2021.3 NO.148 んざい VS  んざい(2)

 佐川氏も不運で気の毒な面がある。佐川氏は問題の核心「8億円の値引き」には何ら関わっていない。前任の迫田英典理財局長時代の問題である。なのに、本筋の問題に付随した改竄問題で一身に非難を受け四面楚歌の状態に置かれる。財務省OBの高橋洋一氏からも昨年8月新刊『国家の怠慢』(新潮新書)のP120~121にて、「彼はとても不勉強だった。不勉強の典型で、答弁ミスして、それであとで決裁文書消せと言ったのが真相だと私は思います。・・・(中略)・・・だから全部、佐川氏が保身のために、自分の答弁を正当化するために言って、それで近畿財務局の方が亡くなっちゃった話じゃないでしょうか。とんでもないと思いますよ。」と言われてしまう。この発言の方がよほどとんでもないと思うのだが、菅首相からは愛い奴と思われるのであろう(高橋氏は昨年10月内閣官房参与に任命された)。

 赤木の遺書及び元上司が「改ざんは佐川さんの判断」などと述べたとする音声データーの提出は、真相解明に寄与することなく佐川氏に責任を擦り付けるにアシストするだけに終わるのでは。

 仮にも天下の財務省キャリア官僚で理財局長の要職にある者が自身の不始末でないのに自らの意思で改竄を部下に指示するとは到底思えない。直接的な指示があろうとなかろうと改竄を上から命じられた同じ立場なのだ。「遺書には私の名前がない」といみじくも安倍首相が言ったように、近財の一職員では本省の理財局長の向こう側は知ることはできない。

 私は、本ブログ2018年 5月号 NO.92(「かんりょうVS まんりょう」)で次の疑問を投げかけている。「現時点の疑問は、昨年2/17の夫妻が関係していたらとの後戻りできない首相発言を受けて2/24の佐川理財局長が「学園との交渉記録は破棄し、残っていない」と国会答弁で強弁した後の記者会見で、なぜ菅官房長官が「基本的には、決裁文書は30年保存するのだから・・」と、佐川局長が口にしていない、問題の「決裁文書」にあえて言及したのか、ということ。記録がないと言い張るなら、わざわざ改竄する必要はない。軽率な私と違いあの菅長官がそう発言した意図は何か。決裁文書を見せろ!と言われるのは明々白々なのに(2/17時点で首相の進退問題になっており改竄前決裁文書の内容を知らなかったとは考えにくい)。改竄前の決裁文書について官邸と佐川局長との間に事前協議があり、記録はないととりあえず時間稼ぎして、後で急いで改竄するということに決まっていたのか。その上で官邸は関与していないとのそぶりを見せたということなのだろうか。」

 その答えは、2/24の発言の2日前に菅官房長官は、当時の佐川理財局長、太田充大臣官房総括審議官、中村稔理財局総務課長を官邸に呼んでいる。上記籠池氏の告発本のP 472によれば、「2月22日に官邸で行われた菅官房長官による密会には、昭恵夫人の名前が3カ所書かれた『特例承認』の決裁者である中村稔総務課長も参加していました。当然、菅官房長官にも昭恵夫人の名前が記載されている事実が伝えられていたハズです。ところが、その2日後の記者会見で、『決裁文書を見ればすべてがわかる』と言っていました。菅官房長官は決裁文書から『昭恵夫人の名前が消える』ということを知っていたのではないでしょうか」とライターの赤澤氏は指摘する。なお、近財が改竄するのは2/26の日曜日。

 

 佐川局長が困惑したことは想像に難くないが、「二者択一」を誤った。スーパー官庁の中で出世競争に生き残ろうと奮闘していた佐川氏に「官僚の矜持」「官僚道とは」を考える余裕はなかったか。上に背けば、前任者と同じく花形ポスト国税庁長官(事務次官に次ぐポスト。昔は同期のトップが主計局長から事務次官に。NO.2が主税局長から国税庁長官に昇進することが慣例。安倍政権になると理財局長から国税庁長官に昇進も) になることが出来なくなるばかりかどんな酷い目に遭うか。そう思う気持ちは理解できなくはない。

 しかし、『葉隠』の「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」で有名な山本常朝は、むやみに死ねと言っているわけではない。「常住死身」、いつも死を覚悟する中で、「二者択一に際しては、死ぬ確率の高い方を選べ」と言う。今我々はそれが真理と思い知らされる。

