雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

朝5時頃ですが玄関のドア―を開けると、ひんやりとした秋の風が頬を撫で、体全体が引き締まるように感じました。

今日は快晴の一日の始まりである。

 

秋の虫たちが今日も一日楽しく過ごそうねと鳴いているようでした。

遠くには小鳥の鳴き声がチイチイ・ジイジイなどと鳴いていました。

 

すると目の前を蚊よりも小さな虫が顔を横切り飛んでいきました。

こんな小さな虫も命の機能を備えて生きているのだと思うと不思議でなりませんでした。

命って平等に備わって生まれるのだろうな、と思いました。

すき家でミニカレーを戴き、車を走らせていると北方に日光の山並みが鮮明にみえました。

その日光連山を襲うかのように、どす黒い雲が連山に覆いかぶさるようにみえました。

その内に利根川上流に大雨をもたらし大災害が必ず来るのだ、自然の力を馬鹿にするでないぞ、と教えているようでした。

  

 

朝はどこから 

作詞:森まさる 作曲:橋本国彦 歌:岡本敦郎

朝はどこから 来るかしら あの空越えて 雲越えて

光の国から 来るかしら いえいえそうでは ありませぬ

それは希望の 家庭から 朝が来る来る 朝が来る

「お早よう」「お早よう」

     

 

暑い夏も終え秋がやってきました。

秋の空の雲も色々です。

遠くには入道雲、南には薄雲が棚引いています。

真上にはどす黒い雲がいつかはお前たちに襲い掛かり高慢に生きている人間どもを驚かせてやるのだ、と言っているような雲も有ります。

 

昔ですが春日部の画家で宮島良也さんの富士山の絵を知人から戴きました。

雪景色の絵です。

その絵の空に一筋のどす黒く異様な雲が描かれているのです。

見ように寄れば絵全体をぶち壊してしまうようにも感じられるのです。

しかし引き込まれるような魅力があるのです。

 

修行を重んじる聖道門の人は心を綺麗にしようとして、汚い心を消し去ろうとします。

その訓練を修行というのでしょう。

自ずと佛さまに近づくのです。

しかし大乗仏教の教えは全ての衆生を救う事が目的なのです。

 

般若心経の教えでは「照見五蘊皆空度一切苦厄」(この肉体も精神もすべて実体がないと気付き、一切の苦しみから解放された。)「舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色」

(シャーリプトラよ、ものは空より生じる。そして空はものの形をとらずには存在できない。ものの世界には実体がなく、実体がないからこそ、ものとして現れることが出来る。)という教えです。

この真実の道理は修行を重ねなければ理解が出来ないとするのが聖道門の教えです。修行も出来ない輩は仏門には入れないのです。その落ちこぼれを救って下さるのが阿弥陀様なのです。

]浄土門の人は自らの心に潜む悪魔を自覚しようとして奈落の底の地獄を棲みかとしてまで自らの悪の自覚を追究するのです。

自らの汚い心を浮き上がらせるのです。

まるで、天ぷらの様です。

 

高温の油の地獄で芯から具が揚がりきって、その自覚から揚げ物が美味しく出来上がるのです。

切り干し大根や渋柿、魚など天日干すしにすると別なものだと思える程の美味さになる多くの食べ物があります。

多分ですが人間も同じなのかと思われます。

私は中学生までは農家で育ち農業の手伝えをしました。

田起こしから代かき田植え稲刈り脱穀まで一様は経験させて戴きました。

その一連の米づくりの中に稲を刈り取っての稲の稲架かけの仕事がありました。

多分ですが縄文時代から引き継がれてきは米に天日干しです。

田舎では大きな木に10段もの竹の棚をつくり束ねた稲を二折に分け稲架にかけるのです。

そして20日間程乾かして仕上げるのです。

天日干しと機械干しの美味しさの違いのデーターは有りませんが可なりの美味しさの違いが有るものと思われます。

最近は自然災害に強い品種の稲が開発されています。

埼玉の「えみほころ」や岐阜の「清水一号」など災害に強い品種が開発されています。

しかし肝心な自然の恵みである「天日」の恵みを忘れているようです。

手間がかかりすぎ、その分、価格が高くなるからなのでしょう。

しかし価格を度外視して本物の美味しさを求めている時代でもあるのです。

例えばですが「20日間の天日干し宝石米」と名うって商品化下ならば必ずヒットするはずです。

わたしは世界で一番美味しいものは味噌おにぎりです。

天日干しのお米で炊いた

味噌おにぎりを食べたいものです。

 

