2022.12 NO.182 こなもん VS こなもん

 本文の前に気になっていることをまず書かせていただく。

 2011年7月号より掲載し始めた本ブログは私と家族にまつわる下世話なエッセイと時事問題を扱うコラムの基本2本立てである。が、コラムでは、2016年60号前後から安倍首相などの公人や著名芸能人などの準公人の問題への批判を強めた以降世間に受け入れられるか案じられたが、一人でも「いいね!」がつくと安心した。
 もっとも、新しいフォロワーがついたと連絡が入ると嬉しさより不安がよぎる。ここ1、2年、フォロワーになって数日後解除されるケースが少なからずある。3か月ほど継続して4、5号読み「つまらない」「考えが違いすぎる」と解除するのは理解できる。せっかくフォロワーになったのに次号も待たず慌てたかのように解除される。私の知らないところで何に気づかれたのか気にかかる。

 ブログを読む限り真っ当と思しき2人の方のケースにはより困惑している。先月に、一人の方は過去フォロワーになり数日後解除していたがまたフォロワーになりまた数日後解除した。もう一人の方は、過去フォロワーになり数日後解除したがまたフォロワーになりまた数日後解除したのは前者と同じだが、さらに10/25にフォロワーとなり、翌26日に解除された。なおも11/3もフォロワーとなり11/5には解除されていた。何が起きているのか。
 もしかして、解除したのはフォロワーになった当人たちではなく、当人たちは私が解除したと思っているということなのか。そうだとすれば、一体何を意味するのか。
 

 

 ウクライナ戦争は膠着し長期化の様相にある。その中で、西側の報道によれば、キーウ近郊のブチャでロシア軍により虐殺があったとされる。第三者の機関により、その真実と、上からの指示なのか現場の暴走なのか、調査する必要があろう。
 ただ、戦争の中では、兵士は普通の精神状態にない。ある意味そうでないと困る。異常な精神状態にないと人は殺せない。戦前の日本軍にも、今も徴兵制のある韓国軍にも、理不尽なしごきやいじめを受けるのは、その為もあると言われている。
 ロシア兵によるレイプ等は国連性暴力担当代表が「軍事的な戦略」との見方を示す。が、異常な精神状態に戦場での性的な飢餓状態が加われば、最も獰猛な部類がロシア兵だとしても、どこの軍兵士も、程度の差はあれ、よほどの自制心がなければ猛獣化する。反抗で攻める側に転じているウクライナ兵においても、西側から情報が流れず実態が分からないが、ウクライナ内ではないとしてもロシア領土で戦闘すれば同じことをする者が現れよう。

 厳しく軍本部から自制を指示されていた戦前の日本兵でも白髪三千丈の中国が大虐殺と呼ぶのはともかく南京虐殺も起きた。 

 飼い主の元から猛獣が逃げ出し住民を襲っても猛獣自体を批判する者はいない。戦争するほどのことでないのに戦争したロシア・ウクライナ両大統領が非難されるべき。さらにそれを仕向けたバイデン米民主党大統領も。明日の米国中間選挙で審判が下るのか。
 

