2023.12 NO.200 オブラート VS ビブラート (1/2)
とうとう200号に到達した。記念号として我が人生を歌とともにふり返ってみたい。
新型コロナウイルス禍による外出自粛以降、却って妻とスーパーに買い物に行く機会が増えた。仲が良くなった訳でもない。中島みゆきさんの歌を借りて言えば、僕と妻とのあいだには今日も冷たいすきま風が吹いている。スーパーをはしごする妻が、若い時のような体力がなくなり、私に重たい物をリュックに背負わせて先に帰らせる。赤帽扱いしているだけなのだ。
道すがら、「女心と秋の空」ではないが、機嫌の風向きが変わると7つ下の妻によく注意される。妻は体が細くない(心も狭くなくこれしきで名誉棄損と怒らないが、体重が年齢を超えている。数年後ゴルフのごとくエージシュートすれば祝いたい)くせに細かいことにうるさい。老い先短い私より子供達をもっと指導すればと言うと、「子供達は一回言えば直す。アンタは子供以下!」と追い打ちされる。
妻が母親に変身していく。私がさらに老いさらえば、私を赤帽から赤ん坊扱いに変え、オムツを穿かすだろう。口答えできるのも今のうちだ。
短くもあり長くもある70余年の人生を振り返ると、濃淡はあるがいつも音楽が共にあった。クラシックや対極にあるジャズではなく、歌謡曲と洋楽(ポピュラー)だが。
物心ついた頃、母は、ラジオで故三橋美智也の歌を聴き、口ずさんでいた。父は、母が少し似ているからか故島倉千代子が好きだった。それで私も両歌手が好きになった。60数年前の三橋の『りんご村から』を唄う。島倉の『この世の花』は「赤く咲く花 青い花・・」と口ずさむことができる。
小学校の1年生の頃か、近所の一つ下の男児と一緒に当時流行った故神楽坂はん子の『こんなベッピン見たことない』を真似て、家の2階から上村松園の美人画から抜け出したような若くて綺麗な女性に声掛けし冷やかしていた。4年生までは裏声で歌っていた。今でも同世代の中では声は高い方だ。中学では合唱部に入っていなかったが、動員で声をかけられたりしていた。
楽器は、音楽の才能がある4つ上の兄が中学に上がる頃(私が小学3年)それまで弾いていたウクレレからギターに替えるに伴いお下がりとしてもらった。左利きなのでウクレレの弦を張り替え仲宗根美樹さんの『川は流れる』一曲をマスターした。しかし、それで終わってしまった。兄はベンチャーズの影響か大学生の頃からエレキギターを生涯の友とし、コロナ禍前は、ハワイアンバンドでスティールギター等を担当し、老人ホ―ム等を慰問したりしていた。
大学生の頃は社会人の兄がトリオのテープデッキでFM放送から録音したものを聴いていた。兄が独立するまでは兄の嗜好をそのまま受け入れていた。ビートルズ、アンディウイリアムス、グレンキャンベル等をよく聴いた。音楽はすべからく兄のお下がりだった。
大学に入学した時、受験勉強から解放され青春を謳歌することとウクレレで挫折したリベンジを目的にマンドリン倶楽部に入部した。マンドリンも購入して練習に励んだが、右手ではうまくできず左手で弦を弾かせて欲しいと頼んだ。初心者かつ新参者の言うことなど聞き入れられるハズもなく、結局辞めてしまった。またも三日坊主。それ以来楽器を手に持つことはなかった。歌も歌うこともなく、もっぱら聴くだけ。女っ気のない、麻雀と家庭教師のバイトとに明け暮れる日々となる。
昭和48年(1973年)銀行に入った頃は宴会で歌が始まると寝たフリをしていた。そうもいかないときは「今日もこうして飲めるのは・・・」労働歌みたいなものを歌ってお茶を濁していた。
兄が独立して別居してからは、自分で音楽を選び始めた。当時フォークソングをよく聴いていた。グレープ、かぐや姫、チェリッシュ、井上陽水さんなど。
