言葉を添えて通る場合が多いのです。

手刀は元々、相手に掌を開いてみせることで、自分が武器を持っていないと表しつつ、自分が通ろうとしている道をも示すと言う意味を持っていたとされる。

また、腰を低めにすることや言葉を言い添えるのも、謙虚さの体現と言えます。

近年は衰退気味の習慣ですが今も中高年層を中心になされています。

なお、軽い感謝・お願い・謝罪の意思を表す時も片手で手刀状にすることがあります、これは合掌が簡略化されたものだそうです。

  

尚、「お辞儀」も基本的には同じだそうです。

自分の首の背後を見せるということは、相手に首を切らせることも容認している。

つまり、自分の首の背後を見せて、相手の警戒を解く、相手を信頼していることを表す、などの意味を持っています。

三年程前ですが心臓狭心症で心臓が6回も止まり、治ったかと思いきや胃癌を患い全摘の手術をしました。

それからの毎日の食事が大変なのです。毎日のムカムカの気持ちの悪さは治らなく大げさに言えば生死をさまよって生きています。

 

 

最近の食事は、朝は、すき家のミニカレー450円、お昼はスシローで粒貝にネギトロ他700円位を10貫も戴けます。

そのすき家のカウンターもスシローのテーブルも材料が木材なのです。

自然の温かみが伝わってきます。

 

事務所に欅ですが回りが風化した臼を5センチ位に輪切りにした材料に「色即是空花咲可里」と書き飾りとして置いてあります。

北島三郎に年輪という歌があります。

 

雪の重さを 撥ねのけながら 背のびしたかろ 枝も葉も

山に若葉の 春がくりゃ よくぞ耐えたと 笑う風

苦労、年輪 樹は育つ

     

人生は苦の娑婆と申します。さて苦とは何か。

苦はどうして生まれるのか、苦を消滅させる方法はあるか、など考え抜き、迷い悩み悶え苦しんだとして、さて結局、人生は何、と問われれば素直な答えは「人生は苦の娑婆なり」という回答が跳ね返ってくるのではないでしょうか。

迷いがあればあるほど真実が近づいてくるのです。

迷いが深まれば深まるほど真理の輝きが近づき既に輝いているのです。

歎異抄に念仏しても「勇躍歓喜」の心が起こらないという悩みは、実は歎異抄そのものの出発点になっているといわれるほど、多くの人が問題視している所です。

歎異抄では【念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。

よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。

これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。】

お念仏申しても、躍り上がって喜ぶような心が起きず、また急いでお浄土へ参りたいという心も起きないのはどうしたことであろうか。

昔は、戦乱や飢饉、あるいは医療技術や施設もなく、子供をはじめ若い人がバタバタと亡くなるなど「死」と常に向かい合っていました。

そんな世相でしたが現代人と同じく、どんなに過酷な生活でも、「死」が日常であってもこの世にしがみついてでもいたいと思うのが昔も今も変わらないのでしょう。

「久遠劫より流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土はこひしからず候」「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」

「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」とも親鸞聖人は仰せになっています。

そういう煩悩具足の凡夫であるがゆえに「他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と喜ばしてもらいましょうと親鸞聖人はおっしゃっています。

また、「娑婆の縁つきて力なくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。

いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり」そして、「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」と、煩悩具足の凡夫をめあてに立ちあがって下さった阿弥陀如来の本願力によってこそ往生はまちがいないと頂かれているのです。

念仏しているのに、飛び上がるような歓びが起こらない、早く浄土へ往きたいという強い願いも起こってこない、これはどう理解したらいいのか、つまり「こんな自分で本当に救われていると言えるのか」という不安が、背景にあります。

「信じているつもりなのに、勇躍歓喜がないのはおかしいのでは」と悩んでいるのです。

私たちは、久遠の昔からこの迷いの世界に親しみすぎていて、浄土というまだ知らない世界を強く恋い慕う心が起こりにくい「名残惜しい」という執着や不安が強く、素直な歓喜の方が表に出てこない。

むしろ「勇躍歓喜がない」「早く浄土へ行きたいとも思えない」と正直に感じているところに、煩悩に満ちた本当の自分の姿がよくあらわれている。だから親鸞は、「いそいで浄土へ参りたい心のない者を、かえって如来はあわれんでくださる」と受けとめます。

歎異抄は、「勇躍歓喜が起こらない」のを否定せず、その事実を通して自分の煩悩の深さ、それでも離さない本願のはたらきを、いよいよ深く聞き開いていくきっかけにしなさい、と導いて下さっているのです。

       

