雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

知人に今回の自民党の総裁選についてたずねてみると大抵の人が、誰がなっても変わらないから、という言わば諦めのような答えが返ってきます。

これが今の社会情勢なのでしょう。

わたしは以前から高市早苗さん以外には首相にふさわしい人はいないと思っていました。

今回の候補者全員の演説会において四国松江での彼女の演説を聞いたのですが他の候補者にはない魂の叫びが聞こえてくるようでした。

国民の為、人類の為に命を燃やす覚悟のような心が伝わってきたのです。

他の候補者からは心は震えるような気概が感じられません。

彼女のような政治家は百年に一人出るか出ないかのような逸材なのです。

高市早苗候補は国会報告のパンフレットを20万枚位、支持者等に送付したのですがそれを察知した岸田首相はじめ幹部たちが高市候補を陥れようと画策したのですが、その悪事が失敗して岸田首相の人間としての資質までもが問われてしまう事になってしまいました。

何故、こんな岸田のような人を首相にしてきたのだろうかと国民に思われるまで非人扱い人になってしまったのです。

そのような事件が逆に高市候補を持ち上げる事にもなり高市候補の人間として素晴らしさまでもが神格化したのです。

彼女が総理総裁になるのには必然性が感じられるのです。

今回の総裁選において彼女が総裁になれなかった場合には日本は終了し世界人類までも禍根を残してしまうのです。

それほどまでも日本はあらゆる面で追い詰められているのです。

和食がユネスコ無形文化遺産に登録されています。

その中でわたしは左程、注目されていないと思うのですが箸置というものが和食文化の根幹にあるのではないかと思うのです。

有名な話家になると話の間を大切にします。

聞き手に対して一瞬ではありますが考える間を与えているのです。

間の無いのを間抜けとも申します。

知人たち10人程に家庭で箸置を使っているかどうか、訊ねた所、使っている家庭が一人だけでした。

嘆かわしい事です。

 

しかし多分ですが食事の前には感謝の言葉として「いただきます」と挨拶言葉を述べてからいただいておられる事でしょう。

「いただきます」とは当然、食べ物に対しての感謝の心が一番のはずです。

食べ物とは、その殆どは命ある生きものたちなのです。

その多くの生きものたちの命に対しての感謝、謝りなのです。

私のような至らない人間であったとしても食事をいただけることは勿体無いと思うのが普通の人なのです。

箸置を使う事によって、そのように思う間を与えてくれる事が無形文化遺産に登録された理由だと思えるのです。

西洋の食事はナイフとフォークです。

文化的なものは感じられません。

文化とは人類の根幹に拘わるものがあってこそ文化遺産となるのでしょう。

禅宗の食前作法に、「最初ご飯粒若干を膳の縁に置き《衆生と共に》と言う心を示す」ということがあるそうですが、それが阿弥陀さまの心なのでしょう。

箸置は箸と同じ材料で作ると味わいが増します。

何故、瀬戸物やガラスなどを使っているのでしょうか。

違和感を覚えてしまいます。

同じ材料で作ってこそ自然の雰囲気が味わえるのではないでしょうか。

ネットなどで調べてみても余り気にしないでいるようです。

わたしは箸と箸置の同じ材料のセットものを作って、それなりの説明書をつければ商売になるのではないかと思っています。

禅宗の食前作法に、「最初ご飯粒若干を膳の縁に置き《衆生と共に》と言う心を示す」ということがあるそうですが、それが阿弥陀さまの心なのでしょう。

人の殆どは、己は生きている内に人間を完成させたいと心の底では思ってはいるのでしょうが煩悩という魔物が邪魔して考えよう求めよう完成しよう、という心までもがゆがんでしまい時の流れるままに煩悩の奴隷になってしまうのです。

この煩悩との戦いそのものが人生なのでしょう。

修行によって煩悩を無くしてしまえば人生は完成するのでありましょう。

だがしかし修行も出来ない凡夫は生きるすべを無くしてしまいます。

親鸞聖人は、いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

(だが、少しの修行もできない親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである。)

