2021.11 NO.161 じじつこん VS じじつこん
  女性向け雑誌の目玉は、何と言っても、芸能人の熱愛スクープ記事だろう。記者は必死に探すが、どうしても見つからないときは、仕方がない。火のないところに煙を立てるしかない。名前を出された芸能人には、会ったこともないと驚く人もいるが、有名税としてスルーすることも珍しくない。
 それでも芸能人から反撃される場合がある。2016年元旦にスポーツ紙がTV旅行番組で共演する神田正輝さんと(離婚裁判中の)三船美佳さんとの熱愛を報じた。神田さんは事実無根として法的措置も考えると怒りを顕わにした。元々証拠写真もなく、その後三船さんはオーナー美容師と再婚したという。今年の夏においても有村架純さんが関取との交流を報じた週刊誌に対して法的措置をとると所属事務所が激怒した。
 マスコミの間で芸能人が同棲していることが周知の事実でも報道されない場合もある。所属事務所の意向か法律婚ができず、事実婚の形をとるのか。大手芸能事務所に逆らってまでリークする記者もいないようだ。

 同棲と事実婚の違いは、一緒に住むという点では同じだが、それだけでは事実婚と認定されない。「婚姻の意思」と「夫婦共同生活の実体」が必要。生計を共にして夫婦としての共同生活の期間については、明記されていないが、一般的に3年は必要と言われている。
 新型コロナで亡くなった故志村けんは生前3年ごと同棲を解消していると見えたので、ドンファン的?な生き方に快く思っていなかった。しかし、志村は、結婚してもいい女性には母親に紹介していたという。結婚に至らなかったのは、相手の女性に結婚願望がなかった場合もあったとする。3年を目安に同棲を解消したのは、志村自身結婚するつもりがないのに、相手の女性が家財を持ち込み既成事実(婚)化を図る場合のようであったらしい。
 事実婚は、近年増加していると言われるが、その理由に、子作りを離れた熟年からの結婚の場合、籍を入れる必要性を感じないということがある(若くても、娘が跡取りの場合夫の姓を名乗れない場合もある)。この事実婚には、モーリー・ロバートソン・池田有希子夫妻が有名。モーリーさんは、東大、ハーバード大等に合格する天才肌で、ジャーナリスト、俳優、DJ、作家、歌手等八面六臂の活躍を見せている。それは、妻で女優の池田さんが、こんな天才が世に埋もれているのはもったいないと業界に売り込んでくれたことによる。モーリーさんにとって、奥さんの池田さんは、糟糠の妻ではなく、“あげまん”なのだ。
 モーリーさんは、事実婚の理由として、紙切れ一枚で、後は「釣った魚に餌やらぬ」ではなく、1年1年真剣に妻を愛する為だと言っていた。プロ野球の契約更改で、有利な複数年契約を断り単年度契約にこだわる選手と同じ気持ちなのだろう。
 事実婚には、夫婦別姓が叶う、名字を替える煩雑な手続きが不要などのメリットがあるが、互いが法定相続人になれない、税制上の優遇措置(配偶者控除、配偶者特別控除等)も受けられない。さらに事実婚で生まれた(法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた)子は婚外子(非嫡子)と呼ばれ、自動的に母親の戸籍に入る。父親が認知しなければ、子と父親との間に親子関係が発生しないという問題が生じる。
 

 そういうデメリットがあるので、事実婚で夫婦別姓をとる女性は、夫婦の双方が氏を変えることなく結婚することができるようにする「選択的夫婦別氏制度」の実現を心待ちしている。だが、自民党の中で、この制度を反対する声も少なくなく、まだ実現していない。
 中には法的結婚した上で旧姓を名乗っているのにこの制度に反対している女性議員もいる。男女共同参画担当大臣の丸川珠代議員が選択的夫婦別姓に反対を表明する国会議員グループの文書に名前を連ねていたことが明らかになったことを受け、海外の主要メディアから「日本の女性担当大臣は女性差別を容認している」と批判された。
 キリスト教西洋社会が自分たちの価値観が絶対正義だと他に圧しつけ過ぎることがテロ問題等イスラム教社会との確執・紛争の根本原因と思う私は、欧米から「別姓を認めない日本の法律は女性差別的な制度」とそこまで言われる筋合いはないと思っている。

 それはともかく、丸川大臣は、矛盾を指摘されると「個人の信念」からとしか言わない。女性ならそれで許されるのか。「どうしても」とそれだけ言い張るウーマンズロジック(パリコレならぬポリコレで死語になったか)のような筋が通らないことを男性議員が言えば、誰からも相手にされなくなってしまう。たとえ首相であろうとも。IRを主導していた菅首相はお膝元の横浜市長選で盟友とはいえIR反対の小此木前国家公安委員長を応援したことより横浜市民の信を失う。首相辞任の最後のトリガーとなる。

 野田聖子議員は過去安倍総裁に対抗して総裁選に出馬を表明したが推薦人が集まらず断念したとき安倍総裁を支持し、男ではなく、女を下げた。それでも今回の総裁選に登壇できた。

 国のトップに甘えは許されない。日本人初の女性総理大臣の誕生には、誰がなるにせよ、まず捨てることが必要だ。「女」ではなく、「女の甘え」を。
  
 私は、保守の立場をとっているつもりだが、「選択的夫婦別姓」に断固反対ということではない。それでも、6/23の判決で最高裁は「夫婦同姓制度は合憲」との見解を示している通り、まだその時期ではないと思っている。
 現実には95%超の夫婦が夫の姓を名乗っている。現行法律上は妻の姓を選択することもできる。夫が妻の姓を名乗る抵抗感も薄れつつある。
 ある有名私大のアンケート調査で「夫婦別姓」に70%としていたが、保守誌の週刊新潮は「②自分は同姓がよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」まで「賛成」に加えるのはいかがなものかと疑問を投げかけている。
 さらに同誌は別号で「平成29年実施の内閣府の世論調査でも過半数の人が夫婦別姓に賛成しているとは言えない」とする。反対派は29.3%に過ぎないが、第三の「夫婦は同じ名前を使うべき。しかし、旧姓の通称使用は認める」とする『通称使用拡大派』は24.4%おり、それを合算すると別姓反対派が過半数を超える。賛成派が大半との見方に疑問を呈している。
 なお、月刊誌『文藝春秋』本年8月号の連載巻頭コラムで作家・数学者藤原正彦氏は、19世紀英国の首相ディズレーリの「世の中には三種の噓がある。噓、大噓そして統計だ」との言も紹介し、とかく数字に騙されやすいと説く。
 反対意見も根強い現段階では、いきなり「選択的夫婦別姓」するのではなく、「例外的夫婦別姓」に移行するのがよいのではないか。深い事情がなくても、例えば、瞳まな子という女性がいて、野呂姓の男性と熱愛した場合、結婚して一人息子の夫の姓に改姓せざるを得ない場合野呂まな子となり、病院等で「のろまな子さん、のろまな子さん」とアナウンスされるのは精神的苦痛と訴えれば、家裁も別の男性を見つければとは言わないのではないか。
 離婚した場合手続きが簡単という理由では、認められないだろう。私は、古い人間かもしれないが、簡単に結婚し、簡単に離婚するのは、よくない風潮だと思っている(親を選べない子が継父や内縁の男に虐待され、実母も男に捨てられるのを恐れ毒親になるのを見るにつけ、よりそう思う)。
 仲人を立て、仰々しい結婚披露宴をするのは簡単に離婚することを避けるため。離婚届も電子申請できるような改正はすべきではない。行政の事務手続きの迅速化が日本固有のハンコ文化の消滅につなげてもいけない。婚姻届、離婚届に限らず大事な契約の際ハンコを用い、慎重になるよう実印等はどちらが上か判るしるしをつけないのは先人たちの知恵であり、それを侮ってはならない(日本のハンコ文化に憧れて海外から若者がハンコをつくりにも来る)。

 後先考えず、ハンコ文化を葬ろうとしたとしか思えない河野大臣が新総裁に選ばれなかった。傷口に塩を塗るようで恐縮だが、突破力があり壁を打ち破るのはよいがそのまま下の道路に転落するリスクが、とりあえず避けられたと思っている。自民党もまだ捨てたものではないとも。

 事実婚の話に戻すと、事実婚が、庶民の世界だけではなく、皇族の世界にも関わりを持つことになるとは思わなかった。28頁に及ぶ「小室文書」に対して、却って世論が硬化した。一転解決金を支払うと言い出したのは、「遺族年金不正受給」の疑惑がクローズアップされてきたことにも関係していると見る向きもある。一連の報道によると、母親の小室佳代さんは元婚約者と婚約したという関係を「あえて隠して」、亡き夫の配偶者として遺族年金の給付を「不正受給」していたのではないかという指摘がなされている。遺族厚生年金の受給権は、受給権者が「婚姻(事実婚を含む。)」した場合消滅するとされている(厚生年金保険法63条2項)。事実婚であれば、元婚約者からの支援金は、贈与ではなく、貸付金でなくてはならない(さらに今9月に入って週刊新潮により母親の傷病手当不正受給疑惑が報じられた。また、週刊文春が小室圭氏のニューヨーク就活での経歴詐称疑惑、さらに留学ビザ不正疑惑を報じた)。

  日本に帰国すれば、「小室文書」には触れられていないそれらの問題に集中してメディアから詰問されるのは不可避。帰国できなくなったのではと見られていた。
 そうなると、駆け落ちして眞子様が渡米することもありうる。明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏は、「事実婚となれば内縁関係になるので、眞子内親王殿下は皇族を離脱しなくていいということになる。 すると一生分の皇族費が、総額で20億円とかになってくる」と懸念を示していた。
 しかし、今日にもご結婚の正式発表があるという。小室氏の単独会見はなく眞子様との共同会見(記者に小室氏側の疑惑への追及をさせない形で?)が行われるのか。 もっとも、母と子で生きてきた上での多すぎる疑惑の真否自体に大した関心はない。それよりも、そんな環境にあれば庶民の我々なら一番遠い存在の皇女に近寄ろうと思わないものだ。ましてや・・・。引け目を感じるものだし、そうでなくとも好奇な目に晒され、メディアに丸裸にされるのがオチ。それをもろともしない強さを持つ小室圭氏に驚きと強い違和感を覚える(常識のない私の目からでも純愛を貫く一途な好青年とは映らない)。彼の皇室感にも不安を感じる。

 そんな彼を新鮮に感じ共感なさる?眞子様を危ぶみ婚約の破談を願っていた少なからずの国民を唐突に失望させることになった。国民に祝福されないと・・と言われている中、国民が納得するもしないも何の進展もないと思っているところに、一転国民には関係ないとばかりに、いわゆる勘当婚とはいえ強行されるのは予想外。30歳までに結婚をというレベルの問題ではないハズなのだが。

 事実婚は竹田氏の杞憂となったが、事態が好転した訳ではない。週刊新潮9/9号で静岡福祉大学小田部雄次名誉教授は「本来であれば眞子様が、どんな時も私よりも公を重んじる皇室の『無私の精神』をお伝えすべきなのに、あろうことか母子に同情してばかりで、“好きだから結婚したい”としか仰らない。成年皇族としてのご自覚を失われていると言わざるを得ません」と皇女に対して異例なほどにはっきりと批判している。
 秋篠宮殿下の責任は避けたいところだろうが、主権者たる国民から問われざるを得ないのか。「子どもの意思を尊重する」という教育方針は、庶民の場合と違い、皇室を守るという前提があってこそ。だが、報道による佳子様の言動からもそれは感じられない。秋篠宮殿下は、全国民がこぞって祝福することにはならない結婚に対し、娘に正面切って反対できない為、憲法上の権利を口にされたのか。国民は「憲法の枠組みを超えた特別な存在が憲法上の権利を主張する。いいとこ取りだ」と反発する。秋篠宮家の私的な問題が皇室を揺るがす問題に変貌してしまう。

