NHKの朝ドラでは、これでもかと同じ言葉を繰り返す。

「ちむどんどん」では、「ちむどんどんする~」「にんじんしりしり」が、くどい!もう聞きたくない!と思うくらい何度も何度も主人公によって話されていた。次第にこの言葉が嫌いになり、最後にはドラマ自体が大嫌になってしまった。

「ブギウギ」では、「楽しいお方も~」を数十回は聞かされたであろう。もううんざりして「ラッパと娘」が嫌いになり、やはり最後はドラマ「ブギウギ」そのものが嫌いになった。年末に総集編があっても、もう二度と見たくないところまで私はなってしまった。

 現在の「虎に翼」では、「はて」が繰り返し主人公によって発せられる。誰が話し言葉で「はて」などと使うだろうか。実際、ドラマの中でも他の出演者で「はて」という人はいない。ニュアンス的にも、傲慢な態度で人をバカにするような感じを受ける言葉だ。上司や年上には普通の人であれば使えないだろう。この不自然な言葉の多用によって、私は次第に「はて」という言葉が嫌いになってしまった。もう二度と聞きたくないところまできた。このままいくと近いうちにドラマ自体までが嫌いになりそうである。

 不自然でしつこい演出は、心の調和を乱し、イライラさせる。「がんばれ、NHKスタッフ!」

 

 泉谷しげる氏が、NHKの生放送番組で、「手拍子やめろ」と歌の途中に怒鳴っていた。

 これと同じことは紅白でもあった。彼の場合こうなるとわかっているのだから、スタッフが前もって観客に説明しておけばよかった。

 NHKは引継ぎが機能していないので、同じことを何度でも繰り返す。

 2度あることは3度あるという。プロデューサーなどのスタッフの世代交代があっても、過去の反省をいつまでも生かせるように、過ちを繰り返さないように、引継ぎの仕組みを確立してもらいたい。

 ホテルや旅館から、備品や空気清浄機、テレビなどが持ち帰られて困っているとテレビで放送していた。

 日本に住む中国人が急激に増えているという。中国のSNSには、盗むところの動画も複数アップされていた。移民の受け入れが進む中、忘れてはいけないことは、日本以外の国で育った人は日本の学校において日々繰り返し厳しく道徳教育(思いやりや正義感、責任感、奉仕の精神等々)やマナー、日本のルール、慣習の指導を受けてこなかった人であるということだ。義務教育の9年間、膨大な量のこれらの教育を全く受けない人は一体どのような人になるのだろうか。私には想像もつかない。

 もちろん、日本以外の国の学校でも、日本の道徳教育らしいものが多少はあるのだろう。しかし、その程度が日本よりはるかに少なく緩いために、日本人は世界から「いい人だ」と思われるようになっているのだろう。

 移民を受け入れるということは、日本人と同じ道徳教育をうけていない人、ルール(街にごみを捨てない、公共の場で大声で話さない、信号などのきまりを守るなど)や価値観を共有していない人を受け入れるということである。そうなると、これまでの秩序があり、お互いの思いやりで成り立っていた日本社会が崩壊していくことでもある。日本に移住する人に数か月間の研修義務を課すなどしてこれを防ぐのか、仕方がないものとしてあきらめ放置するのか、その中間をとるか、まずは目標と覚悟を決めてから、移民対応について行動をしたほうがよいだろう。政府による見切り発車の後手後手対応はもう見たくない。

 

 日本では、カップルのデート代は男性が支払うことが多い。日本の男尊女卑の伝統、習慣がとても嫌で、欧米のように男女平等の精神が早く日本にも浸透してほしいと思っていたが、調べてみたら欧米のほうが日本以上に男性が支払う割合が多いということだ。

 所詮動物(人間)のやることで、本音ではどの国も目くそ鼻くそなのであろう。ロシア、中国、北朝鮮はむしろ本音で生きているのかもしれない。カモフラージュしながらうまく立ち回っている先進国よりも、人間的で正直者だ。

 渋谷での路上飲みがすごいらしい。

 渋谷のコンビニでもアルコールは販売しているようだが、ここで購入する若者や外国人はどこで飲むために買うのだと、コンビニ店員は理解しているのだろうか。わざわざここで買って、離れた自宅やホテルまで持って帰り、ぬるくなったものを飲もうとしているとは思っていまい。