世界で「最も綺麗な国」は客観的に一つに決められませんが、自然環境の美しさや環境保全の評価が高い国としては、スイス、ニュ—ジーランド、アイスランド、カナダ、ノルウェ‐などが代表的とされています。

これらは山・湖・海岸線・オーロラなど多様な絶景と、環境保護政策の両面で高く評価されています。

日本のことを「美しい国」と表現する人がいるのは、単に景色がきれいというだけでなく、自然・文化・社会のあり方が重なって評価されているからだそうです。

わたしは毎日、会社の近くを15分程ですがゴミ拾いをさせて戴いていますが、毎日よくも惨たらしくゴミを捨てる輩がいるのには悲しくなってしまい人間嫌いになってしまいます。

ゴミを捨てる生きものは人間だけです。

人間とは=ゴミ、なのかも知れません。

外国人が日本はゴミも落ちていない美しいとは言いますが自分の国の方がよりゴミが多いからなのでしょう。

たまに東京に行きますがゴミが少ないように感じます。

我が日本の首都は美しくあるべきだ、というような気持ちがゴミのポイ捨てを抑止させているようにも思えるのです。

わたしはゴミの多い少ないが国の美しさ素晴らしさに比例すると思えるのです。

 

綺麗な事務所、綺麗な家、綺麗な街、綺麗な国、綺麗な地球にしたいものです。

そんな所に棲みたいものです。

そもそも人類は何の為に生きているのであろうか。

答が出ていたとしても現実と乖離しているのではないだろうか。

あったとしても空虚な意味のない目標になっているのではないだろうか。

国連は何の為にあるのだろうか。

大学の入試問題で□肉□食の□が焼肉定食と答えた人がいたという。

もう弱肉強食の時代は終わり真の目指すべき世界の到来が待ち受けているのではないだろうか。

日本においては、終戦記念日は1945年8月15日と認識され戦後80年が過ぎました。

わたしは79歳の戦後っ子であり何かが足りないと思っています。

もう亡くなりましたが、知人にいい加減な人がいました。

彼なりに目標はまーるく生きる、だそうです。歳は83歳位でした。

その彼が鼻を、かむ時ですがテッシュ二枚をキチンと広げ、更に二枚に折りたたみ、鼻を擤むのです。

決して紙は、三枚は使わず、正確に折り、片方ずつ鼻を擤むのです。因みに私は鼻をかむ時は両方の鼻を同時に擤みます。娘も同じ擤み方のようです。

遺伝子がそのようにさせるのでしょう。物のありがたみが身についていないのです。

松下幸之助が次のような言葉を残しています。

【福沢諭吉が述べたと言われ、多くの人が座右の銘として挙げる言葉に「現状維持は衰退だ」というものがあります。

ことわざに、「流れる水は腐らない」というのがある。

また、「淀む水に芥(あくた)たまる」ともいう。

これらの言葉は、何ごとにつけ常に流動、活動しているものには、沈滞とか腐敗といった現象は起きないということを教えたものです。

つまり、われわれの日常生活が、もし十年一日(いちじつ)のごとく同じ状態であるならば、ともすればいろいろの問題が起こってきて好ましくない結果が生じがちです。

しかし、そこに絶えず流れてやまない川の水のように、昨日よりは今日、今日よりは明日と、刻一刻より新たなものが加わっていくならば、そこからは限りない発展の道もひらけてくる。そういうことをいったものであろう。】

 

先日、兄妹会で諏訪湖に一泊しました。

湖畔を歩いてみましたが多くのゴミが落ちていました。

何故、このように多くのゴミを捨てるのであろうか、多分ですが戦前の人は道徳教育が徹底され教 育勅語などの影響で綺麗な湖だったのではないだろうか。

諏訪湖を世界一の綺麗な湖にしよう、などの運動が何故、起こらないのだろうか、淀んだ湖の水が少し、においがあり臭く感じられました。

水も濁っていて小魚もいませんでした。

湖畔には打ち揚げられた1センチ位の黒くて異様なコウモリの形をしたような菱の実と水草が湖畔の一面にありました。

この菱が腐り異臭の原因でもあるようです。

諏訪湖の一周は16kだそうです。

一人が100mを綺麗にしようとすれば160人の人の担当でまずは湖畔がゴミのない綺麗な湖になるのです。

何故、簡単な此のことさえも出来ないのであろうか。

郷土愛のような心が湧き出てこないのであろうか。

日本民族よ、世界人類の幸せのために役立とうではありませんか。

戦後80年、眠っていた獅子の如く目を覚まそうではありませんか。

諏訪湖に流れ込む川は13本あるという急流の川のはずです。

山から流れ込む綺麗な「せせらぎ」の水が諏訪湖に流れこむのです。

因みに「せせらぎ」という字には三とおりの漢字があります。

潺・粼・瀬です。

「せせらぎ」という英語表現はあるのであろうか。

このような言葉は日本でなければ生まれない言葉ではないでしょうか。

日本民族よ、潺となって人類を導こうではありませんか。

 