 ネット上では「国民統合の象徴どころか、国民を分断するような皇室ならば、天皇制の廃止が視野に」との声があがり、「憲法に対する事実上の“謀反”を起こされた眞子内親王と秋篠宮皇嗣殿下を制御されないことで、憲法第99条に定められた天皇の憲法尊重・擁護義務を十分に果たしておられないのではないか」との今上天皇にまで言及する記事まで現れる。
 芸能人等の発言の風向きが急に変わってきたが、言論統制?し、正面突破してしまえば「時間が経てば国民は忘れる」と高を括っているのか。安倍政権は確かにそう国民を愚民扱いしていた。それに対して国民はいずれ権力者は代わるからと鷹揚に構えていた。しかし、「権威」である皇室は不変。日本人の精神的支柱(象徴天皇制の存在意義)でもあり、それだけに国民は真剣なのだ。宮内庁は読み違いしてるのではないか。

 祝賀ムードが演出される中で法律婚がなされ、それで勘当同然と言われたところで、それですべて方が付くと思う国民は少ないだろう。皇室として不名誉な問題が続くなら、主権者たる国民の秋篠宮殿下に向けられる目は、内容が全然違うとはいえ、英国民の英王室チャールズ皇太子へのものと同じになるのであろうか。
 

 戦後皇室は平民化路線へ向かっていると言われるが、その行くつく先が(「特権」と「無私の精神」が表裏一体と思しき)皇室の不要論であっては困る。平民化路線は皇室の「無私の精神」を蝕んでしまうのか。そのなれの果てが英王室か。

 皇室と違い英王室は私有財産が有り個人支出は個人収入からだとしても、庶民と同じで良いのか。不倫、不仲、離婚、不審事故死、王室離脱、王室暴露、レイプ疑惑。何でもありだ。エリザベス女王とウイリアム王子ファミリーが英国民の心をつなぎとめているのか。

 国民に寄り添うことが、国民に近づくことを意味するものであってはならないと思う。皇室が庶民に近づけば近づくほど庶民は皇室に親しみを感じるが、それに反比例して畏敬の念を薄れさせていく。映画女優がTVバラエティ番組に出演すれば茶の間の住人に親近感を持たれるが、女優としての神秘性が損なわれるのに似ているかもしれない。
 なぜ比叡山の大阿闍梨が生き仏として今も崇められるのか。

2021.10 臨時号 NO.160 しょうい VS しょう

  “野球の神様”ベーブ・ルース以来103年ぶりの二刀流による「2桁勝利&2桁本塁打」の偉業達成にあと1勝(今朝先発予定。達成なるか)となり、三冠王を狙うゲレーロJR選手(シャイなMr. Nice Guy)とMLBのア・リーグMVPを争う大谷翔平選手(才能だけではなく人間性も素晴らしい)に対して、野球少年だけでなく若い女性達からも憧憬(「しょうけい」)の眼差しが注がれる。一方、新型コロナに関わる日本の権力者たちには、国民の失望からくる冷たい視線が送られている。
 「船頭多くして」と言えば「船山上る」と続く。あれこれ指図する人ばかりでは正しい方向に進みづらいという諺であるが、日本の新型コロナ対策では、「船頭多くして、船進まず」というところか。首相、厚労省、新型コロナウイルス感染症対策分科会長(以下「分科会長」)、日本医師会長、都知事、感染症学者、メディアが皆口をそろえて国民の行動自粛を求める。だが、誰も漕がないというか、各々の持ち場でやるべきことをしているように見えない。
 菅首相には厳しく批判しようと思ったが辞任を表明されたので、手短に評する。国のトップにはやはり「国家観」と「教養」が必要と分かった。特に新型コロナのような得体の知れない事態にあれば。さらに、菅首相は、8年間の長きに亘る官房長官時代に苦手だがトップに不可欠な国民に語りかける話法を学び習練しようとせず、幾度となく開かれた長官会見にても木で鼻を括る言い方しかしてこなかった。考えもしなかったハズの首相の職が自身でも務まると錯覚したのはいつか。令和の元号発表時“令和おじさん”と人気が出た頃か。
  大企業では、不始末の尻拭いをする、臭いものに蓋をする汚れ役の総務部長が社長になることはない。組織があやふやな中小オーナー企業レベルまでに劣化した自民党を嘆く。今となっては、小選挙区制移行前派閥同士が切磋琢磨し、その中で幹事長、外務大臣、大蔵大臣の3大ポストの階段を登り国の方向性を示す実力がある議員が総理大臣になっていた時代が懐かしい。
  新型コロナの人災化の諸悪の根源は厚労省と言っても過言ではない。まず水際対策の失敗。ダイヤモンド・プリンセス号船内での感染対策の様子については医師で作家の海堂尊氏のフィクション『コロナ黙示録』(宝島社)で窺える(蝦夷大学名村教授のモデルは後述する神大岩田教授か)。厚労省の権益拡充を図ったとしか思えない(相談・受診の目安を悠長に「37.5度以上の発熱が4日以上」としながらの、怖いコレラ、赤痢、チフスの3類を上回る)指定感染症2類相当の指定。それ以上に問題なのは、世界とは状況が違うと分かった時点で改変すべきだったのに1年間22年1月末まで延長したこと。窓口とされた保健所職員や新型コロナの治療にあたる医師は疲労困憊する。戦前の軍参謀本部と戦地の兵士の関係を思い起こさせる。飲食店等の困窮を知りながら真綿で首を絞めるがごとき緊急事態宣言の場当たり的な度重なる延長も政治家だけの責任か。2020東京五輪を控えての「ワクチン敗戦」と呼ばれる国内ワクチンへの不作為とワクチン接種の遅延等々。
  菅首相の辞任により総裁選は混とんとしてきたが、立候補に際し唱えた岸田前政務会長の感染症危機に一元的に対応する「健康危機管理庁(仮称)」構想は、誰が新総裁・総理になろうとも新設されるべきである。しかし、日本版CDCに反対してきたと言われる厚労省の圧力に屈すれば骨抜きされてしまう。台湾CDCを参考にすべき新設庁のトップはクルーズ船内における厚労省の感染対策の不備を公然と指摘した神戸大岩田健太郎教授(賛否両論だろうが)のような厚労省からの圧力をものともしない人物を据える必要があろう。
  尾身分科会長は、率先垂範すべき立場なのに、いまだに「国立病院機構と尾身茂氏が理事長のJCHOはもっとコロナ患者を受け入れるべきだ」とNPO医療ガバナンス研究所の上昌広 (東大医学博士) 理事長から、名指しで批判されている。
  さらに、尾身分科会長は、東京パラリンピック開幕に合わせ来日したIOCバッハ会長について「オンラインでできないのか。なんでわざわざ(日本に)来るのか。」「銀座にも一回行ったんでしょう」と国会で発言した。世界中に配信された。自身の思い通りにならない苛立ち。自身への批判をかわす為に政治的発言をしたと理解されたが、尾身氏の発言を明確に批判したのは舛添要一元  厚労大臣・元都知事だけではないか。
 分科会長の立場と違って、国のトップである首相は、国民の生命を守ることが第一義なのは同じだが、世界との約束を履行し、新型コロナ禍の東京でのオリ・パラに不参加を表明しない数多の国々からの信頼に応える責務がある。過去から築き上げた「日本国の信用」を失わせることはできないのだ。それに納得できないなら辞表を叩きつければよいだけ。バッハ会長個人に問題があるにせよIOC会長に八つ当たりするのは筋違い。
  国際パラリンピック委員会(IPC)はIOCとは別組織ではあるが、経済面・運営面においてIOCから支援を受け、組織委員会はIOCの組織委員会に統合され、開催時期も五輪に合わせているという。いわば、IPCはIOCの傘下に入っているということだ。実質トップのIOCバッハ会長が新型コロナ禍東京に集まってきてくれている身障者等の方々に直接激励しに来るのは当たり前。しかも、2020東京開催国である日本政府の一員がパラリンピックの主催権限も実質持つトップを公然と揶揄するのは前代未聞では。権威を傷つけられたIOCは大人の対応をとったみたいだが。
  このバッハ会長批判を国民に支持されたと思ったのか、尾身分科会長は「コロナ対策は『科学だけでは決められないこと』がたくさんあります」(科学者としての敗北宣言か?)と言い、 庶民の意見を聞きたいとインスタを開設する。自治体やメディアがその役割を果たしていないと言っているのか、それとも政治家に転身するつもりなのか。
  ただ、そんな尾身分科会長よりも、新型コロナ禍で、インフルエンサーを含め冷静な判断能力を失っている、あるいは、より自分ことしか考えなくなったと思える日本国民の方がより大きな問題だと言えるだろう。
 自治体の雄東京都の職員は国家公務員に匹敵するほど優秀なハズだ。渋谷の若者ワクチン接種会場の混乱ぶりはどうしたものか。上からの鶴の一声でのドタバタなのか。
  小池百合子東京都知事の行政手腕についてあれこれ言う必要はもうない。バルカン政治家が国政に復帰するにしても、日本人最初の女性総理大臣でなくとも総理になる日が来ないことを祈るばかりだ。
  今頃になって野戦病院の設置を提案するとか、なにかと評判の悪い日本医師会は経団連とは違う。経団連の第2代会長石坂泰三や第4代会長土光敏夫は、総理大臣を凌ぐほどの社会的影響力を持ち“財界総理”と呼ばれた。今はそれほどの大物ではなくなったが、中小企業のオーナー社長がトップの席に座ることはない。
  日本医師会の前会長が現会長を月刊誌『文藝春秋』にて名指しで批判する。その現会長が週刊誌にスキャンダルを報じられても居座る。そんな中小企業のワンマン社長レベルがトップの日本医師会は民間開業医を主体とした圧力団体に過ぎないと言われても仕方がない。
  「日本医師会」という名前に国民は勘違いする。開業医の利害に拘泥するなら、日本民間開業医会と名称変更すべきだ。日本の医療界を真にリードする、国立病院の医師も含めた組織を新たに創設すべきであろう。
 PCR検査の陽性数を新規感染者数として毎日その数だけ報じ国民に不安感を煽り行動自粛を求めるだけのことをテレビ局が1年半以上続けている。たしかにそういう時期も必要だが、そればかりでは、各セクションの不作為を批判すべきメディアの不作為となる。問題は民放のすべてのテレビ局が同じスタンスということだ。
  PCR検査に関して言えば、PCR検査は新型コロナの遺伝子の有無を知らべる。新型コロナの死骸であっても陽性となる。逆に陰性となっても新型コロナに感染してないとは言い切れない。それはMRIでがん細胞が確認できなくてもがん細胞がないとは断定できない(がん細胞が5mm?未満だと認識されない)のと同じだ。
  1テレビ局ぐらい、PCR検査の本質を説明し、とくに医療がひっ迫している折には(特段の必要性がなければ)芸能人が周りに迷惑をかけないよう、サラリーマンが家族に移さないようにと「自覚症状がないのにPCR検査を受けるのは、本当に療養を必要な人の妨げとなる。保健所職員・医師にも迷惑をかける結果に。一時的に自粛しては」と呼びかけてもいい。

 感染が蔓延すればするほど自然治癒した陽性者も増えるハズで、それは新規感染者にカウントせず、発熱とか体調不良により病院でPCR検査を受けて陽性になった人だけを新規感染者として人数を公表する。そんなテレビ局があってもいい。
  テレビ離れ、それに伴いテレビCMが必ずしも企業広告の主流ではなくなってきた現在、テレビ局は、予算難で、クイズ番組でお茶を濁している。情報番組も解説陣に予算を割り当てできないように見える。
  地方銀行の再編が噂されているが、テレビ局の再編の方が必要ではないか。民放在京キー局において、テレビ朝日とTBSは合併し左派系のテレビ局とし、日本テレビとフジテレビは右派系として合併させてはどうか。日本のキー局は、NHK、右派系、左派系、テレビ東京の4局でよいのではないか。