 渋谷の繁華街にあるコンビニでは、アルコール販売はやめたほうがよい。儲かれば何をやってもいいというわけではないだろう。

 

 1年前に活動休止を発表し、活動をやめていた氷川きよし氏が、夏から活動を再開するという。

 「休止宣言」を使って、あれほど引っ張って騒ぎテレビにたくさん出させてもらっていたので、5年から10年位は戻ってこれないだろうと思っていたが、2年ももたずに活動を再開する。その程度の期間であれば、宣言などせずに勝手に休んで、また出てくればよいだけのように感じる。

 芸能界ではよく見られる手法だが、私にはどうも不快感、気持ち悪さが感じられるのである。誠実さや潔さ、爽やかさとは程遠く、ずる賢くて姑息な恥ずかしい行動だと思うが、歌手たちは堂々とそれができる。面の皮が厚いのか、私が小心者なのか。

 氷川氏というと、最後はストレートロン毛でレイザーラモンHGのような服を着て、「へのへのカッパ(?)」などと怖い程叫びながら歌っていた姿が印象的だった。話をしても新興宗教の信者のように攻撃的な物言いで、心配に思った。新たな気持ちでスタートを切るのか、それともこれまでのやり方を突き通すのか。憑き物が落ち、誠実に優しく振舞い、多くの人々が楽しくなるような言動や歌で、視聴者を楽しませてもらいたいものである。

 しかし、たとえ多くの人から受け入れられなくても自分自身の好きなように活動していくことは自由であり、もしそうであればそれなりの芸能活動が必要である(NHKの専属のような立ち位置ではなく、ファン対象のコンサート中心の活動など)。そうでないと、いわゆるミスマッチがおこり、テレビを漠然と見ている一般国民も、ましてや本人も不快で嫌な思いをすることになるだろう。お互いに、なんとか相手を変えてようとする必要はない。好き嫌いはあって当然である。今後、社会が秩序ではなく多様性を目指すのであれば、すみわけがいっそう大事になってくる。多様性とは、何でも認め好きになることを強制することではなく、(いわゆるドレスコードなども含め迷惑行為でなければ)お互いに否定せず、誰もが不快にならないように、マナー(思いやり)を守って振舞い、お互いに干渉しないことが重要であるように感じる。

「子どもの頭をたたくのは体罰であり、やってはいけないこと」と世間ではなっているが、そもそも「体罰=いけないこと、犯罪」ではない。そこに客観的・普遍的な根拠も真理もない。ちなみに、アメリカの約半分の州では、教師による児童への体罰を容認している。イギリスでは、家庭内での体罰禁止を法制化したが、その結果学校の規律を守らない子供が増えたため、教師が体罰できる権利を法制化した(例えば、おしりをたたくのは6回まで、などの規制がある)。体罰を禁止し、仮定でも学校でも子供のエゴを優先させるから、他人をいじめたり犯罪を犯したりする人になっていく。当たり前の論理である。「体罰はいけない」という人々は、その結果(国民性や社会)にも責任を持ってもらいたいものである。

 体罰反対派は、「子供の人権が・・・」、「けがをさせるのはいけない」、「力を使うのは犯罪だ」などと言う。しかし、我慢のできない自己中の狂暴な性格に育てあげることが人権に配慮した行為なのか、過去に生きた数億人は親や教師に頭をたたかれて育ってきたがけがなどなく恨むこともなく立派な大人になってきたのに非現実的な極論(たたけば怪我をする)を持ち出すのは議論として間違っているのではないか、暴れている犯人を警官が力を使っているのは犯罪なのか等々、物事は単純な話(1つの詭弁のみ)ではないのである。

 一部の反対派の声によって体罰を禁止された教師や親が、子供から文句を言われ嫌われるようになった。子供達はモンスター化する一方である。体罰が普通であった昔(昭和30年代ごろまで)は、自分をたたく教師や親を憎み文句を言い反抗するなど皆無に近かった。教師や親は威厳があり尊敬の対象であり、目標であった。結論ありきを捨て、一つ一つゼロから考え、総合的に判断して取り組むことが、今求められているのではないだろうか。そうしないと教育まで偽物になってしまう。

