2021.7 NO.154 つま VS つみ
6月は我妻の誕生月(2人の幼い孫娘も同じ)。今回は我妻のことを話してみたい。
仲睦まじい三浦友和・(山口)百恵夫妻は昨年11/19に結婚40周年を迎えられた。半年後結婚した我ら夫婦もどうにか5/3に40周年(ルビー婚)を迎えられた。「別にめでたくもないけど」と言う妻と二人で祝杯を挙げるべく店を予約していたが、緊急事態宣言により店側からキャンセルの連絡が入った。長男ファミリーと一緒に妻と孫の誕生日会と併せて折を見てお祝いすることにした(妻は娘が嫁ぐ時「お父さんは女性的だから結婚記念日とか誕生日とかに飲食店に予約したりするけど、世の旦那はそうとは限らないのよ」と申し送りしていた)。
結婚を前提にと数寄屋橋のソニービルで再会した23歳の妻は眩しかった。綾小路きみまろさんの漫談ではないが「あれから40年」。「同じだったらお化けでしょ!?」と妻は言う。「お化けでもいいから・・・」とは、さすがに口が減らない私でも口にしない。私が40年前に戻りたいと言うと、妻は「私は出会う前に戻りたい」とぬかしおる。
結婚当初は、神戸市の東端、深江本町に住んでいた。阪神大震災の際国道43号線上の高速道路が芦屋市側との繋ぎ目から神戸市側の道路が横倒しになった、その繋ぎ目の近くに。
昭和53年秋、5年程の東京勤務を終え本部の審査部に半年間ほど席をおいた。融資の可否を判断する審査役のアシスタントの仕事だ。決算書や資金繰り表、他行の融資状況等から矛盾、問題点を洗い出す(これからはAIがとって代わるだろう)。その時、以前新宿支店で上司だった人が同じ審査部にいた。その人から取引先が賃貸マンションを建てるので借りないかと勧められ、実家を出て昭和54年4月4階建ての4階に入居した。今は亡き母が好きだった、苦節十数年の小林幸子さんの『おもいで酒』が大ヒットして行く頃であった。
それから2年後の昭和56年5月に妻と結婚し同居した。翌年に長男が生まれ、高速道路に近く洗濯物が汚れ空気がよくなく、またベランダの手すりが低く幼児にはアブナイと考え、転居した。
新神戸駅から北に7㎞のトンネルを抜けると新興住宅街が見えてくる。その一角にある中古だが敷地58坪の一軒家に昭和57年秋に移った。そこで平成6年3月まで居住した。
その頃、子供はまだ小さく成績やいじめの問題もなく、亭主は順調にそれなりに出世の階段を登っていた。妻自身はまだ若く、エアロビクスの教室に通い他の主婦と楽し気に飛び跳ねていた。その頃が妻の人生のバイオリズムの最高点であったろう。
そんな平和な生活が急転する。私が妻に相談することもなく、銀行を辞めてできるかどうかも分からない社団設立に参画すべく平成6年正月ひとり上京した。社団のメドは立ったが、私自身は(今から思えば、考えが甘かったとしか言えないが)すぐに二重生活が出来なくなり、妻が自身の城と思っていた自宅を急遽売り家族も上京することになった。不動産業を営む高校の同級生が買い取ってくれた。私の方には過不足はなかったが、翌年思いもよらぬ阪神大震災が起こり同級生は損を被ったらしい(壊れた故郷を見るに忍びなく5年程帰郷しなかったこともあり、そのことに思い至らなかった)。
家族も上京するに際し、私は「どうせ家ごと壊すので要らない物はそのままにしておいていい」と言い残しておいたのだが、律儀?な妻は (まだ家が建っていない) 向かいの車庫に廃棄するソファを置いた。それが近所の悪ガキによる花火でボヤ騒ぎになり妻は消防署からきつく絞られたらしい。加えて、銀行で優遇されていたハズの私が表面上泥舟からいち早逃げ出した形になるので、あることないこと噂が流されたのであろう。同じ銀行のOGである妻も元同僚と疎遠になってしまった。母を置き去りにし、妻を苦しめ、同級生の好意に甘えて転身したのだが。銀行を辞めたことには悔いはない。皆の想いを背負いながらも、自身の「志」を信じ切れず完全燃焼できなかったことは、後悔したくなくても、してしまう。
平成6年の春休みに上京した家族は一旦妻の実家にヤドカリし、日本シリーズで長嶋監督が宙に舞った10月から家族5人狭いマンションで一緒に住むことになった。その年末長男が虫垂炎で手術した。翌正月3日見舞に妻が自転車で向かった。電話が鳴り警察からだった。妻が踏切で単車と喧嘩した。吃驚したがムチ打ちで済んだのは幸いだった。1年弱か妻の太短い首に首輪がついていた。生活の不安もあり、上京する(東京生まれの妻としては出戻り)直前からの数年間が妻の人生のバイオリズムの底だったと思う。その頃つんく♂さんがMY BABE~と熱唱していた。
