2025.3 NO.222 はんりゅう VS かんりゅう
2025年の新年も相変わらず韓流ドラマを観ている。とくに気に入ったのが、WOWOWにて表向き模範タクシーの従業員が法で裁けない悪に対し制裁(殺さず檻に監禁)を下す 『復讐代行人~模範タクシー~』(シリーズ1、2)。ツッコミどころ満載だが、ユーモアもあって面白い。
日本人の爺の私からすると故藤田まこと扮する中村主水を主人公とする『新必殺仕事人』シリーズに似ている。必殺シリーズが韓国に渡り、インスパイアされて逆に日本に還流されて日本の韓流ドラマファンが今熱中していると言えるか。
スーパーマン過ぎる主人公のドキを演じるイ・ジェフン氏を初めて知った。当初主人公と対立する正義感溢れるカン・ハナ女性検事(原作であるウェブ漫画にはいない、ドラマのオリジナルキャラクター)の女優にはどこかで見た気がするが、思い出せなかった。そして調べた。
2023年5月臨時号 NO.190 (「アナ・デ・アルマス VS アナ・デ・アリマス)にてこう書いてある。「『愛のタリオ』にて『私の頭の中の消しゴム』でヒロインのソン・イエジンさんの相手役を務めたチョン・ウソン(187㎝)さんが尻丸出しで裸の女優と絡む。 」
スター俳優がポルノ男優の役割を担わなくてもと思うが、それをしないと韓国ではトップスターとは認められないのかとの疑問を投げかけたのだが、この裸の女優というのがイ・ソムさんだった。2023年にWOWOWにて観たときは関心がなく調べようとしなかった。映画が2014年制作なので当時24歳か。10年経ち素敵な大人の女優になられたと思う。
シリーズ1の最終回の最後模範タクシーのメンバーが解散後1年経って再集結するときカン・ハナ検事も現れた。当然シリーズ2に登場すると思われたが、出演していない(シリーズ2の初回冒頭無理のある設定で画面に登場しないカン・ハナ検事に別れを告げている)。韓国でも残念がられた。他作品とのスケジュール調整が上手くいかなかったのであろうか。
新年早々劇場で観た映画が『ビーキーパー』。偶然だろうが、上記ドラマの内容とよく似ていた。ジェイソン・ステイサム氏扮する、上記ドラマ主人公よりさらに超人的なアダム・クレイは、元秘密組織「ビーキーパー」の工作員で、現在は養蜂家として孤独だが静かに暮らしていた。唯一優しく接してくれた隣人の老婆がフィッシング詐欺により自殺した。老婆の娘はヴェローナ・パーカー FBI捜査官で、事件の真相を追う中で、復讐に荒れ狂うアダムと関わっていく。
我々庶民は、日常生活を営む上で法で守られている。一方で法の壁により犯罪者たちが罰せられない場合がある。それに歯ぎしりするのは、被害者だけではなく、正義感に燃える警察官や検察官も同じである。そこに復讐代行人や必殺仕事人が介在する余地が生まれる。
2005年12月公開の洋画『ミュンヘン』では、イスラエルのモサド(諜報特務庁)の暗殺チームが復讐を遂げることが描かれている。1972年9月ミュンヘン五輪でパレスチナの過激派組織「黒い九月」のメンバー8名がイスラエルに収監されているパレスチナ人テロリストの解放を目的に、イスラエル選手団宿舎に武装して侵入する。抵抗した選手ら2人を殺害し、残る9人を人質に取ったが、西ドイツ警察との銃撃戦により人質9人全員も死亡してしまう最悪の結果に終わる。
イスラエルは激怒し、実在とされる暗殺チームはイスラエル政府とは無関係との形で、復讐によりターゲットを次々に暗殺していく。
映画の中では暗殺のターゲットの居場所を売るフランスの情報屋のトップに(暗殺チームリーダーの)主人公がその根城に行くが、行きも帰りも車の中で目隠しされるという裏社会が描かれている。
なお、本映画の主人公にあたる実在の人物の証言に対してモサドの元高官らは否定しているという。
日本でも、かつて警察の枠組みを超えた仕事人組織があると本に書いた警察OBがいた。TVにも登場していたが、言ってはいけないことを言ったのか、あらぬ法螺を吹くなと咎められたのか、いつの間にか表舞台から消えていた。
