2022.1 NO.165 VS あ(1)
 本日12月8日をもってハワイ真珠湾の奇襲で火蓋が切られた日米開戦の80周年を迎える。敗戦後なぜあんな無謀な戦争してしまったのかと反省してきた。しかし、時が経ち、戦争を体験した人たちがほとんどいなくなる中で、狂人・フランクリン・ルーズベルト大統領が仕組んだ罠であり、仕方がなかったという見方が出てくる。モンロー主義をとる米国が英国を助け、民主主義を守る為に参戦するには日本からの先制攻撃を必要とした(そうだとしても、ルーズベルトが対日経済制裁に舵を切るのは日中戦争の契機となる1937年盧溝橋事件の後であり、真珠湾攻撃の誘因とも言える1941年8月の石油の対日全面禁輸は、1940年9月の日独伊3国同盟の後。日本がルーズベルトを参戦する方向にもって行ったともいえる)。
 そういう側面があったとして、日本がルーズベルトの思惑を事前に理解していたなら、戦争は避けられたのか。否、軍部はさらにいきり立ち、その軍部を「神国不敗神話」に酔いメディアにも煽られた国民がより焚きつけたことになっただけではないのか。
 軍人は、戦争屋、戦争するのが仕事。戦争するか、しないか。戦争を回避すると言ったら、「それでも軍人か、漢か!?」と嗤われる。陸軍においても、東條英機と対立していた石原莞爾は日米開戦に反対していたが、それは時期尚早ということで最終戦争では米国と戦争することを想定していた。関東軍は、1939年ノモンハン事件での大敗でソ連との軍事力における彼我の差を痛感するも、自制・自重するのではなく生物兵器開発に走った。行き着く所に行くまで止まらない、ブレーキの壊れた自動車と同じだ。
  皇道派の相沢三郎に斬殺された統制派の永田鉄山が生きておれば、日米戦争はなかったと言う人がいるが、永田が戦争をしないと言えば今度は統制派の手により結局同じ運命を辿ったのではと思う。時代は東條英機を欲していたのだ。
 海軍においても首相米内光政や連合艦隊司令長官山本五十六などは日米開戦に反対していた。しかし、1940年近衛文麿首相から問われた際、山本は「ぜひやれと言われれば半年や1年の間は暴れてご覧にいれるが、2年、3年となればまったく確信は持てない」と山本は答えたという。軍人だから、極力回避願いたいと言えても、絶対無理と答えられない(そんな答えを聞けば、昭和天皇とともに日米開戦に反対していたハズの近衛は優柔不断な性格から日露戦争の成功事例が頭に浮かび、彼我の軍事力に大きな差があっても短期決戦で早期講和に持ち込めると思ってしまうかも)。首相まで上り詰めた米内光政は、自身は日米開戦に反対であったが海軍の下士官まで意思統一することはしなかったと言われる。戦争回避に舵をとる米内内閣も、軍部大臣現職武官制により、陸軍に潰された。
  軍部の意向に沿わなければ大臣を引き上げ内閣を総辞職に追い込む。軍部が政治を牛耳るキッカケを作った軍部大臣現職武官制が復活するのが私の尊敬する一人広田弘毅が首相の時というは皮肉以外の何物でもない。

 敗戦後戦争屋の軍部(他国から見れば自衛隊は軍隊)の暴走、政治への関与を防ぐべくシビリアンコントロールが徹底されてきた。ところが最近になってシビリアンコントロールが崩れたと見られる“事件”が起こった。突然イージスアショアを断念すると発表された(二階幹事長が聞いていないと激怒したのは、演技ではないだろう)。河野太郎防衛大臣のスタンドプレーは目に余るが、無用の長物なら仕方がない。しかし、それなら米国が激怒するハズだが、それが報道される気配がない。別の防御手段を米国からの購入するのかと思ったら、敵基地攻撃に替える?というから驚いた。それなら米国が怒らないのも頷けるか。
 制服組の自衛隊幹部OBも驚愕していた。一体だれがそんなことを考えたのか。自衛隊の背広組と自民党の国防族議員なのか。戦争を知らない、戦争になっても自ら銃剣を持たない者たちなのか。元官房長官後藤田正晴が生きていたら絶対許さなかっただろう。生前「二度と戦争はしてはいけない」と言い続け、日本の先行きを憂慮しながら亡くなった元幹事長野中広務は空の上から歯ぎしりしていることだろう。
 岸田首相が敵基地攻撃に言及しているのは本気ではないと思いたい。軍事力、サーバー攻撃、AI面で米中に大幅に遅れをとっているのを無視しては、東條英機と変わらなくなる。
  先月の下旬BSフジのプライムニュースで暗澹たる気持ちになった。良識あると思っていた外務省OB二人から、敵基地攻撃とは何か、70年以上専守防衛しかしていない上での問題点、憲法第9条とのからみなど論じ、敵基地攻撃に対する慎重論が聴けると思ったが、そうではなかった。変節したのか? 

 補正予算で(米国から)ミサイル等を買う理由に敵基地攻撃を挙げているようにしか聞こえてこなかった。防衛するより攻撃する方が安く済む。矛ではなく盾の延長先だ。抑止力になると言う。

 仮想敵国中国が攻撃を躊躇するようになると言わんばかりだが、それでは戦前の軍部と同じで自身に都合の良い見方ではないか。日清戦争等の屈辱を晴らさずにおくものかとする中国を刺激しさらに軍拡に走らせるだけかもしれない。中国との軍拡競争に日本は勝てると思うのか。

 一方、戦争の悲惨さ、軍部上層部の愚かさ、無責任さを教えてくれた作家故半藤一利はもういない。故立花隆も鬼籍に入った。「帰納的な、実証主義的な歴史検証を行い、それによって得た教訓を次世代に伝えていく」ことを使命とする保阪正康氏(戦争の生き証人がいなくなる上、責任の所在を明らかにしない日本の悪弊により歴史的資料が散逸・消滅することを恐れている)も今月82歳になる。

 今回の衆院選で日本維新が躍進し、国防族議員を中心として憲法改正も推し進めるようとするだろう。高校の先輩故白洲次郎が日本国憲法を米国から押し付けられたと悔し涙を流したと伝えられている。
 日本は戦争に負けて連合軍の代表米国に支配されたが、奴隷扱いされず、表面上は米国の妻となった。本ブログ2015年9月号NO.51(「けんかんろんVSちんかんろん」)でこう書いた。「占領したのは米国だった。・・(略)・・パンパンと呼ばれた女性たちに盾になっていただいた面もあるが、米国でまだ助かった。占領したのがソ連や中国であれば、黄文雄氏は『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』(2011年5月発刊)を書く気が起こらなかったことだろう。」と。そう書いた時ソ連がそこまでしたとは思っていなかった。山本健氏の『ヨーロッパ冷戦史』(ちくま新書)によれば、ソ連の占領地区におけるソ連兵の女性への強姦は200万人に及ぶとも言われる。ナチスの蛮行に対するリベンジレイプという側面で済ませられるレベルではない(高山正之氏は週刊新潮で「降伏したベルリンで10万人の女を犯し2万人を孕ませた」と書く)。
 それに比べれば、日本の夫米国は紳士的ではあるが、当時の政治家は、敗戦時の人々の想いを胸に秘め、自民党の党是に憲法改正を掲げた。
 女郎に身をやつしても「身を売っても心は売らぬ」の心意気ではないが、首相吉田茂は、1950年の朝鮮戦争前後夫の米国から働きに出てもいい(再軍備)と言われたが、家事に専念し家を守る(専守防衛・軽武装)と夫の言いなりにはならなかった。岸信介は自立したいがまだその時期ではないと60年安保に舵を切った。田中角栄は自立しようとしていると夫に思われ、酷い目に遭わされた。
 夫婦の関係というものは、最初妻は、夫をご主人様扱いするが、年を追うにつれ力関係が変わっていき、夫が妻に頭が上がらなくなっていく。我々庶民だけではなく、大企業の社長でも恐妻家は珍しくないだろう。
 ところが、日本という米国の妻は、まったく逆行してしまっている。最初は強く出ていたが、田中角栄が失脚させされたあたりから、夫を恐れ、三つ指ついて、三歩下がって、ご主人さまに言われるままについて行くようになってしまったのではないか。
 「レーガンVS中曽根」のロン・ヤスと呼び合うのを手始めに、共和党の大統領とは、「ブッシュS小泉」「トランプVS安倍」、個人的な信頼関係を築くが、国同士でみれば米国から武器等米国からの要求をそのまま受け入れる朝貢国に成り下がったと言えないか。
 白洲たちが後世に託したのはそんなことではない。早く真の独立国になって、相応しい憲法を作って欲しいということだろう。自衛隊の肩身が狭いから、憲法に自衛隊を明記する、そんな「仏作って、魂入れず」のような憲法改正が自民党の党是に適う訳ないであろう。

 新型コロナ禍での改憲主張の本丸は「緊急事態条項」なのか。全体主義国家に回帰する為にと思ったが、憲法学者木村草太氏は「コロナの失政を憲法のせいにするな」と喝破していた。

  「憲法改正ありき」ではなく、米中の狭間における日本の進むべき方向を決め、その方策を国民に示したその後から、憲法を改正するのだ。

 今の自民党及び政権をすし職人に譬えれば、こうだ。自身の店を持ち屋号を復活させて欲しいとの親の遺言を胸に修行に励んでいたハズの雇われすし職人が、難しいとすっかり諦めてしまい、親方の命ずることだけして後は自分が楽しければそれでよいと自堕落に生きている。でも、親の遺志は忘れた訳ではないとのフリをしているのと同じ、と言っては言い過ぎか。

 幸い宏池会の岸田首相に代わった。すぐに清和会が作った流れを変えるのは難しいかもしれないが、変えてくれると思いたい。

  たしかに、核を持たない、持てない日本が、米国と婚姻を解消することは難しい。横田基地に居たことのあるスノーデンが日米同盟を破棄すれば日本のインフラは麻痺すると警告もしている。しかし、籍は抜かないが、妻がより自由に生きていける「卒婚」があるではないか。今の米中対立はそのチャンス到来と言えるかもしれない。
  聖徳太子(厩戸皇子)が607年遣隋使小野妹子を通じて隋の皇帝に渡した親書で「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」で隋の皇帝が激怒したと言われる。今では日の没するとの文言よりも、日本も天子と表現していることに怒りを発したと見られている。東夷の分際で対等の態度に立腹した。それでも日本に手を下すことはなかった。
  皇帝煬帝は、当時隋と高句麗(今の北朝鮮近辺) とが交戦状態にあり、日本が高句麗に与することを警戒した。聖徳太子は、身のほど知らずではなく、その情勢を読んだ上でのことだとする。それから約80年後日本は属国の証「国王」を使わず「天皇」と名乗るようになる。
 
  以前から日本の生きる道として、私はこれまで何度か戯言として「平和大三元論」を述べてきた。米国が發牌(あお)。中国は中牌(あか)。發3牌も中3牌もそれだけは一番安い1翻(イーハン:1,000点)役にしかならない。しかし、發3牌、中3牌に白牌(しろ)3牌が合わされば、役満(32,000点)となる。その白牌の役割を担うのが、今後の日本の進むべき道であり、生きる道ではないかと思っている。
 その為には、二つのスタンスで臨むべき。一つは、米中の間を仲立ちすること。「あお」と「あか」が交じって「むらさき」になれば、「しろ」の日本の存在価値はなくなる。日本は「うすむらさき」になる運命(布施明さんは「うす紫のシクラメンほど 淋しいものはない」と唄う)。

 「両雄並び立たず」で米中の覇権争いが激化していくのではなく、両雄が並存する、いわゆる新冷戦状態が続くのが望ましい。
 2016年に日本で翻訳・発刊された『中国軍を駆逐せよ! ゴースト・フリート出撃す』(上・下:二見文庫)では2026年に中国軍が真珠湾を攻撃しハワイを統治下置く。中国のサイバー攻撃でハイテク機器が使えない米軍が反撃していくフィクション。その中で、日米同盟には触れられず、日本が中立国になっているのが興味深い。中国は日本と中立条約を結んでいるのだ(P238)。
 中国としては死ぬ気で抵抗する日本(敗北したとたん従順になるが、元々憧れていた米国の場合のようにはいかない)と事を構えるより中立国にしておいた方がという作家の見立てか。  

 米国にしても日本がポチ犬なら捨てても本当の動物ではないので動物愛護団体からクレームは来ない。米国が捨てないとすると、強い日本が中国に味方すると困ると思うことだ。

 そう思われるよう日本は両大国に対して毅然たる態度と気概を見せつけることだ。そうできる政治家が日本のトップにならなければならない(トップがポチ犬だと官邸・官僚全体がポチ犬化する。ポチ犬のトップは下にもポチ犬になることを要求するから)。
 
