すると「九界即仏界」ですから、現れてくる治生産業はみな実相が現れたものに相違ないのです。そのことを本当にわかっていくことを仏道修行というのです。「仏道修行と世間の法は違う」という考え方は、邪教です。
「仏道修行は座禅を組んだり、滝に打たれたり、太鼓を叩いたりする仏事にあり、一般世間の人が畑を耕したり、そろばんをはじいたり、武士が合戦をするのは実相ではないのだ」。これは違います。
むしろ、この中に実相があるのです。「世の中をよくしよう」と一生懸命頑張っていくならば、それは即実相に通じるのです。
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悟りを開く前
釈迦がいろいろ苦行をした。
伝統的なバラモンの教えなのかしら。
西洋ではあんまり聞かないな。
イエスが十字架にかかったのは、
苦行の修行を取り入れるため?
自己犠牲とか無償の愛
自身の生命まで捧げるという
イエスの行為によって
「世の中がよくなった」のは間違いない。
人に愛を教えたから。
大如来の教え方は強烈
人類の教師という仕事
こんな人(救世主、仏陀、大預言者)はだいたい1000年に1回ぐらいしか出てこない。
イエス、釈迦、マホメット大好き
刀を造っても「人殺しの道具をつくっているのではない。神様に捧げる刀をつくっていくのだ。まだまだ足らないぞ!」と思って刀鍛冶が励んでいくならば、それは実相に通じていくのです。
「人殺しの武器をたくさんつくって金儲けをしよう」とするならば、それは実相にはつながりません。もっとよいものをつくり、神に捧げて「平和の世の中ができますように」と祈りを込めて刀鍛冶が刀をつくるならば、その姿は実相に近づいているのです。
政治もそうです。「貞観政要の「貞観の治」の如く治めていくためにはどうしたらよいのか?」と考えていくのです。それにはまずわがままを抑えて、自分が権力を持ったならば、その権力を正しい方向へ使うように努力して、民の幸福を求めていくならば政治は開かれていくのです。これが実相を追い求めていく姿で す。
商人がそろばんをはじいて「だましてやったぞ!」と考えて商売道をやっているならば、それは実相ではありません。商売人は物を右から左に動かす仕事です。 お米がないところへ訪ねていき、お米を買ってもらいます。魚が届かない山奥に美味しい魚を届けるのです。食べたことがない人は本当に喜んでくれます。
そのような商売道をやっていくならば、それは実相を励んでいるということです。そのように解釈していくのです。
石田梅岩(1685年―1744年)という人が江戸時代にいて、「梅岩哲学」をつくったのです。「仏道とはお坊さんだけが行ずるものではないのです。武士も百姓も町人も自分の仕事を通して仏道修行をしていくのです」と説いたのです。大変な人気を博して梅岩塾は大盛況だったのです。
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カルバンの世俗的仕事と神の栄光のコラボみたい。
洋の東西を問わず、だいたい同じようなことを説く
仕事が嫌いな欲深い私
ブログを書くのが天職か。
その結果は享受しなければならない。
みんな朝から働いている
女房・子供を養っている
すごいことに見える
石門心学とは. 正直 倹約 勤勉
戒律であり、六波羅蜜多と重なるか。