 地球の氷河期と氷河期の狭間の温暖期に生を受け、戦争のない日本で育ち老いを迎える私たちは、奇跡的と言えばオーバーすぎるが、幸運としか言いようがない。20年後には確実に私はこの世にいないだろうが、下記みたいな「こんな呑気な話をする平和な時代があったのか」と言う日が来ないことを願う。
 関西は粉もん(食)文化と言われる。私が子供の頃そんな呼び方はなかったと思うが。大学生の頃私は172.5㎝、51~53㎏。子供の頃は“もやし”とあだ名されていた(今も貧弱だが約20㎏も無駄に増量している)。関西のもやしは細くひょろ長いので、痩せっぽちの私はそう呼ばれていた。関東のもやしは太短い。皮もしっかりしているので、そば焼きに入れると存在が主張しすぎる。映画の主役を喰う脇役みたいで嫌われる。関西のもやしは入れてもそばの邪魔にはならない。
 私は、やせっぽちでも172㎝まで育ったのは、牛乳ではなく、ひとえにメリケン粉(小麦粉)のおかげだと思っている。
 昭和32年からの小学校の6年間は神戸下町の近所の駄菓子屋でたこ焼きを毎日のように喰らっていた。たこ焼きの中には定番のタコではなく、小さなこんにゃくの角切りが一つ入っているだけ。丼に10個ほど入れ、上から出汁をかけ、たこ焼自体には刷毛でソースを塗っていた。
 中学にあがると、駄菓子屋が閉店したこともあり、お好み焼き屋に連日通い、そば焼きを食べていた。二つ玉(そばの量がダブル)で具は好みの生タコ(茹でタコはおいしいエキスが無くなっている)を注文していたように思う。上記のお好み焼き屋とは違う店にも通っていたのだが、店主のお婆さんがいないときはがっかりした。嫁いできた義娘が代わりに作るのだが、美味しくないのだ。同じ材料でも料理人の腕で味が変わることを子供の頃にすでに私は理解していた。ともあれ、粉もんの代表格たこ焼きとお好み焼きで私の原型が形づけられた。
 その後は今日まであまりたこ焼きは食べなくなった。たまに、卵をたくさん使ってよりふわふわした「明石焼」を食べる程度となった。なお、本場の明石では「玉子焼き」と呼ぶ。「明石焼」と呼ぶとすれば観光客向けではないか。関東風のおでんを関西人は「関東だき」と呼ぶが関東人は「おでん」としか言わないのと同じ。ちなみに、関西で「おでん」と呼ぶのは名古屋風の味噌おでんのこと。
 お好み焼きについても、関東との違いに少し触れてみる。吉本の芸人さんが「お好み焼きでご飯を食べる」とTV番組で話すと、関東のタレントさんが炭水化物をおかずに炭水化物を食べるのかと不思議がる。その場合の「お好み焼き」とは広義のお好み焼きを指している。つまり、関西で言う所の(広義の)お好み焼き=(狭義の)お好み焼き+そば焼き(うどん焼き)+モダン焼き+広島焼き(亜流扱いかと、広島焼きをTHEお好み焼きと主張する広島県人は怒るが)等となる。それで関東のように「焼きそば」と言わず「そば焼き」と呼ぶことになる(関西でも中華料理であれば「焼きそば」と呼ぶ)。
 神戸っ子の私は家で作る(広義の)お好み焼きをおかずに白米を食べた記憶はない。しかし、銀行員時代ランチにお好み焼き屋で「そば焼き定食」(時間のかかる、狭義のお好み焼きはランチタイムに不向きでその定食はなかった)をときどき食べていた。そば焼きにごはんと味噌汁とお新香がセットになっていた。関東の人でもラーメン、半チャーハンセットは食べるであろう。それと変らないと思うのだが。
 大学生になった頃は、たこ焼きに限らずお好み焼きもよく食べたという記憶がない。ラーメンとか餃子、豚まん(関東では肉まん。関西では「肉」は牛肉を意味するので、それで豚まんと呼ぶ)をよく食していた。これも広義での粉もんと言えるだろう。

