2024. 6 NO.209 ひるんどん  VS ひる

              どん
 昭和35年(1960年)前後私が小学生の頃、日本はまだ貧しく、一生懸命勉強や努力をして立身出世を目指すべきとの教えであったと思う。その目標とすべき人物として、豊臣秀吉、二宮金次郎、野口英世が挙げられる中で、私は当時秀吉が好きであった。また神戸から播州は近くないが、同じ兵庫県でもあり赤穂浪士、とくに大石内蔵助にも憧れていた。
 長じるにつれ、秀吉は好きでなくなった。北野武監督の映画『首』で監督自身が秀吉役に扮し、悪賢く、下品に演じていたが、秀吉の実像に近いのではと感じた。

   信長、家康含めた3人の中では、私は、エキセントリックな面はたしかに引くが、常識に拘らず、先見の明がある信長を推す。歴史は勝者によって書かれる。天下統一の志半ばで亡くなった後を継ぎ天下人になった、コンプレックスのある秀吉にやや足蹴にされ信長の悪い面が強調されている面もあるのではと思っている。

 神戸っ子は生涯野球の阪神ファンになるところだが、私は小学生の時に阪神を捨てている(動機ついては年末アップ予定の「きおくVSきろく」にて触れる)。結局東京に出てきたから上昇志向が強いとも言えるが、それでも反権力という関西人気質は失っていない。
 私は、昔の「任侠」みたいだが「強きをくじき、弱きを助ける」を信条とし、正義に与したい。さらに、できるだけ正直に生きようとしてきた。
   小学3年生の頃か親の授業参観で私の親は来ていなかったが、国語の授業で「教科書を何回以上読んだ人手をあげて」と先生に言われ読んでいないのに私は手を挙げてしまった。すると順番に読んでと言われて読んでいないことがみんなの前でバレてしまった。

   魔が差したとしか思えないが、そんな恥ずかしい自分を許せず、それ以来正直に生きようと心している(昨年バーガーキングで1万円札を出しお釣りを9千円と硬貨を貰うのに5千円札と千円札5枚を店員が渡そうとするので、元銀行員だからすぐ判ると指摘した。「銀行員は正直なのね」と中年の女性店員が答えた。辞めて30年になるが銀行員のイメージアップに一役買っている)。
   本ブログにおいても、後述の映画の主人公と違い本当にnobodyに過ぎない私がある程度信用されるには正直に書くしかない。恥ずかしいことを含めて。
   肝心の「強きをくじき、弱きを助ける」は、如何せん、非力な上、行動力がない。それで本ブログにて「権力者を批判し、弱者に同情する」ことしかできていない。中島みゆきさんが名曲『銀の龍の背に乗って』で「まだ飛べない雛たちみたいに 僕はこの非力を嘆いている」と歌うがごとく。
 ガザ地区で貧しい人々の為に尽力する国境なき医師団の医師やスタッフの日本人女性の志と行動力に頭が下がる。

 カナダに亡命した香港の民主化運動でのシンボリックな存在の周庭さん(亡命されるリスクがあるのにカナダへの留学を中国当局が黙認したのは、転向を強制してもしそうになく、さりとて世界を敵に回すこともできず、いわゆる国外追放させたか)を見ても、「強さ」とは、腕力でないと理解する。
 何者でもなく何もできない私は、実際にはこんな人物は実在しないと思いながらも、超人的なヒーローに憧れを抱く。そんな映画を観ることを好む。
 最近のシリーズの中では、デンゼル・ワシントン氏の『イコライザー』シリーズが一番の押し。ワシントン氏自身も続編は出演しない主義を破っている。3作で終わるが、初作が一番気に入った。続編にはよほど初作の評判がよくなければと考えれば、当たり前か。
   妻に先立たれ孤独な主人公が深夜の簡易食堂で連日静かに本を読む。そこでクロエ・グレース・モレッツさん扮するストリートガールと親しくなり、彼女に売春を強要するロシアマフィアを電光石火の早業で殲滅させ、彼女の歌手への夢を後押しする。
 続いて、トム・クルーズ氏の主人公『ジャック・リーチャー』シリーズ。元米エリート軍人で、放浪の旅を続ける中で正義のため超人的な働きをする。初作は2012年の『アウトロー』。好きな女優ロサムンド・パイクさんとの競演でもあり、とくによかった。
   2016年の続編『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』は主人公を父親と思う女子が現れるが、映画の最後にて親子でないと判る。疑似親子関係が微笑ましいと思ったが、クルーズ氏の映画としては余り入りが良くなく次作が宙に浮いたまま(2020年に3作目はR指定でとの報道もあったが、未だ実現に至っていない)。
 キアヌ・リーブス氏主演の主人公『ジョン・ウィック』シリーズもすべて観た。イコライザーと同じく主人公が最愛の妻を亡くし孤独に沈む中で、凄腕の殺し屋に復帰して敵を殲滅させる。主人公の心理面の描写は少なく、とにかく撃ちまくる。銃とカンフーを組み合わせた“ガン・フー”という手法 を編み出したとか。
   昨年公開された第4作『ジョン・ウィック:コンセクエンス』で主人公が亡くなる。最強の敵は座頭市を思わせる盲目で、映画の最後西部劇の決闘の如く離れたところから銃の打ち合いで主人公が倒れるのを観て、さすがにあり得ないと少し興ざめしたのは残念であった。