先日ですが今まで会ったこともないような先生が仕事で来社されました。

まだ40代の先生でしたが高飛車で高慢で一方的に喋りまくり人の話は聞こうともしないケバケバの先生なのです。

30分位でしたがこんな人間もいるんだと思う位ならいいのですが私の煩悩が爆発して一日中、心が砕けそうになりました。

心の底から人間嫌いになってしまったのです。

このように砕けてしまった心を奮い立たせてくれるような言葉がないだろうかと、考えると、その夜は眠れませんでした。

そして思いついたのが「弥陀一心無碍一道」という言葉でした。

この言葉をAIに聞いてみました。

「阿弥陀仏の本願を疑いなく信じ、その救いに全てをおまかせする心(弥陀一心)になった者は、人生のあらゆる苦難や障がいがそのまま障がいとならなくなる、何ものにも脅かされない絶対の幸福に満ちた一本の人生の大道(無碍の一道)を歩んでいくことができる」

この言葉を心に刻み入れ、蓮如上人の末代無知章を繰り返し口ずさむことで腹立ちがやわらんできました。

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏とふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

わたしも来年の一月二十五日で満八十歳になります。

余命(寿命)は89歳との事ですが、病気持ちの為、今日にも明日にも旅立たなければならない命なのです。

この命を倍にして楽しむ方法は無いのであろうか、と考えたのが「他想心」という事です。

人間は皆、自己中心で生きています。

   

春日部の西口に「バカ・バカ」と鳴くカラスがいるそうです。

人間、幾ら馬鹿でも馬鹿と言われれば腹が立つ程に馬鹿で、自分中心で生きています。

他想心とは他のものの命になり替わって、その身になって想いを馳せるという意味です。

優しさとは他の身になって考えられる人のことです。

例えばですが、お月さんの気持ちになり替わって考える、コウロギの身に、なり替わって考えてみるという意味です。

他の命になり替わって生きてみるという事です。

常にこの事を忘れない為に、小道具を考えました。

それが「一心他助」という木製の手のツボマッサージ器です。

常に持ち歩き使い他想心を忘れない事です。

     

最近まで余命と終活という言葉を殆ど知りませんでした。

余命は余った命を今後どうやって活躍する、というような言葉です。

一般的に高齢者とは、65歳以上の人を指します。

 

年齢による一般的な区分として前期高齢者65歳〜74歳、後期高齢者75歳以上となっています。

なお、近年は平均寿命の伸びや健康寿命の延伸に伴い、日本老年学会などが「高齢者の定義を75歳以上に引き上げるべき」だといった提案を行うなど、時代の変化に合わせた見直しの議論も進められています。

一緒に余命という言葉も終活という言葉も見直して欲しいと思うのです。

 

寿命の事は尊命と呼び余命こそ寿命にしてほしいものです。

終活も還活とか甦活や再活などにして欲しいものです。

余った命とか終わりの活躍などいい言葉ではありません。

筑波大の村田教授が人間の精神的成長は75歳からであるとも語られています。

であるならば私はまだ5歳までいかないのです。

人生のエキスの吸収はこれからなのです。

青春という詩が有ります。

  

「青春」サムエル・ウルマン 

青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方をいう。

バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく

たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。

青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気。

やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。

ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。

年を重ねただけで人は老いない。

理想を失うときはじめて老いる。

歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。

苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥(あくた)になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には驚異にひかれる心、幼児のような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。

君にも我にも見えざる駅逓(停車場・〒)が心にある。

人から神から美、希望、喜び、勇気、力の霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ悲嘆の氷にとざされるとき20歳だろうと人は老いる。

頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり80歳であろうと人は青春の中にいる。

台風がやって来るというので鉢植えの蓮の葉が折れてしまうのではないかとの思いで農家の庭に生えていた篠竹を7本ほど戴いてきました。

蓮の葉を風から護ってやるのです。

細縄で鉢を縛りその隙間に篠竹を入れて回りを縛るのです。

縄は茶色で細く丈夫な麻縄でした。

台風も大事なく朝には雲が棚引き、星がちらほら見える穏やかな一日の始まりです。

早速、蓮を養生していた篠竹を取り除くのに麻縄を切って片付けました。

その時、妙に切り落とした数本の麻縄が気になり別に取り除きました。

そしてその数本の麻縄を繋ぎながら思ったのです。

短くなった10センチの縄も繋げば長くなり幾らでも使えるようになるのです。

10センチのままではゴミ箱行きです。

人間の社会においても、この事が、人間が生きていく上で最も大切なヒントではないかと思えたのです。

人間は一人の力では限られた事しかできません。

しかし協力者や応援団が加わり一緒になって助け合ってくれたりすると出来ないような事も出来てしまうようになるのです。

自由・平等・友愛というフランスの国旗があります。

自由に放任すれば平等が損なわれ平等を追究すれば自由が失われる、その真逆をつないでくれるのがお互いを思いやる友愛だというのです。

最近はAIによって人間が最も大切だと思っていた「創造力・発想力・思考力」を奪われてしまいました。

考えないでも生きられる時代になってしまったのです。

人間は考えない葦である、というのです。

 