 結婚し、子供がまだ小さい頃、家でお好み焼きをつくることが多かった。親戚に作ってもらった厚さ1㎝強の鉄板にて。子供たちはそば入りのお好み焼きを好んだので、鉄板に半分ぐらいのそばを先に乗せ、その上からお好み焼きの生地(小麦粉、山芋、卵、出汁、天かす、青ネギ、紅ショウガ)をのせた“変わりモダン焼き”というものよく焼いたものだ。
 昨今は、神戸から本籍も移し東京人の端くれの私だが、中身は関西人なので、もんじゃ(と納豆)はどうにも好きになれない。キャベツをたくさん使いヘルシーだと女子にも人気の高い広島焼きをよく外食していた。
 数年前、亡き母の法事で神戸に戻った時足を延ばして、まだ降りたことのなかった広島に夫婦で向かった。広島・新天地にある『お好み焼き村』に立ち寄りある店に入った。
 カウンターに座っているのに、白い陶器の皿に乗っけて出された。これでは何の為にカウンターにいるのか分からない。隣にいた地元の子供が皿を口元に寄せ箸で犬食いしていた。食べ辛いことこの上ない。思わず「広島のお好み焼きってこんなもんか!?」と啖呵を切ろうとした。その時、顔に直ぐ出る単細胞の私の顔を見て危険を察知した妻が、私の袖を突き、目配せした。焼いていた店員のTシャツの袖から立派なタトゥーが覗いていた。それがどうした! それしきのことでビビるとでも思うのかとの強がる素振りも見せず、妻からの無言の忠告を受け入れた。

 大きなコテ(関東はヘラ。コテコテ、ヘラヘラの形容詞とは共に無関係)を両手に持つ店員に対し客だから何を言っても安全ということはない。ましてや知らない土地で(駿河のすし屋で客と刃傷沙汰になり塀の内に入るすし職人がいたと聞く)。
 東京に戻り、広島ではどの店もそうなのかと行きつけの広島焼きの店で聞くと、店によると言っていた。お好み焼き村で空いているからと安直に入ったのが、いけなかっただけらしい。
 その時の旅は原爆ドーム、鎮魂のために創られたひろしま美術館、安芸の宮島に行くのが目的だった。時間的に余裕なく、東京でも名の知られた『八昌』には行けなかった。
 それが心残りだったので、天然ふぐ目当てのひとり旅で博多、下関に行った折(2017年2月68号「ふぐ VS ふく」参照)広島まで足を延ばした。薬研堀にある名店八昌の創業者が別の店に移っていると知り、幟町のその店に行き、お好み焼き(広島焼き)を堪能した。
 東京にある広島焼きの店より1.2倍はあろうかというでかいお好み焼きに驚いた。それが大きな鉄板に10数枚並んでいる様は壮観の一言。創業者らしきシルバーグレイの小柄な大将がしきりにコテでお好み焼きを上から押し付けていた(もやしやキャベツの水分を飛ばすためであろうが、関西のお好み焼きはコテで押さえつけるのはご法度)。
 八昌が使用する卵は噂どおりキミが双子の卵であった。味は、ようやく念願のと言えるほどの感慨はなかったが、中のそばがパリパリで、私好みだった。麺を茹で、水で洗い(麺に腰をつけるため?)、鉄板の上に乗せた後ヤカンで上から油を注いでいた。東京では、その頃よく立ち寄った神田『カープ』、旗の台『秀』は麺は柔らかい気がしていた(他の有名店も名前は知っているが、テーブル席に鉄板を敷かず、白い陶器皿で出す店には訪れないので、麺が柔らかいか否かは不明)。
 生ビールを頼んでちびちび飲みながらカウンターで待っていたが、ジョッキがすっかり空いてしまった。店が空いているときでも20分はかかるだろう。私は昼時の込んでいるときに八昌に辿り着いたので、席についてから30分以上待たないとありつけなかった。手間を惜しまないのが秘訣なのかもしれないが、店主もきっと気の長い人だと思った。
 せっかちな東京人ならとても待っていられない。東京で麺が柔らかいのは、好みの問題というより、麺がパリパリになるまでの手間(時間)を省略しているためかと勝手に納得した。
 
 念願の八昌訪問以来お好み焼き屋には足が向いていない。とくに最近は新型コロナ禍もあるが。
 糖尿病を心配する身になった。私を形作った粉もんも老骨の身にはもう不要ということなのだろう。だが、作る分には問題ない。ジジイと言う妻と違いジイジと呼んでくれる可愛い孫たちが皆小学校に上がる頃になれば、家に遊びに来たときは昔取った杵柄でお好み焼きを振る舞ってあげたいと思っている。