 2021.10 NO.159 ーリン VS ーリン

  来年高校の新学習指導要領に基づいた教育が正式に施行される。高校の家庭科で「投資」の授業が始まるとメディアでも喧伝されている。もっと国民にとって重大な問題がその陰に隠れてしまっている。私がその問題に気づいたのは、恥ずかしながら、本ブログ昨年8月臨時号NO.137 (「しきけんVSしききん」)で次のように書いた時が初めてである。

 「日本の道徳教育に対して、日本、フィンランド両国の教育に通暁する岩竹美加子女史は『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書)で次のように批判している。2018年から新しくなった高校の「学習指導要領」での道徳は郷土愛、愛国は小中学校と同じだが、「現代社会」が廃止され、「基本的人権の保障」と「国民主権」が削除されていると言う。」「P78では『・・全体主義な国では国民は国家のイデオロギーに従順であるように育てられる。そうした国では、批判的な国民は社会的危険、国家制度を揺るがす存在と見なされるので、自分で考える能力を発達させる価値は認められない』と述べる。いかにも全体主義であった戦前への回帰を時の政権は目指しているのではないかと言わんばかりだ。」
 学習指導要領の改訂は第二次安倍政権下の2014年から進められてきた。私自身は2015年10月号No.52(「もうじゅうVS そうじゅう」)で次のように批判しただけであった。
 「東京五輪で揺れる文科省は、俗にいう三流官庁だとしても、我々より数段賢い官僚たちがなぜかくも首をかしげる政策を打ち出していくのか。藤原(正彦)先生は、前々から低年齢層からの英語教育に反対している。さらに、週刊誌の連載等において、文科省による大学入試の変更に疑問を呈するとともに、国立大学に対する人文系、社会科学系、教員養成系の規模縮小や統廃合する方針を財界のビジネス一辺倒の提言に屈従していると批判し、返す刀で、そんな文科省に大学側が卑屈していると嘆く。まさに正論だ。」
 とくに、小学生低学年での英語教育については、私も反対である。英語は個人の自由意志に任せればよい。子供本人が英語を覚えたい。親が子供を外交官にしたいと願い本人もそれを望むなら、そうすればよいだけのこと。それよりも大事なのは日本語を深め自分の頭で考えること。亡くなった台湾の李登輝元総統は22歳まで日本人であったが、台湾人に戻っても考えるのは日本語だったという。我が高校の先輩で世界的大作家の村上春樹氏も遊牧民のような海外生活を送るも日本人の思考システムは日本語と言う。考えるのには奥深い日本語が適している。ノーベル賞学者も多く輩出できている。
 高校の学習要領改訂が決まったのは、2018年3月30日。その1年前には森友学園の籠池氏が国会に証人喚問された時であり、国会がモリ・カケ問題で大揺れしていた頃である。その裏で粛々と学習指導要領改訂が進んでいたということだ。私自身もモリ・カケ問題に固執して、国民にとってより問題なことに目を背けていた。後悔はしても反省はしない主義の私でも、深く反省してしまう。
 遅まきながら、YAHOO!で「新高校学習指導要領の問題点」と検索すれば、NHKの「アーカイブス」における大学教授の問題提起が一番上に出てくる。ほかにはほとんど教育関係の人の問題指摘だけだ。野党も政治家。メディアも第4の権力と言われる。政府、官僚と同じく皆「国民を権力に従順な愚民のままにしておきたい」ということで思惑が一致しているということか。
 無用の長物かと議論となった日本学術会議は、「現代社会」に替えて「公共」が新設されたことに関して2017年2月3日付けにて『高等学校新設科目「公共」にむけて ―政治学からの提言―』で問題提起・提言し、その機能を果たしている。
 「公共」の新設は国民に国民主権と基本的人権とを忘れさせ、自身の頭で考えることを妨げ、「国民は国家に奉仕するためにある」と教えたいのかと私は怪しむ。

 「公共」への自覚が必要なのは、国民ではなく、自身や友人に利する政策を採りがちな権力者の方だ。『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社文庫)の著者山岡淳一郎氏も、私権をむさぼって肥大化する政治勢力に対抗した後藤新平(以下「新平」)の人生を見て、「公共の思想とは、権力者が民を縛る方便ではなく、人々が為政者に求める信義の要」と書いている。
  私は自民党の一部とその周辺の者たち(併せて「右派勢力」と呼ぶ)が全体主義の復活を期しているように思える。そうだとすれば、その目的は一体何なのであろうか。
 薩長による明治政府は、二度のアヘン戦争に敗し後に自国の地ながら「犬と中国人は入るべからず」と蔑まれていく中国のように欧米列強の植民地されることを危惧して富国強兵を急ぐことを目的として全体主義国家をつくった。

 軍部主導の昭和政府は、看板に偽りがあるとはいえ、「八紘一宇」「五族協和」を目標として掲げ、そのための全国民総動員体制構築を目的とした。
  安倍政権、それを受け継ぐ菅政権の平成・令和政府の目的は何か。全体主義国家の強大国中国とその中国に本気で怒りを顕わにする民主主義の盟主国米国との激しい対立の中で、米国への従属から真の独立を目指すためか。そうは見えない。60年安保の岸政権の頃より米国への従属は強まっている。完全に牙を抜かれ日本に核兵器を持たせても構わない?と米国に見くびられるぐらいだから。日本が全体主義を再構築し、北朝鮮、韓国?と並んで中国への朝貢国を目指すことはあるのか。それもありえないか。親中派と米国からロックオンされていよう“影の総理”二階幹事長もそんなことは考えていないだろう。結局のところ「目的」が何かよく分からない。本来「手段」であるべき「全体主義」そのものが「目的」ということか。
 20世紀に興した社会主義の全体主義国家は、ソ連、東ドイツ等20世紀の内にほとんどが内部から崩壊した。戦前全体主義国家として三国同盟を結んだイタリアは独裁者ムッソリーニをパルチザンが殺害し広場で逆さ吊りされた独裁者を民衆が蹂躙し全体主義が終わりを告げた。ドイツはヒトラーが愛人とともに自裁して終焉した。

 日本は、戦争に負けて、GHQから全体主義を止めさせられた。新憲法と民主主義を押し付けられた。そう考える日本人は全体主義ついての検証あるいは反省がないのだろう。
 我々庶民にとっては、第二次世界大戦に敗北したことは、不幸であり、悲惨なことではあった。が、唯一メリットは民主主義に転換されたことである。もし日本が戦争に勝っていたなら、軍部はさらに増長し、隣組に市民の相互監視をさせ、少しでも軍部や政府に対する批判的な言動をとる者は、特高警察や憲兵にしょっ引かれてしまう。今の北朝鮮社会と変わらない、息苦しい社会になっていることだろう。経済的水準の違いはあろうとも。
 裏を返せは、戦後の民主主義は庶民にとってGHQから与えられただけで庶民が勝ち取ったものではない。それだけにもろい(日本国憲法第12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と謳う)。

 民主主義の現在の問題点は、若者の個人主義が行き過ぎということではなく、若者の政治への無関心、政権への批判的精神の欠如と言えまいか。
  全体主義国家に回帰する?安倍政権以降の政権体制を(適切とは言えないが)現代の典型的な全体主義国家の北朝鮮体制に擬えると、金日成国家主席にあたるのが、安倍前首相。金正日総書記は、(公然と首相を批判する元旧自治官僚平嶋彰英氏から東條英機を彷彿すると言われる) 菅首相。その後の次男の正恩氏(現総書記)は、さしずめ河野大臣(党内で徳望もなく?、頼みの菅首相との間にはワクチン停滞で隙間風も)となるか。霞が関でソ連の独裁者スターリンになぞらえスガーリンと皮肉られる菅首相と河野大臣はよく似ている。ともに「経済」は弱いと周りから見られているが、本来「目的」である「経済政策等を展開し国民の利益を増大させること」は共に「手段」に過ぎず、「目的」は、菅首相が「独裁者になる」ことであり、河野大臣は「総理になる」(過去の言動からして、総理になるまでは必至に働くが、トップになってしまえばヒトラーのような傲慢かつ怠慢な独裁者になるかも)ことではないだろうか。

 全体主義の拠り所となる「主体思想」の理論的支柱黄長燁氏にあたるのは杉田官房副長官というところか。
 
 「右派勢力」にとっては、「国家感」が、「教養」が、あろうとなかろうと、どうでもよい。「政策に反対する者は異動させる」と官僚たちに独裁を宣言し、日本学術会議の任命の際「賢らに盾突く学者が独裁者は嫌い」と国民に先入観を植え付け、メディアに対しては「パンケーキを食べずんば官邸記者にあらず!」と踏み絵を踏ませる菅首相が、個人的な性(さが)により、ロシアのプーチン大統領のように「権威主義」(全体主義と民主主義の中間に位置すると見る)による独裁者を目指していてもかまわない。菅首相の言う「私はつくる方、壊すのは河野」が民主主義を壊し、(デジタル化の推進が監視・統制を目的とした中国型デジタル社会を目指しているかは今のところ不明だが)全体主義の再構築につながるならそれでよいのだろう(新型コロナ禍における先々月の西村大臣の「金融機関からの働き掛け、酒類販売業者への取引停止要請」発言、ネットでは棄民政策との反発の声が上がった先月の政府方針「中等症コロナ患者まで自宅療養させる」は、直ぐに撤回されたが、まさにファシズム的発想であり、菅政権ならではと言えよう)。 
 ただ、長男接待問題も起こり、前号で触れたごとく新型コロナ対応で馬脚をも現した独裁者は国民の支持を急速に失いつつある。東京五輪は評価されるも必ずしも政権浮揚に繋がらなかった。横浜市長選における支援した盟友も惨敗した。岸田文雄前政調会長との実質一騎打ち(前言を翻した?石破茂議員が立つことがあるなら菅首相が利するだけ。ブレた石破氏は政治生命が絶たれるのでは)の9/29総裁選に勝ち、現総理・総裁として衆議院解散・総選挙を菅首相が打つことが可能なのか。可能だとしても、怒り心頭の飲食店を初め苦杯を嘗めさせられた選挙民からのしっぺ返しから自民党の惨敗はあっても大勝はない。議席を減らす前提での低い勝敗ライン(単独過半数→与党での過半数)の結果次第では首相退陣もありうる。

 だからと言って、新首相が誕生すれば、民主主義が守られ、全体主義へのリスクが無くなると思うのは早計過ぎる。新型コロナ禍が長引き国の自粛要請に従うことに国民が慣れてしまえば、全体主義への下地となる。『「暮しのファシズム」 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』(筑摩eブックス)の著者大塚英志氏は、戦前近衛首相が主導した大政翼賛会の「新生活体制」と新型コロナ禍の「新生活様式」が似ている。とくに女性を主体として自発的に日々の暮らしを全体主義体制に馴染ませていくことになるかと警鐘を鳴らしている。
  21世紀においても全体主義国家としてしぶとく存続する中国や北朝鮮の農民や人民を哀れに思う人々よ、いつの間にか同じ堪え忍ぶ境遇になりそれでも日本国万歳!と叫んでいる日が来るかもしれんぞよ。

