石川数正

 

徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えた。永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻しました。永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行ない、清洲同盟成立に大きく貢献。永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると数正はに改宗して家康に尽くします。信康が元服するとその後見人となります。軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げます。天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となります。天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当しました。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言したともされます。

 

徳川家出奔後

 

天正13年(1585年)11月13日、家康の下から秀吉の下へ出奔しました。理由は「豊臣家との和睦派として家中で孤立を余儀なくされた」「秀吉から帰順を説得された」などとされますが、はっきりした理由は分かっていません。数正は三河勢の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は痛手でした。以後、三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになりました。その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えました。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると、秀吉より信濃国松本(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石に加増移封されました。数正は松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力しました。文禄2年(1593年)、死去。享年61。