~大老~
現在
大河ドラマ おんな城主 直虎
が放送中ですね。
一豪族でしかなかった井伊家は直虎公の活躍もあり江戸時代が幕を閉じる幕末まで徳川家を支える重臣として家名を繋ぎます。
その最初の部分についての話は大河ドラマを観ながら楽しんでください(^_-)
その最後に奮闘された方が幕末に最後の彦根藩主となった
井伊直弼公
でした。
あまり良いイメージが残されていないこちらの方ですが、茶道や和歌、鼓等を学び禅や居合い術など文武両道な聡明な人物だったと言われています。
本来は藩主となる立場ではなかったものの、兄の死などにより彦根藩主となり、幕末の混乱期には大老と呼ばれる将軍の補佐役(幕府のNo.2)に就任し、実質幕府の最高責任者となります。
故に幕府が敗れる幕末を描く場合、悪役となることが多くなります。
しかし、この方にもいくつかの伝わり方が違う話がありますのでそちらをご紹介し、幕末と言う時代にさらに興味を持っていただければ嬉しいです。
★勝手に開国した
井伊直弼公は本来朝廷(天皇)の許可を得てから開国を決定すべきを独断で断行した。
と言われています。
しかし、これは少し伝わっていない部分があります。
当時、聡明であった直弼公は海外との圧倒的な武力の差から一時的な開国もやむ無しの判断をしていたと言います。
ところが当時の孝明天皇は大の外国嫌いでした。
普段であれば幕府からのお伺いが朝廷から拒否される事などまずなかったのですが、この時の開国については拒否されてしまいます。
そこで直弼公は外国との交渉を担当する者に交渉の引き延ばしを命じ、その間に孝明天皇はじめ朝廷から開国の許可を出してもらえるよう説得しようと試みます。
が、期限に間に合わずまた交渉役の役人も外国の圧力に抗いきれず開国することになります。
そのため朝廷をないがしろにして独断で開国したと言う責任が直弼公にのし掛かりました。
★安政の大獄
朝廷をないがしろにして独断で国を操っている悪の親玉のように世間から見られた直弼公。
そんな人間が運営する幕府にこの国は任せられないと各地で幕府批判が起こります。直弼公はこれらを強権で弾圧し、100人にもおよぶ思想家などを処罰、あるいは処刑しました。
これにも少し捕捉があります。
政治的なごちゃごちゃした事情は多々ありますが、財政難であり弱体化していた幕府にとって、また海外からの圧力に対抗しなくてはならない幕府にとって、その体制を脅かす存在を排除しなくてはならない立場にいたのが大老と言う役職だった直弼公の役目でした。
武力で幕府を倒そうと唱える人間を断固排除するという信念の行動を実行したと言う見方もあります。
そしてこの大弾圧の責任を一人で背負った直弼公は同時に自らの死を覚悟していたのか、弾圧後戒名を考え位牌を作り菩提寺に納めたそうです。
★桜田門外の変
大弾圧を行い、国を意のままに操ろうとした・・・とされた井伊直弼公が白昼堂々わずかな刺客の手により暗殺されます。
こちらにも捕捉を。
直弼公は実は刺客が攻めてくるのを事前に知っていた可能性があります。
そしてこのような和歌を残しています。
咲きかけし たけき心の ひと房は
散りての後ぞ 世に匂いける
国を想ってきた熱い自分の気持ちは自分の死後きっと後世に理解されるだろう
歴史の教科書には書いていない部分ですが、こう言うモノなどが残されているのが歴史です。
幕末と言う数年間も見方を変えれば様々な違いがあったり、人物像が浮かび上がったりします。
勿論そのどれもが正解だとは思いません。
しかし、実際にその時代を生きていなかった人間に、仮に生きていたとしても本人以外にその本当の部分を知ることは出来ません。
井伊直弼公は安政の大獄により多くの恨みを買うことになります。
大弾圧の代償は後の徳川幕府にも大きく関わり影響してきます。
井伊直弼公と言う人物をどう見るかはひとそれぞれかとは思いますが、幕末を紹介する上で欠かすことの出来ない人物でした。
私なりのざっくり紹介ではありましたが、これでいよいよ寺田屋の話に入れます(^_^;)
引き続き写真など少な目な内容が続きますがお暇があればお付き合いくださいm(__)m