2021.7 臨時号 NO.155  ンポ VS ンポ(1)
  棒とヘルメットを使用して反対デモするのが安保(闘争)。棒が使えずそれ故ヘルメットも不要なのがインポ(Impotenz)。それは男を全否定するような侮蔑的意味合いがあるので、最近ではED(Erectile Dysfunction)と呼ぶのだそうだ。
 私は前立腺がんの治療で放射線治療を選択したが、前立腺が大きすぎるので、その前にホルモン療法(飲み薬と注射)を受ける必要があった。どんな変化が起きるか不安があり、2012年2月長男の結婚式まで待って翌日からホルモン療法を開始した。前立腺がんの餌である男性ホルモンを止めると癌自体が小さくなるし前立腺肥大も改善されるとのことであった。
 6か月間のホルモン療法で、ED以外にどんな変化があったかと言うと、鬚が薄くなり、胸が膨らんできた。女性の更年期障害と同じく、ホットフラッシュ(急に体が熱くなり汗が噴き出すこと)もあった。ヒステリーになるかとも思ったが、それは女性特有のものかそうはならなかった。 
 最も驚いたのは、その頃毎週毎日のように週刊誌を買っていたが、週刊ポストや週刊現代には袋とじがついている。若い頃ほど関心はないとはいえお金を出しているので、必ず鋏で開封していた。ところが、ホルモン療法を継続していた6か月間まったく開封することがなかった。私としたことが性的なことに関心が向くことが全然なかったのである。
 世の中には、止めたいと苦しんでいても、理性では男性ホルモンの暴走を止められず性犯罪を繰り返す人がいよう。ホルモン療法が有効かと思う。人権問題に関わってくるが。

 神戸高校の先輩故樺美智子については、本ブログ初号(「オスとメス」)で触れた。すぐ後にも詳しく書こうと思っていた。が、表題が表題だけに、なかなか筆をとる気にならず、本ブログ50号までをまとめて非売本にする際の50号にと思ったが、結局掲載できずに終わった。100号、150号にも載せられなかった。もう200号までもたない。いつ連載が終わってもおかしくない状況になってきたので、10年越しに今回掲載することにした。
 1950年生まれの私より13歳年上の樺は神戸っ子ではない。たまたま父親が神戸大学の教授として赴任にしたに伴い神戸に来た。それもあって東大を目指したのであろう。東大受験に失敗し一浪生活の時には東京に戻っている。私の時代でもそうであったが、女子は私立の有名進学校(灘、甲陽、六甲)に入れないので、神戸高校のトップクラスが女子でも不思議ではなかった。が、自宅からの通学も可能な京大を目指した女子が大半だったと思う。
 1960年の1月時点では少なくとも二人の美智子という女性がいた。一人は前年に皇太子(現上皇)と成婚された美智子妃(現上皇后)。もう一人は樺美智子その人である。樺は美智子妃ほど美しくないが、江刺昭子氏の『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』(河出文庫)の表紙を飾る写真では慈悲深い観音菩薩の仏像を思わせる(樺を後輩としてよく知る御茶ノ水女子大名誉教授故青木和夫は生前樺を興福寺の八部衆のどれかに似ていると言っている)。
 半年後、美智子妃は国民の安寧と世界平和に国母として天皇と共に尽力され現在に至る。が、樺は、生身の美智子は消え、“日本のジャンヌ・ダルク”との虚像として生き続けることになる。樺は1958年に東大に入りすぐに日本共産党に入党するも、離れ同年創設されたブント(共産主義者同盟)に翌年樺の二つ年下の東大生西部邁らと共に加入する。
 1960年1月15日安保改定の調印に向けた岸総理の翌日からの訪米を阻止しようと「羽田空港座り込み」事件で樺は逮捕される。拘留時の侮蔑的な身体検査は中流家庭のうら若き乙女には衝撃的なことであったハズ(母親にも親友にも一切話していないという)。