  自衛隊出身の政治家がBS番組でクアッド(日米豪印4ヶ国戦略対話)をアジア版NATOにする構想を持ち掛けていたと記憶しているが、印大使はやんわり拒否していたと思う。核保有国同士の中印は国境付近の小競り合いはあっても核戦争には発展しない。インドは中国主導の「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」設立に参加し、中国は最大の出資国でありインドは最大の投融資先であるという関係でもある。中国に対するけん制の意味からもクアッドに参加するが、米国の為の戦争に加担するつもりはない。米中が勝手に戦争してくれれば漁夫の利を得られる。
 日本は、「敵基地攻撃に転換し、改憲もして、米国の攻撃に積極的に加担する」ことを考えてはいけない。吉田首相以来日本は半世紀以上経済重視及び専守防衛・軽武装を進めてきた。長年それしかしていない。ポエニ戦争でローマに滅ぼされたカルタゴのように経済大国で平和を謳歌してきた日本が戦争すればカルタゴの二の舞になる恐れが。戦争は量もさることながら最先端軍事技術を有する者が勝利することを歴史が教える。
  今後の日本の人口は急減していき今世紀末には半減すると言われており、先進国で低いとされる国民一人当たりの生産性が倍増でもしなければGDPが半減してしまう。小国に落ちぶれる。いまさら中国に対抗して軍事力の向上、軍事大国を目指すことは非現実的。小国でも米中から一目置かれるためには、軍事力よりも経済力・技術力なのだ。
  何しろ米国自身がクワッドに軍事的な同盟を望んでいない。軍事同盟としてはAUKUS(米英豪の安全保障の枠組み)に期待しているようだ。
  とはいえ、米政府は戦争をしたくない。米国民も厭戦気分。とくにトランプ大統領は軍事攻撃をとらなかったが、それは平和主義者を意味しない。米国の戦争代替手段は専ら金融制裁(「基軸通貨ドルと世界経済の動脈である米国の金融システムをフルに使う」と『アメリカの制裁外交』著者の杉田弘毅氏は述べる)とする。
  それでは軍産複合体が困るから、北朝鮮有事の後は台湾有事を煽り日本に武器等を買わせることになる。妻の日本に、「夫任せにせず自分でも守れ。最新鋭の薙刀を買えばよい」と。
  北朝鮮が脅威と言うのも、怪しい。核弾頭ミサイルを実践使用した国はない。完成しても今の段階では北朝鮮は自国から発射する。失敗したらどうなるか(それでSLBMの開発が必要になるが、その開発報道が10月になされたが、その真偽に関わらず日本に武器等を買わす米軍産複合体にとっては渡りに船)。それよりも10分で届く通常ミサイルで日本の稼働中の原発を狙う方が北朝鮮にとって現実的。10年以上前から可能なのに日本が枕高くして寝ていたのは、ひとえに日本が米国の妻だから。夫の家族(在日米軍)も日本の方々に居るからであろう。事が起これば、日本の被害はどの程度か不明だが、北朝鮮が地球上から消滅するのは明白だ。
  断りにくい夫・米国からのエスカレートする要求も憲法第9条が盾になってきた。それを安易に変えてはならない。ある対談本で、佐藤優氏が、軍隊には「殺す軍隊」と「救う軍隊」があると話していた。ならば、自衛隊は「救う軍隊」と言える。 (アフガニスタンでもまた世界から嗤われたが)紛争地の海外邦人を救出できるよう憲法第9条(2項)の改変は必要だが、「殺す軍隊」に替えるために憲法第9条を改変してはならない。
 

2021.12 臨時号 NO.164  ごのせかい VS ごのせかい (2)

  「記憶力」ではなく芸能人の「創作力」「創造力」のすごさを見せてくれるMBS『プレバト!!』は毎週楽しみにしている。学歴に関係なく、無から有を生み出す芸能人に感嘆する。
 プロ野球選手は皆天才。イチロー選手や大谷翔平選手は天才中の天才(以下「大天才」)。将棋棋士も皆天才。羽生善治永世七冠、藤井聡太三冠は大天才。同じようにTVに出ている芸能人も天才だと思っている。一芸に秀でるだけでなく色んな才能を持っているのだと感心する。
 プレバト(プレッシャーバトル)の看板、“ミスタープレバト”と自称する梅沢富美男さんは、『俳句の才能査定ランキング』の永世名人位にある。失礼ながら梅沢さんが得意とするのは女形 (私は銀行の支店長時代周年記念運動会で西宮地区の支店長たちでタカラジェンヌの仮装をした時白粉を塗れば誰でも綺麗になるものではないことを実感した) と女遊びだと思っていたが、俳句への造詣は深い。そのほかにも生け花、料理等役者一筋50余年なのに多才なのは、やはり自称300年に一人の役者ということか。
  俳句の四天王と呼ばれる他の3名のうち、梅沢さんに続いて永世名人になった東国原英夫さん、名人10段のフジモンこと藤本敏史さんは、発想力がずば抜けている。とくに、東国原さんの発想は凡人には思い浮かばない。
 名人10段のもう一人、お笑い『フルーツポンチ』の村上健志さんは元々短歌を嗜んでいたので俳句の才能もあるのだろう。もう若手と言うよりもう中堅が相応しいお笑いコンビの『ジャルジャル』(2020キングオブコント優勝)『しずる』『フルーツポンチ』は誰が誰か区別がいまだにつかないが、唯一村上さんだけは名前と顔が分かるようになった。
 「名人」や「特待生」には、お笑い兄弟コンビの千原ジュニアさん(名人8段。「消しゴムはんこ」は名人5段でトップ。「丸シールアート」「絵手紙」でも特待生)やノンスタイルの石田明さん(特待生)がいる。漫才のネタを書く人は短編のユーモア小説を書ける程の力量があってもおかしくない。国語力が高いのだろう。
 特待生の中には、私は観ていないが『東大王』で活躍していたという才色兼備の鈴木光さん(司法試験に専念でプレバトも卒業)は心の中に映った情景を季語を含む、たった十七音(文字)で表現する(『縮み志向の日本人』の得意とする)俳句の骨法(林修先生はメカニズムと表現)をすぐに理解して人並以上の俳句を紡いでいる感があった。ハーバード大卒のパックンさんや元MENSA会員俳優の岩永徹也(今月特待生から名人初段に)さんもそういうことなんだろう。
 俳句に次ぐ人気ジャンルは「水彩画」。俳句の梅沢さんがミスタープレバトなら、しずちゃんこと山﨑静代さんはプレバトの女王と言えるか。俳優の六平直政さんと並んで最高位の名人初段位にあった。そのしずちゃんがライバル視するのが、番組史上初の100点満点の評価を得た辻元舞さんである。『色鉛筆』でも一発で特待生(6?ジャンルで一発特待生)に推挙される美術の才能に溢れるだけでなく、美人モデルで、私生活では愛しい夫や子供たちに囲まれている。女の幸せを独り占めしたような“天使過ぎる母ちゃん”を、(沢田知可子さんの『会いたい』の歌詞のごとく)「半分笑って半分真顔で」シズちゃんは敵視する。それが観ていて可笑しい。
 ところが、そんな二人を横目に、最高位の名人3段に君臨したのがアンミカさんである。知らない人から見れば、関西の口うるさいオバタリアンにしか見えないかも。だが、すまして立てばパリコレのモデルとなり、喋らせれば通販の女王となる。水彩画も玄人はだし。歌も上手く、けたたましい喋り声も鶯の鳴き声となる。まさに才媛と呼ぶ相応しい。
 さらに、このアンミカさんを上回りそうな逸材が現れた。昨秋のタイトル戦で満点優勝した女優光宗薫さんその人で師範のプロに「こんな画描いてみたい」と言わしめた。すぐにアンミカさんと並び最高位・名人3段位に君臨した。さらに、お笑いコンビ『ナイツ』の土屋伸之さんも、特技は競馬予想と思っていたが、絵も玄人はだしで名人3段位に追い付く腕前である。女優田中道子さんも名人3段位となり、四天王を形成するに至る。が、それも束の間で、田中さんは4段に、光宗さんは5段となり頂点に立った。
  絵の上手な芸能人たちに触発されて、私は初心者用の水彩画セットを購入した。子供の頃から画力があるとは思っていなかったが、一度だけ、中二の頃か水彩画の絵具をたっぷりつけて油絵のごとくパリのオスマン風もどきの風景画を描いた時公民館かどこかで展示され学校の朝礼で賞状を貰ったことがあった。高校では道具を持参しなくてよい音楽を選択したので、その後一度も絵を描いたことがない。約55年ぶりに孫娘を描いてみようと思った。鉛筆で下書きしているのを妻に見られた。「なにこれ!? 止めたら」とぬかしおった。それで心が折れた。絵筆を折るどころか絵筆の封も切らないうちに。卒職して負けん気も卒業したみたいだ。

 季語の世界は四季折々の風情がある。同じ風景を見ても人の心の有り様で変わる。色とりどりだ。それでは死後の世界はどうなのか。 
 浅学非才の私はとくに宗教は不勉強で苦手。却って無知な故に無恥を感じず戯言を吐くことができる。キリスト教は「天国」があると言い、浄土真宗は「浄土」があると言う。ちなみに、イエス・キリスト自身はユダヤ教の異端教徒。パウロがイエスを救世主とするキリスト教を創った。ユダヤ教はイエスがキリスト(メシア)とは認めない。両宗教は別物。ただ、キリスト教はユダヤ教の経典である旧約聖書に新約聖書を加えて聖書としているから、ユダヤ新教と言えなくもない。

 一方、法然が起こした浄土宗の真髄を極めたのが親鸞の浄土真宗(親鸞が名付けた訳ではない)で、そのため「新宗」ではなく「真宗」。
 プロテスタントを先導したマルティン・ルター(1486年~1546年)と親鸞(1173年~1263年)はよく似ている(ルターは宣教師フロイスが『日本史』を書いた時すでに他界しているので浄土真宗のことは知らないか)。
  ルターは免罪符の発売等腐敗した教会の権威を否定し唯一の拠り所を聖書とし、神の前では皆平等とした。プロテスタントの牧師はカソリックの神父と違い妻帯できる。ルター自身も元修道女と結婚している。浄土真宗は、親鸞が妻帯しており、貧富の格差はもちろん男女の格差もなく、ただ南無阿弥陀仏を唱えるだけで浄土に行けるとした。凄いことに今から900年も前にすでに男女平等を謳っていた。
 
 東西の両宗教は、なぜ「天国」や「浄土」があると思ったのか。それは「臨死体験」が関係しているのではないか。故立花隆は『死はこわくない』(文藝春秋)で、死後の世界と思っていたことは、心停止してからも数十秒間脳活動が続きその間に見た夢(に近い現象)ではないかと言う。死後の世界は季語の世界と同じく心の中にある世界にすぎないのだ。
 「体外離脱の後、そのまま心はトンネルを抜けてまばゆい光に包まれた世界に移動して、美しい花畑で家族や友人に出会ったり、超越的な存在<神>に出会ったりする」のを死後の世界と過去から思い込んできた。洋の東西を問わず同じような夢を見るのは不思議なことではない。男児が皆電車や車のおもちゃが好きで、女児が人形を抱きたがる。爺婆が孫に甘いのは古今東西共通だ。人類は遡れば皆東アフリカの各一人のイブとアダムに辿りつくのであるから。
 封建社会において貧しい身の上の者はそこから抜け出すことができないが、浄土に行けることを希望として南無阿弥陀仏を唱えながら苦難の中を懸命に生きようとした。
 そんな皆が貧しい時代に比べて今の貧しさに苦しむ人はある意味もっと不幸だ。信者はともかく、話のアヤであの世を語ることがあっても、あの世が実在するとは思っていない人がほとんどだろう。国から見放され、たった2千円の負担でふるさと納税の答礼品をかき集める富裕層に「自業自得」と見下されば、まさにこの世は生き地獄。絶望死しかなくなる。
 天才宰相田中角栄は、貧しい身の上から事業を興し成功した。そして貧しい人が皆幸せになれるよう政治家になる。権力の亡者に見えてもその志を終生忘れることはなかった。
 恵まれた議員の世襲を悪いとは断定しない。しかし、角栄のような感性や志を持たない二世議員、三世議員が多くないか。「なに?」世襲議員でない前首相だって変わらないてか。そうであるなら、どうしたものか。とりあえず新首相が誕生し、衆院選で国民に信任されたのだから三世議員ながら期待してみるか。

 それでダメなら、国会議員も国家資格を設けては。中国の旧科挙制度は、世襲を廃し実力主義とした。日本の、法曹も司法試験があり、官僚も国家公務員総合職試験などがある。「国家権力」を行使する総理を初め国会議員も同じ国家公務員であり、国家試験を合格した者が選挙に立候補できるとすればどうか。議員歳費目当ての者、能力や志の低い者等排除できる。が、人材が偏るとの異論もあるか。とりあえず衆議院に限ってはどうか。