ここまでたどり着いてこそ「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。」と弥陀の本願、弥陀の誓願不思議な世界があらわれてくださるのです。

己の完成とは弥陀の世界に心を任せ委ね任せ預ける事なのです。

 

電車に乗っている殆どの人がスマホをいじっています。

何だかスマホをいじっていないと時代遅れの人みたいに思われるのではないかとの思いもありスマホをいじってしまう事もあります。

スマホは小型コンピューターでもあります。

それを殆どの人が持っている時代なのです。

スマートフォンの始まりは、平成4年、今から32年前にアメリカのラスベガスで開催されたコンピュータ産業のトレードショーに登場したIBM社製のものでした。

30年位で人類の生活が一変してしまうような事が起こりうるのです。

さて人類の将来といっても未来は永遠です。

大きくは、核がもたらす戦争や事故の行方、地球の温暖化による被害の拡大、地震、津波、火山噴火などの自然災害、AI(人工知能)の発展による人間疎外、などです。

やはり10年、30年、50年、100年先と区切って考えざるを得ません。

さてそのはじめの10年間位で世界、生活暮らしはどのようになっているのでしょうか。

博報堂が2030年6~7年後の技術の発展について次のような事をあげています。

宇宙太陽発電所、ストレス緩和住宅、日常生活の話し相手になる知能ロボット、次世代蓄電池が一回の充電で約500キロ走る電気自動車、木材由来の繊維状物質「セルロースナノファイバー(CNF)」が一兆円市場に成長する、海底都市「オーシャンスパイラル」を実現する、人工知能(AI)が住宅、家電を知能化する、人工知能(AI)が病気を予防し、疾病を早期発見する、人工知能(AI)が完全自動運転を実現、死亡事故がなくなる、等々多くの技術が人間の欲望を発展させるのです。

時速300kで走る新幹線に乗るのと各駅停車の電車に乗るのとでは人間のストレスが大きく差があるそうです。

各駅停車の方がストレスが少ないのです。

多くの新しい技術が吾々を楽に便利にさせてくれるでしょうが果たしてちっぽけな心が着いていけるのだろうか、幸せになるのであろうか。

五年前、秩父の浦山ダムの上流にある秘境別荘にお客様をご案内した時の話です。

秩父まで高速で二時間位でした。

秩父に入ると1304mの武甲山が左手に石灰岩の採掘で山肌が削られた痛ましい姿が聳え立っていました。

大空と武甲山、たなびく雲、大自然のエネルギーがひしひしと感じられました。

命あるものと命のないもの。

太陽と空、森林と岩石などが混ざり合って大自然をつくっているのです。

命のないものがなければ生き物は生きられないような気がしました。

10時4分に秩父鉄道の浦山口にお客様が電車で着かれました。

年の頃73歳位の女性が一人でリックを背負い登山姿で見えられました。

少し足の具合が悪いようでした。

この足腰では別荘までは無理かなーと思えるようでした。

しかし彼女は川を渡り現地まで行けたのです。

自然が大好きだと話しておられました。

建物も古く大工さんを入れないと利用できない位に荒れているのです。

帰りに地元の大工さんに頼めばいいんじゃないですかと話すと、叱られるんじゃないですか、と言うのです。

何故なのかと訊ねると大自然に囲まれて育っている人たちに私のような者が神様の領域のような所に足を踏み入れる事を許してもらえないのではないか、と言うのです。

自らの醜さ、煩悩を自覚されておられる素晴らしい女性だと感心しました。

そして優しさに満ち溢れておられるのでした。

又、皆で相談してから見せてくださいとの事でした。

彼女を西武秩父の駅までお送りしました。

帰りの車のテレビで佐渡裕さん指揮のサントリー一万人の第九の番組がありました。

何を歌っているかは分かりませんでしたが一万人が挙っての大合唱には感動しました。

一万人が一つの歌を歌い上げるエネルギーに感動したのです。

その時には多分大勢の歌う人たちは煩悩が消されているのではないでしょうか。

だからこそ大自然の声として聞こえてくるのではないでしょうか。

煩悩は人間だけにしか備わっていないものなのでしょう。

その煩悩を自覚する事、そこから佛さまが現れてくださるのでないでしょうか。

     