教育勅語には「勇気を出して公共の福祉に貢献しましょう」というような文言が書かれています。」

     

どんなに美人であったにしても死はやってきます。

土葬や火葬にしなければ誰でもが死体には蛆虫が湧き出てきます。

蛆虫は死の象徴の虫のようです。

人は必ず死ぬ、そして蛆の餌食になって死の世界に行かなければならないと古事記の物語が教えています。

死を見つめ自然の道理をわきまえ生きなさいと教えているのでしょう。

古事記の物語でイザナミとイザナギの物語には蛆虫が出てきます。

イザナミが火の神を産んで亡くなり、黄泉の国へ行ったあと、イザナギはどうしても諦められずに黄泉へ迎えに行きます。

 

黄泉の宮殿の中で、イザナギが約束を破って火を灯し、イザナミの姿を見てしまった時に「蛆がわいている」姿として描かれます。古事記系の説明では、だいたい次のようなイメージで語られます。

イザナミの体はすでに腐り果てていて、そこから蛆が湧き、さらに頭・胸・腹・手足など八か所に雷の神々が取りついているという恐ろしい姿だったとされています。

ここでイザナギは恐ろしくなって逃げ出し、それがきっかけで黄泉比良坂での追いかけっこや、後の禊ぎの神話につながっていきます。

この「蛆がわくイザナミ」の描写は、イザナミがもはや生者ではなく、完全に「死者の世界の存在」になってしまったことを強く示すシンボルと解釈されています。

研究論文などでは、腐乱した死体に群がる蛆のイメージが、黄泉の国の恐ろしさや「生と死の決定的な断絶」を象徴していると分析されています。

そのため、日本神話においては「死のリアルさ」をかなりはっきり描いた、珍しくも重要な場面とされています。

事務所に命神社を祀ってあり、イザナミ命とイザナギ命をお祭りさせて戴いています。

     

新聞の編集手帳欄に大学の入試問題に□肉□食の□の中に当てはまる言葉を入れてください、というような問題が出たそうです。

ある受験生の回答は焼肉定食だったそうです。

弱肉強食が正解の問題でした。

 

今回にトランプ大統領の中国訪問は弱肉強食のヤクザの親分が世界に権威を見せつけるかのような振る舞いのようです。

もうヤクザの親分の時代は終わっているように思われるのです

吾が日本においては岸田・石破の堕落政権とは180度も異なる高市政権で僅か半年余りの間に将来の希望と夢の実現を語れるまでに明るい兆しが見えてきました。

 

と同時に日本の底力が火山噴火のように吹き出し始めたのです。

世界文明は日本が発祥ではないか、大和民族が人類にとってなくてはならない民族ではないか、今一度人類の将来を日本民族に託してみようではない、と思わせるような報道がなされてもいます。

最近ですがAIによる不動産チラシを作ってもらいました。

 

素晴らしいチラシが出来たのですが自らの能力との差が明確になり将来が不安にもなりました。

チラシ一つで気持ちが落ち込んでしまいます。

来年あたりには空飛ぶ自動車が見られるかも知れません。

家庭ではロボットが家事を手伝う時代がもうすでにやってきているのです。

世界で自殺者が最も多い国に我が日本も入っています。

 

日本において死因不明のご遺体は、年間約20万にも上るそうです。

そして年間の行方不明者数は約8万人だそうです。

 

日本の自殺者数は年間に直近では年間およそ二万人前後で推移しています。

自殺死亡率は「人口10万人あたりの自殺による死亡者数」を指します。

警察庁統計を基にした厚生労働省のまとめでは、ここ数年、日本の自殺死亡率は「人口10万人あたりおよそ15人前後」で推移しています 。

 

しかし国連においては行方不明者数の半数を自殺者とみなしているのです。

だとするならば8万人の半数の4万人を自殺者に加え真の年間自殺者数は6万人という事になります。

近くの都市である蓮田市の人口はおよそ6万人です。

この蓮田市の人が全員亡くなってしまう程なのです。

という事は世界で最も自殺者の多い国は我が日本であるかも知れません。

日本人のDNA遺伝子がもたらしている結果でもあるのです。

 

繊細で消極的で暗く弱い遺伝子が日本民族の血の中にあるのです。

これも逆に考えれば他を思う、他を愛しむ優しさからの遺伝子でもあるのです。この慈悲の心が世界に伝わってきたのです。

それにしても優秀な日本民族の自殺者を無くしたいものです。