 それも素人の戯言と退けるなら、議員定数を減らすしかないか。そう言えば、イタリアは国民投票で議員定数を3分の1削減している。

2021.12 臨時号 NO.164  ごのせかい VS ごのせかい (1)
  私はテレビっ子でTVをよく観ていたと本ブログ2019年7月臨時号NO.117(「テレビVSトレビ」)に書いた。それから2年以上経過した。今はその時より地上波のTVを観なくなった。
 新型コロナウイルス禍において日本は世界に比べて大したことがない(五輪中止へと日本で大騒ぎの最中にも拘らず、世界の200を超える国々からアスリート・関係者たちが来日した)。新型インフルエンザと大差ないと分かってもTV局の報道姿勢がいつまでも変わらないのに嫌気が差し、朝・昼の情報番組はどの局もほとんど観なくなった。
 外出しない時は、昼は本を読み、夜はテレビを観て過ごしたいのだが、いい番組が少ない。いきおいBSの報道番組を観ることになる。地上波で毎週のごとく視聴するのは、テレ朝の水曜19時からの『あいつ今何してる?』(残念ながらレギュラー放送は終了。今後は単発番組に)、テレ東の月曜20時からの『世界!ニッポン行きたい人応援団』、MBS木曜19時からの『プレバト!!』ぐらいか。
 『あいつ今何してる?』で一番印象深く覚えているのは、昨年3月25日の3時間スペシャル。恋多き故志村けんだが、結婚してもよい人は母親に紹介していたという。その最初の女性と破局した理由を聞きたいと35年ぶりに再会した。志村に他に好きな人が出来ただけだったのだが、志村は忘れていたのではなく彼女に言わせることにより罪滅ぼしとしたかったのでは。虫の知らせで逝くのを知っていたかのように。5日後訃報に接したときは本当に驚いた(志村自身は放送を観ていない。人工心肺ですでに意識はなかった)。
 同日のホラン千秋さんの高校の同級生の話も印象的だった。母子家庭で母親が癌に侵され、進学校でひとり大学に行けずアルバイトをしながら母親の看病をしていた。その甲斐もなく母の死後は一念発起して猛勉強し奨学金の出る米ベレア大学に合格する。そこを首席で卒業しイリノイ大学の大学院で脳科学の研究員となる。そして今はハーバード大学からの誘いを受け関連病院で認知症を研究しているという。まさにアメリカンドリームの実現だ。同じ境遇にある若者に勇気を与えるし、境遇のせいにして努力を怠る者に喝を入れてくれる。
 政権が交代した今、小泉政権から続く「裕福な者はより裕福に、貧しい者はより貧しく」のような政治から脱却するとともにアメリカに行かなくてもDream come trueが可能な社会を実現してほしいと切に願う。
 『世界!ニッポン行きたい人応援団』は日本文化や伝統技術を深く愛しているが日本に来る経済的余裕がない人を招待する番組。来日を機に人生が大きく開けた外国人もいる。
 受け入れる日本の職人たちだけではなく、番組スタッフも来日した外国人に対する眼差しが温かいのが素敵だ。皇室外交ほどではないにしろ世界に日本ファンを増やすのに貢献していると思う。今は新型コロナ禍で収録が難しいようだが、長寿番組になることを期待したい。

 地上波では予算緊縮、思考停止でクイズ番組が花盛り(クイズ番組が好きな人も多いのも確かなのだろうが)。東大生や高学歴の芸能人が、最も得意とする土俵、答えのある世界で、記憶力等を争う。しかも生ぬるいクイズバラエティー番組には興味も湧かない。杉田水脈議員がクイズ番組を「生産性がない!」と言えば、私は賛同してあげたのに。答えのある世界なら現段階のAIが最も得意とする。囲碁や将棋のようにAIとクイズで勝負するなら別だが。
 高学歴にやっかみを覚えている訳ではない。「記憶力」ではなく「創作力」「創造力」に対しては素直にリスペクトしている。
 一昨年の我が母校神戸高校同窓会東京支部の会合でのこと。現在の東京支部長は、私より一つ年上の20回生で京大法学部を1973年卒業し旧自治省(戦前大蔵省を凌ぐ巨大官庁内務省が敗戦後GHQに解体されるがその本流を受け継ぐ。当時大蔵省、警察庁と並ぶ一流官庁。現在旧郵政省等と合体し総務省。菅前首相の長男等の接待問題は旧郵政省がらみ)に入省したキャリア官僚OBの平谷英明氏。政治家タイプが多い大蔵官僚と違い、自治官僚はまじめで地味だが、平谷氏もそのタイプと見受けた。その平谷氏が会合の席でコピー用紙よるA5版レジュメを参加者に配布した。題名は『人生を二度生きる~鈴木紀代さんの話』。神戸高校の大先輩(10回生。高校1年生の時には60年安保闘争で亡くなった樺美智子が3年生でいたハズ)で作詞家の鈴木紀代さんの半生を綴っている。鈴木紀代(本名清)さんは就職試験の面接時にご主人に見初められ結婚した。ご主人とロンドンに赴任した時、ビートルズを聴いているうちに演歌を思い出したことから祖国愛に目覚め、作詞家の道を歩むことになる。歌手長山洋子さんのヒット曲『捨てられて』『じょんから女節』を始め、北島三郎さんなど多数の歌手に歌詞を提供している。
 その平谷氏の文章を読んでいるうち、「なかなか書き馴れているな」「アレ! 格調も高いぞ!?」と少し驚いた。文を読み終え最後の平谷氏の名前の下に「日本作家クラブ会員」と書かれていた。なるほど!(能ある鷹が少し爪を見せたか)と私は唸った。
 それより前に、私は、2015年の秋本ブログの50号までを非売本にまとめた際本同窓会で配布することを考えていた。内容よりも費用の面で断念した。家族・親戚以外同期生、知人らに贈っただけ(高校時代のマドンナにも贈ったが50年経っても私を覚えていてくれたことが分かり、何より嬉しく思った)。同窓会で配布しなくてよかった。配布していたら恥をかいたことだろう。

2021.12  NO.163 しんぼうろう VS しんぼうろう

 長引いていた眞子様の結婚問題に一応決着がついた。本号では10/26の小室夫妻の結婚会見に触れることにする。

 小室氏が開口一番「私は眞子さんを愛しております」と発言したことに賛否が分かれた。私は、結婚前ならおかしくないが、結婚報告の時に言うのには違和感を覚える。プロ入りした野球選手が入団挨拶で「野球が好きです」とは言わない。聞かなくとも皆わかる。プロになったのだから。

 小室氏は、皇族ブランドの利用が結婚の目的かとの国民からの声なき声に反論したまで。本当は「私は勝ったぞ!」と勝利宣言したかったのではないか。小室眞子さんは一方的かつ結婚を反対した国民に対し挑発するかのごとく、自己主張された。明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏が会見は「やらない方がよかった」と述べた。皆そう思ったかも。

 眞子さんは、数時間前まで皇女であったことを忘れたごとく、心配している国民、心配と迷惑をかけた上皇・上皇后陛下、天皇・皇后陛下等に対して言及がなく、自身の心を守るために結婚したとしか言わない。

 「この質問は、誤った情報が事実であるかのような印象を与えかねない質問であると思います。このような質問に会場で口頭でお答えすることを想像すると、恐怖心が再燃し心の傷が更に広がりそうで、口頭で質問にお答えすることは不可能であると思いました。」には、国民に納得してもらい祝福されたいとの気持ちが感じられない。日本雑誌協会の質問はめでたい席には不適ではあるがこの機会でしかできない。「誤った情報」という根拠も示さず、病気を理由に回答を拒否する。誠実に質問に応えることはなかった。

 さらに「既にお話しした通り、圭さんのお母様の元婚約者の方への対応は、私がお願いした方向で進めてもらいました。」には、驚きを越えて・・・。圭さんを庇ったのかもしれないが、皇室が民事に介入するタブーを犯したと正々堂々と発言されるとは。

 会見後批判が殺到するのはやむを得ないと思うが、この結婚会見に関する「Yahoo!ニュース」でコメント欄が閉鎖された。AIが判断したとするから恣意的ではないと言いたいのかもしれないが、その判断基準は人間が決めるのではないか。外圧か忖度か知らないが、真っ当な批判も誹謗中傷と一緒に葬るのは「言論の自由」に対する弾圧と変わらない。「権威」に関しての今回の件が先例となり、「権力」もこれに続くなら、中国型監視社会に日本もなってしまう。

 

 前世で何かあったかと思うほど食わず嫌いの辛坊治郎氏の10/26 東スポWEBにおける下記発言を観て、ジャーナリストの魂を太平洋の海底に沈めたのかと思った。

 「辛坊治郎氏『週刊誌やネットの書き込みを信じる連中がいかにアホか』 眞子さん結婚会見で」と題して「辛坊氏は『会見を見ながらつくづく思う。嘘しか書かない週刊誌やネットの書き込みを信じてる連中がいかにアホかと』と2人に対する批判記事や誹謗中傷の書き込みを嘆いた。」と報じられた。

 宿願のヨット単独太平洋往復横断の偉業を達成したのであればもっと達観されるのではと思っていたのだが。辛坊氏のこの発言に「辛抱しようなぁ」と自身に言い聞かせても、やはり辛抱できない。

 嘘しか書かない週刊誌などあるのか。それは口がすべっただけと軽視しても、週刊誌とかを鵜呑みにするのをアホと言うのは構わないが(説明もなく根拠も示さない小室夫妻の言うことを真に受ける人はどうなのか)、小室夫妻を批判する人をすべてそんなアホな人と結びつけるのは、批判を誹謗中傷と同じに見なすことと同じではないか。それは言論弾圧につながると批判する立場ではないのか、辛坊氏は。我々庶民は自身で取材しない、できない。得たニュースを自分なりに吟味して判断するしかない。自身で直接見た、聞いたことしか言えないのであれば、庶民は批判などできないことになる。そういう流れは権力者の思うつぼだ(主権者の国民が誤解しているなら、誤解を解くべく国民から負託された権力者側に説明責任がある)。

 

 小室夫妻の会見は意義が少なかったが、元皇女は世間知らずで小室氏に洗脳されているのかとの危惧、「無償の援助を求める」(と見える)小室家と「無償の愛を恵む」皇女とは合わないのではという懸念、は払拭されたのでは。眞子様は皇女としては類を見ない“異形の皇女” (ヤフーニュースならAIに誹謗中傷と認定されるか) に私の目には映る。民間人の方が似つかわしい。小室夫妻はニューヨークでもたくましく生きて行かれる。心配は大きなお世話なのだ。

 

 それにしても、宮内庁は皇室の危機に際して、能天気ではないか。10/28読売新聞は、西村宮内庁長官がこう述べたと報じた。

 「会見で眞子さんが『誤った情報』に恐怖心を覚えたと明かしたことに『あそこまで苦しまれてこられたことに、お支えする立場として大変申し訳ない思いがした』と話し、宮内庁としてホームページ以外の情報発信のあり方を研究する考えを示した。」

 それは眞子さんに直接言えばよいこと。(暗に宮内庁の対応の正当性もにじませながら)外に向かって発信されれば、皇女眞子様を、皇室を、心配して結婚に反対してきた国民の神経を逆なでするだけ。皇室と国民をより引き離すだけでは。

 今は天皇主権下の皇室ではない。国民主権下の皇室なのだ。国民に皇室を不要と言える権利も有する。それを宮内庁は理解しているのだろうか。宮内庁は戦前からの旧態依然の対応を見直すべきだ。脳科学者茂木健一郎氏は「一番反省すべきは宮内庁の広報体制」としたが、宮内庁改革は「ホームページ以外の情報発信のあり方」という広報体制だけに止めてはならない。

 

 ここまで本ブログの次号として掲載すべく原稿を起こしていた。ところが10/29になって(偶然にも結婚当日にニューヨーク州弁護士会の「ビジネス部会」コンテストで優勝との報道もあり)合格確実と見られたニューヨーク州の司法試験結果で小室氏が不合格ではないかとの報道が流れ始めた(合格者一覧に名がないことから憶測を呼ぶ)。鎮火に向かうかと思われた結婚騒動の火が燻ぶり続けることになっていくのか。

 遡れば、9月に入って急に結婚へとの報道が始まった。私の娘も30歳になる数日前に結婚した。眞子様がそれを望んでと思ったが、眞子様は誕生日が10/23で結婚したときは30歳を越えられている(同じ大安なのに10/20でなく、なぜ10/26なのか)。

 今回の不合格の報に接すれば、国民に新たな疑念が湧いてくる。7月に受験したと言われる司法試験の解答具合が芳しくなく、結果が判明する前に結婚会見を終わらせたかったのではとそう勘ぐるネット民が出てくる(秋篠宮家、宮内庁が青天の霹靂とするなら婿殿の立場は悪くなる)。

  さらに、病気を盾に質問も回答も文書になったことも、9月に文春が報じた、小室氏のニューヨーク就活での経歴詐称疑惑、さらに留学ビザ不正疑惑が関係しているのかもしれない。眞子様にとっては義母の件もそうだがなによりも夫小室氏本人の疑惑の件を結婚会見の場で触れられることはなんとしても避けたかったのではないか。