井上陽水さんの『心もよう』を耳にすると、昭和49年(1974年)1月東京に転勤したときを思い出す。初めて親元を離れ新神戸駅から新幹線で上京した。東京駅で中央線に乗り換えた電車の中で私と同じように両手に大きな荷物をぶらさげ地方からと見られる若い女子を見かけた。ともに新宿駅で降り、彼女は東口へ、私は西口へ向かった。不安が期待を抑えつけていたあの日の光景が今でも目に浮かぶ。
すぐには東京に馴染めなかった。毎日通う新宿西口の青梅街道をまたいだ歩道橋から晴れた冬の日には富士山が見えた。頭の中ではバンバンの『いちご白書をもう一度』が流れていた。
しばらくして丹波篠山の田舎から僚店に転勤してきた女子行員を好きになった。名前はヨウコ。武道館での故トムジョーンズの日本公演や布施明さんの日劇のショーに二人で出かけた。箱根の『彫刻の森美術館』にも繰り出した。しかし、後述する挫折前のことで本ブログの2013年2月NO.20(「カンオケ と カラオケ」)で触れたが、女々しくてしくじった。結構引きずり野口五郎さんの『私鉄沿線』の歌の世界に埋もれていった。
人生を通じて、想いを寄せたのは(ほとんど一方的な片思い。妻とは結婚して40年以上経った今でも片思いみたいなもの)、小学校は幼馴染のノリコ(残念ながら亡くなった)。中学校はヨシコ(中学3年に他校へ。以来音信不通)。高校はマドンナとして憧れたマサコ。大学は麻雀が恋人。強いて言えば、小豆島で一期一会したマサコ(姫路の豆腐店を探す勇気はなかった)。銀行員時代は上述のヨウコと妻のジュンコ。
皆今では珍しくなった「子」がつく姫たち。数は少ないと思うが、一途とも言えないか。堀内孝雄さんの『青春(ゆめ)追えば』のサビ「君想う 君は何処に 平凡でも幸福でいるのか」を聴くと、妻以外の姫たちに想いを馳せる。五木ひろしさんの『そして・・・めぐり逢い』の「『それはよかった』倖せなのか あの頃より綺麗になったみたいだね」と言う年代はとうに過ぎてしまったが。
昭和53年(1978年)初夏ある長信銀の某行に調査トレーニーとして出向したが、そこで挫折した。だが、つぶれてしまった訳ではない。高校、大学の大先輩でもある某役員からの期待に沿わねばと変なプレッシャーを自身にかけ良い子、優等生のフリをしていた。そのメッキが剥げたら、本性というか眠っていた、我を張る、負けん気も強い自分が姿を現した。後年組合専従になり賃上げ交渉で対峙した、元上司の人事部長は、私を「悪くなった」と評していた。
言うべきことははっきりと言うようになっただけなのだが、周りからすれば、傍若無人に映ったのだろう。数年前、銀行の本店で一緒だった後輩に20年振りに再会した。私は世間の冷たい風にもあたり少しは変わったと思ってくれると期待した。だが、後輩は当時こんなことを言われたとつい昨日のことのように話し、責められていると感じた。アナの姉・雪の女王エルサほどには周りを凍りつかせてはいなかったとは思うが、時が経っても消し難いほどの我が物顔の振る舞いだったかと思い知らされた。当時妻から「何でも自分の思い通りなると思ったら大間違いよ!?」と度々叱責されていたことを思い出した。
平成の世になると、銀行で責任の一端を担う立場になり、一方でバブルがはじける風雲急を告げていたので、私の音楽は冬の時代に入っていった(平成3年11月フレディ・マーキュリーがエイズで亡くなりQueenの人気が再上昇したのだが、関心を寄せる余裕はなかった。映画『ボヘミアン・ラプソディ』に感動し、Queenへの認識を新たにしたが)。
それでも覚えていることがある。平成元年に初めて支店長になった折、支店の開設記念日にオーナー然として君臨する老会長(毀誉褒貶はあったが、何十年も全店へ三日に一度は臨店し祝辞を述べていた。誰も真似できない)を迎えて記念行事を行うことがあった。
それに向け余興として15分ぐらいのビデオを作製した。大柄で美人の女子行員に支店長の私に扮してもらい、支店の活動を劇化した。オープニングに井上陽水さんの『青空一人きり』を使わせてもらった。劇中ビートルズの歌も挿入した。当時私が平日会員だった、日本最高コースレート77.4 を誇るゴールデンバレーゴルフ倶楽部は池とクリークが巧みに配置され景観が素晴らしく、わざわざ西脇までロケしに行った。前の晩に近くの銀行保養所に泊まり三田で購入した松茸を持ち込み皆で松茸入りすき焼きを堪能した。
