2022.11 NO.180  んげき VS んげき
 「国防」とは、読んで字の如く国を防ること。外敵の侵略から国家を防衛することである。「国家」とは何か。一定の地域の住民に対して、排他的な主権を持つ政治組織。 国家が成立するには、「主権」「領域」「国民」 という3つの要素が必要とする。
 ウクライナに軍事侵攻したプーチン大統領は、「主権」が脅かされたら、核攻撃も辞さないと言う。全体主義国家は、主権在民の民主主義国家と違い、「人命」の位置づけが低いのか。それ故侵攻の際ウクライナの政治的中枢を攻撃せず、病院や集合住宅を破壊するのか。
 向かい打ち反撃するウクライナのゼレンスキー大統領も国民総動員令により18歳~60歳の成人男性の出国を禁止している。戦下になれば仕方ないのかもしれないが、国民の人命が失われることを考えれば、核保有軍事大国に対して核の傘もない非核保有国が戦争に向かうことにはならないハズだ(外交努力を続けていれば「武装・中立」が維持でき、国民がかくも悲劇に見舞われることもなかったであろう)。ゼレンスキー大統領は、ロシア兵の死者数の多さに言及するが、自国の兵士、住民の惨劇に触れず徹底抗戦としか言わない。
 後世から戦国の名将と呼ばれる柳川藩主立花宗茂は戦に負け知らずで秀吉から“西国無双”と称せられその恩義から関ケ原の合戦にて西軍に与したが戦いには参加できず、戻った九州・柳川で東軍に攻められた時戦わず降伏した。柳川を去るとき領民が一緒に戦うから去らないでと訴えた時、「何れも申聞けゝる所、満足なり、領内の諸人の為めに、下城致すなり」と領民を巻き込みたくなかったので降伏したと言ったという(浪人に身を落とし辛酸を嘗めるも前々から家康にも認められており後年柳川藩主に返り咲く)。ゼレンスキー大統領は後世からどんな評価を受けるのだろうか。

 ウクライナは、大統領が民主的な直接選挙で選ばれるが、前身はロシアと同じソ連邦であり、全体主義的な色彩が色濃く残っているようだ(ニューズウイークによるとゼレンスキー大統領もウクライナのすべての野党メディアを閉鎖し、野党の政党結成を禁止しているとする)。
 