 以前からフォーラム大学の卒業名簿から小室氏の名が消えている?のに疑問を持っていた人達は、留学ビザ不正疑惑が関係しているからかとそう思いだす。そうであれば、司法試験自体を受けていないのでは。来年2月再チャレンジと言うが、それも怪しいと疑念を重ねていく。

 小室氏は再チャレンジ及びその結果を国民から注視され続けることになる。疑惑の真偽自体より国民が疑心暗鬼になっている。小室夫妻を不審視している。それが皇室に悪影響を与えることこそが問題なのだ。そして、臭い物に蓋をしたハズがまだ異臭が漏れ出る中、多くの国民が望まない、しかも意味をなさなかった結婚会見を段取りした宮内庁への不信も続くのであろう。

 本を正せば、なぜ宮内庁は身体検査しなかったのか。一部に秋篠宮殿下が必要ないと仰ったとの報道があるが、仮にそうだとして、役人はそれで調査をしない、役人とはそういうものなのか。そう言われても調査し婚約会見の前に問題が判明すれば、警察かにタレコミがあったとしてそこから宮内庁に注進する方法もあったのではないか。問題があるとしても、皇室にとってマスコミにスキャンダルとして騒ぎ立てられることより大きな問題となるのか。

 秋篠宮殿下は後悔されたかもしれないが、婚約につき4年前天皇であられた現上皇陛下から裁可がなされた以上殿下が自らの手で破談には。問題解決のボールを小室氏に投げられた。

  小室氏は、そのボールを握ったまま、時間稼ぎをし、(一部の国民に限られようが)皇族ブランドを活用して、社会的地位も経済的基盤も得たと思われた。そうであれば、本人の才能と弛まぬ努力も不可欠なので、それはそれでまだマシだったのだが。

 

 闇が多い小室氏側とその彼を愛し彼の為なら皇室が傷つくことも厭わない気配の眞子さん。そんな二人を秋篠宮殿下が今後皇室と関係を持たせないと仰っておられるなら、それは正しいご判断と思う。

 秋篠宮殿下にも批判の目が向けられる(悠仁親王の教育は秋篠宮家内でよいのか? 天皇学は?との声が高まる)ことが避けられない中で、ご自身の誕生日(11/30)会見で殿下が何を発言なされるのか注目される。ただ、翌日の12/1は愛子様が20歳となり成人皇族になられる晴れの日(行事としては12/5か)。それに水を差すような後を引くようなお話はなさらないと見られている。

 なんにせよ、国民と皇室とに距離ができてしまった今宮内庁がその距離を縮める役割を果たさなければ、皇室を守ったことにならない。宮内庁が勘違い?している限り、皇室の未来は暗い。

 こんな話をすれば、私の立場を訝る人がいるかもしれない。そんな人を私は誹謗呼ばわりしない。下記3点の本ブログのバックナンバーを提示して、私が、万世一系の天皇制存続を願う立場をとっていることを理解してもらう。

 〇 天皇制について書いた、2017年1月号NO.67「ルメートルVSニメートル(1)(2)(3)」

 〇 男系男子による万世一系の必要性を論じた、

   2020年2 月号NO.127「じょせいてんのうVSじょけいてんのう」

 〇 ソ連、中国の社会主義とは似ても似つかぬ「天皇制社会主義」に触れた、

   2020年2月号臨時号 NO.128「ふっこVSふっこう」

2021.11臨時号 NO.162 ういち VS ういち
 大谷翔平選手がMBLア・リーグのMVPに選出されるのは確実となった。ライバルのゲレーロJR選手がMVP対抗馬の資格となりうる三冠王を逃がしホームラン王一冠も打点王との二冠のペレス選手と分けたのであれば勝負あり。思えば、ルールを変えてまでオールスターでの二刀流を実現させたMBLから人気が低迷気味のベースボールの救世主として期待された大谷選手は、人一倍努力の上二刀流を完遂し、期待に十二分に応えた。来月の発表が待ち遠しい。
 世の結婚祝賀ムードは、芸能人等が笛吹けど(当人の好感度を下げる?だけで)国民は踊る気配はない。それどころか小室氏の母親に対する刑事告発報道や結婚反対デモが水を差す。

 眞子様の結婚問題に対して、反皇室でない庶民の結婚反対意見も「誹謗中傷」と見做される?直前に、本ブログ前号(161号)で私の思うところをほぼすべて吐露した。一つ加えるとすれば、本結婚問題の全般を通じて、宮内庁の言動は、皇室を守る為国民との間をとりもつというより、皇室と国民を引き離そうとしているとしか思えないこと。何のための宮内庁か。国民主権下の象徴天皇制における宮内庁のあり方に疑問を感じる。「権威」を目の上のナントカと思う「権力」がそう仕向けているのか。それは邪推としても、宮内庁が叱責されたとは聞こえてこない。
 日本の権力者達の拙策・不作為による新型コロナの人災化もあり、最近私の他者批判のボルテージが上がりぱなしであるが、天井知らずになっても。政権の交代と大谷選手の二刀流が世界で認知されたことに対する嬉しさがそれを抑えてくれる。本号ではこれで終わり。批判はひと休みだ。それで、今回競馬、とりわけ好きな競走馬や騎手について、気を楽にして語ってみる。
 

 私は、初物は嫌いな方ではないが、すぐには飛びつかない。2番手、3番手というところか。どういう訳か、人に対しては、新人には最初否定的な反応を示す。二刀流で「クインタプル100」(投手として100回投球、100奪三振。打者として100安打、100得点、100打点)をMBL史上初めて達成した大谷選手も日ハム入団時には関心も感心も示していない。今は彼の一挙手一投足に注目する。それは、25年前トルネード旋風を巻き起こしストライキの影響による人気低迷からMBLを救った野茂英雄投手以来ことだ。
 競馬の騎手も同じだ。天才(強い馬をきちっと勝たせる)武豊騎手の場合も、最初は“ターフの魔術師”と称された父親の故武邦彦(騎手・調教師)の七光りがあるからかと、1987年デビュー年に新人最多勝利を挙げた時も評価しなかった。スーパークリークやイナリワン等でG1を勝利していた頃は応援していない。
 評価し出したのは、1990年末の有馬記念で誰もが“終わった馬”と見ていたオグリキャップに奇跡が起こったごとく引退の花道を飾らせた(「キンシャサの奇跡」と呼ばれたフォアマンに逆転KO勝利したモハメド・アリの時と同じ大きな感動を覚えた)あたりから。実力だけではなく競馬界の第一人者としての姿勢も評価するようになっていく。日本競馬界の至宝ディープインパクト(以下「ディープ」)とのコンビの時にはもう大ファンになっていた。
 元祖天才騎手に対しても同じ。1969年頃大学生であった私は神戸新聞系列のスポーツ紙野球・阪神命のディリースポーツの本社でアルバイトしている時に競馬を覚えた。その頃東の郷原、西の高橋と剛腕騎手として並び称され、連続して関西リーディングジョッキーの座にあった高橋成忠騎手のファンになった。そのリーディングジョッキーの座を脅かす憎っくき好敵手として頭角を現していたのが福永祐一騎手の父である天才(天性のひらめきを見せる)福永洋一騎手。

 当時の私の気持ちは、1962年にプロデビューしたジャック・ニクラス選手を太った熊との意味で“ホワイト・ベア”と揶揄した、ゴルフ界のスーパースターアーノルド・パーマー選手の当時の熱狂的なファン“アーニーズ・アーミー”の気持ちと同じであったろう。
 その洋一騎手が9年連続(1970年~78年)関西リーディンジョッキーとなり、第一人者として長く競馬界を背負っていくとみられていた(その頃には私もファンになっていた)が、1979年命に係わる大きな落馬事故に遭いターフを去った。
 長男の祐一現騎手が母に騎手になりたいと言った時母はどんな気持ちだったろう。落馬事故で腎臓を一つなくした時、母は胸が潰れる思いがしたに違いない。だが、父の叶わなかったダービージョッキーとなり、昨年は名手岡部幸雄騎手、武騎手と並ぶ無敗の3冠馬ジョッキーとなり、今年もシャフリヤールでダービーを連覇(ディープ産駒が4年連続優勝だが、その内3勝が祐一騎手の騎乗馬)する。心配ばかりさせた母に報いる自慢の息子になった。
 天才と呼ばれないのは気にしなくてよい。それは天才の子に生まれた宿命。天才は遺伝しない。それが「人類の種の保存」の摂理。アインシュタイン、フォン・ノイマンの子も例外ではない。
  
 どうした訳か、競争馬には一目惚れしてしまう。馬という動物が好きだということでもない。犬や猫も触れない(正確には触りたくない)。生き物で触れるのは人間の♀ぐらい(もっとも妻でさえDon't touch me!)。大のディープファンと言っても北海道まで会いに行くことはなかった。TV画面を通して馬が競走している(ディープのアバターが疾走するテレビゲームを観ているようなもの)のを観るのが好きということなんだろう。
 初恋の馬はタニノムーティエ(以下ムーティエ)。1970年皐月賞のトライアルレースであるスプリングステークスで東の御大将アローエクスプレス(以下アロー)と西の御大将ムーティエが初めて激突し最後の直線6馬身差があったがトップを走るアローをゴール直前ムーティエが差し切った。その後ムーティエは皐月賞、日本ダービーを制覇し2冠を達成。秋の菊花賞を制して3冠馬になることは確実と私も思っていた。だが、菊花賞の前哨戦のレースであろうことか惨敗した。暑い夏を越す調整に失敗したのかのど鳴りが判明し、菊花賞は2周目の4コーナーで一瞬見せ場を作ったが直ぐに失速した。ムーティエは日本ダービーを終えるまで15戦も走っていた。昨年のダービー馬コントレイルは5戦。今年のシャフリアールはたった4戦で戴冠。世界と肩を並べる現在の日本競馬でムーティエが走っていたら3冠は間違いないと思うと未だに残念で仕方がない。
 悲運の初恋の馬ムーティーが忘れられず、その後も栗毛で鼻が白く、後方から進み3、4コーナーからまくって差し切る差し馬が好きになっていく。
 菊花賞を最後にムーティエが引退した5年後、同じ栗毛で額から鼻先に流れ星のごとく白く線が走り“流星の貴公子”と呼ばれたテンポイントがデビューした。天馬と称されたトウシヨウボーイとの名勝負は今も語り草。今で言えば、ディープの仔キズナとエピファネイアとのライバル関係と似ている。キズナはエピファネイアに2戦して後塵を拝したが、日本ダービーで初めて雪辱し優勝した。種牡馬になってからも、父に似てアベレージヒッタータイプ(10/10時点の勝馬率は33.  0%=75勝/227出走で父を凌ぐ2位。賞金もさることながらウイナーズサークルで口取り式の記念写真を撮る馬主の夢を多くの馬主に叶える)のキズナと種牡馬として打率は低いが名種牡馬ステイゴールドに似たホームランバッタータイプ(勝馬率は26.1%=59勝/226出走と高くないが初年度産駒のデアリングタクトが牝馬3冠)のエピファネイアとライバル関係が続いている。
 テンポイントは種牡馬になりトーショウボーイと産駒を争うことはできなかった(凍結精子があればと思うが、人工授精はサラブレットには万国共通ルールで認められていない)。
 天馬との勝負に分が悪かったかった貴公子は最後の二頭の勝負1977年の有馬記念で貴公子は天馬に競り勝ちグランプリに輝いた。だが「好事魔多し」。暮れの有馬記念の激走後の翌1月激走から1か月しか経っていないのに、海外挑戦への行き掛けの駄賃みたいに、寒く馬場も良くないのに66.5㎏も背負って走り、骨折した(それ以降斤量の上限はないが60㎏で走らせることはまずないという)。
 異例の延命措置が講じられたがファンの願いは届かず、天に召され貴公子が天馬となった。私の初恋の馬は悲運の名馬で、次に好きになった馬は悲劇の名馬となってしまった。
 ガラス細工と言われるサラブレッドは美しいが、壊れやすい。米競馬史上最強馬セクレタリアトを彷彿させる大逃げで沸かせたサイレンススズカ。1998年秋の天皇賞で圧倒的一番人気の中レース中粉砕骨折。その晩武豊騎手は大泣きして泥酔したという。ディープと名牝ビワハイジの娘ジョワドヴィーヴルは馬名の由来が「生きる喜び」ながら調教中に骨折し早世した。繁殖牝馬としても期待されたのだが。両馬ともDNAを残せなかった。ムーティエと同じく栗毛で鼻に白い線が走る。名馬にとって不吉な紋様なのか。否、単なる偶然だろう。同じ特徴を持つオルフェーヴルは健在だ。3冠を抜きにしても「無事是名馬」なり。
 1994年に三冠馬になりその年の暮れの有馬記念にも勝利した、故障する前のナリタブライアンを当時私は5冠馬シンザンを抜いて史上最強と思っていた。私の記憶の中でのナリタブライアンは栗毛だと思っていたが、実際は黒鹿毛らしい。引退した翌年にデビューしたグラスワンダーと混同しているのかもしれない。
 2011年の三冠馬、上述オルフェーヴルも、栗毛で鼻筋に白い線が入っている。鬣も豊かで、立ち姿はさながら百獣の王ライオンで、神々しい。でも(ディープひと筋で)ファンにはならなかった。
 本ブログ2018年8月号100号記念(「インパクトVSコンパクト(1)、(2)」)でディープ礼賛原稿を載せたが、高校の同級生の弁護士からオルフェーヴルが触れられていないとメールが着た。ディープの礼賛が目的では当り前だろうと少しムキになって、「オルフェーヴルは競走馬としても種牡馬としても評価していない。悪しからず」(種牡馬になった時は正直ディープの牙城を脅かすかと心配したのだが)と返信した。簡潔過ぎて却って相手を刺激した。弁護士は後日私と会った際わざわざ話を持ち出し憤慨していた。
 他人の応援する馬を貶せばブーメランのごとく我が身に返ってくる。無敗の3冠馬のコントレイルはそれ以降G1勝利がまだない(JC2着、大阪杯3着、宝塚記念は回避)。本年末で引退し種牡馬入りすることが決まっているらしい。秋の3大GIレースの内暮れの有馬記念は出走しないとのこと。秋の天皇賞、JCのどちらか1つでも勝ってほしい(女傑クロノジェネシス、同じディープの仔でコントレイルとは異母兄弟となる姉グランアレグリア、弟シャフリヤールとそのライバル・エフフォーリア等が、立ち塞がるが)。
 戦後の日本競馬において三冠達成後(古馬を交えての)G1レースを一つも勝っていない3冠(牡)馬はいない。コントレイルが勝てなければ、無敗の三冠馬でありながら“史上最弱の3冠馬”とアンチから呼ばれてしまう。コントレイル自身は馬耳東風であろうが。

