次の国政選挙でも地元の有権者たちは、裏金問題で反省もせずに他人に責任を押し付けてしぶしぶ自民党を離党した胡散臭い面々を何度でも当選させるのだろうなあ。

 世間には、殺人者や詐欺師、泥棒、やくざ、放火魔など様々な人がいる。それは当然のことであり、無くすこともできないだろう。それは仕方のないことであり、重要なことはどのような人々に、国民の生活や平和を託すかということである。本当に政治家たちが悪いのだろうか。一般人の中にもめったにいない程の無責任で傲慢で嘘と詭弁とはったりだけのバレなければ何でもできてしまう人々に、あえて日本国民の人生や命を任せようとする地元有権者の考えが私には理解できない。

 日本の政治家たちがまっくろか無能なのは、本当に政治家本人たちのせいなのだろうか。

 電車内で痴漢をやっていなくても、女子高生や若いOLなどが現認してもいないのに、後ろに立っている男性をちかん呼ばわりすれば、男性がいくら否定しても逮捕されてしまう。女子高生の単なる勘違いや思い違いが、これほど強い権利を持つことに賛成できない。むしろ真後ろに立っている男性は怪しまれるので、痴漢をする人は横から手を出す可能性が高いのではないだろうか。真後ろにいるから犯人というのは、あまりにも短絡的で無謀だ。

「思い込みでも即逮捕」のしくみを廃止し、被害者による現認、又は犯人扱いされた人の言葉にも平等に権利を与えるようにしないと、まじめに生きてきた一人の家族や人生を、まったくの他人の若い女性の勘違いによって終止符を打つことなどあってはならない。とりあえず、「女性の訴え→即逮捕」だけは今日からでもやめ、駅員室や近くの警察などに任意で来てもらって事情を聞くようにしなければいけない。

 ある中学校の教員が、女子高生から痴漢扱いされ逮捕されたことがあった。私も知っている教員だったが、その教員は長年まじめに一生懸命働いてきた人だ。痴漢などやるような人ではない。もちろん否定し続け、翌日釈放された。その後、学校で定年まで勤めあげた。しかし、逮捕された日から新聞や雑誌、情報番組で大々的に扱われ、地域でも有名になってしまった。学校名や名前も全国に広がった。後日釈放されたことなど、テレビ局や新聞が報道するわけもない(社会で教員攻撃ができなくなるし社会やコメンテーター達の盛り上がりもなくなるから)。釈放後、彼は無実なので堂々と日常生活や教員生活を送ったが、本人の精神的苦痛や家族の雰囲気、在校生や保護者の心情を考えると、非常につらくきびしい事件だった。

 被害を訴えた女子高生は、もちろん偽証罪で逮捕されるようなことはなかった。単なる勘違い、思い込みで他人の人生を台無しにしたあの女子高生は、いったい何だったのだろうか。

 その事件以来、私は電車に乗った時に女性が近くによって来たら手を前で組んだり離れたりしている。駅の階段を上る時、後ろを振り返って超ミニのスカートを履いた女子高生が下着が見えないようにスカートの後ろを手で押さえるが、そのように「見るだろう」と疑われると非常に嫌な感じを受けるので、階段を上る時に前にミニの女子高生がいれば、階段下で1,2周大きく回り、そのミニ女子高生が登り切ってから階段を上り始めるようにしている。なぜそれほどミニを履き、周囲を疑っているのか、その心理を考えるとファッションを通り越して「釣り」や自己満足の一面(他人の目を引き付け、自分は美しい魅力的だと自己満足する面)もあると個人的には想像する。

 痴漢をする人やスカートの中をのぞく人は確かにいるので、公共の場で男性が近くにいると嫌な思いをしたり警戒したりする女性はたくさんいるのだろう。それと同じく、女性から無実の罪で人生を崩壊させられたり、スカートの中をのぞくだろうと勝手に疑われたりすることを避けるために、女子高生が近くにいるだけで嫌な思いや苦痛(階段下で時間と労力を無駄に使うことなど)を受けている男性も少なからずいることを知ってもらいたい。男性=神ではないし、女性=神でもない。

 痴漢を受けた女性は自分の被害はあるが、その被害以上の取り返しのつかない大きな被害を、自分よりもまじめで立派に生きてきたあかの他人に自分自身が与えるかもしれないことを十分に肝に銘じ、他人を逮捕させる時は現認するなど十分に気を付けるようにしなければいけないだろう。