 この3シリーズの主人公は皆普段からスキを見せないが、続編が予定されている『Mr.ノーバディ』 (2021年公開)の主人公は、イコライザーの主人公の前職とよく似ているが、辞めた後仕事でもうだつがあがらず家族にも愛想をつかされた冴えない中年男がいざとなれば超人的な力を発揮する。そこに斬新さ感じる。スーパーヒーローの原点とも言える『スーパーマン』も普段は人間の姿をしているが、“だめんず”までには描かれていない。
 『Mr.ノーバディ』 を観た日本人なら、ボブ・オデンカーク氏扮する主人公が日本の『必殺』シリーズの同心・中村主水とよく似ていると思う人が多いハズだ。
 私は故藤田まことが演じる中村主水が好きだ。TVコメディー『てなもんや三度笠』(1962年~1968年)で藤田はコメディアンとして一世風靡するも、元々歌手志望で歌手としては心地よいバリトンボイスと相まって2枚目で通している。世間を欺くためにはまず味方から欺くための昼行燈からの仕置き人への変身ぶりは藤田のはまり役と言える。

 大石内蔵助の祇園での遊蕩も吉良側を油断させる為に味方も欺く仮の姿。
 私は、「公」はしっかりしている(知人はそう思っているか分からないが)のは同じだが、「私」の“だめんず”は演技ではなくただの素に過ぎない。
   私は2つの社団の事務局長を歴任したが、整理整頓ができないのは公私とも同じである。が、「公」では、真面目で真剣に取り組み、税金を無駄遣いする政治家と違い会員からの会費を無駄遣いしない。後ろ指を指されないよう「私」での浪費や怠惰な面は見せない。微塵もとは言わないが。
   事務局長の分際で、役員としての権利を享受するも義務を果たさない理事には平気で対立する。当然問題視される。

 最初は重宝に感じてもらえるのだが、次第に事務局長の権限を越えるような言動が目につき、トップとしては煩わしく思えてくる。それで2つの社団も10年程で辞任している。
 私の周りの人は「奥さんも大変だろうな」と思うが、実際は全然違う。妻は、夫には、堅苦しく口うるさい、妻自身の父(妻も親となり父親の想いを今は理解しているが)とは違うタイプを望んでいたのだが、私に向かって「そこまで違わなくもいい!」と訴える。それほど、妻を変にいじる以外、何も言わないし、毎昼夜の手(ぬき)料理と週一の自室部屋掃除以外何もしない。電球の交換から風呂掃除、庭はないが隙間に植えた木の電線にかかる枝の剪定まですべて妻任せ。
   そんな私なので妻から文句ばかり言われる。とくに最近物忘れが酷くなり、つい最前した事を忘れ悪手を打ってしまう。さすがに昼天丼で夜カツ丼みたいなことはしないが。昼ソース焼きそばを食べたので夜八宝菜でご飯を食べるつもりが、夕方になると塩味より今日は醤油味でとマルちゃん正麺のスープを活用しようと思ったのがいけなかった。五目あんかけ焼きそばを作り、八宝菜には麺がつくことを好まない妻に指摘され始めて気がつく体たらく。
   トイレとかクローゼットの電気の消し忘れは日常茶飯事。妻から毎週月曜と木曜の朝は自室のゴミを出すように言われているが、最近とかく忘れがち。
   文句ばかり言うと妻に口答えすると「文句じゃないでしょ。注意でしょ!」とキレられ、妻から「文句」と「注意」との違いとの講釈を黙って拝聴させられる羽目になる。
 3人の子供がいるが、子供にも何にも言わなかった。妻から放任主義が一番悪いと言われていた。勉強は本人の意志次第と思っていた。長男が小学6年生の頃たまたま私が居合わせた時ついて行けなくなったのか進学塾に行きたくないとぐずっていた。「いやなら無理して行かなくていいよ」と私は諭すように返した(記憶は美化されるから一通り怒った後かもしれないが)。すると長男は泣きながら走って塾に向かった。