  しかし、それで挫折するどころか、学生仲間に「神がかっている」「死に急いでいる」と言われるほど安保闘争にのめりこんでいく。そして運命の6月15日を迎える。西部も、吃音で弁が立ちにくいのを知識不足と勘違いして(西部が既に知っている)共産党の歴史を教えてくれた樺に対して「私の方には彼女のただならぬ誠実さが強く印象づけられ、そのせいか、六・一五事件で死者が出たと耳にしたとき、すぐに彼女に間違いないと直感したのである」と『60年安保 西部邁』(文藝春秋)のP31でそう述懐している。
 樺の死が60年の時を経ても風化しないのは、死因について、「圧死」なのか「扼死」なのか、くすぶり続けていることも関係していよう。私も扼死説に一票を投じる。
  ただ、樺自身も死ぬこともあろうかとは思っていたかもしれない。当日の朝下着を替えたと母親が証言しているから逮捕されるのは覚悟していただろうが、殺されるとは思いもよらなかったのでは。一方政府側も、昨年の香港でのデモの際警官が至近距離から学生らに発砲したのを容認するような、そんな意志はなかっただろう。60年安保の時デモ隊はまだゲバ棒もヘルメットも装備せずスクラム組んでの肉弾戦にすきないというのだから。
  樺の死には政府も困惑したのではないか。上述の江刺氏によると、扼死説を死ぬまで唱え続けた父の俊雄は『「暴力ということについていうならば、単にデモ隊の暴力だけをとり上げるべきではない」。武装警官が「非武装の国民大衆のデモ隊にむかって行使した暴力」こそ糾弾されるべきだ』と主張した。その言葉に尽きると思う。
 膵臓を警棒でひと突きし、気絶した樺の首を絞めた警官か機動隊員かがいたとしたら、殺意があったのか、過失致死だったのか、どちらにしろ、良心の呵責に苛まれても自首することも許されず、何十年の長きに亘って十字架を背負い悶々とした日々を送ったと思いたい。今はもう鬼籍に入っているのかもしれないが。
 当の樺は「東大生」「聖少女」と謳われるのは喜んでいないだろう。ましてや、ジャンヌ・ダルクと持ち上げられるのをそれは違うと空の彼方から叫び続けているのではないか。
  地味で目立たない下働きを一人黙々とこなしていた東大の女子大学生が何かをなす前に亡くなっただけ。「東大女子大生の死」そのことが、メディア、国民の反響を呼ぶ。
  それは今も同じ。電通の東大卒の美人社員が自殺した。今まで進展しなかった時間外労働の問題で国を動かすことになった。35、36年前銀行の組合専従の時「100時間外労働制限キャンペーン」を展開したことを経験した私からすれば、100時間そこらの時間外では、電通の彼女の死の主因は、時間外労働とは思わない(元議員の豊田真由子氏は厚労官僚時代月間300時間の残業したこともあるという)。上司からのパワハラと私生活上の悩みの方が問題だと推考している。
  (現在の労働行政では過労死ラインは80時間らしいが)月間100時間は営業日数20日とすると一日5時間でしかない。17時から残業だとすると22時までにしかならない。銀行は9時から15時までだが、貸付営業の者は朝8時には出勤して、その日の準備をして営業会議に臨み9時半頃外回りに出る。夕方戻り顧客から預かった物を整理して現金、小切手を出納係に渡し、営業会議でその日の活動報告をする。その後貸付案件の稟議書を作成する。22時では終わらないのだ。組合はその実態を無視しえず、月間100時間の時間外を容認し100時間を超える店舗の支店長に改善を求めていた。
  そのような時間外労働問題で自殺する銀行員を私は知らない(浮気はご法度だが、浮気する暇もない。当時「亭主元気で留守がいい」と言う奥方にとって銀行員はピッタシの結婚相手だったのだ)。
 なんにせよ、彼女の死が時間外問題を進展させ、内外のエコノミストが指摘する「日本の生産性の低さ」を改善するにつながるなら、それに越したことはないのだが。