日本にはそんな組織はないのかと思ったが、よくよく考えると、週刊文春(以下「文春」)がその役割を果たしているのではないか。江戸時代縁切寺があった。不退転の決意をもって夫との離縁を成就するために妻が駆け込んだ寺だが、文春は令和の縁切寺ならぬ復讐寺ではないかと思うようになった。文春自体に、「社会的正義」の思いがあるのか、単に週刊誌が売れればよいと思っているのか、分らないが。
必殺仕事人やビーキーパーは暗殺する。シリーズ1の復讐代行人は悪人を殺さず隔離する。いずれも不法行為。文春はこんな被害を受けたと訴える女性がいますよと自身の週刊誌に載せるだけ。社会的制裁をするとすれば、それは世論。
『ビーキーパー』では、女性FBI捜査官が、主人公に「あなたのことは信じるが、法は守らなければ」と主人公に言うが、主人公は「法が役に立たないなら、俺の番だ」と答えている(最後復讐を成就し去る主人公の背に女性FBI捜査官は銃を向けるが、撃たず、逃がした。上記ドラマのカン・ハナ検事の態度と似ている)。
上席の検事から性的加害を受け裁判に訴えた女性検事でも号泣する事態に。一般女性ならなおさらに裁判へのハードルは高い。今後は泣き寝入りする被害女性たちも「裁判が無理なら、文春の番だ」と言うのかもしれない。
(事実無根と文春を提訴したが取り下げた)松本人志氏、(警察沙汰を恐れてか?トラブルを認め芸能界を引退した)中居正広氏の事案が“二罰百戒”となり、女性に対する“豹変”は容易だとしても、してしまえば、真の意味の「君子豹変す」(過ちを速やかに改め、鮮やかに名誉を一新する)は難しいと悟る。芸能人が「君子危うきに近寄らず」となる。TV局における“性上納文化”と疑われるような悪しき慣習がなくなる。
そのように改善されていくならば、賛否両論ある文春の報道姿勢も意味があると言えるか(誤報に対する文春の訂正姿勢をメディアが目の敵とばかりに批判するのはそれ自体問題ないが、被害を社に訴えた女子社員よりも、中居氏を守ろうとしたのか、そういう企業文化があるのかとの疑惑の核心には影響を与えない。スポンサー側のCM中止にも変化はない)。
渦中のフジテレビでは、大企業の75社以上がフジテレビでのCMを中止。『疑わしくは罰せず』は「法曹界」での話。「経済界」には通用しない。TV局とは思えない社長記者会見で批判を浴び、会長、社長だけが辞任(副会長も意向表明)。まだ日枝久相談役は老醜を晒すのか。
日枝氏は2005年ライブドアによるフジテレビ買収騒動で自らの手で騒動を切り抜けたときに引退すべきであった。歴史家アクトンは「絶対権力者となれば絶対腐敗する」と看破している。その通りになった。
日枝氏はこの期に及んでも自ら『私が全責任を負い窮地に立つ社と社員を守る』と言わない。
それが賢者でない確たる証。「賢者の経営者は早く後進に道を譲ろうとし、賢者でない経営者は長くその座に居座り続け社を傾城させる」好事例として歴史に刻まれよう。
罪に問われるようなことをなした者はどんな形であれ制裁を受けるべきだとしても、無実の人が誤って制裁されることはあってはならない。
ドラマの中で何度か女検事カン・ハナは「私たちはたった一人も悔しい罪人を作らないようにするだけ。たとえ100人の犯罪者を逃すことがあっても」と言っている。
「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」は世界共通。冤罪を防ぐため。
「紀州のドン・ファン」と呼ばれた故野崎幸助(享年77)が2018年5月急性覚醒剤中毒で急死した。この死を巡り覚醒剤取締法違反と殺人の罪に問われた当時の妻、須藤早貴被告人に対して和歌山地裁は昨12月12日無罪を言い渡した。
検察の有罪とする前提は、須藤被告人の覚せい剤購入と覚せい剤よる殺人の2点であるが、覚せい剤の購入については、証人の一人が須藤被告人に氷砂糖を売ったと証言した(覚せい剤と氷砂糖は結晶が似ているという。野崎に依頼されたという須藤被告人の「購入して渡したが効かないからと野崎にもう頼まないと言われた」との証言にも符号する)。須藤被告人の覚せい剤購入を確実とする線が崩れた。
覚せい剤での殺人の方は、女性証人が野崎さんが亡くなる約20日前までに、“覚醒剤やってるで、へへへ”と電話で告げられた一件を明かした。彼女が“頭おかしいんじゃないの”と応じると、“やってるで”と言われて電話を切られたという。