2021.9 NO.158  ょうちょう VS ょうちょう(2)
 それにしても東京五輪を開催するまで、ゴタゴタ続きであった。時系列で振り返ると、2011年7月家族思いの石原慎太郎都知事が2020年大会の再立候補を表明した(なぜ東京なのか。震災復興後の仙台・福島か沖縄ですべきと当時そう思った)。2012年10月石原氏が国政に復帰し、副知事だった猪瀬直樹氏が知事として後を引き継ぐ。しかし、2013年9月東京五輪・パラリンピックの開催地として東京が選出された直後の2013年11月に猪瀬知事に徳洲会からの50百万円資金提供疑惑問題が浮上し、猪瀬氏は辞任に追い込まれた。2014年1月に森喜朗氏が東京五輪組織委会長に就任以降森会長と安倍首相が主導権を握る(2016年8月リオ閉会式における五輪旗引継ぎ式は次回開催都市の小池東京都知事の晴れ舞台であるが、森会長の発案による“安倍マリオ”で水を差された。一昨日の閉会式ではマクロン仏大統領が東京に乗り込むことはなかった)。
 2015年7月新国立競技場の国際コンペに採用された故ザハ・ハディッドのデザインが撤回された。2015年9月コンペで採用の公式ロゴが盗作疑惑浮上で変更された。
 2018年12月仏捜査当局は東京五輪招致をめぐる贈収賄容疑でJOC竹田恒和会長を容疑者とする捜査を開始する(日産ゴーン会長逮捕の報復なのか。その後どうなったのか)と報道された。
 2019年11月IOCの強権発動により東京五輪なのにマラソン・競歩コースが札幌に変更された。

 新型コロナで2020東京五輪の1年延期が決まり、2020年6月新型コロナの中小企業等向け緊急経済対策としての持続化給付金制度において電通等を主体とするサービスデザイン推進協議会に769億円で委託され、そこから電通に749億円で再委託され、業務費が膨らんでいることと経産省と電通の関係とが問題視された。
 五輪関係者の辞任、降板も相次ぎ開会式前日まで混乱する。開会式の実質の責任者が映画監督山崎貴氏→狂言師野村萬斎氏→振付演出家MIKIKO氏→電通出身のCMクリエイター佐々木宏氏とコロコロ変わる。文春によれば森会長の介入?とするがその森会長も女性蔑視発言で今年2月に辞任。最終的な開会式の責任者となった佐々木氏も女性タレントの容姿を侮辱する企画を提案したことが発覚し3月に辞任する。音楽制作チームのメンバーだった小山田圭吾氏も過去の障害者等へのいじめ問題で開会式4日前に辞任。同じく開会式・閉会式のショーディレクターだった小林賢太郎氏がお笑いコンビ時代に「ユダヤ人虐殺」をネタにしていたことが発覚し、なんと開会式前日に解任される。
 滑り込みギリギリセーフのような五輪開会式のテーマは「United by Emotion」(感動で、私たちは一つになる)で、震災復興はどこへ行った。フクシマの人々は「五輪の出しに使われた」と憤慨していよう。
 私が中学2年生であった1964東京五輪には「敗戦からの復興を世界にアピールし、今後の飛翔を誓う」との大義があった。2020東京五輪には、そんな日本人の心を一つにするものがない。「利権争い」「電通丸投げ」とのキーワードしか思い浮かばない。
 前回の東京五輪から57年経ち、高度成長から成熟社会に移行し、経済は沈滞している。その中で米国の属国であることに安住し、日本人は劣化した。市民も経営者も自分のことしか考えない。
 その縮図である国会議員も、強大国米中対立の狭間で人口半減の小国となる日本の生きる道を導いてくれる首相(候補)を盛り立て支えるという志と気概のある議員はいるのか。国家感、教養がない首相でも自分にとって都合がよければそれでよいとする議員が多すぎないか。
 国の形も崩れている。政治家と官僚の関係もそうだが、「権力」と「権威」の関係も阿吽の呼吸とは言い難い。
 古今東西、独裁者を目指す権力者は「権威」を目の上のナントカとして排除したがる。社会主義国の独裁者は宗教・神も否定する。
 五輪開会式の折天皇陛下が立たれて開会宣言を発せられた時座って拝聴していた菅首相がまずいと思ったか途中で立ち上がったことが、却って世界から注目を浴び憶測を呼んだ。
 一方、女性セブン2021年8月12日号は「宮内庁が官邸に不信感 天皇陛下の五輪開会式リモート参加の可能性あった」と報じた。
 その1か月前の7/8宮内庁長官から「拝察」発言があった。我ら庶民からすると唐突に。
 上皇陛下が安倍政権下の天皇時代に「平成の人間宣言」を発せられた。象徴天皇としてのギリギリのご発言と思うが、一部には象徴天皇の枠組みを超え、象徴天皇として初めて即位された天皇陛下が美智子皇后陛下と二人三脚で「象徴天皇のあるべき姿」として長年かけて築いてきたものを無にされたと見る厳しい見方もある。
 今上天皇は「象徴天皇のあるべき姿」の再構築を図るお立場にあり、それを補佐すべき宮内庁長官からの今般の「拝察」発言。長官から進退伺いが出されたとの報道もないことからも、国民が「天皇陛下が我々を心配してくださってる」と感謝の念を持つなら、それは正しい見方・態度ではない。
 政権を批判できるのは、主権者たる国民。その権利と義務を国民が行使しようとせず、天皇陛下が「やむにやまれず、見るに見かねて」と受け止め、我々国民は真摯に反省し、天皇陛下に謝罪しなければならないのだ。

 

2021.9 NO.158  ょうちょう VS ょうちょう(1)
  東京五輪が閉幕した。開幕前日までのゴタゴタにより興味が半減していたが、アスリートたちの奮闘ぶりを見て、「開催して本当によかった」と実感した。
  プロゴルフのメジャーチャンピオン松山英樹選手は新型コロナに罹患して体調が万全でない中日本代表として参加した(メダルに届かなかったが日の丸を背負って奮闘してくれた)。同じく日系4世のコリン・モリカワ選手は「五輪はスポーツにとって最高峰の場、ゆかりのある日本で金メダルを獲得することは、大きな目標だった」と想いを口にしていた。新種目スケートボード(ストリート)に金メダリスト堀米雄斗選手し自身の栄誉だけではなく日本でも練習場が整備されボーダーへ見方が変わり米国ような人気スポーツにしたいとの想いから金メダルを目指したという。「テニス選手にとってポイントも賞金もない五輪は価値が低い」という意見がある中で、錦織圭選手は「自分のためだけではない。五輪だから」と疲労覚悟の単複に出場した。
  ゴルフ、テニス、野球、バスケット等高額な報酬が得られる人気スポーツでないなら、なおさら五輪はアスリートとって人生を賭けた大舞台となる。女子ソフトボールで優勝した日本チームと死闘を演じた米チームの選手の中には13年振りに開催されると知り引退から復帰した選手もいた。柔道女子57キロ級で優勝したノラ・ジャコバ選手は10年以上の競技生活の中で挫折もあつたが、内戦で傷ついた小国コソボを世に知ってもらいたいと五輪に臨んだ。
  2020年4月号NO.130(「にとVSにとう」)で、「2019年10月世界陸上でオランダのシファン・ハッサン女子選手が、前代未聞となる、体力的にきつい中距離1,500mと精神的に難しい長距離10,000mとの両方を制した。東京五輪でこの二冠を達成すれば2018年の平昌五輪でスノーボード女子パラレル大回転とアルペンスキー女子スーパー大回転の2種目同時金メダルエステル・レデツカ選手の二刀流に匹敵する偉業となる」と書いた。そのハッサン選手が8/2の1,500m予選にて残り1周最後方で転倒したが、11人ごぼう抜きし1着となった。その夜5,000mの決勝(優勝)があるのに。普通は諦めるのに、五輪での二刀流の偉業達成の為なのか。ハッサン選手は野球界の大谷翔平選手とも並び称せられると思ったが、さすがに転倒後のスパートの疲れが残っていたのか足が重く1,500mの決勝で3着に敗れた(凱旋門賞でいつも後ろから行くのに前に押し出され結局3着に終わったディープインパクトを思い出した)。ニ刀流は実現しなかった(10,000mは優勝。長距離トラック二冠は達成)。

 卓球や柔道で3位決定戦に勝ち銅メダルを得たのにうれし涙ではなく(優勝戦で負けたことの)悔し涙を流すのは五輪しかないのではないか。柔道女子70キロ級で金メダルに輝いた新井千鶴選手と準決勝で16分超の死闘を演じた対戦相手の女子選手が締め落とされた。女子で死んでもタップしないとの覚悟は五輪ならではではないか。

  アスリート達の、死にもの狂いで闘う姿を見て、各々の五輪に賭ける想いを知って、五輪はIOCや主催国及び都市の権力者の為にあるのではなく、アスリートの為にあると当然のことを再認識した。
 そんなアスリート達のことを一顧だにせず、五輪中止を訴えた、感染症学者、野党議員、メディアらを見て、数年前港区南青山にて児童相談所等の複合施設建設を巡り「南青山のブランドイメージにふさわしくない」「地価が下がる」などと反対した一部住民のことを思い出した。
 五輪選手は旅行者とは違う。5年にも亘り血が滲む練習に励み、ストイックな生活を続けた努力が感染すれば一瞬にして水の泡となる。誰よりもアスリートたちが新型コロナを恐れ、警戒しているというのに。不幸にも新型コロナウイルス検査で陽性反応を示し、五輪を欠場したアンバー・ヒル選手(女子クレー射撃女子スキート種目の世界ランキング1位)は、「心はズタズタに切り裂かれた。いまこの痛みをあえて描写するなら、こんな言葉になります。5年間ずっと五輪のために練習と準備を積んできたのに、昨晩、Covid-19陽性とされて、ただ打ちひしがれています。」との悲痛な想いを吐露したという。
  日本で新型コロナ禍が収まっていないと知りながら世界各国が次々とキャンセルするのではなく200以上の国々が五輪参加してくれる。菅首相が五輪に固執するのは首相個人の利害・保身と見るのは一面的な見方だ。東京五輪はIOCに押し付けられた訳ではない。安倍首相が「フクシマはアンダーコントロール」と強弁し、関係者による積極的なロビー活動やプレゼンを展開し、他の候補都市と争って勝ち得たものだ。しかも、日本政府は新型コロナによる「中止」とせず、「1年延期」を選択した。
  菅首相は、五輪開催の直前「やめることは一番簡単なこと、楽なことだ。挑戦するのが政府の役割だ」と雑誌インタビューに答えた(アスリートか?とツッコミをいれたくなる首相発言に反発を感じた人も多かったのではなかったか)。
  そうではなく、「日本が1年延期を決断し、200以上の国々が“おもてなしの国”日本を信頼して選手を送り出してくれる。その信頼を日本が裏切ることはできない。長年築き上げてきた日本の信頼を一瞬のうちに失うことはできない」(噂されるパラリンピックの中止はしてはいけない。それなら五輪と両方中止した方がよほどまし)と強調した上で、有効な新型コロナ対策がとれてこなかったことを真摯に謝罪し、デルタ株による感染急拡大と東京五輪開催とは関係がないことの理解を求め、国民に協力と一層の自粛を求める。拙劣でもいい。切々と国民に訴えかけることが必要なのだ。国難に際し日本人の心を一つにすべき時に、木で鼻をくくる、恫喝するような物言いしかできないようなトップは首相には向いていない。
  国民が現政権に批判の目を向けるべきなのは、五輪強行自体ではなく、延期した責任あるこの1年で、有効な感染拡大防止策が打てず、ワクチン接種も遅延していることであろう。
  