さて人間から創造力を奪い摂られて何が人間に残るのでしょうか。

それが友愛であり共同愛であり、助け合い、思いやりであり共同体なのです。

敗戦によって家族という共同体が壊れてしまいました。

  

個人主義から権利の主張を声高に掲げる個人欲望人間になってしまいました。

人間から人という字の片方を奪ってしまったのです。

 

今一度、日本民族は原点に立ち返って人類愛を目標にして共同体をつくらなければならないのです。

戦争のない平和な世界と人類の幸せの為に努めようではありませんか。

     

 

 

 

 

人間とは煩悩だらけ欲望だらけの、化け物のような生きものです。

殆どの人間は自らが何者かを振り返って見ようともしない、それでいて幸せになりたいと頭の隅で思っているような魔物のような生きものです。

煩悩と欲望を備えていて幸せを求めているような生きものは、この世には人間だけです。

煩悩と欲望の追究は人間が求める幸せとは真逆なのです。

煩悩と欲望を強く求める人には幸せは遠のいてしまいます。

京都の永観堂のご本尊は見返りの阿弥陀さんです。

私はこの阿弥陀さんが大好きです。

人間は皆、己を中心として己よりも偉い人はいないが如くに己、中心に生きています。

そして己中心に生きている人間が自らを振り返って見ようとしないのです。

そのような生きものは人間にあらず獣と同じ様です。

殆どの人間は自らを振り返り見ようともしない獣なのです。

しかしこの獣のような人間の心の底に「佛心」という善玉菌が巣くっているのです。

この仏心菌の多少によって人生が様変わりするようです。

妙好人と呼ばれる人がいます。

私の目指すべき理想の人間像です。

世界には、このような絶対幸福者をもたらすような教えが他の教えにはないのです

妙好人とは中国の唐の時代、善導大師が観無量寿経疏という書物の中で、お念仏する人を「人中の妙好人(この上なく素晴らしい人)」や、白く清らかな蓮の華である「分陀利華」に例えて絶賛したことに由来します。

人間の悪の性根を見極めた時、弥陀の救いに自ずと入信し全託するしかないのです。

世界には多くの教えが有りますが、この阿弥陀さんの教えの他に救って下さる教えがないのです。 

一回の息の吸い込みと一回の息を吐く事の中で、わたしは生きている、との思いを言葉にするような意味合いの言葉がないだろうか、を考えていたら朝まで殆ど眠れませんでした。

朝方ですがこれぞ正に考えていた言葉だという文言が浮かんできました。

「一呼吸一生」という言葉です。

都合でAIに出来の按配を聞いてみました。

「一呼吸一生」、あるいは「一息は一生」という言葉は、主に仏教や禅の教えにおいて「人間の命の本質は、今この瞬間の『一呼吸』にしかない」という真理を説いたものです。

漠然と「何十年も生きる」と考えがちですが、私たちは息を吐いて、次に吸うことができなければその瞬間に命を終えます。

つまり、この一呼吸の積み重ねこそが「一生」そのものなのです。

一・ お釈迦様と弟子の対話より。

この言葉のルーツは、仏教の経典『四十二章経』にあるお釈迦様と弟子たちの有名な対話にあります。

お釈迦様が弟子たちに「人間の寿命はどれくらいだと思か?」と尋ねました。

ある弟子は「数日です」と答え、お釈迦様は「お前はまだ道をわかっていない」と言いました。

別の弟子は「食事の間です」と答えましたが、これも「まだわかっていない」と退けられました。

最後に一人の弟子が「人の命は、ただ『呼吸の間(一呼吸)』にあるだけです」と答えました。

お釈迦様は「その通りだ。お前は道をわかっている」と深く頷かれました。

私たちは「明日も生きている」と当然のように思い込んでいますが、実際には一息吸って吐く、そのわずか数秒の連続の中にしか命は存在しないという厳然たる事実を教えています。