事件だけではなく事故の可能性が出て来た(亡くなる前の野崎はTVで見る限り性豪とは思えないが、それが彼の生きがいとするなら精力剤等が効かなくなれば公序良俗に厳格でないと見られる彼の覚せい剤使用の可能性はなしとは言えない)。
氷砂糖の証人は弁護人側ではなく検察側の証人。野崎の覚せい剤使用についての女性証言も検察側からの証人 。
2度も検察側が決定的なオウンゴールすることは考えられるのか(サッカーでも少ないのに)。解せぬ。注目される裁判ならとくに証人の採用とその発言内容については上席検事の了解もとりつけているだろうに。
『紀州のドン・ファン事件』で検索すると、Wikipedia に冤罪の可能性が指摘されている。「逮捕の10日ほど前から和歌山県警の捜査官が都内に入り内偵を進めていたことが新聞社に漏洩し、早刷りの週刊新潮を読んだ捜査関係者が焦って逮捕に至ったという。」「和歌山県警の後手後手な対応に、容疑者の冤罪を懸念する記者は多かった」と書かれている。
医師も追いつめられるまでは誤診と認めない。検察も注目事件で今更誤認逮捕とは言えまい。裁判員裁判で無罪になるよう誘導したということは検察には絶対にありえないことなのか。無罪判決の後控訴したが、それは形だけで終わるのではと言えば、私は妄誕無稽と嗤われてしまうのか。
それほど検察の動きは不自然と思うのだが。
ひと昔前なら、拷問などにより自白を強要したり、「取り調べから逃れたいのならとりあえず供述調書にサインしろ。あとで裁判で否認すればどうか」と誘うのか(それを日産ゴーン会長事件でゴーン被告人に特捜部出身の顧問弁護士が同じことを言って、解任されたという)。
そんな取り調べであれば、須藤被告人も無実だとしても苦し紛れに「私がやりました」と供述したかもしれない。
今は自白の強要はできないし(そうであれば弁護士の同席を認めるべき)、取り調べの可視化もある(韓流ドラマでは録音・録画を止めて暴力を振るっているが)。
須藤被告人の置かれた立場であれば、検察・警察だけではなく世間も色眼鏡で見がちである。彼女は言葉使いなど品はないが、見かけよりもずっとしっかりしているのかも。検察はあてが外れたのかもしれない。
自白しなけれ長期間に亘って身体拘束されるという日本の伝統的な刑事司法のあり方は、日産ゴーン被告人からも逃亡先から「被告人の身体を人質にして有罪判決を獲得しようとするものだとして、その「人質司法」が告発され、海外のメディアからその後進性を批判されている(東京五輪組織委員会元理事への贈賄罪に問われ逮捕起訴されたKADOKAWA前会長の角川歴彦被告人は、否認することで身柄拘束が長引く「人質司法」で苦痛を受けたとして、国を相手どり2億2,000万円の賠償を求めた民事訴訟を起こしている)。
「自白中心主義」が否定される中では捜査能力が大幅に向上するまでは、間接証拠の積み重ねによる有罪認定に頼らざるを得ないのかもしれない。
野崎事件では、須藤被告人が野崎に覚せい剤を飲ませた確たる証拠(契約上の妻でしかない須藤被告人が如何にして苦い?覚せい剤を飲ませたか)は検察が明示できていない。弁護人側から「薄い灰色はいくら塗り重ねても黒にはならない 」と反論された。
間接証拠による事実認定を巡っては、最高裁が平成22年に示した「被告が犯人でないとしたならば合理的に説明がつかない事実関係が必要」というのは、今後冤罪が生まれやすいことの危惧からか。
野崎事件の裁判員裁判の1審は 被告が犯人でないとしたならば合理的に説明がつかない事実関係があるとは言えないとして無罪判決が出された(別の男性から現金約2980万円をだまし取った詐欺事件で懲役3年6月の実刑判決が確定しているが、野崎からの遺産相続への支障とはならない)。
一方、須藤被告人が逮捕された同時期2021年長野県塩尻市で妻を殺害したとして殺人の罪に問われた50歳の元県議会議員に対し、長野地方裁判所は「不倫関係にあった女性と交際を続けたいという思いを募らせたすえの身勝手で冷酷かつ凶悪な犯行だ」などと指摘し、有罪とした。検察は、防犯カメラに写った車の特徴などから元県議が滞在していた長野市から車で移動して妻を殺害したとした上で、被告以外に犯人はいないと主張し、懲役20年を求刑していた。