 デルタ株の感染力は強く、重症化のスピードも早いと言われるが、乳幼児、若者が重篤化しにくいのは従来株とほとんど同じでは。人間という宿主の細胞の中でしか生きられないが、人間が拒否するから新型コロナが手を替え品を替え変異しているだけ。人間を攻撃する意図はないしそんな考える器官もない。風邪と一緒とは決して言わないが、人類存続における脅威となる深刻なウイルスとは思えない。憂慮すべき問題は、感染者数>医療キャパの事態。
  今必要なのは、耳にタコができた国民に行動自粛を訴える(もう恐ろしいとは思わないから老若男女家に閉じ籠らないのだろう。だからと言って、今さらロックダウンはウイルスより飲食店等の息の根を止めるのでは)ことよりも、民間開業医を含めて全病院に検査と治療をさせる体制に変えること。治療方法の確立、ワクチン接種の進捗を理由にして新型コロナの指定感染症のレベルをインフルエンザと同じ5類程度に下げるべきだ(メディアも、無症状も多く含まれる陽性者数を新規感染者数と報じ、同じ感染症学者や医師を使い不安を煽り国民に行動自粛を求めるだけの報道を続けるのはもういい加減止めたらどうだ)。

 新型コロナに奮闘する栃木の倉持仁医師は立派で菅政権を批判するのはもっともだが、それでは医師会のトップらとスタンスが同じではないか。他者に言及する前に全医師が新型コロナに立ち向かうよう声を上げるべきではないのか。
  そんな中菅政権は、新型コロナ専門病院を作ろうともせず、さりとて全病院による新型コロナ医療体制を構築するわけでもなく、8/2泡を食ったごとく突然命の選別と言える「中等症コロナ患者まで自宅療養させる」と発表した。ネットでは棄民政策との反発の声が上がる(「医は仁術」と言うが、新型コロナを扱わない医師は何を思ったか)。

 与党からも批判があり、事実上撤回した感があるが、さすがに権力者に従順な日本国民も堪忍袋の緒が切れたのではないか。菅首相が新春首相として新年挨拶する可能性はかなり低くなったろう。
 

2021.8 臨時号 NO.157 テンピンルー VS テンピンルー(2)
  私は、学生時代に麻雀を覚え、大学生活の大半を麻雀に明け暮れた。その頃から賭けないで麻雀することはほとんどなかった。なぜ賭けるのか。仲間内からお金を巻き上げることが目的ではない。賭けないと、役満とか大きな役ばかり狙ったり、危ない牌を平気で捨てる。真剣勝負にならないからだ。同じ通常4人で回るゴルフも同じ。池越え2オンしないのに何発も池に入れて同伴者をしらけさす。期待に反して調子がでないと投げやりなプレーをする(当時の私のことか)、それをさせない為にニギる(賭ける)。
 50年前大学の近くに本業でない他業態が雀荘を併業し始めた。変だなと思ったが便利なのでよく利用していた。ある日突然部屋のドアが開けられ、「そのまま! そのまま!」と言ってフラッシュを炊かれた。そんなとき我々はどんな行動をとるか。思わず4人とも麻雀台の下に首を突っ込んだ。無様で恥ずかしい。他の雀荘がたれ込み国税が乗り込んできたのに遭遇したらしい。その時は我々も常習賭博で摘発されるのかと一瞬ながら不安を覚えた。
  故阿佐田哲也の小説を映画化した『麻雀放浪記』で、鹿賀丈史さん扮するバイニン・ドサ健が、麻雀の為に大竹しのぶさんが演ずる彼女まゆみの家の権利書を取り上げ、彼女を女郎屋に売り飛ばそうとした。現実の世界では、高校の某同級生が大学を卒業後ゼミの先生の家で賭け麻雀をした。

 ところが、その同級生が最初の東の2局目で親のダブル役満四暗刻九筒単騎待ちを放銃してしまった。同級生は不貞腐れてふて寝してしまい奥さんとなる彼女が代打ちした。ところが、彼が目を覚ました時彼女はすっかり負けを取り戻していたという。
  戦後まもなくの時代と違い今は反社が麻雀で堅気から金を巻き上げることはできない。なにしろ一緒に同席すること自体がご法度な世の中なのだから。
 麻雀は原則4人で囲む。パチンコは一人で遊ぶことができ、今のは勝負も速い。「常習性」「依存性」からすると、パチンコの方がより問題なのに、パチンコは合法で、賭け麻雀は違法。同じく公営団体が胴元のギャンブル(競馬、競輪、競艇)は合法で、庶民が娯楽で遊ぶ賭け麻雀は違法。さらに「ギャンブル依存症」の代名詞のような、より問題のあるカジノが合法になる時代に、賭け麻雀が違法のままというのは時代錯誤に映る。
 2016年末福岡県飯塚市の市長と副市長が平日昼に市庁舎を抜けて、賭け麻雀を繰り返していたことが判明したとき、その2人は当初「道義的責任はある」と言い、賭博罪に触れるという認識はなかった。批判が相次ぎ翌1月に入ってから辞任したが。
  昨年官邸が用意した梯子で2階に上がったら梯子を外され飛び降りた。命には別条なかったが、黒川東京高検検事長は検察官としての人生の幕を下ろした。黒川氏はエリートでずいぶん前から賭け麻雀をしていたのであろうし、周りもよく知っていたハズだ。まさか天下の検事総長になるハズが罪人同然の奈落の底に落ちるとは黒川氏も夢にも思わなかったであろう。脇が甘いと言われればそれまでだが。
  賭け麻雀を賭博罪で検挙するか否か曖昧なままにしているのは、別件逮捕として利用する為もあるのか。アンチABEの急先鋒元経産官僚古賀茂明氏やジャーナリスト青木理氏なら、仮に麻雀を好きだとしても、万が一のことを考え、決して賭け麻雀はしないだろう。
 しかし、黒川検事長が「ミイラ取りがミイラ」となった。それも賭博罪を適用しなかった(その後検察審査会で「起訴相当」となり略式起訴することにはなったが)ので、もう別件逮捕では使えないだろう。
 黒川氏の問題の本質は、検察と「権力」を監視すべきメディアがズブズブな関係にあること。賭け麻雀をことさら強調するのは問題を矮小化させるためではないか。
  男の遊びは飲む(酒)、打つ(賭博)、買う(女がらみ)が相場(ひと昔3つともやる男と3つともしない男はダメ男と烙印を押された)。たまたま黒川氏は麻雀が好きだっただけで、お酒が好きな検事なら飲み会をメディアはセットするに過ぎないのではないか。
 以上のことを勘案すれば、賭け麻雀は合法にすべき。いきなりそこまではと言うなら、点ピン(1,000点100円)ルールを作るべき。点ピン以下の賭け麻雀は免罪にするよう明文化すべきだと思う。私は某業界団体に居た頃役員と会員の有志による麻雀コンペの幹事をしていた。飲食費を含め参加費を取り賞金を設けていた。厳密にいえば、これも賭博罪の対象になる(時効の3年は過ぎているが)。麻雀コンペも一定範囲なら免罪とすべきであろう。賭けゴルフも同様に。

 10年前の2011年10月、長男が台湾女性と結婚することになり台湾で婚約式(結婚式は日本で翌年の2月に)を挙げるため台湾に赴いた。台湾側の親戚も集まっていたが、初対面であり、なにしろ言葉が通じない。双方所在なく気まずい感じすらあった。が、麻雀をすることになり、卓を囲むと、一遍に和気あいあいとなるのであった。
  台湾の麻雀は、ルールも日本より簡単で、子供から大人までトランプで遊ぶ感覚に似ている。牌も少し大きく、常に多牌している感覚に囚われた。
 私は、国境がないのは、空気と音楽と思っていたが、麻雀も国境がないと理解した。
 最近では、認知症予防に効果があると高齢者の間で認知され、賭けない、酒を飲まない、タバコを吸わない「健康麻雀」が盛んになっている。若い女性の愛好家(歴女ならぬ雀女と呼ばれるか)も増加しており、元乃木坂46アイドルからプロ雀士なった中田花奈さんは女性が出入りしやすい(雀荘とカフェの機能を併せ持つ)麻雀カフェを赤坂に開店させている。プロ世界でも女子プロが増えており、麻雀に対するイメージも変わりつつある。
 そうした中で、健全で安全な麻雀の推進を目的として2018年年末に「スポーツ麻雀議連」(「自民党 頭脳スポーツとしての健全で安全な麻雀を推進する議員連盟」)が発足した。
  だが、発起人の一人秋元司議員がIR関連汚職容疑で逮捕された。上述の同級生のごとくいきなりダブル役満を放銃したごとく出鼻をくじかれたが、本来麻雀の賭博罪からの除外等は議連が率先して取り組む課題である。さらに、麻雀を知らない昨今の子供や若者に関心を持ってもらうために、次の二点を検討されてはどうか。将棋の駒づくりで有名な天童市で毎年『人間将棋』が開催されている。8月1日は私の誕生日だが、世の中は麻雀の日。その直近の日曜日に屋内で『人間麻雀』を開催しては、新型コロナ禍が落ち着けば。一対戦者の前に立つ黒Tシャツ・黒ズボンの黒子13人が花札を何倍も大きくした牌板を胸の前に掲げる。14人目の黒子が牌板を引き、対戦者の指示で不要な牌板を持つ黒子と入れ替わるというやり方で。
 人間麻雀が極めてアナログに対して、大学生を対象には「e-麻雀 全日本大学選手権」を開催しては。箱根駅伝のように運営は学生主動で。自民党が懇意にする広告代理店ならすぐ企画してくれるのではないか。
 

2021.8 臨時号 NO.157 テンピンルー VS テンピンルー(1)
  前号の標題は「ルー VS ルール」。本号も実質同じ。二度使いをご容赦願いたい。
  昨年は暗い年だった。有名人が相次いで亡くなった。年末恒例の世相を表す一字は「密」であったが、二字なら、私は「自殺」(法律で禁止でもされない限り、美化するとまでは言わないがモザイクをかけたような「自死」は使わない)を挙げたい。その一方で、職業人生を突然幕を下ろした人もいた。それは「自滅」が似合うか。「自殺」と「自滅」の出来事について少し触れてみたい。
 昨年木村花という女子プロレスラーが亡くなったと一報を目にしたとき、ジャガー横田さんや北斗晶さんを連想し、50代のプロレスラーかと思った。名前も古風な感じがしたし。木村花子という今から80年前支那事変から太平洋戦争にかけて動乱の中国で強く生き抜いた日本女性を知っていたこともある。アラ古希の私より年輩の方は木村花子という名前にピンと来なくても、娘のテンピンルー(鄭蘋如)なら聞き覚えがあるのではないか。
 母の祖国日本が中国に侵略し反日に燃える中国人から非難されたテンピンルーは中国人として愛国心を持つだけではなく、それを行動で示す、つまり美貌のスパイとなり愛国心を示すしかなかった。その美貌のスパイとのロマンスを軸に首相近衛文麿の長男近衛文隆(細川元首相の伯父)の半生を描いたのが西木正明氏の小説『夢顔さんによろしく ―最後の貴公子・近衛文隆の生涯』(文春文庫:上下2巻)。なお、著者は文隆の手紙に書かれた「夢顔さん」とはゾルゲ事件で知られるスパイ・ゾルゲと見ているが、遺族は否定している。
 柳沢隆行氏のノンフィクション『美貌のスパイ 鄭蘋如』(光人社)はテンピンルーだけではなく、「ふたつの祖国に引き裂かれた家族の悲劇」を綴る。
  テンピンルーの母木村花子(本名「はな」。中国名は鄭華君)は中国人留学生と親の反対を押し切り結婚し、上海に渡る。日中戦争の中で5人の子の内長女、次女(テンピンルー)、長男に先立たれ、出産後亡くなった長女の子と未婚のまま長男(のちに戦死)の子を産み出奔し残した子、二人の孫を育てる。さらに苦しい立場の日本人妻たちを勇気づけ励まし続けた。
  次女の命を救うことになる日本側のスパイ行為に協力することを夫と共に毅然として拒絶し中国を裏切ることはしなかった。戦後共産党に追われ国民党と一緒に台湾に渡る。花子は80年の激動の生涯を力強く生き抜いた。
 22歳の若い木村花さんではあるが、同名のよしみで花子を知っていたらと、残念に思う。
 
