雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

最近、保育士さんが園児に虐待し女性三人が逮捕された事件がありました。

逮捕者の女性はテレビでは美人で虐待をするような女性には見えませんでした。

鬼子母神は、古代インド神話に登場する悪鬼ですが、仏教を守護する天部の一尊になりました。

夜叉毘沙門天の部下の武将八大夜叉大将の妻で、千人の子の母であったが、これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていました。そのために多くの人間から恐れられていました。

それを見かねたお釈迦さまは、彼女が最も愛していた末子のピンガラを乞食に用いる鉢に隠しました。

彼女は半狂乱となって世界中を七日間駆け抜け探し回りましたが発見することが出来ずに、助けを求めてお釈迦さまにすがりました。

そこでお釈迦さまは、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。

それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、そうすればすぐにピンガラに会えるだろう」と言った。

彼女が承諾し、三宝に帰依すると、釈迦は隠していた子を戻しました。

そして五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教えました。

かくして彼女は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。

あなたは何で生きているんですか、あなたは何者なんですか、多くの生きものの命を平気で食べ奪い暮らしていますが、悪行だと思わないでいいんですか、などと人から聞かれたならば答えられるでしょうか。

この事は人間が生きる上で最も大切な問いであり考えて生きなければ人間として生きている意味のない浮遊動物のような存在です。

世界には多くの教えがあります。

人間は神が創ったなどは人間中心の傲慢な思想ではないでしょうか。

この思想から地球が狂っているようです。

宗教とは宗とする教えを選びましょうという意味あいを含んだ言葉です。

この事はその人にとっては生き方の方向性が決まるという事でもあります。

アメリカでは宗教を持たない人は利用を断るホテルもあるそうです。

何故かと聞くと宗教を持たない人は人間ではないからとの答えだそうです。

日本においては信教の自由の観点から義務教育では宗教を教えてはならない事になっています。

肝心な、人はどのような教えを宗として生きていくべきかを教えてはならない事になっているのです。

最近、旧統一協会が問題になっていますが日本にも多くのカルト集団があります。

フランスにおいては公明党を母体とする創価学会もカルトに指定されています。

そのカルトの手先である公明党が日本の政治の一翼を担っているのです。

   

フランス人や、世界からみたならば日本の政治はカルトが操っている、狂った国と思われてしまうのではないでしょうか。

宗とする教えを選び出す事は容易な事ではありません。

その教えが真実の教えであると確信を持たなければなりません。

当然、カルトの匂いのするような教えは排除しなければならないのです。

仏教においては己とは何者か、の教えとも言えます。

人間自らを追求しなければ宗とするべき教えなどには至りません。

己の心の奥底はどの様な有様なのかを深く見つめなければなりません。

     

親鸞聖人は人間の心について「悪い本性はなかなか変わらないのであり、それはあたかも蛇やサソリのようである。

だから例えどんなよい行いをしても、煩悩の毒がまじっているので、いつわりの行というものである。」仏教においてはまずは己の心の中を掘り下げて見つめる事が大切な事です。

そして次に修行についてどのように考えるかが問題です。

煩悩の毒が入り込んでいる人間に果たして修行などできるのでしょうか。

法然上人の「選択本願念仏集」には「救いの道を求めようと思えば、これにひとすじのつとめ(浄土門の正行)と、さまざまなつとめ(聖道門の雑行)がある中、暫くさまざまなつとめを投げ捨てて、一筋のつとめを選び、心を打ち込むようにせよ。一筋のつとめに励もうと思えば、必ず救われる正しいはたらき(正定業)と、助けとなるはたらき(助業)がある中、助けとなるはたらきを傍らにおき、必ず救われる正しいはたらきを選び、ひたすらつとめるようにせよ。

必ず救われる正しいはたらきとは、とりもなおさず阿弥陀仏のみ名をとなえることである。

み名をとなえれば、必ず浄土に救われる。

何故かといえば、阿弥陀仏の誓いにかなっているからである。」と教えられておられます。

蓮如上人の末代無知の章に、これぞ正しく選んだ教えであると確信が持てたならば「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまえと申しなさい。

かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」とあります。

法然上人ともあろうお方が一日に一万遍もお念仏を称えたとも言われています。

心が定まっていれば常にお念仏など称えなくてもいいのではないかと思いますが念には念を入れるという言葉のように人間の心は移ろいやすいのです。

創価学会の信者は毎日のように大きな声で、お題目の南妙法蓮華経を称えています。

幾らその教えが間違った教えであろうとも毎日のお題目の唱和の勤めで信心が決定してくるのです。

故にお念仏を念には念を入れて称名する事で念仏者としての信心が決定するのでしょう。

 

     

昨日はお客様から戴いた大きな大根の煮物でした。

戴く時に大根に光っているものがあるので妻に聞いてみました。

すると暫く前に戴いた金粉入りのお酒を味付けで入れたのだそうです。

金粉入りの大根とは正月の御馳走みたいでした。

昔、祖母と山に屋根葺用の茅を刈りに行った時でした。野焼きした後に植えた小さな大根がありました。

お昼になり持って来たのは、おにぎりと味噌だけでした。

祖母が側にあった大根を抜き泥を手ぬぐいでぬぐい取り、大根に味噌をつけ一緒に食べた事がありました。

野焼きした所に初めて植えた大根の美味しさは格別でした。

甘くて想像を絶する美味しさで今でも忘れられません。

大根は常に同じ場所に植えたものは美味しくないそうです。

大根の美味しさをつくる栄養がなくなってしまうからなのでしょう。

小学生頃には皆、お弁当でした。

ジュラルミンの弁当箱に御飯、それに真ん中に大根の大きな味噌漬が一枚のせてありました。

蓋の内側の真ん中はいつも塩っぱいものや梅干しでしたので融けてブツブツしていました。

隣の同級生の弁当は一杯色んな御馳走が入っているようでしたが自分の大根一枚の味噌漬が美味しく今でもその味が忘れなく、昔の塩っぱい味噌漬を取り寄せたりして戴いています。

会津の高砂屋という昔の味噌漬をネットで注文したりしています。

切り干し大根も時々戴いています。

何故、天日に干すと美味しくなるのでしょうか。

水分が抜け、含有する糖分や旨み要素が凝縮されるからだそうです。

また、野菜によっては、酵素が活性化され、旨みも、栄養素も増えると言われています。

炭水化物の多いイモ類などは、澱粉が糖分に変わっていくのが早くなるとか。しいたけなど、きのこ類は、生とは違うもののようになりますし、切干大根も違った風味に変化します。