   それが長男の人生の分岐点の一つになったかと思う(今長男は公私共々私が想像していた以上の人生を歩んでいる。父親である私を反面教師としたかのように)。
 我が家を企業に喩えると、妻が代表取締役社長で、私が代表権のない会長。家長としての主導権は放棄している。妻からよく「ふざけてばかりいないで少しは子供たちに尊敬されることを言ったらどうなの!?」と言われていた(2011年7月から本ブログを始めたのも、当時前立腺がんと判明しこのままバカなオヤジだったと子供たちに葬られてはとの思いもあった)。
   普段は社長が取り仕切る。社長が手を焼いた時だけ会長が重い腰を上げる。のんびりした神戸の田舎から東京の下町に引っ越して長男は不良が暴れるすさんだ中学校生活で鬱積したストレスを家で発散させた。手に負えなくなった妻からSOSが入った。私は長男に「お母さんの言うことが聞けないのなら、この家から出て行け!」と一喝した。幸いそれで長男は態度を改めた。その時ばかりは男親の存在価値を認めたと妻は言っていた(今はもう用なし。妻は捨てることは厭わないが、誰かに拾われるのが嫌。見た目も悪い粗大ゴミを拾う物好きな女性はいる訳ないが)。

   二重人格かとも思うが、ドアを開けて家の中に入れば「私」モードに替わるスイッチがある訳ではない。人間の体でそんなスイッチがあるのは、デジタル的にわずか1秒から数秒で「睡眠」と「覚醒」が切り替わる関係だけだと言われている。
   よくよく考えて解った。私は生来の怠け者。「私」の私が正体なのだ。
   「公」の私は、運命のいたずらか、意に反して、高校では2年生の時か適任者が他にいるのにからかい半分に学級委員長をやらされ、社会人になってからも公共性の高い銀行に入社し、それも組合専従にもなり、その後2つの非営利法人の事務局長を歴任した。身を律すべき半生だったと思う。
   責任感と(身勝手な)正義感が突き動かしていたと思うが、自然体の私ではなく無理している面もあるので、物言いが強くなり、衝突することも多くなったかとも思う。
   妻は私の母から申し送りで私のことを「偉そうに言う 食べ物にうるさい のんき」と聞かされたという。「さすが母親は息子のことをよく知っている」と妻に言われた。怠惰とは自覚しているが呑気だとは思わないが、身近な二人がそう言うのなら、そうなのだろう。
   私は同じ哺乳類のナマケモノに似ているのかもしれない。しかもナマケモノは私より偉い。一日の食事量は約8gでしかない。「働かざる者食うべからず」を守っている。そのナマケモノは「のんびり屋で怠惰な性格にもかかわらず、環境に適応し、エネルギーを節約する効率的な方法を見つけることで絶滅を免れてきた」とWEB上に書かれている。
   私が行動力がないのも頷ける。長生きする為に1日7,000歩の散歩や運動をと言われるが、そんなことしなくても家事だけで米寿を迎えた老女は多数いることだろう。
   ナマケモノの寿命は飼育下で約30年。百獣の王ライオンの狩りで走り回るメスの飼育下では15年~20年(野生では10年~15年)と言われる。ナマケモノの半分に過ぎない。それはストレスの差もあると素人考えながらそう思う(寿命を左右する健康への最大の敵は、偏食、運動不足ではなく、ストレスだと思う)。
   卒職する前後は今後は散歩しなければと思ったが、新型コロナ禍を経て天寿を含めて人それぞれと考えるようになった。飼われているカメの運動不足の解消は週一の散歩でよいらしい。妻に飼われている私もそれぐらいでいい。
   体育会系の人ならともかく、運動部に入ったことのない私は、雨ニモマケズ、風ニモマケズ毎日散歩するそんなストレスが溜まることをするより、枯渇気味であるが男の原動力である男性ホルモンを刺激した方がよいと思っている(和田秀樹精神科医によれば、近年の研究によって、男性ホルモンがポジティブな生き方と密接に関係しているという)。
   たとえ思惑が外れてもいい。常日頃妻から早く逝って!と言われている。妻孝行できる。
   運動はともかくとして、私はナマケモノそのものではなく怠け者なので、少しは反省している。妻が専業主婦の時夫が家事をやらなくても妻も不満はなかった。35年前当時はそんな時代でもあった。私が銀行員から転身し妻も正社員と働き出してからは、妻は仕事と家事(含む育児)との二足の草鞋。社団の運営が大変だったとは言え、私も家事をすべきだったと反省している。妻に感謝している。
   「そう思うなら、今もっと家事をしないと、反省だけならサルでもできる」と女性読者から言われても、そうできないのが、怠け者たる所以。
   そんな私でも、66歳で卒職した時7つ年下の妻は59歳でまだ定年に1年あり、洗濯物の取り込みだけではなく、干すのも私がやろうかと申し出た。が、世間体もあるからと妻は断った。
   フジテレビ水曜『ホンマでっか!?TV』でお馴染みの池田清彦先生は近著『人間は老いを克服できない』(角川新書)で、あんな偉い先生が自ら進んで毎日風呂に入った後風呂場を1時間かけて掃除する。風呂場は常にピカピカだという。運動も兼ねてと言うがそんな几帳面な人だとは思わなかった。私なら毎日は到底無理。週1でも5分しかできないだろう。
   私と正反対の妻は進んで自分でやろうとする。介護福祉士の資格を持つ娘は「ボケるから、もっとやらせなきゃ、ダメよ!」と陰で妻にハッパをかけているみたい。だが、私のことを何やってもきちんとできない、却って二度手間になるだけと思っているのだろう。それよりも何もしないと文句、否注意をして憎たらしい私を凹ます方が嬉しいと思っている。きっとそうに違いない。