二・ 禅における「いま、ここ」を生きる智慧臨済宗大本山 円覚寺の坐禅堂には、「人命は呼吸に在り」という言葉が掲げられています。

禅の修行では、坐禅の際の一呼吸を「これが生涯最後の、末期の一呼吸だ」という覚悟で深く吐ききり、また新たな命を授かるように新鮮な空気を吸い込みます。

過去への後悔・すでに過ぎ去った「息」であり、変えることはできない。

未来への不安:まだ訪れていない「息」であり、吸えるかどうかは分からない。

「一呼吸一生」とは、過去や未来に心をすり減らすのをやめ、「いま、ここ」にあるこの一呼吸に全精力を傾けて生きなさいという強いメッセージです。

三・私たちの日常への活かし方科学的に見ると、人間は一日に約二万回、一生で約6〜7億回もの呼吸を繰り返しています。

しかし、ストレスや不安が多い現代人は、知らず知らずのうちに呼吸が浅く、速くなりがちです。

この言葉を日常に取り入れるための簡単なステップです。一呼吸を大切にする。

気がついた時に、一度口からお腹の底にある空気をすべて深く吐ききってみてください。

そして、鼻から新鮮な空気が満ちていくのを静かに感じます。

「今日一日」を丁寧に生きる。

「一呼吸の積み重ねが今日一日になり、一日の積み重ねが一生になる」と考えます。

目の前の仕事や、目の前にいる人との時間に心を込めるきっかけになります。

「一呼吸一生」は、儚さを嘆く言葉ではなく、「いま生きているこの瞬間は、それほどまでに奇跡的で尊いものである」と私たちを元気づけ、正気に戻してくれる智慧の言葉です。

一呼吸に要する時間を四秒とすれば、私たちは一日に21600回の呼吸を繰り返しています。

一呼吸の積み重ねが一日であり、一日の積み重ねが一生なのです。

以上がAIによる見事な回答です。

私という煩悩だらけな凡夫の行き着いた真理の答えとAIという知能の回答が最終的に同じ回答の言葉であったという事は人生において最も大切な要点なのです。

凡夫は凡夫なりに真理を求める事を諦めずに考え人とも徹底して激論重ねれば必ず真理の光が見えてくると思えるのです。

これが聖徳太子のいう「和」に精神であり大和民族のこれからの生き方ではないでしょうか。

話し合いの原点は幾ら馬鹿でもチョンでも話し合いを重ねれば真理が見えてくるという事であり、そのように人類は生きる事こそが世界平和の原点であると思えのです。

人間を愛し衆生を信じてもっと話し合いを積極的にすべきなのです。

その橋渡し役が日本民族なのです。

和の精神の仲介、指導、実践なのではないだろうか。

世界が、人類が日本民の愛を待っているのです。

根本は人類愛の実践なのです。

常不軽菩薩の生き方を学びたいものです。

     

昔、子供の頃に父から「この広大無限な大宇宙から埃一つ無くする事が出来ない」という話を度々聞かされていました。

その事が頭から離れず事あるごとに思い出していました。

その思いを五か条にまとめてみました。

 

それを又、最先端の評論家であるAI博士に聞いてみたのです。

万物の真実(不思議)           

一.  万物は一つとして同じものなし。

二.  万物は全て繋がりあって存在している。

三.  万物は時がつくる偶然の宝石である。

四.  万物は一つとして無くする事は出来ない。

五.  万物は無限の中の化け物である。

提示された「万物の真実(不思議)」の五つの言葉は、宇宙や存在の本質を鋭く捉えた哲学的な洞察です。

仏教の「諸行無常」や「縁起」、あるいは現代科学の「エネルギー保存の法則」や「量子力学」の視点にも通じる深い意味を持っています。

 

それぞれの言葉が持つ深い意味を読み解いてみましょう。

「万物の真実」の考察 

一. 万物は一つとして同じものなし。全ての存在には固有の個性があり、完全に同一のものは存在しないという絶対的な多様性             を示しています。

          一見同じに見える双子や結晶、工場製品であっても、原子レベルや置かれた空間、時間の文脈においてはそれぞれが唯一無二の存  在です。

二. 万物は全て繋がりあって存在している。

          仏教でいう「縁起の思想そのものです。

私たちは独立して生きているのではなく、空気、大地、他者、そして宇宙の歴史のすべてと相互に依存し合って存在しています。一つの変化は必ず全体に影響を与えます。

三. 万物は時がつくる偶然の宝石である。

今ここに存在するあらゆるものは、膨大な時間と無数の偶然が積み重なって生まれた奇跡の結晶であるという意味です。

過去のほんの一つの歯車が狂っていれば、今のあなたも、目の前にある景色も存在していませんでした。

四. 万物は一つとして無くする事は出来ない。

科学における「質量保存の法則」や「エネルギー保存の法則」を想起させます。

形が変わる(死ぬ、壊れる、燃える)ことはあっても、その存在を構成していた本質や要素が宇宙から完全に消滅することはないという真理です。

五. 万物は無限の中の化け物である。

「無限」という圧倒的な背景の中で、形を持ち、変化し、時に意思を持って動く万物は、人間の常識や理解を超えた驚異的で計り知れない存在(化け物)であるという畏怖の念が表現されています。

   

この五つの言葉は、私たちが日常で見過ごしがちな「存在の不思議」を思い出させてくれます。

この「一から五」の形式の文章は、一般的な古代哲学(ギリシャ哲学や仏教の教えなど)の要素を内包しつつも、非常に洗練された独自の詩的表現になっています。

特定の伝統的な古典そのものというよりは、ある特定の思想家、文学者、あるいは特定のコミュニティや書籍で定義された「世界の捉え方」のようにも見受けられます。