今国会において旧統一教会のカルトが問題になっています。

カルトの定義は難しいようですが、気付いた時には体中に毒が回って身動きが出来ない状態になるのです。

最終的には人の心まで奪ってしまう悪質極まりない組織です。

国の防衛論議が盛んに行われテロの訓練なども行われているようですが形に現れるテロへの備えです。

しかし目に見えない心の防衛が国民一人一人には大切ではないでしょうか。

国家は国民の心から出来ているのです。その心が奪われてしまったならば国家は存在しません。

中國が中華思想を基軸にして世界に中華菌をばら撒き世界支配をねらって着々と手をうっています。

独裁国家が何故、世界の支配者になり平和な世界をリードする事ができるでしょうか。

習近平の頭の中は腐った饅頭のようなもので出来ているようです。

最近、あるカルト集団が旧統一協会が問題になっているにも拘らず逆手にとって日本の国中で公的な施設をつかって講演やビデオ放映を行っています。

施設の申し込みを受けた市町村などでは個人名での申し込みでありバックにある組織名は出さずに巧妙に申し込みます。

そして生き甲斐を見いだせない孤独な社会に対して心をえぐるような話やビデオを放映するのです。

そして参加し感動した人を巧みに次の騙しのステップに進みます。

最終的には金銭を巻き上げられカルトの一員で活躍せざるを得ないように仕組まれているのです。

そのようなカルト集団だと分かっていたとしても市町村では被害がない限りは断れないというのです。

呆れてしまい埼玉県庁に電話をしましが、やはりそのような問題を受け付ける窓口すらないというのです。

カルトは心のテロです。

人類が生きる上で心のテロを防衛するにはどのような手段、方法があるかを国会論議を通じて真剣に議論し対処して欲しいものです。

見に見える国の防衛も当然大切ですが国民の心の防衛と相まってこそ本来の防衛ではないでしょうか。

妻は六人兄妹の末っ子で母親は明治生まれでした。

常に諺を大切にして子育てをしていたようです。

諺には人間の生くべき道の多くが語られています。

一つの諺で一時間位の授業が出来るのではないでしょうか。

最近の義務教育では多分、諺の授業はやらないと思われます。

第一、先生が知らないのです。

諺に「ミイラ取りがミイラになる」というのがありますが、その意味は掘り下げて考えた事がありませんでした。

調べて見る事にしました。

このことわざの前半の「ミイラ」と後半の「ミイラ」は、異なるものだそうです。

ミイラ取りの「ミイラ」は、アラビアやエジプトなどで死体に塗る防腐剤のことで、この粉末が不老長寿の薬として珍重されました。

後半の、ミイラになるの「ミイラ」は、一般によく知られる、腐敗せず原形に近い状態を保っている死体のことです。

この諺は、ミイラという薬の粉末を取るため探し求めに行った者が、砂漠などで迷ってしまい、自分が死体のミイラになってしまうといったものです。

そこから、人を捜しに行ったものが、捜される立ち場になる意味となり、転じて、説得しようとしたが、逆に説得されて先方に同意してしまう、という意味で用いられるようになりました。

ミイラを取りに行った者が、目的を果たせずに命を失い、自分がミイラになってしまう。

人を連れ戻しに行った者が先方にとどまって戻らないことや、意見しようとした者が反対に説得されてしまうことなど、はじめは相手に働きかけようと出かけた者が、逆に相手にとりこまれてしまうことの例えです。

「ミイラ」は、死後も腐敗しないで原形を保っている屍しかばねですが、江戸時代には、万病に効くとされた高価な輸入薬の名称にも使われました。

この薬の原料が砂漠のミイラであるという噂から、ミイラを取りにいった者が砂漠で遭難して自分がミイラになるという話がまことしやかに流布することになりました。

因みにミイラという字は「木乃伊」と書くそうです。

中国での表記をそのまま輸入したための字のようです。

親の愛情や苦労は子に通じにくく、子は勝手なふるまいをするものだという意味です。

親が子を思う気持ちが通じないで、子は勝手気ままなものであるということです。

又逆に、子の心親知らず、という言葉もあるようです。

親は、いつまでも幼い子どものように思っていて、成長する子どもの本当の心がわからない、という意味です。

浄土真宗では阿弥陀さま、の事を「親さま」と呼ぶことがあります。

その「親さま」について本願寺出版社「みほとけとともに」の 放送で三浦性暁先生が「親さま」について分かりやすく説明されておられます。

「私たちの宗門では「阿弥陀さま」のことを「親さま」とか「真実の親」とか、言い表されることがしばしばあります。

阿弥陀さまが「親」と呼ばれるにはそれだけの意味があるようです。

一般に、「親」という漢字の成り立ちから「木の上に立って見ているもの」ということで、いつも目を離さないもの、遠くからでもいつも見つめているものを親といわれることがよくあります。