12月23日の判決で、長野地裁の裁判長は「防犯カメラの映像は、被告が車で議員会館を出発し戻った際の状況だ。複数の状況証拠から被告を犯人とすることに合理的な疑いはない」と指摘し検察の主張に沿う懲役19年を言い渡した。 これに対しTV番組のコメンテーターの女性弁護士が疑問を呈していた。
被告人が黙秘権を行使し、検察も決めてとなる証拠があげられず、状況証拠など間接証拠だけでは、完全犯罪も冤罪も、生まれ易くなるか。検事の言い分を追従するような訳にはいかない。より裁判官の判断が重大となる。
戦前の検察と裁判所の関係については、福岡県弁護士会が中田直人氏の『国民のための刑事法学』を紹介し、「日本では、検事のほうが裁判官よりも実質的な地位は高かった。裁判官の人事権を握っているのは司法省である。だから、裁判官から検事になって司法省に役人として勤めるほうが出世は早かった。司法大臣の中には検事総長出身者がたくさんいた。しかし、裁判官出身者は一人もいない。裁判官は検察官出身者によって握られていた。」と述べている。
戦後においても、Wikipediaの『検察庁』によれば、「日本の刑事司法では、全裁判所における令状請求の却下率は、1968年から1990年代後半までの推移は、逮捕状で0.20%から0.04%、勾留請求で4.57%から0.26%まで減少している。裁判所がきちんとチェックすると、拘留請求の却下は10%ぐらいはあるため、1990年以降の却下率の低さは異常であり、裁判所が検察の令状請求にノーチェックで応じていると言われてもしょうがないと言われている。検事を疑わない裁判官が存在することや、検察官の追認役ではないかという批判もある 」と書かれている。
「判検交流」もあった。一定期間について裁判官が検察官になったり、検察官が裁判官になったりする人事交流制度であり、「誤解を生むような制度は続けるべきではない」との判断から、刑事裁判の部門における判検交流ついては、2012年度から廃止されている。
『検証 検察庁の近現代史』(光文社新書)の中で著者の倉山満氏は、「刑事裁判で裁かれるのは、被告人ではない。検察官だ」と断言する。
被告人を有罪とする検察側の主張に問題はないか判断するのが裁判長の役目。なのに日本の司法では裁判官と検察官との立場があたかも逆転していると思えるのはなぜか。
戦前の国家に盾突く者は反逆者とする全体主義体制ではその方が都合がよかったのでは。終戦後GHQは世界を牛耳る米英(特に米国)に二度と歯向かわないようにその全体主義体制を崩壊させた。軍の解散・徴兵制廃止による非軍事化と巨大官庁内務省を解体し特高警察を廃し、財閥解体、農地改革など民主化を進めた。なのに検察の民主化は手を付けなかったのか、「自白中心主義」「人質司法」は黙認されたのか。
GHQ、ひいては米国が日本を直接ではなく間接支配するために、政治家(自民党議員)と検察を利用した。検察を支配下に置いた(故田中角栄の失脚を見ても)ので却って捜査手法等についてはあえて干渉しなかったのでは。というのが、的外れかも知れないがド素人の私の見立てである。
しかし、検察官だけが有罪にできると自信のある事件を起訴に持ち込み(起訴独占主義)、起訴された事件の99.9%が有罪となる日本の刑事裁判の現状において、最近裁判官は検事の主張に対して以前より追従しなくなった。検察官のやることに間違いはないとの態度は取らなくなった。
そう見えるのは、本来あるべき検察<裁判所との関係につながるのでは喜ばしいことである。
冤罪・袴田事件における再審において、2024年9月26日 静岡地裁は袴田巌被告人に無罪判決を言い渡し、10月9日に検察官が上訴権を放棄したことにより、同日無罪判決が確定した(1966年8月18日に誤認逮捕されてから約58年)。検察側の証拠に捏造があると認定した。
最高裁で死刑判決が確定したのが1980年11月19日。なのに約44年も死刑執行されていない。早い段階から冤罪が疑われていたのであろう。