  ネット上での誹謗中傷に対する規制が叫ばれている。匿名投稿者開示に係る手続きの簡素化、迅速化は進むと思うが、それ以外は「言論自由」、「表現自由」が壁となるか(花さんへ誹謗中傷した者が摘発されているが、略式起訴で科料9千円でしかない)。
  台湾デジタル大臣の天才オードリ・タン(唐鳳)氏は、「中国のように社会信用システムやインターネットを民衆の監視および制御に利用するのではなく、インターネットに政府を監督する役割を担うものであるべき」と言う。政府へ規制を求めるのは諸刃の剣でもある。
 荀子の性悪説ではないが、悪意、悪言、悪事は無くならない。無くなるならそれはもう人間の領域を超えていると私は思う。ネット上の誹謗・中傷もいじめと同じく、加害者側への働きかけよりも被害者側への対応がより重要と私は思っている。
 20年以上前私の娘が中学生の時、学校から帰ってきて「ブスと言われた」とオイオイと泣いて訴えた。私は「男の子は、本当にブスと思っていたら、無視してもそんな余計なことは言わない。むしろ気があるのじゃないか」と言って泣き止ませた。だが、娘は学校でいじめに遭っていることは親に言わなかった。卒業式の日にいじめられていた女子の母親から妻がお礼を言われた時初めて知った。いじめられていた子を庇うと一緒にいじめの対象にされた。
 娘は私達親に心配させたくなかったのか。親にとって、子を心配するのは、寝る、食べると同じで、きわめて本能的なことに過ぎないことなのに。最悪の事態には至らなかったからよかったものの、親として反省させられた。
  親に黙って勝手に死なれてしまわないためには、子を注意深く見守ると同時に「智と知識という武器を持つ大人になるまでは闘わなくていい。逃げろ。転校していい。教師も信頼できないなら学校に行かなくてもいい。大学に行く道は他にもある」と、世間体など気にしない、子をなんとしても守る親の強い意志を常日頃から子に示すことが肝要だろう。
 ネットで誹謗・中傷する獣は弱い者を狙う。弱いと思われたら大勢たかってくる。TIME誌に「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた伊藤詩織さんのように皆が強い訳ではない。スクリーンショットなどの反撃手段を勧める人がいるが、反撃する気持ちがある者は自殺などしないのでは。そうでない芸能人ならプライベートも事務所が守るしかないか。
 昨年8月“こじるり”が愛称の小島瑠璃子さんが人気漫画家との交際(今月初め破局報道)に対してネット上で批判的意見から逸脱する誹謗・中傷を受けた時、事務所が、事務所の先輩「さまぁ~ず」の三村マサカズさんが、「何としても守る」と表明した。小島さんは勇気づけられ、心無いネット民への抑止にもなったろう。
 三浦春馬さん、元KARAのク・ハラさんも、木村花さんとは事情が同じとは言えないが、皆一人で亡くなっている。子供でないので難しいが、独りにさせないことも大事なのだろう。そうは言っても、竹内結子さんは家族と一緒に居ながら亡くなった。遺書を残し覚悟の上なら予兆は感じるかもしれないが、衝動的ならどうしようもない。竹内さんは前から死にたいとの願望はあったのかもしれないが、死ぬ気はなかったと思う。深酒が理性を麻痺させ悪魔の囁きに竹内さんが呼応してしまったのか。
 「死にたい! 死にたい!」と口にする人、相談窓口に電話する人などSOSを発信する人は死なないのでは。自殺する人は黙って逝ってしまう。心の闇を論じるのは、人情の機微に疎く、デリカシーもない私には荷が重い。木村花さんが木村花子を知っていたらという話で終えればよかった。
 

2021.8 NO.156 ルー VS ルー
 新型コロナ禍での東京五輪の開催が秒読み段階となった折、西村宮内庁長官から「五輪開催がコロナ感染拡大につながらないか、天皇陛下が懸念していると拝察している」との発言があった。天皇の政治的発言と受け取られかねないと懸念したが、案の定海外からそんな指摘を受けた。

 象徴天皇が政治的発言をすると問題になる(それだけでなく政治利用する者が現れ、問題をより深刻化させる)ことを未然に防ぐことは、天皇陛下に使える宮内庁長官の大きな役目の一つであろう。それなのに宮内庁長官自身が天皇、ひいては天皇制を揺さぶる発言をするとは。

 五輪開催の是非は別にして、忠諫かなわず天皇陛下が直接ご発言なされてしまったのならともかく、加藤官房長官が宮内庁長官個人の意見として収めようとしたのは、至極当然である。

 28頁に亘る「小室文書」を評価したかのような発言も勘案すれば、警察官僚の元トップともあろう者が皇室と国民を引き離すかのような言動をとることに、違和感を禁じ得ない。

 

 そんな中、女子ゴルフの東京五輪出場者が決定した。日本からは畑岡奈紗選手と稲見萌寧選手が金メダルを狙う。とくに全米女子オープンで惜しくもプレーオフで敗れた畑岡選手にはここにきて復調気配であり、舞台の霞ヶ関カンツリー倶楽部は相性がよいとのことなので、大いに期待される。
  二重国籍を持つ笹生優花選手は全米女子オープンを勝つ前確実に五輪に出場できるフィリピン国籍を選択していた(五輪後日本国籍を選択するらしい)。
 2021全米女子オープン(以下「全米女子」)を史上最年少(19歳351日)で優勝し、晴れて米ツアーメンバーとなった笹生選手は、優勝直後の記者からの問いに対して「私は自分のことしか考えない選手になりたくない」と発言した。考え方はしっかり。佇まいはまるで女剣士。メディア等に囃し立てられても煽られても、自身を見失うことがないように思える。「藍ちゃんに憧れて」ゴルフを始めた笹生選手が日本を代表する女子プロ宮里藍さんの後を継いでくれることだろう。
  笹生選手は元々米ツアー志望で前回のQシリーズ(最終予選会)が不合格となったので日本でプレーしただけ。子供の頃から米ツアーで通用できるよう下半身を強化してきた。
 最難関メジャーを制したからよく見えて当たり前なのだが、飛距離と高弾道、深いラフからでもグリーンに乗せられるパワーと技術、アプローチでの引き出しの多さ、絶妙なバンカーショット&パット。メンタルのタフさ、語学堪能も含め米ツアーに必要なものをすべて19歳の若さで備えているように思える。
 笹生選手にあるものが渋野日向子選手には少ないように見える。メジャー・2019全英女子オープン(以下「全英女子」)に勝ったが、コースが、メジャーの中では6,585ydと比較的長くなく、しかも風が強く吹くリンクスコースでなく日本のコースに似ていた(今の飛距離、ボールの高さでは長い米本土メジャーの優勝はイメージしづらい。渋野選手が次にメジャーに優勝するとすれば、コースが6,523ydの仏でのメジャー・エビアン選手権ではないか。パワーヒッターではないチョン・インジ選手やキム・ヒョージュ選手等が制している。メジャー昇格前宮里藍さんも優勝している)。
  さらに、下りなのに優勝パットを強く打つ、怖いもの知らず。それで全英女子を優勝できたと言える(凱旋帰国後の2019NEC軽井沢72ゴルフトーナメントでは、最終日の最終ホールで、同じような優勝を決める下りのパットで強く打ち、返しのパットもはずし、プレーオフにも残れなかった)。
 渋野選手には、ビギナーズ・ラックだったと客観的に自分を見つめる謙虚さが必要ではないか。いや、ゴルフの怖さ、奥深さを知った今渋野選手本人も既に自覚しているのではないか。笹生選手の全米女子優勝で踏ん切りがついたのでは。聞く耳を持つようになる、そう思いたい。
 
  高額宝くじを当てた人が却って人生が狂うことがあるように、渋野選手が全英女子を初挑戦で勝った(宝くじと違いラッキーだけではなく実力も必要ではあるが)ことが、良かったかどうか。

 15歳で日本ツアーを最年少優勝したことにより、身の丈を超えた目標を設定し?タイガー・ウッズ選手を目指したのか空回りした石川遼選手の二の舞にならないか。石川選手とバラエティ番組で談笑しているだけなのか、指導を受けているのか、分からないが、“遼化”の道を辿るのを心配するファンは少なくない。
  渋野選手の影に隠れて、オフに地道に黙々と練習し、小祝さくら選手、稲見萌寧選手等若手選手が日本女子プロ賞金ランキングのトップ層を形成する。メジャー勝利がなければ渋野選手がその上に鎮座していたのかもしれない。
  渋野選手は、メジャーを勝つ1年前は2度目の挑戦でプロテストに合格したばかり。メジャー優勝後日本が好き、準備もまだと米ツアーへの権利も放棄した。東京五輪も出場したいと言っていたハズだ。にもかかわらず、メディアに煽られ、畑岡奈紗選手が優勝した2019日本女子オープンに出場した親日ユ・ソヨン選手には「米ツアーにいつ来るの?」と声をかけられ、台湾での米ツアートーナメントで親日台湾人に熱烈歓迎を受けると、半年も経たないうちに、「米ツアーに行きたい」との報道が流れ始めた。そして、「東京五輪よりも米ツアー」と公言するようになり、ディフェンディングチャンピオンとして出場すべき今年の公式戦「ワールドレディスチャンピオンシップサロンパスカップ」を欠場し、メジャーでもないタイでの米ツアーに参戦した。
  その折、渋野選手に100万円の罰金を課したことにファンは「時代錯誤」とか協会を批判した。罰と聞くとマイナスイメージを持つが、OB2打罰のルールは、そのままプレーすると何打たたくか分からなくなるのを防ぐ救済措置でもあるのだ。同じように、日本女子ツアーは米女子ツアーの二軍ツアーではなく、また、大会スポンサーの手前、協会から「そんなに米ツアーが良いなら、日本ツアーを退会してから、行け!」と死刑宣告を言い渡されてもおかしくないところをスポンサー収入も得ている渋野選手にとって痛くも痒くもない程度の罰金で済ませてもらっている。温情措置なのだ。大会スポンサーがあってこそ毎年ツアー開催の維持ができ、優勝者は高額な賞金が貰える。日本ツアーのプロとしての渋野選手の大会スポンサーに対する感謝の念は如何に。
  同じく、(森元首相の女性蔑視発言の折一国の元首相に対して「無知」とツイートしたとき勇み足をしないか不安を覚えた) テニスの大坂なおみ選手の、思いのほか他の選手の賛同が得られず、後出しの鬱告白で後味の悪い矛の収め方となった全仏オープンテニスにおける記者会見拒否問題も、莫大なスポンサー収入を得て、それは4大大会の優勝があればこそというプロの本質を見失っている面もあるのでは(セレブの仲間入りを果たしても差別問題の先頭に立つ彼女を讃美してきた私としては手のひらを返し過ぎか)。
  さらに、渋野選手は、スイングの改造に対して、レジェンドの、樋口久子さん、岡本綾子さんが、メジャーチャンピオンに遠慮しながら疑問を呈しているのを知りながら「誰が何と言おうと関係ない」と発言したとの報道がなされる。全米女子の前でも「みんな解説したがりだな、他人のことをねえ」とNumber Webに載る(こんな発言をやめさせる者は周りにいないのか)。
  まだ人生経験の少ない20代そこそこのいわゆる“ひょっこ”と言えども、プロテニスプレーヤ―もプロゴルファーも個人事業主だから、チームもスポンサーも女王様扱いなのか。所属ジムの会長、トレーナー(実父)がいるプロボクシングの井上尚弥選手は日本が世界に誇るチャンピオンとしての発言を心得ている。単に本人が賢いだけではなかろう(ベーブ・ルースの再来と囃されるMLB・エンゼルスの大谷翔平選手も、驕らず、謙虚そのもの)。
  渋野選手が、日本の代表、特別な存在という自覚がなく、「重荷」を背負わず、自由に生きる。それは本人の勝手。だが、それなら私も特別視しない。
  これまで4度本ブログで渋野選手のことに触れてきた(2019年12月臨時号NO.125「ひさこVSひなこ」、2020年8月号NO.136「ナナコVSヒナコ」では好意的に、2021年1月号NO.144「かんさいべんVSかんさいけん」、2021年3月臨時号NO.149「さそうVSなそう」ではやや否定的に)。