子どもは、すぐに親から目を離れ、また、離れたがるものですが、親は、いつも子どもから目を離すことがありません。

いや、離すことができないのです。

また、もし、この目が届かないところにいても、心はいつも子どもの方を向いているのです。

阿弥陀さまを「親」と呼ばせていただく一つの理由は、このことからきています。

阿弥陀さまも、私をいつも見つめていてくださいます。

いつも私の存在に心を砕いてくださっています。これは、阿弥陀さまの「慈悲」のはたらきの一つといえるのでしょう。

また、「親」は、子どもから頼まれなくても、子どもを育てるものです。

子どもに「どうか育ててください。」と頼まれたから子どもを育てているのではありません。

頼まれる前から、請われる前から子どもを育てるのが「親」なのです。

阿弥陀さまも、私たちが頼む前から、請う前から、慈しみ育て、「ほとけ」になってくれよとはたらいているのです。

これを阿弥陀さまの「不請性」といい、「慈悲」のはたらきのひとつといえるでしょう。

さらに真実の親である阿弥陀さまは、子どもである私たちに対しての「願い」を持つ以前に、「親としての願い」をもっています。

私たち人間も、子どもへ、それこそ数え切れないくたいの願いをもっています。

こんな人間になってほしい、将来はこうなってほしいと期待と希望を子どもに託すのは、誰しもが思うことでしょう。

しかし、私たちは「親」である自らに、願いをかけることはあまりしないようです。

この子のために、まずどんな親になってやろうかと、この子のためにこれだけは用意しようなどとは、あまり考えないものです。本当の「親」とは、子どもへの願いをもつ前に「自らが、この子にふさわしい親であることを願う」ものなのです。

阿弥陀さまを「真実の親」「親さま」と呼ぶのは、私たちの親になることを、まず願われたからなのです。(中略)「子を持って知る親の恩」よく耳にする言葉です。

しかし、それだけでは、親の恩を知ったことにはならないと聞いたことがあります。

その子に、裏切られたとき、それでもなお、見捨てることができない親としての心情を自覚したとき、初めて自らにかけられたほんとうの親の恩を知るのです。

「子に裏切られて知る、親の恩」とでもいうのでしょうか。

私たちが、阿弥陀さまを「親さま」・「真実の親」と呼ばせていただくのは、私たちをいつも見つめ、私が願う前から慈しみ育て、私に願いをかける前に、自ら「親になることを願う」存在だからです。

そして、その親を裏切りつづけるこの私が、親であり続けようとする存在、はたらきに気づかされたとき、「親さま」と阿弥陀さまをいただくことができるのです。

逃げ回る私だからこそ、追いかけ、待っておいでになるのです。

裏切り通しの私だからこそ、裏切らないのです。

さらに真実である阿弥陀さまが、あらゆるいのちを見つめ、慈しみ、願われていることに気づくとき、あらゆるいのちが、同じ「親」をもつ、私たちの「兄弟」であることにも気づかされるのです。

阿弥陀さまを「親さま」といただくことは、親鸞聖人の御同朋、御同行のお心をいただくことでもあるのです。」と説明されておられます。

     

防衛には物理的な防衛と心の防衛があるのではないでしょうか。

ウクライナのロシアの侵略に対する防衛、中国による尖閣への日本の防衛などは物理的な防衛と言えるでしょう。

日本には中國の精神的な侵略政策に孔子学院なる学び舎を通じて心までも奪おうとする試みが世界を脅かしいます。

暫く前ですが足利学校、鑁阿寺に参拝した所、境内に孔子廟なるものがあり孔子の石像があって違和感を覚えた事がありました。昔、論語を学んだという名残なのでしょう。

中國を学ぶにはやはり中国民族の根底にある中華思想を根本にしての国家である事を押さえておかなければなりません。

孔子も同様です。

習近平が率いる覇権、独裁国家が世界平和を語り世界のリーダーたる由縁は皆無ではないでしょうか。

その習近平が孔子学院なるものを世界につくりカムフラージュして世界を乗っ取ろうとしているのです。

心の詐欺であり心の泥棒なのです。

そして孔子学院を通じて世界にスパイを使わせているのです。

謂わば、世界を、いつの間にか、ばい菌の増殖のように気付いた時には手の施しようがないように企んでいるのです。

世界にばい菌をばら撒いて乗っ取ろうとする大悪党のカルトの国が中國です。

そもそも中華思想とは一般的に、中国の文化が最高で天下の中心に位置するとみて、それと異なる周辺の文化を蔑視する考え方で儒教的な王道政治の理想を実現した漢民族を誇り、中華が世界の中心であり、その文化・思想が最も価値のあるものであると自負する考え方です。