ビデオの編集は企画室のビデオ班に依頼した。若い頃企画室に在籍し、各支店に赴きレポーターをしていたことがある(ビデオは全店に配され毎月曜の朝礼時披露される。先輩や同輩から「週のスタートの朝から気分が悪い。頼むからビデオに出ないくれ」とディスられた)、そのよしみで。ビデオ班は、余計な仕事ながら頑張ってくれて、洋画のごとくエンドロールで配役と行員名も流してくれた。今も思い出しては笑みがこぼれるよき思い出だ。
平成2年(1990年)に再度(今度は支店長として)勤務した新宿支店では、バブルの末期仲良くしていた不動産業の社長(著名な方の御曹司)と何度か歌合戦をしていた。先方はCA上がりの美人社員らを連れて、こちらは若さが売りの女子行員を動員して。私は、『無縁坂』『22才の別れ』『すこしは私に愛をください』とかを披露した。
銀行を辞めて数年後裁判所から呼び出された。その不動産業の社長から、私が新宿支店長の時に「融資を盾にゴルフ会員券を無理やり買わせた」と銀行を訴えたのであった。
2023.12 NO.200 オブラート VS ビブラート (2/2)
やむなく裁判所に赴いたら、民事でもあり原告側も被告側も代理人。証人としての私だけが出席し宣誓させられた。実質私が被告みたいであった。挙句に、ゴルフ会員権の無理強いなどしていないと説明していたら、裁判長からYESかNOだけでよいと偉そうに言われ、不愉快千万だった。
原告の代理人はよくも司法試験に合格できたものだと思える弁護士で、貧すれば・・・と社長の身の上を気の毒に思った。が、美しかった思い出を汚されたので、複雑な思いになったことが今も忘れられない。
銀行を辞める (経緯は2015年5月NO.47「バブル と ダブル(1)(2)」に記載) 平成5年 (1993年)末前後は、来生たかおさんの『夢の途中』と加藤登紀子さんの『時代おくれの酒場』を交互に聴いていた。『夢の途中』は私のチカラウタで、別れ・旅立ちの歌だが旋律とリズムが自らを高揚させてくれる。大事な行事等に向かう場合にはいつも聴いて自らを奮い立させた。『時代おくれの酒場』では「あーあどこかに何かありそうなそんな気がして 俺はこんなところにいつまでもいるんじゃないと」のサビの所で銀行を辞める感傷に浸っていた。
社団設立に上京するに向けて不安にかられるときは『夢の途中』を聴いて自らを鼓舞し、感傷的になったときは『時代おくれの酒場』を聴いてひとり涙ぐむ。その繰り返しだった。
その頃、桂銀淑さんの歌もよく聴いており、『私には貴男だけ』は今ではカラオケの十八番。一番の歌詞は日本語、二番はハングルなのだが、何度もCDで聴いていたので、ハングルの歌詞を諳んじてしまった。数年前韓国に行った折クラブの私付きでないホステスからわざわざ発音が正確と褒めてくれることもあった。それで気をよくし、今ではカラオケでは一番の日本語で歌うところをハングルで、2番のハングルのところを日本語で歌い得意ぶる。酔っぱらうと、どういう訳か、日本語の歌詞の方を忘れてしまう。
数年前、「桂銀淑(ケイウンスク)さんはもう日本に来られない。口惜しい!」と妻に言ったら、同じようなハスキーな歌声の張銀淑(チャンウンスク)さんがいると妻が教えてくれた。平成7年から日本で活動しているようだ。その頃私は大リーグのNOMO命だった。
張さんの歌をyou tubeで何曲か聞いてみた。なるほど、声がハスキーで似ていると言えるが、やはり桂さんは桂さんでなければ。ちあきなおみさんの歌をカバーした『酔いどれ船』『紅(あか)とんぼ』を聴くとつくづくそう思う。