 日本の代表、日本女子ツアーの宝だと思えばこそ、私は、応援もするし、心配もした。親戚の爺ちゃんでもないので、言動の変化が見られないならもう本ブログで取り上げないと思っていた。しかし、笹生選手のメジャー制覇で事態は変わった。思うに任せないやるせなさから片意地を張っていた?渋野選手も変わるだろう。元の皆から愛される選手に戻るのでは。
  

  米女子ツアーは、多くのメジャーチャンピオンを擁する韓国勢の天下だったが、メジャー2勝・元世界ランク1位のアリヤ・ジュタヌガーン選手、メジャーの2021ANAインスピレーション(6,763yd)を制したパティ・タバタナキット選手、アマ時代笹生選手に勝るとも劣らない実績をもつ18歳のアッタヤ・ティティクル選手(渋野選手が出場した地元タイでの米ツアートーナメントで最終番に逆転負けし米ツアーメンバー入りを逃す)等パワーヒッターのタイ勢が台頭してきた。本家の米国勢では先週のメジャー・全米女子プロに優勝し世界ランク1位となったネリ―・コルダ選手と姉のジェシカ選手、レキシ―・トンプソン選手等長身の飛ばし屋がいる。笹生選手もいるとなると、米男子ツアー同様パワーヒッターでないと太刀打ちできない時代に米女子ツアーも突入していくのでは。

 黄金世代、プラチナ世代等とマスコミに持ち上げられる若手の中には、笹生選手や畑岡選手を見て私も米ツアーと言う女子プロが増えてこようが、勉強すれば皆東大に入れるわけでないように、皆が笹生選手や畑岡選手になれる訳でもない。
  日本ツアーで1勝あげたら、すぐに米ツアーに挑戦し、また直ぐに戻ってきた河本結選手に対しては、日本の代表と思っていなかったし、ファンでもなかったので、わざわざ名を挙げてコメントすることはしなかった。ただ、私も転職の時そうだったが、「強い憧れ」が不安や難点を隠してしまうということを改めて感じた。

  日本の若手女子プロは、(新型コロナ禍が収まれば)大いにメジャーに挑戦すればよい。が、米ツアーへの転戦は慎重さがあってよい。米ツアーに挑戦した先輩女子プロ達にもっと敬意を払い参考にしてはと思う。日本で活躍していたこの先輩達が下記の通りなぜ米ツアーでは勝てなかったのか。先輩たちと自身との彼我の差は如何にと見つめてもらいたい。
  上田桃子選手は2005年にプロテスト合格。2007年5勝あげ、史上最年少賞金女王となる。日米共同開催ミズノクラッシックでの優勝で米ツアーの権利を取得。翌年米ツアーを主戦場とするが、もう一度日本での開催ミズノクラッシックに優勝するだけで、米ツアー(単独開催)での優勝はない。有村智恵選手も、2012年までに国内女子ツアーで通算13勝をマーク。同年米国ツアーの予選会を突破し、翌2013年から本格参戦するもメジャーはおろか1度も優勝できなかった。2016年米ツアーを撤退している。
 韓国でレジェンド朴セリ元選手に次いで尊敬されている朴仁妃選手(米ツアー20勝、メジャー7勝。リオ五輪の金メダリスト)ですら、2008年に史上最年少で全米女子を制しているのに、石の上にも3年ではないが、2010年~2012年日本ツアーでプレーした後米ツアーに本格参戦している。

 17歳の梶谷翼アマも2021オーガスタ女子アマチュアに優勝したが、日本ツアーの11月予定のプロテストを受けるという。冷静な判断だと思う。
 
  日本女子ゴルフ協会のスタンスも少し理解に苦しむ。協会自ら米ツアーの二軍ツアーと認めているのかと思ってしまう。2019年、同年以降の複数年シード獲得者について、シード開始年度を権利獲得の翌年から10年のうちで、任意で選択できるよう規則を改めた(改定前は獲得翌年から発効)。

 今回の改正は、米ツアー挑戦に対する不安を和らげ、公式戦優勝者(3年シード)等に対して米ツアーへの早期転戦を後押しするだけではないか。

 賞金シードとダブるなら、翌々年から特典シードを付与すればよい。さらに公式戦の優勝の価値を高めるには、賞金の増額が望まれる。が、それが今のご時世容易ではないにしても、今年だけで5勝の稲見選手が目指しているという永久シードの条件を現行30勝を30ポイントに変更し、公式戦優勝ポイントは倍の2点とするのはどうか。公式戦5勝、その他20勝で、あるいは、公式戦10勝、その他10勝で、30ポイントに到達。公式戦優勝へのモチベーションがさらに高まるのではないか。

 協会はメジャーへの挑戦は支持している。アジアの有望選手が日本ツアーに来てくれるよう日本ツアーの代表として日本ツアーのレベルの高さを世界に示してほしいと積極的に送り出せばよい。女子プロ自身も、自らの位置、足りないものは何かを知ればよい。
  それなら、年間ポイントレース「メルセデスランキング」と同じようにメジャーの賞金も国内獲得賞金に合算すべき(そうなら、今季賞金女王を狙うと公言した小祝選手も積極的にメジャーに挑戦するのかもしれない)。男子ツアーと違い日本公式戦とメジャーとの賞金差は4千百万円前後(最高峰の全米女子は別格で優勝賞金は1億1千万円と破格だが)。日本男子ツアーのように、松山英樹選手のごとくマスターズを優勝(優勝賞金は約2億3千万円)すれば、それだけで日本の賞金王が決まってしまうこともないだろう。
  さらに、ゴルフファンが「時代錯誤」と声を上げるべきなのは、海外の一流選手を締め出す制度変更。韓国の一流選手にもプロテストを受け合格しないとQT受けさせないとする。実質韓国の一流選手を締め出す「令和の尊王攘夷」と言うべき悪法と言っても過言ではないだろう。
 2016年度の国内賞金ランキング・ベスト10(敬称略)では、1位イボミ、2位申ジエ、4位キムハヌル、6位テレサ・ルー(台湾)、7位全美貞、8位李知姫、9位アンソンジュ。上位10名中、7名が外国選手で、その内6名が韓国の選手。

 5年後の現在(2020年~2021年6月末)の同ベスト10になると、外国選手は先々週優勝しベスト10入りした申ジエ選手(7位)のみ。新型コロナ禍の一時的な影響に過ぎないのか。他の韓国人選手や台湾のルー選手は、一時的に不調なだけか、それとも峠を迎えているのだろうか。
 この状況を、日本選手が強くなったと手放しで喜んでよいのか。若手選手は、楽に賞金女王や公式戦勝利を得、3年シードの保険証書を手に米ツアーに転戦していける。成功すればそのまま米ツアーでプレーし、失敗すれば数年後戻ってくるが、渡米前の実力がもう発揮できない。発揮するのに時間がかかる。それでは、いつまで経っても、日本ツアーがレベルアップしないのではないか。
 ゴルフファンに韓国人選手をヘイトする者がどれぐらいいるのか。それも一因で韓国の一流選手を締め出すのではあるまいな。
 日本女子プロゴルフ界の“尊王(攘夷)”とは、誰を指すのか。小林浩美会長のことになるのか。

2021.7 臨時号 NO.155  ンポ VS  ンポ(2)
 話が横道に逸れすぎたが、ジャンヌ・ダルクは「フランスを救え」と神から啓示を受け(『世界史を動かした脳の病気』の著者小長谷正明氏によれば「側頭葉てんかん」によるものらしい)、1492年イギリス軍と戦い、フランス中部の町オルレアンを開放し、今でも市民から感謝されているという。
 樺はこれからという時に亡くなった。生きていれば、今年84歳になる。その後の日本の高度成長、社会主義の自壊を見たとしても、西部のように早々と転向するとは思えない。歴史の研究者か、慈悲深く生徒から慕われる学校教師か、高校の4年先輩にあたる扇千景元参院議長のごとく国会議員(非自民系だろうが)になったのだろうか。
 社会主義革命を目指した(過激派にはならなかったと思うが)樺はクリスチャンであるハズはない。どんな神?がよき人を早く召しあげたのであろうか。

 反体制派のシンボルが樺なら、体制側の象徴は「妖怪」と称された岸信介首相。当時10歳になる直前の私にはもちろん樺は知らないし安保の意味も知る由もない。ただ、岸首相が本当に妖怪に見えたことを覚えている。それから成長し20代の頃には、国のトップとしてあるべき姿を示した一人だと思っていた。米国の傀儡だと批判する声もある。頭がよく複雑なので分かりにくい面があるが、敗戦した米国から真の独立を果たしたいが、現状を鑑みればやむなしと、国民全員に反対されようとも日本の将来のために安保改定を断行し、(内心はともかく)潔く官邸から去ったと私は高く評価している。今の大衆に媚びる政治家とは一線を画す岸首相は、戦後の首相の中で田中角栄首相と双璧だと思っている。
 
  70年安保が近づいてきた頃私は(大学)受験勉強に没頭していた。関心事は1969年東大入試が実施されるかということ。新年早々東大安田講堂を占拠していた全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生と排除しようとする警視庁との闘いに固唾を呑んで見守っていた。
  結局東大入試は中止となり、東大を目指した受験生が都落ちしてくると京大を目指していた私だけではなく他の同級生も志望校を変更することになってしまった。その時の私の心情は本号2013年6月号NO.24(「ゆい と ぬい」)で吐露しているので省略する。
 神戸大学に入学したが、大学紛争で半年間登校できなかった。大学に通えるようになると麻雀を覚え、学生運動には関心がなく、いわゆる典型的なノンポリであった。
 1970年11月25日陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫が割腹自決したことを聞いたのも大学から雀荘に向かう途中大学に向かう同級生から聞き及んだ。
 大学で受講を終え、雀荘に向かう時、よく大学の正門のところにゲバ棒を持ちヘルメットをかぶって立っていた同級生に対して、半分冷ややかに見、半分負い目を感じていた。
  就活時期になると、バンバンの『「いちご白書」をもう一度』の歌詞「就職が決まって髪を切ってきた時 もう若くはないさと君に言い訳したね」ではないが、髪を短く切ってネクタイも締めているその同級生を見て、負い目など感じる必要はなかったと思った。
 チャーチルは「若い頃に左翼でない者は情熱が足りない、大人になっても左翼の者は知能が足りない」と言ったという。当時インテリな学生にとって学生運動はブームだったのだ。その後官民を問わず体制側で大成した者が数多くいる。若い時に抑えきれないエネルギーを持っていることが大事なのだろう。そのあり余るエネルギーを御す為に柔道を習った山下泰裕JOC会長、ボクシングを覚えた世界チャンプの村田諒太選手も同じだろう。
 昨年映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観た。1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた作家・ 三島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会を50年後の冷めた目で観ると、日本で革命が起きるハズはなかったと思った。ほとんどが裕福な家庭で育った東大生と大作家の論戦は高度な知的水準でのゲームに過ぎない。平気で人を大量殺戮する武力による革命は、毛沢東のごとく、賤の貴に対する、強烈な怨嗟、嫉妬と野心がなくてはならない、当時の日本の知識人達にそんなものがあるとは見えない。
  当時神戸大学の経済学部は近経(近代経済学)が主流で、マルクス学者は少なかった。が、それでも置塩信雄という名の通ったマルクス学者がおり、当然講義を聴講したが、全然面白いとは思わなかった。マルクスの『資本論』(東大卒忍者タレント鈴木柚里絵さんは愛読書らしいが)にも関心もなく読みこなせる能力もないと思い購読しなかった。私自身は資本主義が終焉するのではなく、資本主義も社会主義も一つの方向へ収れんしていく「体制収れん説」を支持していた。
 その結果は、米ソ冷戦で見れば、終焉したのは社会主義体制の方であり、体制収れんも起きなかった。現在は米中対立。資本主義対国家資本主義との様相にあると言えるが、垣根が低いともいえる。覇権争いと言い換えるべきか。
  米中はよく似ている。多民族国家であり、数%の国民に富が集中し、90%以上の国民が貧困にあえぐ。違いは、覇権の目的とその手段と言えるか。米国は自由主義陣営での盟主。そのために既得権とする軍産複合体による目に見える大型軍事兵器で敵対国を破壊する。中国は中華大皇帝国の復活であり、他の国をすべて自治区ないし朝貢国する。支配した国のビルなどを居ぬきで活用したい。それにふさわしい手段と言えば、米国に追い付くことが容易でない(『中国人民解放軍の全貌 習近平 野望実現の切り札』<扶桑社BOOKS新書>によると、米国と中国の核戦力比は15対1という)、目に見える大型軍事兵器でなく、目に見えない、人だけ襲うウイルス兵器ではないか。それは話が飛躍し過ぎているのだろうか(ただ、日本は中国にとやかく言える立場にない。言えば藪蛇になる。戦前ノモンハン事件の大敗でソ連との軍事力の彼我の差を痛感した満州の関東軍は細菌兵器を開発し使用した。史実に基づくノンフィクションと呼ぶべき吉村昭作の小説『蚤と爆弾』<文春文庫>の中で描かれている。ベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した『スパイの妻』もこれを題材にしている)。
  北朝鮮、イランの核兵器への監視よりも、中国へのウイルス研究に対する監視がより重要課題なのかもしれない。武漢ウイルス(WHOは地域名をつけた呼び方を批判するが)の真相解明と責任追及を世界が協調して実施されるべきと思うのだが。 
 さらに、宇宙軍事力、AI技術、サイバー攻撃等で覇権争いを激化させる二大強国の狭間に位置する日本は、戦争に巻き込まれかねない難しい立場ではあるが、米中双方から頼られる立場を利用し米中戦争を回避させながら、私の戯言「平和大三元論」の真珠のごとき輝く白牌としてOnly Oneの立場を確立していくことが望まれる。