 6月から新馬戦が始まっている。来年は6頭?しかおらず、実質ディープのラストクロップ(最終世代)が走るといってもよい。2連勝のコマンドライン、ドーブネのほかリアド(5億円超で落札。未出走)などを含め、最終世代から来年のダービー馬が出るだろうか。5年連続ディープ産駒の優勝となるが。
 来年の新馬戦からは、ディープ亡き後リーディングサイアーの座を目論むロードカナロアの対抗馬として浮上して来たキズナを筆頭に今年の新種牡馬として評価が高いシルバーステート、ディープの孫として初めてのG1馬となる仔を出したリアルインパクトやミッキーアイル等ディープの仔たちの仔(孫馬)を本格的に応援することにしよう。
 毛色は違うがレース運びがムーティエとそっくりで、伝説の2005若駒ステークスを観て一遍にディープの大ファンになって以来、毛色に拘りはなくなった。青鹿毛でも、葦毛でも皆ディープの仔や孫に変わりはない。皆活躍して永らくディープの血を繋げて行ってもらいたいものだ。
 10月3日に競馬の祭典・凱旋門賞が行われた。英オークスを16馬身差(「242年の歴史で最大着差」)で圧勝したスノーフォールが父ディープの果たせなかった夢をアイルランド娘が叶えてくれると期待したが、馬場が悪すぎたか(それから13日しか経っていないのにまたG1レースを走り楽勝のハズがまた敗れた。使われ過ぎで可哀想)。英気を養い来年凱旋門賞2着の現役最強牝馬で2歳年上のタルナワに他のレースに勝つようなら、凱旋門賞の雪辱を期待したい。
 凱旋門賞は日本育ちでは容易ではない。アイルランド育ちでもディープの仔に違いない。数は多くないが、欧州育ちのディープの仔や孫も応援していきたい。

2021.11 NO.161 じじつこん VS じじつこん
  女性向け雑誌の目玉は、何と言っても、芸能人の熱愛スクープ記事だろう。記者は必死に探すが、どうしても見つからないときは、仕方がない。火のないところに煙を立てるしかない。名前を出された芸能人には、会ったこともないと驚く人もいるが、有名税としてスルーすることも珍しくない。
 それでも芸能人から反撃される場合がある。2016年元旦にスポーツ紙がTV旅行番組で共演する神田正輝さんと(離婚裁判中の)三船美佳さんとの熱愛を報じた。神田さんは事実無根として法的措置も考えると怒りを顕わにした。元々証拠写真もなく、その後三船さんはオーナー美容師と再婚したという。今年の夏においても有村架純さんが関取との交流を報じた週刊誌に対して法的措置をとると所属事務所が激怒した。
 マスコミの間で芸能人が同棲していることが周知の事実でも報道されない場合もある。所属事務所の意向か法律婚ができず、事実婚の形をとるのか。大手芸能事務所に逆らってまでリークする記者もいないようだ。

 同棲と事実婚の違いは、一緒に住むという点では同じだが、それだけでは事実婚と認定されない。「婚姻の意思」と「夫婦共同生活の実体」が必要。生計を共にして夫婦としての共同生活の期間については、明記されていないが、一般的に3年は必要と言われている。
 新型コロナで亡くなった故志村けんは生前3年ごと同棲を解消していると見えたので、ドンファン的?な生き方に快く思っていなかった。しかし、志村は、結婚してもいい女性には母親に紹介していたという。結婚に至らなかったのは、相手の女性に結婚願望がなかった場合もあったとする。3年を目安に同棲を解消したのは、志村自身結婚するつもりがないのに、相手の女性が家財を持ち込み既成事実(婚)化を図る場合のようであったらしい。
 事実婚は、近年増加していると言われるが、その理由に、子作りを離れた熟年からの結婚の場合、籍を入れる必要性を感じないということがある(若くても、娘が跡取りの場合夫の姓を名乗れない場合もある)。この事実婚には、モーリー・ロバートソン・池田有希子夫妻が有名。モーリーさんは、東大、ハーバード大等に合格する天才肌で、ジャーナリスト、俳優、DJ、作家、歌手等八面六臂の活躍を見せている。それは、妻で女優の池田さんが、こんな天才が世に埋もれているのはもったいないと業界に売り込んでくれたことによる。モーリーさんにとって、奥さんの池田さんは、糟糠の妻ではなく、“あげまん”なのだ。
 モーリーさんは、事実婚の理由として、紙切れ一枚で、後は「釣った魚に餌やらぬ」ではなく、1年1年真剣に妻を愛する為だと言っていた。プロ野球の契約更改で、有利な複数年契約を断り単年度契約にこだわる選手と同じ気持ちなのだろう。
 事実婚には、夫婦別姓が叶う、名字を替える煩雑な手続きが不要などのメリットがあるが、互いが法定相続人になれない、税制上の優遇措置(配偶者控除、配偶者特別控除等)も受けられない。さらに事実婚で生まれた(法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた)子は婚外子(非嫡子)と呼ばれ、自動的に母親の戸籍に入る。父親が認知しなければ、子と父親との間に親子関係が発生しないという問題が生じる。
 

 そういうデメリットがあるので、事実婚で夫婦別姓をとる女性は、夫婦の双方が氏を変えることなく結婚することができるようにする「選択的夫婦別氏制度」の実現を心待ちしている。だが、自民党の中で、この制度を反対する声も少なくなく、まだ実現していない。
 中には法的結婚した上で旧姓を名乗っているのにこの制度に反対している女性議員もいる。男女共同参画担当大臣の丸川珠代議員が選択的夫婦別姓に反対を表明する国会議員グループの文書に名前を連ねていたことが明らかになったことを受け、海外の主要メディアから「日本の女性担当大臣は女性差別を容認している」と批判された。
 キリスト教西洋社会が自分たちの価値観が絶対正義だと他に圧しつけ過ぎることがテロ問題等イスラム教社会との確執・紛争の根本原因と思う私は、欧米から「別姓を認めない日本の法律は女性差別的な制度」とそこまで言われる筋合いはないと思っている。

 それはともかく、丸川大臣は、矛盾を指摘されると「個人の信念」からとしか言わない。女性ならそれで許されるのか。「どうしても」とそれだけ言い張るウーマンズロジック(パリコレならぬポリコレで死語になったか)のような筋が通らないことを男性議員が言えば、誰からも相手にされなくなってしまう。たとえ首相であろうとも。IRを主導していた菅首相はお膝元の横浜市長選で盟友とはいえIR反対の小此木前国家公安委員長を応援したことより横浜市民の信を失う。首相辞任の最後のトリガーとなる。

 野田聖子議員は過去安倍総裁に対抗して総裁選に出馬を表明したが推薦人が集まらず断念したとき安倍総裁を支持し、男ではなく、女を下げた。それでも今回の総裁選に登壇できた。

 国のトップに甘えは許されない。日本人初の女性総理大臣の誕生には、誰がなるにせよ、まず捨てることが必要だ。「女」ではなく、「女の甘え」を。
  
 私は、保守の立場をとっているつもりだが、「選択的夫婦別姓」に断固反対ということではない。それでも、6/23の判決で最高裁は「夫婦同姓制度は合憲」との見解を示している通り、まだその時期ではないと思っている。
 現実には95%超の夫婦が夫の姓を名乗っている。現行法律上は妻の姓を選択することもできる。夫が妻の姓を名乗る抵抗感も薄れつつある。
 ある有名私大のアンケート調査で「夫婦別姓」に70%としていたが、保守誌の週刊新潮は「②自分は同姓がよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」まで「賛成」に加えるのはいかがなものかと疑問を投げかけている。
 さらに同誌は別号で「平成29年実施の内閣府の世論調査でも過半数の人が夫婦別姓に賛成しているとは言えない」とする。反対派は29.3%に過ぎないが、第三の「夫婦は同じ名前を使うべき。しかし、旧姓の通称使用は認める」とする『通称使用拡大派』は24.4%おり、それを合算すると別姓反対派が過半数を超える。賛成派が大半との見方に疑問を呈している。
 なお、月刊誌『文藝春秋』本年8月号の連載巻頭コラムで作家・数学者藤原正彦氏は、19世紀英国の首相ディズレーリの「世の中には三種の噓がある。噓、大噓そして統計だ」との言も紹介し、とかく数字に騙されやすいと説く。
 反対意見も根強い現段階では、いきなり「選択的夫婦別姓」するのではなく、「例外的夫婦別姓」に移行するのがよいのではないか。深い事情がなくても、例えば、瞳まな子という女性がいて、野呂姓の男性と熱愛した場合、結婚して一人息子の夫の姓に改姓せざるを得ない場合野呂まな子となり、病院等で「のろまな子さん、のろまな子さん」とアナウンスされるのは精神的苦痛と訴えれば、家裁も別の男性を見つければとは言わないのではないか。
 離婚した場合手続きが簡単という理由では、認められないだろう。私は、古い人間かもしれないが、簡単に結婚し、簡単に離婚するのは、よくない風潮だと思っている(親を選べない子が継父や内縁の男に虐待され、実母も男に捨てられるのを恐れ毒親になるのを見るにつけ、よりそう思う)。
 仲人を立て、仰々しい結婚披露宴をするのは簡単に離婚することを避けるため。離婚届も電子申請できるような改正はすべきではない。行政の事務手続きの迅速化が日本固有のハンコ文化の消滅につなげてもいけない。婚姻届、離婚届に限らず大事な契約の際ハンコを用い、慎重になるよう実印等はどちらが上か判るしるしをつけないのは先人たちの知恵であり、それを侮ってはならない(日本のハンコ文化に憧れて海外から若者がハンコをつくりにも来る)。

 後先考えず、ハンコ文化を葬ろうとしたとしか思えない河野大臣が新総裁に選ばれなかった。傷口に塩を塗るようで恐縮だが、突破力があり壁を打ち破るのはよいがそのまま下の道路に転落するリスクが、とりあえず避けられたと思っている。自民党もまだ捨てたものではないとも。

 事実婚の話に戻すと、事実婚が、庶民の世界だけではなく、皇族の世界にも関わりを持つことになるとは思わなかった。28頁に及ぶ「小室文書」に対して、却って世論が硬化した。一転解決金を支払うと言い出したのは、「遺族年金不正受給」の疑惑がクローズアップされてきたことにも関係していると見る向きもある。一連の報道によると、母親の小室佳代さんは元婚約者と婚約したという関係を「あえて隠して」、亡き夫の配偶者として遺族年金の給付を「不正受給」していたのではないかという指摘がなされている。遺族厚生年金の受給権は、受給権者が「婚姻(事実婚を含む。)」した場合消滅するとされている(厚生年金保険法63条2項)。事実婚であれば、元婚約者からの支援金は、贈与ではなく、貸付金でなくてはならない(さらに今9月に入って週刊新潮により母親の傷病手当不正受給疑惑が報じられた。また、週刊文春が小室圭氏のニューヨーク就活での経歴詐称疑惑、さらに留学ビザ不正疑惑を報じた)。