 

人間、誰でもが人として生まれたからには人生の醍醐味を獲得したいと心の底では思っているはずです。

しかしその事に気づかないで生きているのです。

何故、気づかないかというと宿業と煩悩の暗雲で純真な心を覆ってしまい、暗闇の中で、もがき苦しみ脱皮できないで人生の醍醐味を獲得したい心が途切れてしなうのです。

そのように哀れな人間であるからこそ如来が出現してくださるのでしょう。

人生の醍醐味を味わう重要なヒントは「感謝」という言葉に凝縮されていると思うのです。

という事は感謝の心で生きる事程難しいものはないということでしょう。

言うならば「有り難う」の心を知るということでしょう。

我々は、あるはずのない摩訶不思議な宿縁から、この世に生まれてきました。

人工知能でも予想困難な命なのです。

感謝とは謝ることを感じる、という字です。

何に謝るかというと人は多くの生きものの命を奪わなければ生きてはいけません。

その食べて、奪ってきた命に謝るということではないでしょうか。

にも拘わらず生きなければならない訳をたずねることが感謝であり、人生の一大事ではないだろうか。

その答えは弥陀の本願というものがあればこそ人間は生きていくことができるのではないでしょうか。

歎異抄の第一章に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとくるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」

人間の命も不思議ならば、弥陀の誓願不思議も、どちらも不思議同士なのです。

思議する、思いはかる事ができないということです。

 

人間が生まれればこそ弥陀の誓願が成り立ち、弥陀の誓願あればこそ人間があるのです。

切っても切れない関係なのでしょう。

人間だけでは真の人間にはなれないのです。

暫く前ですが、ある雑誌に「幸せって何だろう・意地を張ってでも好きなことを選択する。

それが幸せの原点。」という記事が載っていました。

一般的にはそのような事になるのでしょう。

あなたの幸とは何ですか、との質問があった時、あなたなら何と答えるのでしょうか。

果たして好きな事を成し遂げる事が幸せなのでしょうか。

質問の「幸せって何だろう」の幸せの中に当然、答えがあるのです。人は幸せとは何かを知ろうともせず、求めようともせず、知らないで生きているようです。教育でも鮮明には教えない、だから分からないで、好きな事をやること、というような答えになってしまうのです。

人は可愛そうな悲しいドラマなどを見ると涙を流す事があります。本などを読んで感動する時にも涙が出る事もあります。

涙には嬉し涙、悔し涙、孤独の涙、喜びの涙、悲しい涙、切ない涙、苦しい涙、赤ちゃんが泣く時の涙、法悦の涙、など様々です。本能と煩悩からの涙と精神的純粋性からの涙とがあるように思われるのです。

この精神的純粋性から涙が出てくる時の感動こそが幸せの絶頂ではないでしょうか。

精神的純粋性とは今命有る事に対しての感謝の心が伴っていなければ決して幸せにはなれないのです。

感謝の心が充満した時、そして佛さまに信じられていることを信じた時、人生の真の幸せが得られるのではないでしょうか。

幸せとは勝利することだ、という動物的な欲望達成の成就を人間の幸せだとの考えを聞いた事がありますが余りにも人間を断片的にとらえた浅はかな考えのようで悲しくなってしまいます。

