煩悩という言葉が「盆のうえ」という言葉に置き換えて考えてしまいます。
本来は盆の上に載せられるようなものではないのであるが、やはり煩悩の性なのか目立ちたい普通より一寸上にいたい、皆に見てもらいたい、などよくよく考えると、くだらなく他愛もない餓鬼大将のようなものです。
出来の悪い子程、親はかわいいといわれるように、その餓鬼大将を天からご覧になられておられた阿弥陀様が、私が面倒みなければ必ず奈落の底におちてしまい二度とたちあがれなくなり彼岸に渡ることが出来ないであろう、という思いをかけられ助けてくださったのです。
さすれば阿弥陀様が、その煩悩とやらを、私が分かるように、お盆の上に載せてみてください、とおっしゃるのです。
朝の駅前の掃除にしていても人に褒めてもらいたい、そしてご苦労さんと声をかけても欲しい、こんな綺麗な駅前は他の駅にはないであろう、と威張りたい、そして表彰状位もらいたい、それを新聞に掲載してもらいたい、など恥ずかしくて人様には申し上げられない薄汚く情けない煩悩という塊の餓鬼大将なのです。
ゴミ掃除一つにしてもこのような始末なのです。
わたしはこのように多くの煩悩の沸き出てくる一日を生きているのです。
人生は煩悩の湧き出てくる苦労との闘いとも言えます。
憧れという素敵な言葉があります。
立心偏篇に立と里という字で成り立っています。左側の「忄」は「心」を表す部首です。
右側の「童」は音を表すと同時に、子どものような純粋さのイメージを表しています。
心+童で、「心が何かに向かってさまよう・惹かれる」イメージが生まれました。
しかし童という字の由来は純粋とは裏腹の意味から生まれた字なのです。
会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。
転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました。
本来は醜い字なのですが変化逆転して憧れるという字になったのです。
春日部の東口の駅前通りに何の店か分かりませんが心春という店があります。
この心の春という言葉は聞いたことも見たこともありませんでした。
人名に使う場合は「こはる」と読ませるようです。
とてもかわいい名前です。春には夢がありスプリングのように跳ね上がる嬉しさがあり新芽が出てくる生命力を感じさせ、人間にとって明るい季節でもあります。
人としてのイメージは、あたたかい心で周りに春のような明るさをもたらす人。
心がいつも春のように明るく柔らかい人。
新しいことに前向きに心を開いていく人。
春を誘うように心が寄り添う心春とはすばらしい言葉に感じられます。
ゴム毬のように、弾力性を備えて人生を生きたいものです。
汚いものを見ても動ぜず美しいものを見ても動じないような人の事を佛さまのような人というのでしょう。
しかし普通の人間は美しさを知ればこそ汚さを知り、汚さを知ればこそ美しさを知ることが出来るのです。
煩悩だらけ欲望だらけの惨たらしい人間は大嫌いである、いわゆる人間嫌いの人ほど人間が大好きである証拠なのです。人間の煩悩の醜さを深く知れば知るほど人間の美しさを知り得るのです。
故に己の心を深く知ることが仏法であるともいうのでしょう。
美しく咲く蓮の花なども美しく咲かせる多くの菌が繁殖しているヘドロが有ればこそ咲いている、と思えばこそ花の美しさが増してくるのです。
人間も同じように自らを支えつくっているお蔭様を心に抱いている人ほど美しい人になり得るのです。















































