  日本に帰国すれば、「小室文書」には触れられていないそれらの問題に集中してメディアから詰問されるのは不可避。帰国できなくなったのではと見られていた。
 そうなると、駆け落ちして眞子様が渡米することもありうる。明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏は、「事実婚となれば内縁関係になるので、眞子内親王殿下は皇族を離脱しなくていいということになる。 すると一生分の皇族費が、総額で20億円とかになってくる」と懸念を示していた。
 しかし、今日にもご結婚の正式発表があるという。小室氏の単独会見はなく眞子様との共同会見(記者に小室氏側の疑惑への追及をさせない形で?)が行われるのか。 もっとも、母と子で生きてきた上での多すぎる疑惑の真否自体に大した関心はない。それよりも、そんな環境にあれば庶民の我々なら一番遠い存在の皇女に近寄ろうと思わないものだ。ましてや・・・。引け目を感じるものだし、そうでなくとも好奇な目に晒され、メディアに丸裸にされるのがオチ。それをもろともしない強さを持つ小室圭氏に驚きと強い違和感を覚える(常識のない私の目からでも純愛を貫く一途な好青年とは映らない)。彼の皇室感にも不安を感じる。

 そんな彼を新鮮に感じ共感なさる?眞子様を危ぶみ婚約の破談を願っていた少なからずの国民を唐突に失望させることになった。国民に祝福されないと・・と言われている中、国民が納得するもしないも何の進展もないと思っているところに、一転国民には関係ないとばかりに、いわゆる勘当婚とはいえ強行されるのは予想外。30歳までに結婚をというレベルの問題ではないハズなのだが。

 事実婚は竹田氏の杞憂となったが、事態が好転した訳ではない。週刊新潮9/9号で静岡福祉大学小田部雄次名誉教授は「本来であれば眞子様が、どんな時も私よりも公を重んじる皇室の『無私の精神』をお伝えすべきなのに、あろうことか母子に同情してばかりで、“好きだから結婚したい”としか仰らない。成年皇族としてのご自覚を失われていると言わざるを得ません」と皇女に対して異例なほどにはっきりと批判している。
 秋篠宮殿下の責任は避けたいところだろうが、主権者たる国民から問われざるを得ないのか。「子どもの意思を尊重する」という教育方針は、庶民の場合と違い、皇室を守るという前提があってこそ。だが、報道による佳子様の言動からもそれは感じられない。秋篠宮殿下は、全国民がこぞって祝福することにはならない結婚に対し、娘に正面切って反対できない為、憲法上の権利を口にされたのか。国民は「憲法の枠組みを超えた特別な存在が憲法上の権利を主張する。いいとこ取りだ」と反発する。秋篠宮家の私的な問題が皇室を揺るがす問題に変貌してしまう。

 ネット上では「国民統合の象徴どころか、国民を分断するような皇室ならば、天皇制の廃止が視野に」との声があがり、「憲法に対する事実上の“謀反”を起こされた眞子内親王と秋篠宮皇嗣殿下を制御されないことで、憲法第99条に定められた天皇の憲法尊重・擁護義務を十分に果たしておられないのではないか」との今上天皇にまで言及する記事まで現れる。
 芸能人等の発言の風向きが急に変わってきたが、言論統制?し、正面突破してしまえば「時間が経てば国民は忘れる」と高を括っているのか。安倍政権は確かにそう国民を愚民扱いしていた。それに対して国民はいずれ権力者は代わるからと鷹揚に構えていた。しかし、「権威」である皇室は不変。日本人の精神的支柱(象徴天皇制の存在意義)でもあり、それだけに国民は真剣なのだ。宮内庁は読み違いしてるのではないか。

 祝賀ムードが演出される中で法律婚がなされ、それで勘当同然と言われたところで、それですべて方が付くと思う国民は少ないだろう。皇室として不名誉な問題が続くなら、主権者たる国民の秋篠宮殿下に向けられる目は、内容が全然違うとはいえ、英国民の英王室チャールズ皇太子へのものと同じになるのであろうか。
 

 戦後皇室は平民化路線へ向かっていると言われるが、その行くつく先が(「特権」と「無私の精神」が表裏一体と思しき)皇室の不要論であっては困る。平民化路線は皇室の「無私の精神」を蝕んでしまうのか。そのなれの果てが英王室か。

 皇室と違い英王室は私有財産が有り個人支出は個人収入からだとしても、庶民と同じで良いのか。不倫、不仲、離婚、不審事故死、王室離脱、王室暴露、レイプ疑惑。何でもありだ。エリザベス女王とウイリアム王子ファミリーが英国民の心をつなぎとめているのか。

 国民に寄り添うことが、国民に近づくことを意味するものであってはならないと思う。皇室が庶民に近づけば近づくほど庶民は皇室に親しみを感じるが、それに反比例して畏敬の念を薄れさせていく。映画女優がTVバラエティ番組に出演すれば茶の間の住人に親近感を持たれるが、女優としての神秘性が損なわれるのに似ているかもしれない。
 なぜ比叡山の大阿闍梨が生き仏として今も崇められるのか。

2021.10 臨時号 NO.160 しょうい VS しょう

  “野球の神様”ベーブ・ルース以来103年ぶりの二刀流による「2桁勝利&2桁本塁打」の偉業達成にあと1勝(今朝先発予定。達成なるか)となり、三冠王を狙うゲレーロJR選手(シャイなMr. Nice Guy)とMLBのア・リーグMVPを争う大谷翔平選手(才能だけではなく人間性も素晴らしい)に対して、野球少年だけでなく若い女性達からも憧憬(「しょうけい」)の眼差しが注がれる。一方、新型コロナに関わる日本の権力者たちには、国民の失望からくる冷たい視線が送られている。
 「船頭多くして」と言えば「船山上る」と続く。あれこれ指図する人ばかりでは正しい方向に進みづらいという諺であるが、日本の新型コロナ対策では、「船頭多くして、船進まず」というところか。首相、厚労省、新型コロナウイルス感染症対策分科会長(以下「分科会長」)、日本医師会長、都知事、感染症学者、メディアが皆口をそろえて国民の行動自粛を求める。だが、誰も漕がないというか、各々の持ち場でやるべきことをしているように見えない。
 菅首相には厳しく批判しようと思ったが辞任を表明されたので、手短に評する。国のトップにはやはり「国家観」と「教養」が必要と分かった。特に新型コロナのような得体の知れない事態にあれば。さらに、菅首相は、8年間の長きに亘る官房長官時代に苦手だがトップに不可欠な国民に語りかける話法を学び習練しようとせず、幾度となく開かれた長官会見にても木で鼻を括る言い方しかしてこなかった。考えもしなかったハズの首相の職が自身でも務まると錯覚したのはいつか。令和の元号発表時“令和おじさん”と人気が出た頃か。
  大企業では、不始末の尻拭いをする、臭いものに蓋をする汚れ役の総務部長が社長になることはない。組織があやふやな中小オーナー企業レベルまでに劣化した自民党を嘆く。今となっては、小選挙区制移行前派閥同士が切磋琢磨し、その中で幹事長、外務大臣、大蔵大臣の3大ポストの階段を登り国の方向性を示す実力がある議員が総理大臣になっていた時代が懐かしい。
  新型コロナの人災化の諸悪の根源は厚労省と言っても過言ではない。まず水際対策の失敗。ダイヤモンド・プリンセス号船内での感染対策の様子については医師で作家の海堂尊氏のフィクション『コロナ黙示録』(宝島社)で窺える(蝦夷大学名村教授のモデルは後述する神大岩田教授か)。厚労省の権益拡充を図ったとしか思えない(相談・受診の目安を悠長に「37.5度以上の発熱が4日以上」としながらの、怖いコレラ、赤痢、チフスの3類を上回る)指定感染症2類相当の指定。それ以上に問題なのは、世界とは状況が違うと分かった時点で改変すべきだったのに1年間22年1月末まで延長したこと。窓口とされた保健所職員や新型コロナの治療にあたる医師は疲労困憊する。戦前の軍参謀本部と戦地の兵士の関係を思い起こさせる。飲食店等の困窮を知りながら真綿で首を絞めるがごとき緊急事態宣言の場当たり的な度重なる延長も政治家だけの責任か。2020東京五輪を控えての「ワクチン敗戦」と呼ばれる国内ワクチンへの不作為とワクチン接種の遅延等々。
  菅首相の辞任により総裁選は混とんとしてきたが、立候補に際し唱えた岸田前政務会長の感染症危機に一元的に対応する「健康危機管理庁(仮称)」構想は、誰が新総裁・総理になろうとも新設されるべきである。しかし、日本版CDCに反対してきたと言われる厚労省の圧力に屈すれば骨抜きされてしまう。台湾CDCを参考にすべき新設庁のトップはクルーズ船内における厚労省の感染対策の不備を公然と指摘した神戸大岩田健太郎教授(賛否両論だろうが)のような厚労省からの圧力をものともしない人物を据える必要があろう。
  尾身分科会長は、率先垂範すべき立場なのに、いまだに「国立病院機構と尾身茂氏が理事長のJCHOはもっとコロナ患者を受け入れるべきだ」とNPO医療ガバナンス研究所の上昌広 (東大医学博士) 理事長から、名指しで批判されている。
  さらに、尾身分科会長は、東京パラリンピック開幕に合わせ来日したIOCバッハ会長について「オンラインでできないのか。なんでわざわざ(日本に)来るのか。」「銀座にも一回行ったんでしょう」と国会で発言した。世界中に配信された。自身の思い通りにならない苛立ち。自身への批判をかわす為に政治的発言をしたと理解されたが、尾身氏の発言を明確に批判したのは舛添要一元  厚労大臣・元都知事だけではないか。
 分科会長の立場と違って、国のトップである首相は、国民の生命を守ることが第一義なのは同じだが、世界との約束を履行し、新型コロナ禍の東京でのオリ・パラに不参加を表明しない数多の国々からの信頼に応える責務がある。過去から築き上げた「日本国の信用」を失わせることはできないのだ。それに納得できないなら辞表を叩きつければよいだけ。バッハ会長個人に問題があるにせよIOC会長に八つ当たりするのは筋違い。
  国際パラリンピック委員会(IPC)はIOCとは別組織ではあるが、経済面・運営面においてIOCから支援を受け、組織委員会はIOCの組織委員会に統合され、開催時期も五輪に合わせているという。いわば、IPCはIOCの傘下に入っているということだ。実質トップのIOCバッハ会長が新型コロナ禍東京に集まってきてくれている身障者等の方々に直接激励しに来るのは当たり前。しかも、2020東京開催国である日本政府の一員がパラリンピックの主催権限も実質持つトップを公然と揶揄するのは前代未聞では。権威を傷つけられたIOCは大人の対応をとったみたいだが。
  このバッハ会長批判を国民に支持されたと思ったのか、尾身分科会長は「コロナ対策は『科学だけでは決められないこと』がたくさんあります」(科学者としての敗北宣言か?)と言い、 庶民の意見を聞きたいとインスタを開設する。自治体やメディアがその役割を果たしていないと言っているのか、それとも政治家に転身するつもりなのか。
  ただ、そんな尾身分科会長よりも、新型コロナ禍で、インフルエンサーを含め冷静な判断能力を失っている、あるいは、より自分ことしか考えなくなったと思える日本国民の方がより大きな問題だと言えるだろう。
 自治体の雄東京都の職員は国家公務員に匹敵するほど優秀なハズだ。渋谷の若者ワクチン接種会場の混乱ぶりはどうしたものか。上からの鶴の一声でのドタバタなのか。
  小池百合子東京都知事の行政手腕についてあれこれ言う必要はもうない。バルカン政治家が国政に復帰するにしても、日本人最初の女性総理大臣でなくとも総理になる日が来ないことを祈るばかりだ。
  今頃になって野戦病院の設置を提案するとか、なにかと評判の悪い日本医師会は経団連とは違う。経団連の第2代会長石坂泰三や第4代会長土光敏夫は、総理大臣を凌ぐほどの社会的影響力を持ち“財界総理”と呼ばれた。今はそれほどの大物ではなくなったが、中小企業のオーナー社長がトップの席に座ることはない。
  日本医師会の前会長が現会長を月刊誌『文藝春秋』にて名指しで批判する。その現会長が週刊誌にスキャンダルを報じられても居座る。そんな中小企業のワンマン社長レベルがトップの日本医師会は民間開業医を主体とした圧力団体に過ぎないと言われても仕方がない。
  「日本医師会」という名前に国民は勘違いする。開業医の利害に拘泥するなら、日本民間開業医会と名称変更すべきだ。日本の医療界を真にリードする、国立病院の医師も含めた組織を新たに創設すべきであろう。
 PCR検査の陽性数を新規感染者数として毎日その数だけ報じ国民に不安感を煽り行動自粛を求めるだけのことをテレビ局が1年半以上続けている。たしかにそういう時期も必要だが、そればかりでは、各セクションの不作為を批判すべきメディアの不作為となる。問題は民放のすべてのテレビ局が同じスタンスということだ。
  PCR検査に関して言えば、PCR検査は新型コロナの遺伝子の有無を知らべる。新型コロナの死骸であっても陽性となる。逆に陰性となっても新型コロナに感染してないとは言い切れない。それはMRIでがん細胞が確認できなくてもがん細胞がないとは断定できない(がん細胞が5mm?未満だと認識されない)のと同じだ。
  1テレビ局ぐらい、PCR検査の本質を説明し、とくに医療がひっ迫している折には(特段の必要性がなければ)芸能人が周りに迷惑をかけないよう、サラリーマンが家族に移さないようにと「自覚症状がないのにPCR検査を受けるのは、本当に療養を必要な人の妨げとなる。保健所職員・医師にも迷惑をかける結果に。一時的に自粛しては」と呼びかけてもいい。