 

 経験豊かで教師としての知識や技術に優れた子ども思いの素晴らしい教師が次々に学校を去り、事なかれ主義のいい加減な鈍感教師だけが生き残り現場に溢れていく。現場や教育委員会(指導主事)は、経験不足の若い勘違い教員でいっぱいだ。一般の会社や大企業、省庁なども、そうなのだろうか。「若い=経験が少ない(幅広い知識が少ない)」は事実だ。だから若い人が主幹教諭、指導主事、教頭になることには賛成できない。指導を受ける身分のベテラン教員たちが迷惑する。

 教育は人を作り、ひいては日本や世界の平和や人類の幸福を作る。学校教育だけは、聖域でなければいけない。教員の世界は、放課後などにベテラン教員が若い教員に個人的に様々なことを伝えていくような職人の世界だと思っている。放課後、若い教頭による嫌がらせのような時間だけをとる研修の繰り返しは、学校教育の質をどんどん低下させていくだろう。管理職たちの体裁や出世などは、現場の第一線にいるベテラン教員や新任教員には関係ない。

「多様性」を浸透させる前に「自分勝手」との違いを、日本社会として明確化、共通化しておいたほうがよい。さもないと、具体的な場面で多くの衝突が起きてしまう。

「トランスジェンダー」や「性的マイノリティー」などの言葉についても、厳格かつ具体的な定義づけと適応範囲、スポーツや温泉、トイレなどの日常生活における整合性について国として明確にしておかないと、いつまでたっても意味なく議論や衝突が続く。

「個性尊重」や「人権」、「表現の自由」、「誹謗中傷」、「風評被害」等々、現実と詭弁の間で都合よく利用されるみんなが大好きな言葉についてはあいまいなままに突き進むのではなく、具体的な定義づけをしたり具体例を使って場面ごとに説明したりするなど、国民の共通認識を図っておくことが社会として必要であろう。

 昔アパートに住んでいた時、医学部の近くにいた時は他の部屋の人は友達を部屋に入れて騒いだり大音量で音楽をきいたりすることなく、いつも静かに勉強ばかりしていた。ゴミ捨て場には難しい専門書が、よく束になって捨てられていた。

 その後、5流大学の近くのアパートに引越したら、しょっちゅう男を連れ込んで昼夜かまわず大声でさけんだり壁をたたいたりする女子大生や、友人を部屋に集めて夜遅くまで大騒ぎをしたりしていた。

 年齢も学校段階(大学)も同じなのに、大学や学部が違っただけでこうも人は違うのだろうか。よく偏差値や大学名で人を判断してはいけないと言われるが(判断できないから)、決してそうではなく、一部の例外を除き基本的にはそこにふさわしいレベルの人々が集まり、又は染まっていくのが現実であろう。一流企業の中には、大学名で就職面接すら断る所があると聞いたことがあるが、現実的で適切な判断だと思う。一流大学と底辺大学の学生では、知識も思考力も常識もやり続ける力も根性も天と地の差であろう。

 では、かるい学生や事件を起こす学生が目立つ慶応大学はどうなんだと言われるかもしれないが、慶応はエスカレーター方式の上に様々な選抜方式があって、やり方によっては言葉巧みの高卒お笑い芸人でも大学院に入学できてしまうようなところなので、様々なレベルの人がいる。だから、慶応関係のあやしいコメンテーターも多い。個人的には、慶応は上もいるが下もいる特異な大学だととらえている。

 「おはようございます~~~」、「中丸です~~~」、「あらためまして」の中丸雄一氏は、VTRを見ていてワイプで抜かれた時、ほぼ100%両肩が耳の横から出ている。つまり、前の机に肘をつき体重をあずけて前かがみになっている。この姿勢を番組内で行うのは、私が知っている限り彼と、島田紳助氏を「父ちゃん」と呼ぶ上地雄輔氏の2人のみである。

 全国の多くの人が見ているテレビ番組内でのこのような姿は、当然その人の他者や仕事に対する姿勢や考え、性格、マナーや社会人スキルが表れたものであり、2人の内面がよくわかる場面である。「本人の自由だろう」といわれる人もいるかもしれないが、なぜこの2人以外のテレビ出演者でそのような姿勢をとる人が1人もいないのか考えてみれば、いかに彼らの姿が不誠実でだらしがなく他人に不快感を与えるものかがわかるだろう。彼らの周囲には、指摘してくれるような人はもういないのだろう。