私自身は、社団の運営も容易ではなかったのだが、その頃メジャーでトルネード旋風を巻き起こした野茂英雄(NOMO)投手に夢中だった。NOMOに自分自身を重ねていたこともあるのだが。NOMOの引退後は競馬界の至宝ディープインパクト(以下「ディープ」)に入れ込んだ。仕事が思うにまかせず日々鬱々としていた私の心をディープの快走が唯一晴らしてくれていた。ディープが一昨年7月末急逝したのは、私にとって痛恨の極み。
そんな私に対して、妻は、私の母がかつて妻に私に関して申し送りしていたことをわざわざ口にする。「偉そうに言う」「食事にうるさい」「のんき」だと。私自身は前の2つは自覚があるが、心配性で呑気だとは思ってはいないのではあるが。
妻は、上京した平成6年から正社員として働きだし、いつの間にか24年が経った。平成30年に妻も退職し、ある時二人で墨田区主催のカラオケ教室に向かった。歌は上手いが方向音痴の妻は最短コースでは30分で歩いて行ける所を三角形の2辺を辿り50分もかかってしまった。帰りは、土地鑑のない私がタブレットでグ―グルマップを見ながら最短コースを辿っていると、途中で「あら、私が働いていた会社の近くだわ!?」と妻が声をあげた。妻が勤めあげた会社を初めて見て、24年間も働いてくれたことを思い起こし、熱い物がこみ上げてきた。妻は体調不良で会社を休むことは一度もなかった。雨の日も風の日も通い続けた。
今妻は、次男が独り立ちしていないことと自身の髪の毛とが気懸かりながら、職場でのストレスから解放され、週に2回一人カラオケに勤しみ(新型コロナ禍自粛しているが)、長男、長女の孫と戯れるのを楽しみにしている。振り回されてきたクソ亭主もポチ犬からナメクジへとさらに小さくなり、それでも目障りなら塩を振れば(死にはしないが)見えなくなる。ようやく妻の心に安寧さが戻ってきた。銀行時代の同僚にも再会してみようかとの気になってきたみたいだ。
結婚当初に住んだ所から妻の実家を立て替えた今の家まで、これまで4回ほど引っ越しをして来た。本はその都度整理しいくらか処分したが、レコードとCDはそのまま持ち込んだ。しかし、今やレコードプレーヤーは壊れ、CDも面倒だとして聴いていない。もっぱらパソコンでYou Tubeを視聴している。反戦歌ではなく若い男女の切ない恋愛模様を綴ったフォークソングを聴くと銀行に入行した翌年昭和49年1月思いがけず新宿支店に転勤となり独身寮に入寮し寂しさを覚えた当時が蘇る。私は元々群れるのは好きではないし、アウトドアタイプでもない。独りでいることは苦痛ではないと思っていた。一人で居る孤独は耐えられる。しかし、大勢の中での孤独は耐えがたいことを悟った。
それでも、昭和50年の後半に入る頃には、それなりに青春気分を味わった。気の置けない後輩も入寮してきた。ゴルフも覚え始め、正月三が日も帰省しなくなった。元旦は女子行員も来るので支店長社宅での新年会で過ごした(当時まだ入行していない妻には言えないこともあった)。
寂しいと思っていた頃はビートルズ等の洋楽曲より歌詞が直接心にしみる、『心もよう』の井上陽水さんや『神田川』のかぐや姫などをアルバムで聴いて無聊を慰めていた。
当時の歌を懐かしくYou Tubeで視聴していると、ファンではなかったが同時期ヒットしていたクラフトの『僕にまかせてください』、シグナルの『二十歳のめぐり逢い』がYou Tubeにアップされているのが目に入った。私には特段思い出はないが『二十歳のめぐり逢い』の「風に震える オレンジ色の 枯葉の舞い散る 停車場で・・・」を聴きながら、投稿コメントを読んでいると私と同世代と思しき女性Mさんの次のコメントに嗚咽してしまった。
「この曲は、亡くなった主人が私によくギターで歌ってくれてました。息子が六才、娘が三才でした。親子苦労しましたが、今では孫が癒してくれます。・・・大切な思い出です。」
妻子のご苦労、ご主人の死んでも死にきれない想いを思うと涙が溢れてきた。チューリップの『青春の影』の歌詞「自分の大きな夢を追うことが 今までのぼくの仕事だったけど 君を幸せにするそれこそが これからの僕の生きるしるし」を思い出した。人生は一度きり。残り少ない余生を妻への罪滅ぼしに使わねばと強くそう思った。といっても、要らぬことを言っては、妻を怒らせるのだろうけれど。