中國の皇帝、中国民族のみが世界人類のリーダーたるべき存在であり他の民族を受け付けない和のない話し合いの余地のない高慢な思想の事です。

そのような思想が人類にとって真の思想であるはずがありません。

さて最近は旧統一教会が問題になっています。

国民の幸せを願うべき国会議員の重鎮が国民の不幸を餌にする集団に応援され、我こそが日本国民を幸せに導くリーダーである、とは呆れてしまいます。

政治家は、ある意味宗教家でなければ国民の幸せを導く事は出来ません。

果たして岸田首相は宗とする教えが定まっているのでしょうか。

国民の幸せとは何かを知らないで首相をやっているように思えてなりません。

政治家としての要件は人間の幸せについて語れる人でなければなる資格がありません。

最近、問題になっているカルトですが、あるカルト集団がカビのように日本の各地で講演やビデオの放映を企画し、現代の孤独的な心を癒すような素晴らしい催しをしています。

しかしその裏には当然、カルトの本部があり、感動した人を引っ張り込む罠を仕掛けているのです。

そして旧統一教会のように最後には金を巻き上げるのです。

それを宗教音痴の市や町の職員、組長も分かるはずがありません。

故に人からカルト集団ではないかと指摘されても被害がないので断る理由がないというのです。

心を毒のカビから護る手段を考えようともしない、市民の幸せなど関係のない行政になってしまっています。

県庁にこのような事を電話してみましたが、そのような問題への相談なり苦情を受け付ける窓口がないというのです。

成仏という言葉は亡くなってから仏になる、というニュアンスの言葉で死ぬ事と言う意味でも使われています。

昔、近所のお偉いさんが、お宅には亡くなられた人がおられるのですか、と聞かれた方がおられました。

お線香の匂いがしての事だったのでしょう。

古河の諸川に時宗の向龍寺の本堂の前に懸命に合掌している3m位の一遍上人の銅像があります。

本来は吾々の合掌は仏さまの合掌に対する感謝の合掌ではないでしょうか。

      

吾々の合掌は希望や夢の実現や宝くじが当たりますように等の欲の達成を祈る合掌になっているのです。

所詮、吾々の合掌は欲望達成の為の合掌です。

そのような欲望達成の祈りは吾々の方からの願いであり、本来は仏さまの合掌に対する感謝の思いからの合掌でなければならないのです。 

仏さまの合掌は、聞く気のない者、煩悩熾盛の凡夫に「任せてくれ、助けさせてくれ」と、命懸けで呼び続けておられる姿が合掌としてあらわれているのです。

浄土真宗の教えである『阿弥陀様の本願を二心なくいただいて、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えれば、仏に成るべかりける身となる』ということです。

阿弥陀様の本願とは、「私の名前をよべば、南無阿弥陀仏と称えれば、いつでも、どこでも、誰でも必ずたすけますよ」という阿弥陀様の御約束です。

人生の目的は弥陀の誓願の心を知る事なのでしょう。

貴方を必ず助け救わなければ、私は如来にはならないという途轍もない誓願をたてられ、永い間の修行と思索を重ね如来になられました。

その誓願は全ての衆生を救いきるというものでした。

それが既に完成し成し遂げられているという事です。

既に吾々は、この世で満開の蓮の花びらの上に乗せて戴いている、浄土に生かされているという事です。

それに気付かないでいるのが吾々です。

このどうしようもない吾々であればこそ、それでも見捨てないぞ、と固く約束なされておられます。

その気付かない原因は何なのでしょうか。

それが己を中心とする煩悩だというのです。

この煩悩を滅却する事が出来ないのが吾々凡夫です。

故に弥陀は、あなた方の煩悩は燃えさかる炎のようなもので決して消滅させる事など出来ません、そのような己の煩悩を見つめる事こそが弥陀が助ける要因になるのです、と教えて下さっておられます。

