2021.10 NO.159 ーリン VS ーリン

  来年高校の新学習指導要領に基づいた教育が正式に施行される。高校の家庭科で「投資」の授業が始まるとメディアでも喧伝されている。もっと国民にとって重大な問題がその陰に隠れてしまっている。私がその問題に気づいたのは、恥ずかしながら、本ブログ昨年8月臨時号NO.137 (「しきけんVSしききん」)で次のように書いた時が初めてである。

 「日本の道徳教育に対して、日本、フィンランド両国の教育に通暁する岩竹美加子女史は『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書)で次のように批判している。2018年から新しくなった高校の「学習指導要領」での道徳は郷土愛、愛国は小中学校と同じだが、「現代社会」が廃止され、「基本的人権の保障」と「国民主権」が削除されていると言う。」「P78では『・・全体主義な国では国民は国家のイデオロギーに従順であるように育てられる。そうした国では、批判的な国民は社会的危険、国家制度を揺るがす存在と見なされるので、自分で考える能力を発達させる価値は認められない』と述べる。いかにも全体主義であった戦前への回帰を時の政権は目指しているのではないかと言わんばかりだ。」
 学習指導要領の改訂は第二次安倍政権下の2014年から進められてきた。私自身は2015年10月号No.52(「もうじゅうVS そうじゅう」)で次のように批判しただけであった。
 「東京五輪で揺れる文科省は、俗にいう三流官庁だとしても、我々より数段賢い官僚たちがなぜかくも首をかしげる政策を打ち出していくのか。藤原(正彦)先生は、前々から低年齢層からの英語教育に反対している。さらに、週刊誌の連載等において、文科省による大学入試の変更に疑問を呈するとともに、国立大学に対する人文系、社会科学系、教員養成系の規模縮小や統廃合する方針を財界のビジネス一辺倒の提言に屈従していると批判し、返す刀で、そんな文科省に大学側が卑屈していると嘆く。まさに正論だ。」
 とくに、小学生低学年での英語教育については、私も反対である。英語は個人の自由意志に任せればよい。子供本人が英語を覚えたい。親が子供を外交官にしたいと願い本人もそれを望むなら、そうすればよいだけのこと。それよりも大事なのは日本語を深め自分の頭で考えること。亡くなった台湾の李登輝元総統は22歳まで日本人であったが、台湾人に戻っても考えるのは日本語だったという。我が高校の先輩で世界的大作家の村上春樹氏も遊牧民のような海外生活を送るも日本人の思考システムは日本語と言う。考えるのには奥深い日本語が適している。ノーベル賞学者も多く輩出できている。
 高校の学習要領改訂が決まったのは、2018年3月30日。その1年前には森友学園の籠池氏が国会に証人喚問された時であり、国会がモリ・カケ問題で大揺れしていた頃である。その裏で粛々と学習指導要領改訂が進んでいたということだ。私自身もモリ・カケ問題に固執して、国民にとってより問題なことに目を背けていた。後悔はしても反省はしない主義の私でも、深く反省してしまう。
 遅まきながら、YAHOO!で「新高校学習指導要領の問題点」と検索すれば、NHKの「アーカイブス」における大学教授の問題提起が一番上に出てくる。ほかにはほとんど教育関係の人の問題指摘だけだ。野党も政治家。メディアも第4の権力と言われる。政府、官僚と同じく皆「国民を権力に従順な愚民のままにしておきたい」ということで思惑が一致しているということか。
 無用の長物かと議論となった日本学術会議は、「現代社会」に替えて「公共」が新設されたことに関して2017年2月3日付けにて『高等学校新設科目「公共」にむけて ―政治学からの提言―』で問題提起・提言し、その機能を果たしている。
 「公共」の新設は国民に国民主権と基本的人権とを忘れさせ、自身の頭で考えることを妨げ、「国民は国家に奉仕するためにある」と教えたいのかと私は怪しむ。

 「公共」への自覚が必要なのは、国民ではなく、自身や友人に利する政策を採りがちな権力者の方だ。『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社文庫)の著者山岡淳一郎氏も、私権をむさぼって肥大化する政治勢力に対抗した後藤新平(以下「新平」)の人生を見て、「公共の思想とは、権力者が民を縛る方便ではなく、人々が為政者に求める信義の要」と書いている。
  私は自民党の一部とその周辺の者たち(併せて「右派勢力」と呼ぶ)が全体主義の復活を期しているように思える。そうだとすれば、その目的は一体何なのであろうか。
 薩長による明治政府は、二度のアヘン戦争に敗し後に自国の地ながら「犬と中国人は入るべからず」と蔑まれていく中国のように欧米列強の植民地されることを危惧して富国強兵を急ぐことを目的として全体主義国家をつくった。

 軍部主導の昭和政府は、看板に偽りがあるとはいえ、「八紘一宇」「五族協和」を目標として掲げ、そのための全国民総動員体制構築を目的とした。
  安倍政権、それを受け継ぐ菅政権の平成・令和政府の目的は何か。全体主義国家の強大国中国とその中国に本気で怒りを顕わにする民主主義の盟主国米国との激しい対立の中で、米国への従属から真の独立を目指すためか。そうは見えない。60年安保の岸政権の頃より米国への従属は強まっている。完全に牙を抜かれ日本に核兵器を持たせても構わない?と米国に見くびられるぐらいだから。日本が全体主義を再構築し、北朝鮮、韓国?と並んで中国への朝貢国を目指すことはあるのか。それもありえないか。親中派と米国からロックオンされていよう“影の総理”二階幹事長もそんなことは考えていないだろう。結局のところ「目的」が何かよく分からない。本来「手段」であるべき「全体主義」そのものが「目的」ということか。
 20世紀に興した社会主義の全体主義国家は、ソ連、東ドイツ等20世紀の内にほとんどが内部から崩壊した。戦前全体主義国家として三国同盟を結んだイタリアは独裁者ムッソリーニをパルチザンが殺害し広場で逆さ吊りされた独裁者を民衆が蹂躙し全体主義が終わりを告げた。ドイツはヒトラーが愛人とともに自裁して終焉した。