 佐川氏は、国税庁長官にはなったが、任期半ばで辞任に追い込まれた。市民団体から告発されると不起訴になった。終わったと思ったら検察審査会に「不起訴不当」とされ、再捜査でまた不起訴になるも今度は民事訴追された。今でもマスコミが家に押しかけ家族も辛い思いをしていよう。名誉も尊厳も失い、残るは命だけ。命まで奪われたら本当の意味で生贄となってしまう。赤木の妻はそんなことは望んでいない。「なぜ夫が自裁しなければならなかったのか」と真相を知りたいだけであろう。35万人以上の署名を集めたことには大きな意義がある。だが、民事裁判で佐川被告の口から真実が語られることはないだろう。民事なら本人は出廷しないことだろうし。

 隣国韓国では、政権が代われば、現政権が前政権の暗部を暴く(強大な権力を有する韓国検察の捜査を見て見ぬふりをするというのが真相か)。日本ではまずそんなことは起きないだろう(当事者かもしれない現菅首相下ではありえないし、今後他の首相に代わっても同じ自民党議員でありながら第二の三木首相になろうと思う政治家はいないのでは)。

 ロッキード事件と同じく、モリ・カケ問題(公権力の私物化)の真相解明があるとすれば、関係者が鬼籍に入ってからということになろうか。

 

 私は、自らは能力的にも性格的にも不向きな(志がないと続けられない)警察官、消防士、自衛隊員、白衣を着ている時の医師、看護師、介護士を尊敬している。それと同等以上に上記の職業ほど表立って感謝されることが少ない裁判官、検察官、国家公務員、新聞記者(週刊新潮2020.4.9号高山正之氏の『変見自在』で新聞記者の過酷さを垣間見た)を敬仰している。

 能力も高く、志もあり、刻苦勉励して難関の国家資格試験や狭き門を突破し、念願の職業についた。その人たちが、志した当時の夢や理想と今の現実とのギャップに対して、「どのように感じているのか」「どう折り合いをつけているのか」について、とくに安倍政権以降、他人事ながら考える機会が増えた。

 組織の主従関係において、「主」が賢者なら問題が少ない。「主」が賢者でなく「従」が賢者な場合、面従腹背では済まされず「従」が究極の「二者択一」に迫られがちになる。

 その場合、人は本能的に死から遠い方を選ぼうとする。目先の利益に飛びつく。それが却って死に追いやられることを知らない。実際は逆なのだと佐賀藩士山本常朝は説く。

 角栄と同じく有能だがエスタブリッシュメントから見れば異質の政治家鈴木宗男議員に対する国策捜査が鈴木宗男事件。連座した佐藤優氏の『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮文庫)によれば、鈴木議員の場合は、「狡兎死して走狗烹らる」という諺の通り、田中真紀子外相を追い出す為に利用した鈴木議員を用済みになれば“知りすぎた男”として疎ましく思う外務省と華々しく活躍する鈴木議員に嫉妬した政治家との思惑が一致して、出過ぎた杭は抜かれた。

 ノンキャリア外務官僚でありながら準キャリア扱いに処遇されていたからキャリア、ノンキャリア双方から出過ぎと嫉妬(女の専売特許ではない。男性ホルモンが強い分より攻撃的。しかも武家・政治家より公家・外務官僚の方がより陰湿)されていた佐藤氏は、郵便不正事件の構図と対比すれば、村木企画課長の位置に当たる。本来東郷和彦キャリア外務官僚だが逮捕を免れたので(鈴木議員は石井元議員に)。村木氏(公留164日)と同じく佐藤氏も長期公留(512日)による検察の取り調べに屈しなかった。しかし、結論ありき?で佐藤氏は執行猶予付きの有罪判決を受けてしまった。

 佐藤氏は、外務省の意向に沿えば、さらなる厚遇もあったかもしれないが、断固鈴木議員を売ることを拒否した。最悪の場合逮捕の憂き目に遭うのは予想していたにも拘わらず。

 それでどうなったか。「世間」からケガレとして「はずし」に遭うどころか、国家公務員を志す若者達から憧れの目で見られる存在になっている。

 文字通りの“ラストサムライ”佐藤氏のように、確固たる信念と強い意志を持ち、さらに宗教がバックボーンにあり、「鈴木議員と一緒に沈むことがロシア等の政治家・官僚からの日本人に対する信用を維持することになり、国益にも適う」と言える日本人は今はまずいない。ならばこそ、銘肝するものが必要不可欠。昨年7月頬に90針縫う大怪我を負うも襲う犬から妹の盾になり続け、その理由を「もし誰かが死んでしまうくらいなら、自分がそうなろうと思った」と答えたという、米国の6歳児ブリッジャー・ウォーカー君なら必要ないが(彼を称賛してBoxing団体WBCがクルーザー級とヘビー級の間に「ブリッジャー級」を新設した)。

 「二者択一に際しては、死ぬ確率の高い方を選べ」は現代に通じる、先哲による明訓だ。公的な世界で人の上に立つ者こそ心に刻み付けるべきであろう。