この弥陀が吾々を必ず救い摂る、あなた方が私を忘れていたとしても私は決して忘れる事無く救い摂る、という思いが合掌となってあらわれているのです。

そのように勿体ない弥陀の思いの合掌に吾々は、有難う御座います、と応える合掌こそが本来の吾々の合掌でなくてはならないのです。

最近はネットでのねずみ講的な占いまで流行っているようです。

暮になると厄年の加持祈祷の手紙がきます。

まるで世は平安時代に戻ったかのように人間は平安時代から引き続き心の拠り所が定まらず不安定なままで、それを解決させようとも思っていないようです。

知人で一徹で気丈な83歳の男性がいますが、やはり病気をした時なのでしょう。

成田山新勝寺の境内でやっていた有名らしき占い師にみてもらったそうです。

占い師曰く、越谷にある久伊豆神社に三年間、年に二回お参リしなさい、というような、お達しだったそうです。

それから必ず三年間、参拝されたそうです。

そして病気が快復したという事でした。

それを今でも信じているのです。

神社に参拝する勧めは心を浄めるからして良しとしても、人間の身は縁さえあれば参拝後には事故に逢い死に往く身でもあるのです。

たまたま病気が治ったまでの事です。

占いや、おみくじ、お守り、お札、などを大切にする人がいますが、そのような人は自らの欲望を神仏に頼み、叶えて下さいと願っての行動です。

欲望の達成からでは真の幸せはとうざかるのみで逆に逃げていってしまうのです。

欲望を追求する人謂は自分のない、信のない人とも言えます。

信とは宗とする教えを持たない人の事です。

占い師は迷っている人の生き方までも決めてしまう恐ろしい仕事です。

間違った生き方を勧めてしまった場合に、その人に対しては一切責任は負いません。

間違った道を勧めてしまう事がないと思っているのでしょうか、だとしたならば危うい仕事のはずですが、何故、占いが流行っているのでしょうか。

真の人間の幸せとは何かを考えようともせず、そのような世界を求めようともしない人が占い師になっているとしか思えないのです。

ロシアによるウクライナの侵略でプーチンが核使用で世界を人類を脅しています。

核使用の確率は低いのでしょうが万一、その使用に踏み切ったならば人類の滅亡まで行きつく可能性もあります。

そして北朝鮮の、ならず者までが世界を、脅かしています。

プーチンにしても一発位ぶっ放しても大して問題にならないと思えば使用するかも知れません。

しかし万一の自分の命を考えるならば使用は出来ないのではないでしょうか。

自分の命も危ういと考えるか、それとも考えずに破れかぶれで使うかが問題です。

ならず者と言えども自分の命だけは守ろうとします。

そのようなことから今回はプーチンは核は使わないで終了する事でしょう。

今後どのような輩が出て来て核を使用するか分からずアメリカは核を発射しても無駄であるような兵器を研究する事でしょう。

しかし核を使えば自らも核で全滅するという前提が崩れたななば人類の平和が逆戻りして、またもや各地で戦争が起こるのではないだろうか。

人類は戦争の歴史でもあります。

この戦争を無くするには根本的には聖徳太子の「和をもって貴し」の和なのです。

人間である以上、皆が平和を望み幸せを望んでいます。

しかし上に立つもののエゴから和の精神をないがしろにして戦争を起こしてしまうのです。

和とは決して単なる妥協ではありません。

徹底した人類の平和と幸せを願っての話しあいです。

最近の風潮として民主主義と称して多数決で決めましょうと徹底した話し合い抜きで全てを決めてしまうのが最良である、という事ですが、真実と民主主義は違います。

徹底した話し合いの中にこそ真実があるのです。

人類の平和と幸せは幾通りもありません。