 感染が蔓延すればするほど自然治癒した陽性者も増えるハズで、それは新規感染者にカウントせず、発熱とか体調不良により病院でPCR検査を受けて陽性になった人だけを新規感染者として人数を公表する。そんなテレビ局があってもいい。
  テレビ離れ、それに伴いテレビCMが必ずしも企業広告の主流ではなくなってきた現在、テレビ局は、予算難で、クイズ番組でお茶を濁している。情報番組も解説陣に予算を割り当てできないように見える。
  地方銀行の再編が噂されているが、テレビ局の再編の方が必要ではないか。民放在京キー局において、テレビ朝日とTBSは合併し左派系のテレビ局とし、日本テレビとフジテレビは右派系として合併させてはどうか。日本のキー局は、NHK、右派系、左派系、テレビ東京の4局でよいのではないか。

 2021.10 NO.159 ーリン VS ーリン

  来年高校の新学習指導要領に基づいた教育が正式に施行される。高校の家庭科で「投資」の授業が始まるとメディアでも喧伝されている。もっと国民にとって重大な問題がその陰に隠れてしまっている。私がその問題に気づいたのは、恥ずかしながら、本ブログ昨年8月臨時号NO.137 (「しきけんVSしききん」)で次のように書いた時が初めてである。

 「日本の道徳教育に対して、日本、フィンランド両国の教育に通暁する岩竹美加子女史は『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書)で次のように批判している。2018年から新しくなった高校の「学習指導要領」での道徳は郷土愛、愛国は小中学校と同じだが、「現代社会」が廃止され、「基本的人権の保障」と「国民主権」が削除されていると言う。」「P78では『・・全体主義な国では国民は国家のイデオロギーに従順であるように育てられる。そうした国では、批判的な国民は社会的危険、国家制度を揺るがす存在と見なされるので、自分で考える能力を発達させる価値は認められない』と述べる。いかにも全体主義であった戦前への回帰を時の政権は目指しているのではないかと言わんばかりだ。」
 学習指導要領の改訂は第二次安倍政権下の2014年から進められてきた。私自身は2015年10月号No.52(「もうじゅうVS そうじゅう」)で次のように批判しただけであった。
 「東京五輪で揺れる文科省は、俗にいう三流官庁だとしても、我々より数段賢い官僚たちがなぜかくも首をかしげる政策を打ち出していくのか。藤原(正彦)先生は、前々から低年齢層からの英語教育に反対している。さらに、週刊誌の連載等において、文科省による大学入試の変更に疑問を呈するとともに、国立大学に対する人文系、社会科学系、教員養成系の規模縮小や統廃合する方針を財界のビジネス一辺倒の提言に屈従していると批判し、返す刀で、そんな文科省に大学側が卑屈していると嘆く。まさに正論だ。」
 とくに、小学生低学年での英語教育については、私も反対である。英語は個人の自由意志に任せればよい。子供本人が英語を覚えたい。親が子供を外交官にしたいと願い本人もそれを望むなら、そうすればよいだけのこと。それよりも大事なのは日本語を深め自分の頭で考えること。亡くなった台湾の李登輝元総統は22歳まで日本人であったが、台湾人に戻っても考えるのは日本語だったという。我が高校の先輩で世界的大作家の村上春樹氏も遊牧民のような海外生活を送るも日本人の思考システムは日本語と言う。考えるのには奥深い日本語が適している。ノーベル賞学者も多く輩出できている。
 高校の学習要領改訂が決まったのは、2018年3月30日。その1年前には森友学園の籠池氏が国会に証人喚問された時であり、国会がモリ・カケ問題で大揺れしていた頃である。その裏で粛々と学習指導要領改訂が進んでいたということだ。私自身もモリ・カケ問題に固執して、国民にとってより問題なことに目を背けていた。後悔はしても反省はしない主義の私でも、深く反省してしまう。
 遅まきながら、YAHOO!で「新高校学習指導要領の問題点」と検索すれば、NHKの「アーカイブス」における大学教授の問題提起が一番上に出てくる。ほかにはほとんど教育関係の人の問題指摘だけだ。野党も政治家。メディアも第4の権力と言われる。政府、官僚と同じく皆「国民を権力に従順な愚民のままにしておきたい」ということで思惑が一致しているということか。
 無用の長物かと議論となった日本学術会議は、「現代社会」に替えて「公共」が新設されたことに関して2017年2月3日付けにて『高等学校新設科目「公共」にむけて ―政治学からの提言―』で問題提起・提言し、その機能を果たしている。
 「公共」の新設は国民に国民主権と基本的人権とを忘れさせ、自身の頭で考えることを妨げ、「国民は国家に奉仕するためにある」と教えたいのかと私は怪しむ。

 「公共」への自覚が必要なのは、国民ではなく、自身や友人に利する政策を採りがちな権力者の方だ。『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社文庫)の著者山岡淳一郎氏も、私権をむさぼって肥大化する政治勢力に対抗した後藤新平(以下「新平」)の人生を見て、「公共の思想とは、権力者が民を縛る方便ではなく、人々が為政者に求める信義の要」と書いている。
  私は自民党の一部とその周辺の者たち(併せて「右派勢力」と呼ぶ)が全体主義の復活を期しているように思える。そうだとすれば、その目的は一体何なのであろうか。
 薩長による明治政府は、二度のアヘン戦争に敗し後に自国の地ながら「犬と中国人は入るべからず」と蔑まれていく中国のように欧米列強の植民地されることを危惧して富国強兵を急ぐことを目的として全体主義国家をつくった。

 軍部主導の昭和政府は、看板に偽りがあるとはいえ、「八紘一宇」「五族協和」を目標として掲げ、そのための全国民総動員体制構築を目的とした。
  安倍政権、それを受け継ぐ菅政権の平成・令和政府の目的は何か。全体主義国家の強大国中国とその中国に本気で怒りを顕わにする民主主義の盟主国米国との激しい対立の中で、米国への従属から真の独立を目指すためか。そうは見えない。60年安保の岸政権の頃より米国への従属は強まっている。完全に牙を抜かれ日本に核兵器を持たせても構わない?と米国に見くびられるぐらいだから。日本が全体主義を再構築し、北朝鮮、韓国?と並んで中国への朝貢国を目指すことはあるのか。それもありえないか。親中派と米国からロックオンされていよう“影の総理”二階幹事長もそんなことは考えていないだろう。結局のところ「目的」が何かよく分からない。本来「手段」であるべき「全体主義」そのものが「目的」ということか。
 20世紀に興した社会主義の全体主義国家は、ソ連、東ドイツ等20世紀の内にほとんどが内部から崩壊した。戦前全体主義国家として三国同盟を結んだイタリアは独裁者ムッソリーニをパルチザンが殺害し広場で逆さ吊りされた独裁者を民衆が蹂躙し全体主義が終わりを告げた。ドイツはヒトラーが愛人とともに自裁して終焉した。

 日本は、戦争に負けて、GHQから全体主義を止めさせられた。新憲法と民主主義を押し付けられた。そう考える日本人は全体主義ついての検証あるいは反省がないのだろう。
 我々庶民にとっては、第二次世界大戦に敗北したことは、不幸であり、悲惨なことではあった。が、唯一メリットは民主主義に転換されたことである。もし日本が戦争に勝っていたなら、軍部はさらに増長し、隣組に市民の相互監視をさせ、少しでも軍部や政府に対する批判的な言動をとる者は、特高警察や憲兵にしょっ引かれてしまう。今の北朝鮮社会と変わらない、息苦しい社会になっていることだろう。経済的水準の違いはあろうとも。
 裏を返せは、戦後の民主主義は庶民にとってGHQから与えられただけで庶民が勝ち取ったものではない。それだけにもろい(日本国憲法第12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と謳う)。

 民主主義の現在の問題点は、若者の個人主義が行き過ぎということではなく、若者の政治への無関心、政権への批判的精神の欠如と言えまいか。
  全体主義国家に回帰する?安倍政権以降の政権体制を(適切とは言えないが)現代の典型的な全体主義国家の北朝鮮体制に擬えると、金日成国家主席にあたるのが、安倍前首相。金正日総書記は、(公然と首相を批判する元旧自治官僚平嶋彰英氏から東條英機を彷彿すると言われる) 菅首相。その後の次男の正恩氏(現総書記)は、さしずめ河野大臣(党内で徳望もなく?、頼みの菅首相との間にはワクチン停滞で隙間風も)となるか。霞が関でソ連の独裁者スターリンになぞらえスガーリンと皮肉られる菅首相と河野大臣はよく似ている。ともに「経済」は弱いと周りから見られているが、本来「目的」である「経済政策等を展開し国民の利益を増大させること」は共に「手段」に過ぎず、「目的」は、菅首相が「独裁者になる」ことであり、河野大臣は「総理になる」(過去の言動からして、総理になるまでは必至に働くが、トップになってしまえばヒトラーのような傲慢かつ怠慢な独裁者になるかも)ことではないだろうか。

 全体主義の拠り所となる「主体思想」の理論的支柱黄長燁氏にあたるのは杉田官房副長官というところか。
 
 「右派勢力」にとっては、「国家感」が、「教養」が、あろうとなかろうと、どうでもよい。「政策に反対する者は異動させる」と官僚たちに独裁を宣言し、日本学術会議の任命の際「賢らに盾突く学者が独裁者は嫌い」と国民に先入観を植え付け、メディアに対しては「パンケーキを食べずんば官邸記者にあらず!」と踏み絵を踏ませる菅首相が、個人的な性(さが)により、ロシアのプーチン大統領のように「権威主義」(全体主義と民主主義の中間に位置すると見る)による独裁者を目指していてもかまわない。菅首相の言う「私はつくる方、壊すのは河野」が民主主義を壊し、(デジタル化の推進が監視・統制を目的とした中国型デジタル社会を目指しているかは今のところ不明だが)全体主義の再構築につながるならそれでよいのだろう(新型コロナ禍における先々月の西村大臣の「金融機関からの働き掛け、酒類販売業者への取引停止要請」発言、ネットでは棄民政策との反発の声が上がった先月の政府方針「中等症コロナ患者まで自宅療養させる」は、直ぐに撤回されたが、まさにファシズム的発想であり、菅政権ならではと言えよう)。 
 ただ、長男接待問題も起こり、前号で触れたごとく新型コロナ対応で馬脚をも現した独裁者は国民の支持を急速に失いつつある。東京五輪は評価されるも必ずしも政権浮揚に繋がらなかった。横浜市長選における支援した盟友も惨敗した。岸田文雄前政調会長との実質一騎打ち(前言を翻した?石破茂議員が立つことがあるなら菅首相が利するだけ。ブレた石破氏は政治生命が絶たれるのでは)の9/29総裁選に勝ち、現総理・総裁として衆議院解散・総選挙を菅首相が打つことが可能なのか。可能だとしても、怒り心頭の飲食店を初め苦杯を嘗めさせられた選挙民からのしっぺ返しから自民党の惨敗はあっても大勝はない。議席を減らす前提での低い勝敗ライン(単独過半数→与党での過半数)の結果次第では首相退陣もありうる。

 だからと言って、新首相が誕生すれば、民主主義が守られ、全体主義へのリスクが無くなると思うのは早計過ぎる。新型コロナ禍が長引き国の自粛要請に従うことに国民が慣れてしまえば、全体主義への下地となる。『「暮しのファシズム」 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』(筑摩eブックス)の著者大塚英志氏は、戦前近衛首相が主導した大政翼賛会の「新生活体制」と新型コロナ禍の「新生活様式」が似ている。とくに女性を主体として自発的に日々の暮らしを全体主義体制に馴染ませていくことになるかと警鐘を鳴らしている。
  21世紀においても全体主義国家としてしぶとく存続する中国や北朝鮮の農民や人民を哀れに思う人々よ、いつの間にか同じ堪え忍ぶ境遇になりそれでも日本国万歳!と叫んでいる日が来るかもしれんぞよ。