なぜ再審開始にこんなに時間がかかるのか(再審請求には『新しい証拠』が必要だが、証拠のほとんどは捜査機関の検察が持っているという。なぜそれを弁護団に開示させる法律がないのか。裁判所が再審を認めても、なぜ検察に「抗告」というその取り消しを求める手段が与えられているのか)。
検察官も先輩の誤りを論うことを避けたい。裁判官も同じ。名もなき一庶民の命はちっぽけな面子や自己保身より小さいのか。難関の司法試験を目指した志は、一体何なのか。「正義」なのか、国家権力側に立つという「野心」なのか。
畝本検事総長は、上記検察の上訴権を放棄し、無罪が確定した際の談話において、裁判官が検察の捏造を認定したことに異議を唱えたことに失望した。初めての女性検事総長であり、男性より女性の方がより正義感が強いと思う私は期待していた。二度と裁判官に検察が捏造したと言われるようなことは絶対起こさせないと言って欲しかった。
普通の大人ならば、私大出の女性検事がいかに優れていようと時機を得たとしても東大出の定席のような検事総長の座に上り詰めるのであれば、組織の意向に忠実であり続けなければと直ぐに分る。私は爺になってもガキのままで大人になり切れないでいる。
1/7付け週プレNEWSでの『なぜ「袴田事件」のような冤罪はつくられ続くのか? “冤罪弁護士”の著者がその理由を解き明かす!』にて、裁判官出身の西愛礼弁護士は こう言う。
「日本の司法の中には一種の『無謬性神話』というか『自分たちに与えられた国家権力は国民の信頼に支えられている以上、絶対に間違ってはならない』という意識があって、それが“冤罪という過ちから学ぶ”という反省と学びにつながることを妨げている面もあるように感じます。」
とっくに国民は検察の『無謬性神話』など信じてはいないだろうに。
私は30年前まで20年間ほど銀行員をしていた。当時は銀行員も悪いことをしないとの風評がまだあったと思う。
今や銀行員が人を殺める時代。今もあろうことか女性営業課長が貸金庫で顧客が預けた多額の金品を盗む事件が起きている。最も信頼度が高いとみられる銀行での一大不祥事であり愕然とする。銀行業界での貸金庫サービスの存続危機を招いたが、頭取の他人事のような謝罪会見は何なのだ。リーディングバンクとしての自覚や責任感は如何に(それがたった3ヶ月の報酬30%減額なのか)。
女性行員の多額の不祥事の場合愛人に貢ぐ場合が少なくないが、今回既婚で私的なFX投資等の失敗への補填だという。
男子営業行員の場合は金額は大きくないが仕事上のトラブルが多い(顧客に非がなく損害を被れば銀行が補填する。どこの銀行も同じ)。銀行で組合の専従をしていた当時、私のいた銀行に限ってみれば、その不祥事に学歴コンプレックスが関係しているのかとの疑問を人事部も組合も抱いていた。
かくいう私自身も長い職業人生の中でみれば学歴コンプレックスを感じたこともあった。
学歴コンプレックス自体は悪いことではない。コンプレックスは人を成長させる動機付けにもなる。ハンデがあると思えばこそ人一倍努力し仕事以外の勉強もして大成している者も少なくない(大谷翔平選手がMLBの顔となっているのは、野球でのずば抜けた実績だけではなく、漫画から難しい書籍まで幅広く読み、知性・教養・人間性を磨いているから。無論大谷選手には学歴コンプレックスなど無縁だが)。
学歴コンプレックスに問題があるとすれば、モラルの問題ではなく、強迫観念にかられるがごとくやり過ぎることだ。
一度名を上げるとその名声を維持しようと無理に無理を重ね、挙句の果て越えてはいけない一線を越えてしまう。
そんな私は、偏見と批判されるかも知れないが、検察官においても学歴コンプレックスがあると思ってしまう。銀行員と違い、検察官は皆難関の司法試験に合格したエリートばかり。検事総長が東大出の検察官でほぼ占められてきたのなら、地方の国立大出の検察官にあってもコンプレックスがあって不思議ではないと思ってしまう。
その中で、特捜なら、国策捜査なら、何をしてもよいというような「検察の強さ」をはき違えたような捜査手法をとる検察官が検事総長へのラインに乗っているように見える。
法治国家と言えぬ韓国なら許されても、そんな検察官がトップになってよいハズがない。「検察の良識」を信じたい。
(次回223号は2/20アップ予定)