 日本は、戦争に負けて、GHQから全体主義を止めさせられた。新憲法と民主主義を押し付けられた。そう考える日本人は全体主義ついての検証あるいは反省がないのだろう。
 我々庶民にとっては、第二次世界大戦に敗北したことは、不幸であり、悲惨なことではあった。が、唯一メリットは民主主義に転換されたことである。もし日本が戦争に勝っていたなら、軍部はさらに増長し、隣組に市民の相互監視をさせ、少しでも軍部や政府に対する批判的な言動をとる者は、特高警察や憲兵にしょっ引かれてしまう。今の北朝鮮社会と変わらない、息苦しい社会になっていることだろう。経済的水準の違いはあろうとも。
 裏を返せは、戦後の民主主義は庶民にとってGHQから与えられただけで庶民が勝ち取ったものではない。それだけにもろい(日本国憲法第12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と謳う)。

 民主主義の現在の問題点は、若者の個人主義が行き過ぎということではなく、若者の政治への無関心、政権への批判的精神の欠如と言えまいか。
  全体主義国家に回帰する?安倍政権以降の政権体制を(適切とは言えないが)現代の典型的な全体主義国家の北朝鮮体制に擬えると、金日成国家主席にあたるのが、安倍前首相。金正日総書記は、(公然と首相を批判する元旧自治官僚平嶋彰英氏から東條英機を彷彿すると言われる) 菅首相。その後の次男の正恩氏(現総書記)は、さしずめ河野大臣(党内で徳望もなく?、頼みの菅首相との間にはワクチン停滞で隙間風も)となるか。霞が関でソ連の独裁者スターリンになぞらえスガーリンと皮肉られる菅首相と河野大臣はよく似ている。ともに「経済」は弱いと周りから見られているが、本来「目的」である「経済政策等を展開し国民の利益を増大させること」は共に「手段」に過ぎず、「目的」は、菅首相が「独裁者になる」ことであり、河野大臣は「総理になる」(過去の言動からして、総理になるまでは必至に働くが、トップになってしまえばヒトラーのような傲慢かつ怠慢な独裁者になるかも)ことではないだろうか。

 全体主義の拠り所となる「主体思想」の理論的支柱黄長燁氏にあたるのは杉田官房副長官というところか。
 
 「右派勢力」にとっては、「国家感」が、「教養」が、あろうとなかろうと、どうでもよい。「政策に反対する者は異動させる」と官僚たちに独裁を宣言し、日本学術会議の任命の際「賢らに盾突く学者が独裁者は嫌い」と国民に先入観を植え付け、メディアに対しては「パンケーキを食べずんば官邸記者にあらず!」と踏み絵を踏ませる菅首相が、個人的な性(さが)により、ロシアのプーチン大統領のように「権威主義」(全体主義と民主主義の中間に位置すると見る)による独裁者を目指していてもかまわない。菅首相の言う「私はつくる方、壊すのは河野」が民主主義を壊し、(デジタル化の推進が監視・統制を目的とした中国型デジタル社会を目指しているかは今のところ不明だが)全体主義の再構築につながるならそれでよいのだろう(新型コロナ禍における先々月の西村大臣の「金融機関からの働き掛け、酒類販売業者への取引停止要請」発言、ネットでは棄民政策との反発の声が上がった先月の政府方針「中等症コロナ患者まで自宅療養させる」は、直ぐに撤回されたが、まさにファシズム的発想であり、菅政権ならではと言えよう)。 
 ただ、長男接待問題も起こり、前号で触れたごとく新型コロナ対応で馬脚をも現した独裁者は国民の支持を急速に失いつつある。東京五輪は評価されるも必ずしも政権浮揚に繋がらなかった。横浜市長選における支援した盟友も惨敗した。岸田文雄前政調会長との実質一騎打ち(前言を翻した?石破茂議員が立つことがあるなら菅首相が利するだけ。ブレた石破氏は政治生命が絶たれるのでは)の9/29総裁選に勝ち、現総理・総裁として衆議院解散・総選挙を菅首相が打つことが可能なのか。可能だとしても、怒り心頭の飲食店を初め苦杯を嘗めさせられた選挙民からのしっぺ返しから自民党の惨敗はあっても大勝はない。議席を減らす前提での低い勝敗ライン(単独過半数→与党での過半数)の結果次第では首相退陣もありうる。

 だからと言って、新首相が誕生すれば、民主主義が守られ、全体主義へのリスクが無くなると思うのは早計過ぎる。新型コロナ禍が長引き国の自粛要請に従うことに国民が慣れてしまえば、全体主義への下地となる。『「暮しのファシズム」 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』(筑摩eブックス)の著者大塚英志氏は、戦前近衛首相が主導した大政翼賛会の「新生活体制」と新型コロナ禍の「新生活様式」が似ている。とくに女性を主体として自発的に日々の暮らしを全体主義体制に馴染ませていくことになるかと警鐘を鳴らしている。
  21世紀においても全体主義国家としてしぶとく存続する中国や北朝鮮の農民や人民を哀れに思う人々よ、いつの間にか同じ堪え忍ぶ境遇になりそれでも日本国万歳!と叫んでいる日が来るかもしれんぞよ。