 いったいどのような人を作りたいのか、どのような社会にしたいのかよく考え、それではどのようなことをすればよいのか現実に即して効果や結果を想像しながら、ある程度客観性と不易性をもって誠実に教育方法を考えてもらいたいものである。

 最後に一言。繰り返しになるが反対派はやめないと思うので言わせてもらう。「体罰とは、けがをさせるほど強くたたくことではない。軽くたたいて、子供自身に熟慮させることである」。万が一、病院に行くほどけがをさせた場合、それは警察云々の話になるだけである。

「セクシー田中さん」の原作者が自殺した件で、加害者側である日本テレビが自分たちで調査をし公表するという。すでに数カ月経過しているが、まだ自主調査の結果は公表されていない。それほど多くの人が関わっている事件ではない。国民の忘れ癖を利用して、黙殺されるのだろうか。もし今後結果が公表されたとしても、加害者による調査などごまかしや責任逃れ、偏った内容にならないわけがない。私も含め、これは全ての会社や人がそうすることである。加害者側による調査など意味がないのではなく、被害者側に不利な結果を出して嘘をつくものとなるので、絶対にやってはいけないことであろう。そもそも、日本テレビの当初のコメントは、ドラマ制作において自分たちはきちんとやって来たと責任逃れの内容を発表し、非難をあびた経緯がある。「死人に口なし」で完全な責任逃れを行った。一般人の行なうごまかしや責任逃れよりもはるかに別のレベルであり、神経が図太い会社であることは事実であろう。このような会社が社内調査など、さらに悪質な行為を重ねるだけである。無知、無感覚(あるいは勘違い)とはいえ、ふざけるにもほどがある。

 加害者側による自主検証と時間をとって国民やマスコミの忘却を利用して黙殺する2つの手法は、政治家だけで十分だ。これをされると、何でも責任を逃れられることになる。

 政治家、自治体の長(市長や知事)、テレビ局、コメンテーター、お笑い芸人、紅白出場歌手・・・ 

 実力不足の偽物ばかりになってしまった。

 責任を取らなくても逃げ切れる社会になり、嘘や詭弁、ハッタリが増え、ジェンダーや多様性といった言葉が最優先され、戦争が増えた。責任、正義、秩序の3つとも失われていくと、自分勝手な人が加速度的に増え、社会は限りなく混とんとしていく。こうなると、もうだれにも止められない。最後はガラガラポンしかない。この繰り返しが今までの歴史である。

 ある地域の小学校では、働き方改革の名のもとに考え出されたのが、「ノー残業デー」というものだ。1カ月に1度、学校ごとに日にちを決めて、教員全員が残業をしないで定時で帰ろうということになっている。馬鹿じゃないだろうか。夜遅くまで教材研究や授業研究の準備などをし、土日も出勤して採点や教室掲示をするなど、無給で無限残業をしてもこなしきれない仕事量を与えておいて、「早く学校から出て!(残業しないで帰宅して!)」と言われると、大量の荷物を持って帰り、家でやらなければいけなくなる。紙板書の準備など家でできなかった仕事は翌朝6時頃学校に行って急いでやらなければいけなくなる。教員にとって、仕事量が減らないままの「ノー残業デー」は、さらなる地獄なのである。頼むから、もう「ノー残業デー」はやめてくれ。これでは、教員いじめだ。

 教員の働き方改革は、文科省が研修と校内研究と会議の時間を3分の1程度に減らし、授業専門と事務仕事(家庭学習の直しや採点、評価、校務分掌など)専門と生徒指導専門と家庭対応専門の4つの分野の専門の教員を配置するよう全国の教育委員会に強制的に命じなければ、学校の管理職の意識が本当の意味で変わることはなく、現実的に何も変わらない(校長や教頭が現場の教師に対して「早く帰って」など、さらに教師が苦しくなるようなことを形式的・短絡的に言うだけになる)。残業をする教師を、他の教職員が悪い目で見るような雰囲気を作っていかなければ、本質的には変わらない。遅くまで学校に残って仕事をしている教員を、すばらしいね、熱心だね、やる気いっぱいだね、などといった羨望のまなざしで見ることはもうやめようではないか。