2021.9 NO.158  ょうちょう VS ょうちょう(2)
 それにしても東京五輪を開催するまで、ゴタゴタ続きであった。時系列で振り返ると、2011年7月家族思いの石原慎太郎都知事が2020年大会の再立候補を表明した(なぜ東京なのか。震災復興後の仙台・福島か沖縄ですべきと当時そう思った)。2012年10月石原氏が国政に復帰し、副知事だった猪瀬直樹氏が知事として後を引き継ぐ。しかし、2013年9月東京五輪・パラリンピックの開催地として東京が選出された直後の2013年11月に猪瀬知事に徳洲会からの50百万円資金提供疑惑問題が浮上し、猪瀬氏は辞任に追い込まれた。2014年1月に森喜朗氏が東京五輪組織委会長に就任以降森会長と安倍首相が主導権を握る(2016年8月リオ閉会式における五輪旗引継ぎ式は次回開催都市の小池東京都知事の晴れ舞台であるが、森会長の発案による“安倍マリオ”で水を差された。一昨日の閉会式ではマクロン仏大統領が東京に乗り込むことはなかった)。
 2015年7月新国立競技場の国際コンペに採用された故ザハ・ハディッドのデザインが撤回された。2015年9月コンペで採用の公式ロゴが盗作疑惑浮上で変更された。
 2018年12月仏捜査当局は東京五輪招致をめぐる贈収賄容疑でJOC竹田恒和会長を容疑者とする捜査を開始する(日産ゴーン会長逮捕の報復なのか。その後どうなったのか)と報道された。
 2019年11月IOCの強権発動により東京五輪なのにマラソン・競歩コースが札幌に変更された。

 新型コロナで2020東京五輪の1年延期が決まり、2020年6月新型コロナの中小企業等向け緊急経済対策としての持続化給付金制度において電通等を主体とするサービスデザイン推進協議会に769億円で委託され、そこから電通に749億円で再委託され、業務費が膨らんでいることと経産省と電通の関係とが問題視された。
 五輪関係者の辞任、降板も相次ぎ開会式前日まで混乱する。開会式の実質の責任者が映画監督山崎貴氏→狂言師野村萬斎氏→振付演出家MIKIKO氏→電通出身のCMクリエイター佐々木宏氏とコロコロ変わる。文春によれば森会長の介入?とするがその森会長も女性蔑視発言で今年2月に辞任。最終的な開会式の責任者となった佐々木氏も女性タレントの容姿を侮辱する企画を提案したことが発覚し3月に辞任する。音楽制作チームのメンバーだった小山田圭吾氏も過去の障害者等へのいじめ問題で開会式4日前に辞任。同じく開会式・閉会式のショーディレクターだった小林賢太郎氏がお笑いコンビ時代に「ユダヤ人虐殺」をネタにしていたことが発覚し、なんと開会式前日に解任される。
 滑り込みギリギリセーフのような五輪開会式のテーマは「United by Emotion」(感動で、私たちは一つになる)で、震災復興はどこへ行った。フクシマの人々は「五輪の出しに使われた」と憤慨していよう。
 私が中学2年生であった1964東京五輪には「敗戦からの復興を世界にアピールし、今後の飛翔を誓う」との大義があった。2020東京五輪には、そんな日本人の心を一つにするものがない。「利権争い」「電通丸投げ」とのキーワードしか思い浮かばない。
 前回の東京五輪から57年経ち、高度成長から成熟社会に移行し、経済は沈滞している。その中で米国の属国であることに安住し、日本人は劣化した。市民も経営者も自分のことしか考えない。
 その縮図である国会議員も、強大国米中対立の狭間で人口半減の小国となる日本の生きる道を導いてくれる首相(候補)を盛り立て支えるという志と気概のある議員はいるのか。国家感、教養がない首相でも自分にとって都合がよければそれでよいとする議員が多すぎないか。
 国の形も崩れている。政治家と官僚の関係もそうだが、「権力」と「権威」の関係も阿吽の呼吸とは言い難い。
 古今東西、独裁者を目指す権力者は「権威」を目の上のナントカとして排除したがる。社会主義国の独裁者は宗教・神も否定する。
 五輪開会式の折天皇陛下が立たれて開会宣言を発せられた時座って拝聴していた菅首相がまずいと思ったか途中で立ち上がったことが、却って世界から注目を浴び憶測を呼んだ。
 一方、女性セブン2021年8月12日号は「宮内庁が官邸に不信感 天皇陛下の五輪開会式リモート参加の可能性あった」と報じた。
 その1か月前の7/8宮内庁長官から「拝察」発言があった。我ら庶民からすると唐突に。
 上皇陛下が安倍政権下の天皇時代に「平成の人間宣言」を発せられた。象徴天皇としてのギリギリのご発言と思うが、一部には象徴天皇の枠組みを超え、象徴天皇として初めて即位された天皇陛下が美智子皇后陛下と二人三脚で「象徴天皇のあるべき姿」として長年かけて築いてきたものを無にされたと見る厳しい見方もある。
 今上天皇は「象徴天皇のあるべき姿」の再構築を図るお立場にあり、それを補佐すべき宮内庁長官からの今般の「拝察」発言。長官から進退伺いが出されたとの報道もないことからも、国民が「天皇陛下が我々を心配してくださってる」と感謝の念を持つなら、それは正しい見方・態度ではない。
 政権を批判できるのは、主権者たる国民。その権利と義務を国民が行使しようとせず、天皇陛下が「やむにやまれず、見るに見かねて」と受け止め、我々国民は真摯に反省し、天皇陛下に謝罪しなければならないのだ。

 

2021.9 NO.158  ょうちょう VS ょうちょう(1)
  東京五輪が閉幕した。開幕前日までのゴタゴタにより興味が半減していたが、アスリートたちの奮闘ぶりを見て、「開催して本当によかった」と実感した。
  プロゴルフのメジャーチャンピオン松山英樹選手は新型コロナに罹患して体調が万全でない中日本代表として参加した(メダルに届かなかったが日の丸を背負って奮闘してくれた)。同じく日系4世のコリン・モリカワ選手は「五輪はスポーツにとって最高峰の場、ゆかりのある日本で金メダルを獲得することは、大きな目標だった」と想いを口にしていた。新種目スケートボード(ストリート)に金メダリスト堀米雄斗選手し自身の栄誉だけではなく日本でも練習場が整備されボーダーへ見方が変わり米国ような人気スポーツにしたいとの想いから金メダルを目指したという。「テニス選手にとってポイントも賞金もない五輪は価値が低い」という意見がある中で、錦織圭選手は「自分のためだけではない。五輪だから」と疲労覚悟の単複に出場した。
  ゴルフ、テニス、野球、バスケット等高額な報酬が得られる人気スポーツでないなら、なおさら五輪はアスリートとって人生を賭けた大舞台となる。女子ソフトボールで優勝した日本チームと死闘を演じた米チームの選手の中には13年振りに開催されると知り引退から復帰した選手もいた。柔道女子57キロ級で優勝したノラ・ジャコバ選手は10年以上の競技生活の中で挫折もあつたが、内戦で傷ついた小国コソボを世に知ってもらいたいと五輪に臨んだ。
  2020年4月号NO.130(「にとVSにとう」)で、「2019年10月世界陸上でオランダのシファン・ハッサン女子選手が、前代未聞となる、体力的にきつい中距離1,500mと精神的に難しい長距離10,000mとの両方を制した。東京五輪でこの二冠を達成すれば2018年の平昌五輪でスノーボード女子パラレル大回転とアルペンスキー女子スーパー大回転の2種目同時金メダルエステル・レデツカ選手の二刀流に匹敵する偉業となる」と書いた。そのハッサン選手が8/2の1,500m予選にて残り1周最後方で転倒したが、11人ごぼう抜きし1着となった。その夜5,000mの決勝(優勝)があるのに。普通は諦めるのに、五輪での二刀流の偉業達成の為なのか。ハッサン選手は野球界の大谷翔平選手とも並び称せられると思ったが、さすがに転倒後のスパートの疲れが残っていたのか足が重く1,500mの決勝で3着に敗れた(凱旋門賞でいつも後ろから行くのに前に押し出され結局3着に終わったディープインパクトを思い出した)。ニ刀流は実現しなかった(10,000mは優勝。長距離トラック二冠は達成)。

 卓球や柔道で3位決定戦に勝ち銅メダルを得たのにうれし涙ではなく(優勝戦で負けたことの)悔し涙を流すのは五輪しかないのではないか。柔道女子70キロ級で金メダルに輝いた新井千鶴選手と準決勝で16分超の死闘を演じた対戦相手の女子選手が締め落とされた。女子で死んでもタップしないとの覚悟は五輪ならではではないか。

  アスリート達の、死にもの狂いで闘う姿を見て、各々の五輪に賭ける想いを知って、五輪はIOCや主催国及び都市の権力者の為にあるのではなく、アスリートの為にあると当然のことを再認識した。
 そんなアスリート達のことを一顧だにせず、五輪中止を訴えた、感染症学者、野党議員、メディアらを見て、数年前港区南青山にて児童相談所等の複合施設建設を巡り「南青山のブランドイメージにふさわしくない」「地価が下がる」などと反対した一部住民のことを思い出した。
 五輪選手は旅行者とは違う。5年にも亘り血が滲む練習に励み、ストイックな生活を続けた努力が感染すれば一瞬にして水の泡となる。誰よりもアスリートたちが新型コロナを恐れ、警戒しているというのに。不幸にも新型コロナウイルス検査で陽性反応を示し、五輪を欠場したアンバー・ヒル選手(女子クレー射撃女子スキート種目の世界ランキング1位)は、「心はズタズタに切り裂かれた。いまこの痛みをあえて描写するなら、こんな言葉になります。5年間ずっと五輪のために練習と準備を積んできたのに、昨晩、Covid-19陽性とされて、ただ打ちひしがれています。」との悲痛な想いを吐露したという。
  日本で新型コロナ禍が収まっていないと知りながら世界各国が次々とキャンセルするのではなく200以上の国々が五輪参加してくれる。菅首相が五輪に固執するのは首相個人の利害・保身と見るのは一面的な見方だ。東京五輪はIOCに押し付けられた訳ではない。安倍首相が「フクシマはアンダーコントロール」と強弁し、関係者による積極的なロビー活動やプレゼンを展開し、他の候補都市と争って勝ち得たものだ。しかも、日本政府は新型コロナによる「中止」とせず、「1年延期」を選択した。
  菅首相は、五輪開催の直前「やめることは一番簡単なこと、楽なことだ。挑戦するのが政府の役割だ」と雑誌インタビューに答えた(アスリートか?とツッコミをいれたくなる首相発言に反発を感じた人も多かったのではなかったか)。
  そうではなく、「日本が1年延期を決断し、200以上の国々が“おもてなしの国”日本を信頼して選手を送り出してくれる。その信頼を日本が裏切ることはできない。長年築き上げてきた日本の信頼を一瞬のうちに失うことはできない」(噂されるパラリンピックの中止はしてはいけない。それなら五輪と両方中止した方がよほどまし)と強調した上で、有効な新型コロナ対策がとれてこなかったことを真摯に謝罪し、デルタ株による感染急拡大と東京五輪開催とは関係がないことの理解を求め、国民に協力と一層の自粛を求める。拙劣でもいい。切々と国民に訴えかけることが必要なのだ。国難に際し日本人の心を一つにすべき時に、木で鼻をくくる、恫喝するような物言いしかできないようなトップは首相には向いていない。
  国民が現政権に批判の目を向けるべきなのは、五輪強行自体ではなく、延期した責任あるこの1年で、有効な感染拡大防止策が打てず、ワクチン接種も遅延していることであろう。
  

 デルタ株の感染力は強く、重症化のスピードも早いと言われるが、乳幼児、若者が重篤化しにくいのは従来株とほとんど同じでは。人間という宿主の細胞の中でしか生きられないが、人間が拒否するから新型コロナが手を替え品を替え変異しているだけ。人間を攻撃する意図はないしそんな考える器官もない。風邪と一緒とは決して言わないが、人類存続における脅威となる深刻なウイルスとは思えない。憂慮すべき問題は、感染者数>医療キャパの事態。
  今必要なのは、耳にタコができた国民に行動自粛を訴える(もう恐ろしいとは思わないから老若男女家に閉じ籠らないのだろう。だからと言って、今さらロックダウンはウイルスより飲食店等の息の根を止めるのでは)ことよりも、民間開業医を含めて全病院に検査と治療をさせる体制に変えること。治療方法の確立、ワクチン接種の進捗を理由にして新型コロナの指定感染症のレベルをインフルエンザと同じ5類程度に下げるべきだ(メディアも、無症状も多く含まれる陽性者数を新規感染者数と報じ、同じ感染症学者や医師を使い不安を煽り国民に行動自粛を求めるだけの報道を続けるのはもういい加減止めたらどうだ)。

 新型コロナに奮闘する栃木の倉持仁医師は立派で菅政権を批判するのはもっともだが、それでは医師会のトップらとスタンスが同じではないか。他者に言及する前に全医師が新型コロナに立ち向かうよう声を上げるべきではないのか。
  そんな中菅政権は、新型コロナ専門病院を作ろうともせず、さりとて全病院による新型コロナ医療体制を構築するわけでもなく、8/2泡を食ったごとく突然命の選別と言える「中等症コロナ患者まで自宅療養させる」と発表した。ネットでは棄民政策との反発の声が上がる(「医は仁術」と言うが、新型コロナを扱わない医師は何を思ったか)。

 与党からも批判があり、事実上撤回した感があるが、さすがに権力者に従順な日本国民も堪忍袋の緒が切れたのではないか。菅首相が新春首相として新年挨拶する可能性はかなり低くなったろう。