夏と言えば焼けつくような暑さと蝉の鳴き声である。

今朝玄関のドア―を開けると小さな蝉が死んでいました。

なんという蝉か調べてみました。

緑色はないようであるがツクツクボウシのようでした。

ツクツクボウシは7月下旬から10月にかけて成虫が出現し、産卵します。

卵は翌年に孵化し、幼虫は土中で5回の脱皮を経ながら3~4年すごすと考えられています。

日本の蝉の数は約30種類だそうです。

糸魚川市能生の白山神社の尾山には天然記念物の姫春蝉が生息しています。

絶滅することなく継続して棲息して欲しいものです。

これは自然の中の家系なのでしょう。

日本には多くの武芸や習い事があり流派があり家元などがあります。

戦前は家中心の家族制度でした。

昔の武士社会においても家の為なら殿の為なら命をおしまないのです。

「LGBT差別解消法案」「選択的夫婦別姓制度」「皇位継承」が問題になっています。

これらの問題の根本は個人の意思を優先するか家や仲間の絆、継続伝統を大切にするかに集約されるのではないだろうか。

個人を優先すれば共生の精神が無くなります。

個人を神の子として考える西洋思想は既に終えているのです。

今こそ和の精神で友を家族を伝統を国家を見つめなおし大きな和を、共生の時代を生きる時代なのです。

本来は個人の権利などないのです。

あるのはお蔭様で有難うという義務を背負うべき生きものが人間なのです。

個人を優先する事では真の幸せはおとずれてはくれません。

曽我量深先生は

「佛とは何か、煩悩のなくなった方である。

煩悩があったら佛ではない。

人間とは何ぞや。

煩悩を具足しているのを人間という。

煩悩がなかったら人間ではない。

あらゆる煩悩を備えている。

煩悩具足を人間という。

煩悩を持っていながら、煩悩を持っているということを知らないでいると煩悩に苦しめられる。

いよいよ煩悩を持っているということが分かったら煩悩に苦しめられるということがないわけである。

だから煩悩があるとともに、その煩悩があるということを自覚するのである。

だから我々は人間として、人間というものは決して佛になるところの単なる足場であるというわけのものではない、と思う。

佛と人間とが互いに相照らし、一方には佛を完成し、一方には人間を完成する。

人間があるからこそ佛は完成し、また佛があるからこそ人間は完成するわけである。」

  

殆どの事件は煩悩から起こるのではないでしょうか。

煩悩をなくして佛になろうと修行したとしても煩悩がなくなるようなものではありません。

煩悩の自覚 ということを教育で教えることで多くの事件が起こらなくする事ができるのではないだろうか。

 

私という人間はどうして生きられているのだろうか。

生きていられるはずのない命の継続で今を生きているのです。

人は二人の両親から生まれます。

一代を20歳の寿命とすると20代さかのぼると父方と母方の合計の御先祖さまの数は二百万人以上になるのです。

その中の一人でもいなければ私という命はありません。

人間の体の物質は三か月もすると90%以上が入れ変わっているのだそうです。

それにも拘わらず三か月前の自分と今の自分が同じ存在だとして生きているようです。

体を作る物質も殆どが入れ替わり記憶や思考も適当なもので果たして自分などという確かなものがあるのであろうか。

宿業とは前世につくった業。

現世に応報を招く原因となった前世の善悪の行為ということです。

その考えが輪廻思想に結びつきます。

終わることのない輪廻転生の世界から離れるためには、原因を見極める必要があります。

すべての結果には、原因が存在します。

なので、輪廻転生が起こる原因を見極められれば、終わることのない世界から離れられるとされています。

ブッタは、こんな自分なんて信じて執着するから苦しむのだと気づいたのです。

そして自分は大きな自然の中のちっぽけな一部だけれど全部とつながっている命なんだと悟ったのです。

自分とは先祖から引き継がれた宿業・遺伝子・DNA・煩悩・欲望・自己中心そしてそれらが絡み合った縁によって生きているのでしょう。

それら全ての要素から自分とは出来ているのです。有るようでないのが自分であり無いようであるのが自分なのである。

そんな自分が生きていく道を歎異抄は教えてくれているのです。

念仏者は、無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善も及ぶことなきゆゑなり、と云々。

「南無阿弥陀仏」をとなえる念仏の行者に対しては何者も邪魔立てすることができない。天つ神や国つ神も、魔界に棲む者も仏法の枠をはみ出た他の教えを奉ずる者も、だれも念仏者を阻むことは不可能だ。罪悪も念仏者に報いを受けさせることはありえないし、諸々の善も及ぶものではない、と親鸞は語った、という意味です。