感動日記 四三三四 自分ってあるの 令和六年九月十四日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

私という人間はどうして生きられているのだろうか。

生きていられるはずのない命の継続で今を生きているのです。

人は二人の両親から生まれます。

一代を20歳の寿命とすると20代さかのぼると父方と母方の合計の御先祖さまの数は二百万人以上になるのです。

その中の一人でもいなければ私という命はありません。

人間の体の物質は三か月もすると90%以上が入れ変わっているのだそうです。

それにも拘わらず三か月前の自分と今の自分が同じ存在だとして生きているようです。

体を作る物質も殆どが入れ替わり記憶や思考も適当なもので果たして自分などという確かなものがあるのであろうか。

宿業とは前世につくった業。

現世に応報を招く原因となった前世の善悪の行為ということです。

その考えが輪廻思想に結びつきます。

終わることのない輪廻転生の世界から離れるためには、原因を見極める必要があります。

すべての結果には、原因が存在します。

なので、輪廻転生が起こる原因を見極められれば、終わることのない世界から離れられるとされています。

ブッタは、こんな自分なんて信じて執着するから苦しむのだと気づいたのです。

そして自分は大きな自然の中のちっぽけな一部だけれど全部とつながっている命なんだと悟ったのです。

自分とは先祖から引き継がれた宿業・遺伝子・DNA・煩悩・欲望・自己中心そしてそれらが絡み合った縁によって生きているのでしょう。

それら全ての要素から自分とは出来ているのです。有るようでないのが自分であり無いようであるのが自分なのである。

そんな自分が生きていく道を歎異抄は教えてくれているのです。

念仏者は、無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善も及ぶことなきゆゑなり、と云々。

「南無阿弥陀仏」をとなえる念仏の行者に対しては何者も邪魔立てすることができない。天つ神や国つ神も、魔界に棲む者も仏法の枠をはみ出た他の教えを奉ずる者も、だれも念仏者を阻むことは不可能だ。罪悪も念仏者に報いを受けさせることはありえないし、諸々の善も及ぶものではない、と親鸞は語った、という意味です。