 それにしても、なぜ多くのテレビ出演者の中で中丸氏だけは、毎回必ず「中丸です~~~」と自己アピールをするのだろうか。もちろん「中丸」というものをいわゆる神格化するためにやっているということはわかるが、限度というものがあるだろう。他の人には、恥ずかしくて毎回毎回必ず言うことはできないことだ。小さいことだが、言葉を伸ばしたいのであれば、「おはようございます~~~」ではなく、「おはようございま~~~す」だ。彼を見ていると一つ一つの違和感がとても大きい。

 ネットを見ると「嵐」の他のメンバーの評判もいろいろあるようだが、小さい頃から芸能界でチヤホヤされて周りの大人達から大事にされてくると、やはり性格やその表れである態度は一般人とは違ってしまうのだろう。まさに「環境が人を作る」である。悪とは言わないが、社会の一員である以上、マナー(他への配慮)は必要だ。

 先日、地震発生後に気象庁の会見があった。その中で、「低まる」という言葉を使って説明していた。半世紀以上生きてきて、初めて耳にする言葉に大きな違和感を感じるとともに、日本語の奥深さに衝撃を受けた。死ぬまでに日本語を全てマスターすることなどできなのだろう。確かに広辞苑の厚さを目にすると、その中の言葉全てを聞いたことがあるとも思えない。

 それにしても、「低まる」という言葉を聞いた時のあの異様な感じ、気持ち悪さは相当なものだった。そして、今後死ぬまでの数十年間にも他の人から聞くことはない言葉であろう。安倍元総理が好んで一人で使っていた「胸襟を開いて」、「成長の果実」などといった言葉に通じるものがある。

 他意がなければ、日常誰も全く使わないような言葉をあえて使う必要はないだろう。単純に、気持ち悪さだけが残る。

 日本での電線の密集具合は、感心するほどものすごい。美しい風景を横切るように電線を張ったり、場所によってはまさにクモの巣上状態だ。景観のことなど全く考えずに工事しているのだろう。

 京都嵐山にある竹林の小径をライブカメラで見ると、まず目につくのが電線だ。ここまで電線を張るか。

 東京には110万本の電柱が乱立しているが、ロンドンの無電柱化率は99.9%だという。美観的問題もあるが、歩道や狭い道に電柱が林立しているととても危険だ。日本全国が電柱だらけなので、これをヨーロッパのように地中化していくことはもう不可能なのだろう。

 そうであれば、せめて観光客が集まるような歴史的景観地域や嵐山の竹林のようなごく狭い美しい自然の場所ぐらいは、電柱を地中化してもらいたいものである。それさえしない理由はなんなのだろうか。考えたが私にはわからない。

「白めし食いて~」

「ごはん、おかわりくださ~い」

「めし、何杯でも食える」

「ごはんが進む~」

 

 何のための食レポなのだろう。

 北海道のスーパーマーケットで、10歳未満の息子の頭を平手打ちして、31歳の母親が逮捕された。

 昔はほぼ全員、親に頭をたたかれながら育ったであろう。現在でも、半分以上の家庭では子供が言うことを聞かない時は、平手で頭をパシッとたたいたり、げんこつで頭を軽くコツンとやったりしているのではないだろうか。

 見ず知らずの人が幼い子供の頭をたたいていたのであれば逮捕は当然であろうが、親がしつけのためにケガをしないレベルで頭を平手打ちしただけで逮捕はやりすぎであり、不適切であろう。逮捕され警察に連れていかれる親を見た子供のショックは一生消えない。家庭でよくある普通のしつけである。母親を逮捕したことのほうが児童虐待である。子供の目の前で母親を連行したのだろうか。子供は一人スーパーに残り、一人で家に帰ったのだろうか。母親、子供ともにとても悲しくつらい出来事であった。「たたく=暴力」ではないのである。関係性や状況など総合的に判断することを、警察は怠った。

 警察は、日本社会に、やってはいけない大変な前例を作った。子供や母親の気持ち、家族関係、地域での日常など、どうやって元に戻すつもりなのか。謝罪などは意味がない。