 それに対して日本はどうなのか。日本は戦前全体主義国家であった。『未完の敗戦』(集英社新書)で作者の山崎雅弘氏は「日本軍は陸軍と海軍を合わせて1827機という厖大な飛行機に特攻を実行させ、3,067人が命を落とした」と書く。神風特別攻撃隊の創始者の一人大西瀧次郎中将は終戦時自決した。多くの若者の命を奪いながら我関せずと生きながらえ生き恥を晒した者も少なからずいた。
 日本はどう反省したのか。軍部は、非武装にする為としてGHQにより解体された。だが、朝鮮戦争の勃発により私が生まれた数日後の1950年8月10に警察予備隊がGHQの令により編成され再軍備に方向転換された。保安隊への改組を経て現在の自衛隊に至る。
  当初旧軍人は排除されていたが次第に旧軍人も採用されるに至ったという。しかし、形の上では旧軍部とは切り離されているので、どのように総括し反省したかは分からない。
 現自衛隊は、演習は十分積んでいるかもしれないが、一度も敵国と戦闘したことがない。ウクライナ戦争でBSの情報番組で自衛隊の幹部OBたちがロシア軍を見下す発言を繰り返す。旧日本軍が、「中国侵略において短期間で制圧できる。中国は直に降伏する」と見ていたのは今のロシアと同じ。戦術だけで戦略がないのも同じ。幹部OBからそういった観点からの言及がない。戦前の将校とどう違うのか。心強さより危うさを私は感じてしまう。
 自衛隊の現役も、中国からの脅威に対する南西諸島への基地強化に対して地元住民に対する説明がない。保護政策も後回しと言われている。
 イージスアショアの配備停止も、敵国からのミサイル攻撃による大きな被害から国民を護るために配置するのに、大事の前の小事でしかないブースーターが自衛隊内や海上に落とすことが確実でないからとして、真の事由を隠し誰も責任をとろうとしないように思えるのは戦前の軍部と変わらない。それ以上に問題なのは、政府と一緒になって、中国の領海侵犯に対して毅然とした対応をとらず気概のある姿を国民に見せないのに、敵基地攻撃など飛躍したことを言って、住民を護る代替措置が検討されず放置されているように思えることだ。
 主権者たる国民から負託された国会議員も敵基地攻撃能力改め反撃力の強化、防衛費の増大ばかり主張するが、国民の生命と財産をどう護るかは議論の蚊帳の外に置きがちだ。
 疑いの眼で見る私にすれば、未開の地と言われた台湾の「衛生」に尽力した後藤新平の志を継いだ台湾政府と違い、感染症災害の渦中にせこくコロナ利権をむさぼろうとした政治家達が今度は米国への忖度に加え国防利権が狙いだと邪推してしまう(新産業を育成し発展した産業界から政治献金を与党が受けるのが政治家としての本筋だと思うが)。
 為政者側もGHQにより排除された全体主義の問題について自身で反省することがなかったのではと言えるが、国民側も民主主義を苦労の上勝ちとったものではなく、GHQから与えられたもので、全体主義への親和性は消えていないのではないか。
 国民主権という意識は薄く、「お上」の言うことは従わなければならない。逆らってはいけないという思考回路。「お上」が代わると、平気で批判を口にし出す。憲政史上最長在任の安倍元首相に対しても同じ(後述の国葬に反対する国民の多さを見ても。あまりの手のひら返しに安倍元首相は空の上から日本人の惻隠の情はどこへ行ったかと困惑しているのではないか)。
  保阪正康氏が“平成の人間宣言”と捉えた、(前皇后陛下と二人三脚で長年に亘って築き上げてこられた象徴天皇像を無にしかねない中での)前天皇陛下による2016年8月の「生前退位への想い」を我々がもっと重く受けとめ主権者たる国民にふさわしい言動をとっておれば、政権を放任したことによる世界経済における日本の地盤沈下や貧富格差の拡大もなかったかもしれないし、安倍元首相が非業の死を遂げることもなかったのではないか。
 日銀の独立性をないがしろにしてまで、安倍政権に追従したのに、まさかその安倍元首相から“政府の子会社”呼ばわりされるとは思わなかったであろう日銀の黒田総裁に対して辞任要求の声が高まってよいハズだが、そうならない。来年4月に任期満了で退任すれば、批判が噴出することになるのか(歴代日銀総裁の中での位置づけは、歴代首相の中での近衛首相と同じ位置に固定されるのは確実だが)。
 平和ボケと言ってしまえばそれまでだが、凶弾に倒れた安倍元首相に対する警備体制もゆるく、一発目の銃声が聞こえた時近くの警官は(海外でよく見かける光景だが)元首相の体に覆いかぶさるべきなのにその場で身をかがめていただけだと警視庁0Bが批判していた。選挙関係者も、首相を辞めたとはいえ自民党内の最大の影響力を持った権力者に対して、結果論として安全面の配慮が足りなかった。選挙カーで演説するか選挙カーを壁にしておれば防げたのかもしれない。現職の首相では違っていたのではないか。
 
 日本の全体主義への回帰は憲法改正にも表れている。
 自民党の「党の憲法」とも言うべき「綱領」は、立党時の昭和30年(1955年)には「文化的民主国家の完成」「民生の安定と福祉国家の完成」と並んで「自主独立の完成」が掲げられていた。米国との戦争に負け属国となってしまったが早く真の独立をとその象徴が自主憲法制定であったハズだ。
 ところが、50年後の平成17年(2005年)の綱領では、「自主独立の完成」の文言が消え、代わりに「新しい憲法の制定を」(私たちは近い将来、自立した国民意識のもとで新しい憲法が制定されるよう、国民合意の形成に努めます。) と謳われた。
 そしてその5年後の2010年野党に下野した自民党の谷垣総裁が「改めて立党の原点を再確認するとして3度目の綱領を世に問い、現在に至る。新綱領における「綱領」の前に書かれた「現状認識」で次のように述べている。

 「家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、公への貢献と義務を誇りを持って果たす国民でもある。これ等の伝統的な国民性、生きざま即ち日本の文化を築きあげた風土、人々の営み、現在・未来を含む3世代の基をなす祖先への尊敬の念を持つ生き方の再評価こそが、もう1つの立党目的、即ち『日本らしい日本の確立』である。」
 愛国心を持ち、国に奉仕する義務を自覚し誇りを持つことが求められているのか。『日本らしい日本』とは、戦前の全体主義国家としての日本を意味するのか。下野した自民党とって、国益の「自主独立」は遥か忘却の彼方に。「日本のタカ派(保守=タカ派ではない)層からの支持を保持する」との党利が主眼となったのではないか(神戸製鋼から急遽政治家に転身した安倍元首相にタカ派としての信念があったとは私には思えない。日本のタカ派層の支持を得るために、変わって行ったのではないか。その中で祖父・父の時代から関係の深い旧統一教会関連団体にのめり込んで行ったのでは。母の洋子さんが心配するほどに。上記党利が主眼となったという見方が間違っていないとするならば、自民党がその根本を変えなければ、旧統一教会関連団体と関係を断つと言っても砂上の楼閣に終わるのではないか)。
 そして、今般の自民党の憲法改正案の中で、「『現行憲法の自主的改正』は結党以来の党是であり、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つの基本原理はしっかり堅持し、初めての憲法改正への取組みをさらに強化します。」と謳う。
 今年から高校の履修科目から「現代社会」を廃し「公共」を新設しているが、「基本的人権の尊重」「平和主義」の項目は無くなっている。それで上記3つ基本原理を堅持とは、空々しい。「国民は国に奉仕する為にある」と全体主義思想を高校生に教え込むとしか思えない。
  自民党に「党是」と明記されたものはないのではないか。立党時の「党の使命」がそれにあたるとすれば、「わが党は右の理念と立場に立って、国民大衆と相携え、・・(中略)・・第六、現行憲法の自主的改正を始めとする独立体制の整備を強力に実行し、もって、国民の負託に応えんとするものである。」と書かれている。「現行憲法の自主的改正」はone of themに過ぎず、「独立体制の整備」、つまり「自主独立」(属国ではなく真に独立した日本)が目的のハズだ。