   怠け者は、怠惰だから、昼行燈を決め込み、いざというときに力を発揮すればよいと思うものなのだろう。養老孟子氏の『生きるとはどういうことか』(筑摩書房)を読むと、養老先生が東大の助手時代外国留学するにあたって恩師の推薦状には「この男は怠け者だが、気か向いたらよく働く」と書かれていたという。本人が有意義だと思えは一心不乱に取り組み大きな成果をあげるという意味だろう。私は自身や家族がピンチになったとき頑張るだけだ。タコが天敵に遭遇したとき墨を吐くのと同じにすぎない。月とすっぽん、鯨と鰯だ。
   末っ子の長女とは、仕事が忙しい時期でもあり、風呂に入れたのも1回か2回しかない。娘と二人で外出したのも、娘が小学生の頃有楽町で101匹のナントカの映画を観て回転寿司屋に寄ったぐらいしか記憶にない。娘がいたのに内孫の女児にどう接してよいか分からない。
   娘のすることに干渉するつもりはなかった(海外への一人旅だけは絶対させないと思っていたが、娘は国内でも一人旅しなかった)。結婚も、我ら親に財産と言えるものもなく、いたらぬ娘を貰ってくれる男性はよい人に決まっているから、誰でも熨斗をつけてと思っていた。
   その娘が結婚式で両親への感謝の手紙を読むとき、妻には感謝しても感謝し切れないだろうが、私には話すべきことがないのではと案じた。が、娘は「いざという時はいつも助けてくれた」と話した。理解してくれていたかと嬉しく思った(嫁いだ娘が家に来て私に向かってボロクソに言うことが多いが、その度毎に結婚式の手紙を持ってきてと妻に頼む)。
   もちろん、娘の一大事、一番のいざという時である結婚式では、娘とバージンロードを歩き、作法を指示してくれた係の女性から完璧と声を掛けられた。披露宴にて最後の両家を代表して(新郎の父が鬼籍の為)の御礼の挨拶もふざけず真っ当に挨拶した。まず新郎を立て、娘には、二人の娘をもつ長男のイクメンぶりを見て今更ながら反省していると謝罪した。そしてそんな父親なので娘に何も望むことはない。「楽しい時も、そうでない時も、どんな時も、精いっぱい生きてくれたら、それでいい」と結んだ。
 
   「go up like a rocket and coming down like a stick」とは「竜頭蛇尾」の英訳の一つ。頭でっかち尻すぼみ的な今回のブログの内容に相応しい。「竜頭」はスーパーヒーローで「蛇尾」が私の話。もっとも蛇の尾の方が私よりよく動くだろうが。

 (次回210号は6/1アップ予定)