  香港の学生は闘争ゲームではなく、民主化を守るため本気で中国共産党と戦っている(暴徒化しているのはベトナム難民二世を主体とする武勇派だとか)。周庭さんは刑務所から出所した。沈黙を続けることになるのか。それとも“香港の樺”になるのか。どちらにしろ過酷な運命だが。
 ミャンマーも民主主義が弾圧されている。平和慣れした日本人は、それを他人事と傍観するのではなく、日本も香港やミャンマーほどドラスティックではないにしろ全体主義国家に回帰しないか民主主義に対する危機感を持つべきだろう。
  だが、今の若者は、男子も体毛を剃り、ネイルサロン行く。女子は、それを女々しいと思わず、良しとするという。
  予算難のTV局に持ち上げられその気になっている東大生もいる。一般大衆とは呼べない、他の東大生のサイレントマジョリティはどうしているのか。あり余るエネルギーがあるのか。東大生ということだけで敬意が払われる(天才モーリー・ロバートソン氏ならいざ知らず、凡才がテストが3科目程度の有名私大ならともかく急に勉強し出し東大を目指すTVドラマ等は観ない。東大生に対する冒瀆と思うから)ことに応え、学歴エリートとしての使命感は、日本の置かれた立場を憂慮し日本の将来を背負っていくとの気概は、あるのか。
  それを私が言えば、「ノンポリだったくせに。アンタごときにとやかく言われたくない」と反発するだけか。それとも、言われなくとも時期が来れば豹変するのだろうか。
 22歳の乙女のままの樺と爺の姿の西部が60年ぶりに天国で再会しているだろう。後輩の今の東大生について何を語っているのだろうか。

2021.7 臨時号 NO.155  ンポ VS ンポ(1)
  棒とヘルメットを使用して反対デモするのが安保(闘争)。棒が使えずそれ故ヘルメットも不要なのがインポ(Impotenz)。それは男を全否定するような侮蔑的意味合いがあるので、最近ではED(Erectile Dysfunction)と呼ぶのだそうだ。
 私は前立腺がんの治療で放射線治療を選択したが、前立腺が大きすぎるので、その前にホルモン療法(飲み薬と注射)を受ける必要があった。どんな変化が起きるか不安があり、2012年2月長男の結婚式まで待って翌日からホルモン療法を開始した。前立腺がんの餌である男性ホルモンを止めると癌自体が小さくなるし前立腺肥大も改善されるとのことであった。
 6か月間のホルモン療法で、ED以外にどんな変化があったかと言うと、鬚が薄くなり、胸が膨らんできた。女性の更年期障害と同じく、ホットフラッシュ(急に体が熱くなり汗が噴き出すこと)もあった。ヒステリーになるかとも思ったが、それは女性特有のものかそうはならなかった。 
 最も驚いたのは、その頃毎週毎日のように週刊誌を買っていたが、週刊ポストや週刊現代には袋とじがついている。若い頃ほど関心はないとはいえお金を出しているので、必ず鋏で開封していた。ところが、ホルモン療法を継続していた6か月間まったく開封することがなかった。私としたことが性的なことに関心が向くことが全然なかったのである。
 世の中には、止めたいと苦しんでいても、理性では男性ホルモンの暴走を止められず性犯罪を繰り返す人がいよう。ホルモン療法が有効かと思う。人権問題に関わってくるが。

 神戸高校の先輩故樺美智子については、本ブログ初号(「オスとメス」)で触れた。すぐ後にも詳しく書こうと思っていた。が、表題が表題だけに、なかなか筆をとる気にならず、本ブログ50号までをまとめて非売本にする際の50号にと思ったが、結局掲載できずに終わった。100号、150号にも載せられなかった。もう200号までもたない。いつ連載が終わってもおかしくない状況になってきたので、10年越しに今回掲載することにした。
 1950年生まれの私より13歳年上の樺は神戸っ子ではない。たまたま父親が神戸大学の教授として赴任にしたに伴い神戸に来た。それもあって東大を目指したのであろう。東大受験に失敗し一浪生活の時には東京に戻っている。私の時代でもそうであったが、女子は私立の有名進学校(灘、甲陽、六甲)に入れないので、神戸高校のトップクラスが女子でも不思議ではなかった。が、自宅からの通学も可能な京大を目指した女子が大半だったと思う。
 1960年の1月時点では少なくとも二人の美智子という女性がいた。一人は前年に皇太子(現上皇)と成婚された美智子妃(現上皇后)。もう一人は樺美智子その人である。樺は美智子妃ほど美しくないが、江刺昭子氏の『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』(河出文庫)の表紙を飾る写真では慈悲深い観音菩薩の仏像を思わせる(樺を後輩としてよく知る御茶ノ水女子大名誉教授故青木和夫は生前樺を興福寺の八部衆のどれかに似ていると言っている)。
 半年後、美智子妃は国民の安寧と世界平和に国母として天皇と共に尽力され現在に至る。が、樺は、生身の美智子は消え、“日本のジャンヌ・ダルク”との虚像として生き続けることになる。樺は1958年に東大に入りすぐに日本共産党に入党するも、離れ同年創設されたブント(共産主義者同盟)に翌年樺の二つ年下の東大生西部邁らと共に加入する。
 1960年1月15日安保改定の調印に向けた岸総理の翌日からの訪米を阻止しようと「羽田空港座り込み」事件で樺は逮捕される。拘留時の侮蔑的な身体検査は中流家庭のうら若き乙女には衝撃的なことであったハズ(母親にも親友にも一切話していないという)。
  しかし、それで挫折するどころか、学生仲間に「神がかっている」「死に急いでいる」と言われるほど安保闘争にのめりこんでいく。そして運命の6月15日を迎える。西部も、吃音で弁が立ちにくいのを知識不足と勘違いして(西部が既に知っている)共産党の歴史を教えてくれた樺に対して「私の方には彼女のただならぬ誠実さが強く印象づけられ、そのせいか、六・一五事件で死者が出たと耳にしたとき、すぐに彼女に間違いないと直感したのである」と『60年安保 西部邁』(文藝春秋)のP31でそう述懐している。
 樺の死が60年の時を経ても風化しないのは、死因について、「圧死」なのか「扼死」なのか、くすぶり続けていることも関係していよう。私も扼死説に一票を投じる。
  ただ、樺自身も死ぬこともあろうかとは思っていたかもしれない。当日の朝下着を替えたと母親が証言しているから逮捕されるのは覚悟していただろうが、殺されるとは思いもよらなかったのでは。一方政府側も、昨年の香港でのデモの際警官が至近距離から学生らに発砲したのを容認するような、そんな意志はなかっただろう。60年安保の時デモ隊はまだゲバ棒もヘルメットも装備せずスクラム組んでの肉弾戦にすきないというのだから。
  樺の死には政府も困惑したのではないか。上述の江刺氏によると、扼死説を死ぬまで唱え続けた父の俊雄は『「暴力ということについていうならば、単にデモ隊の暴力だけをとり上げるべきではない」。武装警官が「非武装の国民大衆のデモ隊にむかって行使した暴力」こそ糾弾されるべきだ』と主張した。その言葉に尽きると思う。
 膵臓を警棒でひと突きし、気絶した樺の首を絞めた警官か機動隊員かがいたとしたら、殺意があったのか、過失致死だったのか、どちらにしろ、良心の呵責に苛まれても自首することも許されず、何十年の長きに亘って十字架を背負い悶々とした日々を送ったと思いたい。今はもう鬼籍に入っているのかもしれないが。
 当の樺は「東大生」「聖少女」と謳われるのは喜んでいないだろう。ましてや、ジャンヌ・ダルクと持ち上げられるのをそれは違うと空の彼方から叫び続けているのではないか。
  地味で目立たない下働きを一人黙々とこなしていた東大の女子大学生が何かをなす前に亡くなっただけ。「東大女子大生の死」そのことが、メディア、国民の反響を呼ぶ。
  それは今も同じ。電通の東大卒の美人社員が自殺した。今まで進展しなかった時間外労働の問題で国を動かすことになった。35、36年前銀行の組合専従の時「100時間外労働制限キャンペーン」を展開したことを経験した私からすれば、100時間そこらの時間外では、電通の彼女の死の主因は、時間外労働とは思わない(元議員の豊田真由子氏は厚労官僚時代月間300時間の残業したこともあるという)。上司からのパワハラと私生活上の悩みの方が問題だと推考している。
  (現在の労働行政では過労死ラインは80時間らしいが)月間100時間は営業日数20日とすると一日5時間でしかない。17時から残業だとすると22時までにしかならない。銀行は9時から15時までだが、貸付営業の者は朝8時には出勤して、その日の準備をして営業会議に臨み9時半頃外回りに出る。夕方戻り顧客から預かった物を整理して現金、小切手を出納係に渡し、営業会議でその日の活動報告をする。その後貸付案件の稟議書を作成する。22時では終わらないのだ。組合はその実態を無視しえず、月間100時間の時間外を容認し100時間を超える店舗の支店長に改善を求めていた。
  そのような時間外労働問題で自殺する銀行員を私は知らない(浮気はご法度だが、浮気する暇もない。当時「亭主元気で留守がいい」と言う奥方にとって銀行員はピッタシの結婚相手だったのだ)。
 なんにせよ、彼女の死が時間外問題を進展させ、内外のエコノミストが指摘する「日本の生産性の低さ」を改善するにつながるなら、それに越したことはないのだが。