 田中角栄元首相が米国により潰されたと思う政治家たちは、米国に恭順の姿勢を貫くようになる。米国の政治家に「日本が反抗的な態度をとれば、脅せば直に大人しくなると舐められた発言をされてしまう。
 「自主独立」という目的が消え、「現行憲法の自主的改正」には「自主的」の意味がなくなり、単なる「憲法改正」に変えられ、いわゆる手段が、目的化している。そして、その改憲案は①自衛隊の明記、②緊急事態対応、③合区解消・地方公共団体、④教育充実の4項目を提示する。
 その憲法改正の主眼は、GHQから新憲法を押し付けられたとの象徴である、長年護憲派と改憲派が論争してきた第9条、とくに2項(戦力不保持、交戦権の否認)の改正ではなくなっている。自主独立には第9条の改正は不可避であるが、米国に従属するなら米国との集団的自衛権が可能となればそれでこと足りるということか。
 それで何故自衛隊を憲法に明記する必要があるのか。国民は自衛隊を認めているのに。安倍元首相は自衛隊員とその家族が肩身の狭い思いをしていると煙に巻いた。
  自衛隊は、国内においては軍隊でないとしているが、海外では軍隊と見做されており、自衛隊員が他国の軍隊の捕虜となった場合はジュネーブ条約の適用を受け戦闘員としての捕虜の権利を享受できる。今のままでも自衛隊員が不利益を被ることはない。
  あるTV番組では「自衛隊違憲論の解消」という見方を示していたが、憲法に明記されたからと言って違憲論者が黙る訳ないだろう。
 『自衛隊と憲法』(増補版)において著者の憲法学者木村草太氏によれば、軍を持つ国の憲法は、軍の指揮権や派遣の手続きについて規定を設けて、軍をコントロールするのが普通だが、日本国憲法にはそういった規定が一切存在しない。憲法第9条に基づき、軍を置かないことが前提になっているからだとする。言い換えれば、主権者たる国民は内閣や国会に軍事活動を行う権限を負託しないことを決断したことを意味するという。さらに、自衛隊は、憲法9条2項が禁止する「軍隊」ではなく、憲法72条が規定する「行政各部」と位置付けられるとする。
 そこで、公明党北側副代表は、「(憲法9条)1、2項堅持は大前提だ。そこを改正しようと言うなら賛成できない」と断りを入れつつ、個人的意見としながら、「首相は行政各部を指揮監督する」と定められていることに触れ、自衛隊法で規定されている自衛隊に対する首相の指揮監督権を憲法72条などに加えることなどを検討すべきだと言う。これでは自民党が進めたいであろう「軍隊として諸整備」に結びつかないし、「自衛隊違憲論の解消」に繋がらないのでは。自民党はその私案に乗ってこないだろう。
 木村氏は、憲法に自衛隊を明記するなら、自衛隊は何をする組織か、それを明示することが最低限必要だとする。公明党は、国民が認めている個別的自衛権行使のための「自衛隊明記」は賛成だが、国民全体が容認していると言えない集団的自衛権行使のための「自衛隊明記」には反対と旗幟を鮮明にすべきではないか。改憲に前のめりであった安倍元首相が亡くなった上、本心は改憲に乗り気でないと見られてもいる宏池会の岸田首相であれば、なおさらに。
 もう一つの改憲の目玉で、なんとしても阻止すべきは「緊急事態条項」。地震や津波など自然災害にて国民の理解を得ようとするだろう。だが、「戦争」より重大な緊急事態はあるのか。「緊急事態条項」に制限を設けていても拡大解釈にしろ何しろ、発令されてしまう。そうなれば、戦前の国家総動員法と変わらない。「徴兵制禁止条項」と呼ばれる憲法第18条(何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。)も有名無実にして。
 さらに、国の借金は1,200兆円を超えGDPの2年分にあたるという。私は45年以上前の若手銀行員時代「借入総額が年商(の1年分)と同額になれば、その企業は倒産予備軍」と教えられた。政府に忖度するエコノミストは、借金の相手は日本の国民がほとんどであるから、国債を借り換え金利払うだけで済むと嘯く。たしかに今日銀は恣意的に長期金利を0%近くに抑え込んでいるが、物価の上昇や米国などとの金利格差でそれも難しくなり長期金利が上がって行きすべての国債が2.5%になるだけで国債の利息払いは30兆円となる。防衛費をGDPの2%、11兆円にするのに財源が大きな問題なっているのに、もっと金利があがれば国の財政破綻が確実となる。それこそ緊急事態。