『すずめの涙』で桂さんは「たかが人生 なりゆきまかせ」と唄うが、薬物か、その前のギャンブルか、何がこれほどまでに天才歌手の人生を狂わせてしまったのか。かえすがえすも残念でならない。だが、韓国の人々も天才歌姫を見捨ててはいない。新型コロナ禍前のクリスマスにはディナーショーが行われたという。
平成6年(1994年)に居も東京に移し、その後2つの団体に所属することになる。最初の社団法人は、異業種交流の場ということではあるが、当社団がなくても世の中が別に困るわけではない。レーゾンデートル、つまり存在意義をいかに確立するかに事務方として終始頭を悩ませた。
設立当初は会員の意見を聞きながらと楽観していたが。作家が書くテーマが思いつかないときのごとく、何をすべきかを考えて思いつかないのは苦痛の日々だった。せっかく身近にバイトの女子大生がいたのに、カラオケに行くのは忘年会のときぐらい。声帯も筋肉なので衰え高い声が出なくなった。困ったことに、いわば本を読むのが仕事だというのに、本も読む気になれなかった。社団に移る志は本物だったのか?との自己不信に苛まれた。自らの非力さにも。
こんな状況のとき外部からの委託業務はなんともありがたいのだが、先方都合で打ち切りになるときは本当に身が切られるように痛い。芸能人が長寿番組や帯番組のMCを降りるのを見たときは気持ちを思い遣るようになった。凡人は痛さを知って初めて他人の痛さが理解できる。痛みを知らないボンボンの凡人なら一国のトップになるべきではない。世界幸福度ランキング1位のフィンランドでは万民に教育機会をと実質公立校しかない。そこで将来首相に立つ者も庶民の暮らし、庶民の痛みを知る(とはいえ、首相が若くても、女性でも構わないが、国のトップ自身が庶民と同じ生活をしてどうする。大企業経営者でも時間外や休日の概念はないのに)。
平成17年(2005年)業界団体も兼務し、平成19年にその業界団体に完全移籍した。業界の発展の為との協会の存在意義があるので、こんな楽なことはないと思った。前の社団で培ったノウハウを駆使し次々と企画していった。問題の実行力は、団体役員企業の社長と社員が叶えてくれた。そうなると、不思議というか根が単純なので、あれだけ本を読まなかった私が長男と競い合うように本を読むようになった。役員達がお酒やカラオケも好きなので、歌う機会も格段に増えていった。個人的にも、某役員とその会社の女子社員、協会の委員でユーミンの旦那さんと大学仲間という人と4名で飲み会&カラオケ会を定期的に催した。私は同じ歌を歌わないようにしていた。You Tubeでメロディーを覚え、一人カラオケで練習した。それでレパートリーが飛躍的に増えることになった。
卒職した現在は、日課(と言うぐらいで趣味ではない)として、新書等新刊中心の読書(勉強)、中国語(苦行で開店休業中)。日課ではないが夕食後安ワインを呑みながら懐かしい歌等をYou Tubeで視聴する。イーグルス『ホテル・カリフォルニア』、ビートルズ『Let It Be』、1990年の映画「ゴースト/ニューヨークの幻」の主題歌『アンチェインド・メロディ』(兄は歌いこなすが、私には無理)は何度も聴く。
爺の私は、ヒット曲をカバーしたyou tubeがバズり、韓国のオジサンたちから“中統領”<中年(達にとって)の大統領>と呼ばれるYOYOMI(요요미)さんを最近知った。
彼女は、トロット(韓国演歌)歌手の父親の血を引きトロット歌手ながらホップスを故マイケル・ジャクソン張りに踊って歌える。カバー曲の『Beat It』(英語)、『Despacito』(スペイン語)、『青い珊瑚礁』『負けないで』(日本語)を視聴して分かるが外国語も苦にしない。
カバー曲『노바디』(nobody)など歌っているときは小悪魔的だが、長年無名歌手に甘んじてきた父親を盛り立てようとする健気さが爺の心を揺さぶる(もう少し詳しい紹介は12/20アップ予定の次々号202号「ヨヨミVSヨソミ」にて)。