 「緊急事態条項」があれば、政府は、責任をとることなく、日銀救済を名目に、“令和の徳政令”(国の借金と国民の預金を相殺をすること)も不可能ではなくなる。
 表向きは西側の一員として、民主主義を装うが、いざとなればいつでも全体主義国家に変貌することが可能となる。「緊急事態条項」が民主主義の中で独裁者を誕生させると言っても過言ではない。他国には見られないオールマイティな「緊急事態条項」を憲法に明記することは絶対に認めてはならない。
 自民党の「党是」は「自主独立」から「全体主義への回帰」に変質しているように私には思える。

 賛否が分かれる安倍元首相の国葬が明日行われる。これまで憲政史上暗殺された首相で国葬されたのは初代伊藤博文ただ一人であった。韓国併合には反対の立場であった伊藤元首相をハルビン駅で韓国人安重根が狙撃したとされる(結果として翌年の韓国併合を招いたとも言えるが、韓国では英雄扱い)。
 国内にて他の軍人や民間人の日本人に暗殺された首相経験者の原敬、高橋是清、犬養毅、斎藤実、濱口雄幸(傷がもとで後に死去)は皆国葬されていない。一方、老衰・病死した多くの首相経験者の中で山縣有朋、松方正義、西園寺公望、吉田茂は国葬されている。今回前例からすると国葬に該当しない(凶行したのが日本人である以上全国民が心一つになって故人を悼む国葬にはそぐわないということなのか)。
 戦後民主主義に変わり77年経った中で民主主義の根幹である選挙の最中での暴挙に多くの日本人が驚きと憤りを表すが、容疑者にとっては、宗教団体への恨みからだけで安倍元首相を狙撃したのであろうか。宗教団体のせいで奈落の底に落とされた。しかし、そこから這い上がることができれば怒りは消えなくとも薄れるかも。自由と平等の民主主義の中でなぜ這い上がることができないのか。その怒りを安倍元首相その人ではなく日本の為政者の象徴に向け、絶望死の道連れにしようと思ったとも考えられる。
 そうであれば、本暗殺事件を宗教団体に関連した特殊な稀なケースと見るべきではない。自民党内で、宗教団体との関係だけではなく、新自由主義に基づき貧富格差の拡大を招いた小泉政権とそれを後継した安倍政権による清和会政治に対する真摯な検証が必要となってくる。
 容疑者への減刑嘆願が増えていることは、尋常とは言えないが、保阪正康氏は『文藝春秋』今9月号『「テロ連鎖」と「動機至純主義」』と題し、今の世情がテロが横行した戦前と似ていると言う。テロがテロを呼び5・15事件とつながり、大衆が事を起こした青年将校らの行動を「義挙」と讃え、減刑嘆願運動が全国に拡がったという。

 日大先崎彰容教授も指摘しているように、思っている以上に今社会が深刻な状態にあるのかもしれない(小学校教員による給食への漂白剤混入事件は米国の生徒銃乱射以上に震撼させる)。国民の大半が反対する国葬ではなく、自民党の問題として党葬か内閣との合同葬にすべきであったろう。
 国葬の実施に対しては、非業の死を遂げた当選同期の知己朋友である安倍元首相に対して麻生副総裁の助言を受け入れ国葬をもって送ってあげたいと思っただけなのか、安倍元首相を支えた日本のタカ派層も取り込むという目論見が岸田首相にあったかは分からない。が、多くの国民は、保守の中ではリベラルな宏池会の首相に対して、支持率の低下で応えた。
 岸田首相は、国税による国葬への民主主義的な手続きを失念したことは深く反省するとして、国葬を強行するのであれば、「国葬がABE政治からの決別を意味していた」と国民が理解するのを期すればよい。岸田政権の独自の路線が進められ、貧富格差の是正とともに全体主義への傾斜を堰き止めることに繋がるものと思いたい。