邦曲では、故美空ひばりの持ち歌をソプラノ歌手塩田美奈子さんが歌う『津軽のふるさと』は何度聴いても飽きない。グラシェラ・スサーナさんの『アドロ』を聴くと映画『誰が為に鐘は鳴る』のヒロイン・マリアを思い浮かべてしまう。
週課(趣味に近い)として劇場での映画鑑賞と並んで一人カラオケを入れている(これだけなら週に野口先生2枚済む。物価高の今はもう少し掛かるか)。カラオケは喉を鍛え誤嚥を防ぐ。認知症の予防にもなる。
今は『Let It Be』『太陽は燃えている』『明日に架ける橋』等英語の歌やTUBEの『あー夏休み』やサザンオールスターズの『HOTEL PACIFIC』の乗りのいい曲等何でも歌う。女性歌手の歌も、徳永英明さんのカバーから少しフラットに下げて、高橋真梨子さんの『桃色吐息』、竹内まりやさんの『駅』『シングルアゲイン』、沢田知可子さんの『会いたい』等を歌う。
若い頃見向きもしなかった男演歌も唄う。細川たかしさんの『望郷じよんから』や北島三郎さんの『北の漁場』、鳥羽一郎さんの『兄弟船』等男くさい歌も唄えるようになった。
堀内孝雄さんの曲もよく唄う。『影法師』は感情移入しすぎて涙声になりそうになる(浜田省吾さんの名曲『もうひとつの土曜日』も)。自身は泣かないで聴衆を泣かせるプロ歌手達は凄い。女性の心を鷲掴みしている。私は胸しか。いや、それもできないか。
それで、何人かと歌うときは、声量を強調できる歌を選んで歌っている。最近妻と嫁いだ娘ファミリーと娘婿の友人とでカラオケに行ったが、私が、山本譲二さんの『みちのく一人旅』→長渕剛さんの『CLOSE YOUR EYES』→ゆずの『栄光の架橋』(原曲キーではとても歌えないが)→シャ乱Qの『シングルベッド』を歌ったが、娘婿らはジジイがこんな曲歌うのかと声量ではなく選曲に呆れていた(私自身は、肉体的には老いの衰えを痛感するが、精神的には万年青年ではなく万年ガキの如くだ)。
一人カラオケをするようになってかれこれ10年以上になる。たまには妻と一緒したいのだが。妻は一人がいいと言う。とくに私とは、本ブログ2015年11月号NO.53(「おんなのでふねVSおんなのでぶね」)で書いたように、不愉快になるからと行きたがらない。
宥めすかして一緒に行ってもらう。ただ、妻も負けてはいない。私が故フランク・シナトラの『My Way』を熱唱すると、「この曲は歌が上手い人が歌うのと違うの?」と悦に入る私に冷や水をかける。妻が故テレサテンの歌で「あなたをこれ以上 愛するなんて わたしには出来ない」と歌いあげると、面映ゆい私は「Wow!」と声を上げる。横目で見る妻の目がバ~カと言っている。
長いこと歌っていれば、下手でも少しは上達する。自然とビブラートが使えるようになった。ピンボールのような剛速球しか投げない、オブラートに包んで話すことは苦手な私だが、ビブラートはカラオケの機械が褒めてくれる(妻も「ビブラートだけは褒められるね」と認めている)。DAM精密採点DX・Gではビブラート等が加点されるので、点数が出やすい故谷村新司の『いい日旅たち』や大川栄策さんの『さざんかの宿』、青木光一さんの懐メロ『柿の木坂の家』は瞬間風速ながら91~94点が出始めた(より感情表現を重視する最新機器のDAMAiでのマイベストは♭3で歌った加藤登紀子さんの『時代おくれの酒場』の95.329点。95点台はこの曲で2回出たのみ)。私はびっくり、妻はどっきり。最高点96.7点(DX・G『北の宿から』)の妻はDAMAiの方がやや点数が伸びないので、妻の背中が見えてきた。
しかし、何事も控えめな妻が唯一他人にひそかに優越感を抱く、点数よりも声質に天性を感じる妻の歌の牙城を崩してみようとは思うだけでもいけない。その邪心を妻に見透かされてしまえば、そう遠くない介護(される)生活にアザが絶えないことになるだろう。
長々と書いたが、読み返して、平和ボケの典型みたいな、なんてつまらない人生だ!と我ながらそう思った。頭の中でNHKのど自慢の不合格の音がカンコンと鳴った。
(次回201号は12/1アップ予定)