教員の働き方改革を本気でやろうとするのであれば、まず通知表の所見(あたり障りのない文章)を無くしてもらいたい。児童数分の所見を作って書くのにどれほどの手間と時間を要することか。生活状況の項目ごとに、3段階評価のみでよい(大まかな本当の傾向を伝えるだけでよい)。保護者が、学校での子どものようすについて具体的なことや正確なことを聞きたいのであれば、二者面談や教育相談、電話などを利用したほうがよい。

 指導要録の所見もいらない。子供について次年度の教員が知りたいのであれば、理由は省略するが要録とは別の記録を見ればよい。

 教員は、本務である授業や教材研究(授業準備)以外の仕事(例えば事務や会議、研修、アンケート、毎日放課後に行う学校対抗のサッカーやバスケ、陸上のための指導、家庭学習の丸付けや言葉の記入など)がとても多い。いずれも、それらが必要な理由を優先させて、大事に継続され続けている。教員の働き方改革は、文科省や教育委員会の人々の意識改革ができるかどうかにかかっている。文科省が、「教員の研修時間を半分にしてください」「校長が残業教員をほめることを禁止します」などといえば一発で決まるし、言わなければだらだらといつまでも続く。

 旧ジャニーズ事務所は、名前を「SMILE-UP.」に変更した。

 厳格な意味を調べると複雑な話になるので個人的な感覚の話となるが、「スマイルアップ」に対しては、どうも違和感がある。被害者の会が、笑顔を取り戻せるようにすため活動しようという意味で自分たちの会にスマイルアップと名前を付けるのであればわかるが、加害者側が自らの名前をスマイルアップにすると、被害者側に「もっと笑って」と無理に要求してるようで、個人的には不快に感じられる。そのような名前を自らに付けたりせずに、無言で被害者側の人々をそのようにさせる努力をすることに誠意が感じられるのであるが・・・。

 都知事選で2位となった石丸氏が、テレビやSNS上において自分の意見をあたかも正論のごとく感情的に話すことを生業としている自称専門家や学者、三流芸能人たちの餌食になってしまっている。

 石丸氏は何をしたいのかわからないが、政治家としてやっていくのであれば、実質バラエティや茶番劇、煽り口げんかなどの討論番組、情報番組には出演しないほうがよいと思う。不適切な考えや部分的な正論(全体として間違いとなる)を無責任に国民に刷り込むという恥ずかしい仕事をしている人達に、エサをまいて(仕事を与えて)いるようなものだ。

 じゃんけんをする時に、「最初はグー、じゃんけんぽん」というが、「最初はグー」の部分はいらない。

 じゃんけんは、何かをすぐに決めることを目的として行うもので、あえて意味のない言葉を付け加えて、決定までの時間を引き延ばすことは不適切であろう。

 じゃんけんのたびに「最初はグー」を聞くと、ため息が出てしまう。

 朝ドラの寅子は、「でも」が多すぎる。周りが見えず、極端な自己中だ。そしてモンスターのような攻撃性もある(相手の言葉尻を捉え、偏った論理で攻撃する)。すぐ眉間にしわを寄せ、「はて」というなど、人を見下して煽るような言動をする。

 ドラマだから盛り上げるために意図的にとても嫌な人物に作り上げているのかもしれないが、モデルとなった実在の人の子孫は、この脚本を許したのだろうか。 

 親や親せきの人は、子供と接する時の第一声は「学校は楽しい?(楽しかった?)」だ。他に聞くこともないのかもしれないが、これは大人に対して「仕事は楽しい?」と会うたびに問うようなもので、子供にとっては面倒なものであろう。大人同様に子供も、家で自由に過ごしたり好きなスポーツや遊びをしたりしている時のほうが楽しいに決まっているので、返答に困り一瞬悩ませる。「楽しくないよ」とも言えないので(言うと突っ込まれて面倒くさくなったりがっかりさせてしまうから)、ルーチンワークのごとく「楽しい」と伝えて大人たちを喜ばせてやっている。相手に面倒をかける意味のない形式的な「仕事は楽しい?」や「学校は楽しい?」質問は、いらないだろう。

 子どもと話したいのであれば、「水泳の授業はいつから始まるの?」とか「クラブは何をやっているの?」、「学校で何か飼っているの?」など、具体的な質問のほうが子供側も答えやすいし、そこから話も広がっていく。

ホラン千秋、井上貴博が、いま、いちばん大切なことを、話して伝えます。「わかり合えないことをわかり合えている」「お互い忖度せず、正直に自分を出すことができる」そんな2人が、いま、いちばん大切なことを、生の声で話して伝えます。」

 テレビ番組のラテ欄に、平日毎日この言葉か書かれるようになり、とても目立っている。

 私の個人的な感覚なのであるが、このような内容、このような表現、そしてこのような手法が、私は最も嫌いである。突飛さで視聴者を誘い込む、 奇をてらった商業精神丸出しの幼さに、不愉快を通り過ぎて、かわいそうにさえ感じてくる。そこまで違和感を出して、見てもらいたいのか。

そして実際番組を見ていると以前と特に変わりもない。何かを訴えなければいけなくなったため、キャスターたちは自己主張が強く、温かみが消えて攻撃的に突っぱねた言い方にしている。そうしないと以前と同じくなってしまい、キャッチフレーズ通りにならないからなのだろう。見ていて不快になるようになった。なにもかもが、逆効果だ。そもそも、一番大切なことをテレビ局が決めて視聴者を誘導するものではない。何が大切化は、視聴者が決めることだ。

 まだ知識や経験が乏しい高学年の小学生に、どのようなラテ欄がよいか話し合わせると、このような言葉になりそうだ。ハッタリやかっこうをつけるのも、毎日になると嫌悪感を感じさせてしまうものである。視聴率稼ぎのためにやった幼い表現が、視聴者に違和感や不快感を与え、そして無理に吐き捨てるような恰好を付けた話し方をしなければならなくなったキャスター自身にも大きな重荷となっていることだろう。

 橋下徹氏が、都知事選について語った京大教授について、「なんで学者ってこうも偉そうなんや」と語った。

「学者」という職業の人が偉そうなのではなく、この京大教授個人が偉そうだったのだろう。言い方が不適切で不正確だ。「韓国人をひとくくりにして・・・(韓国人全体を誹謗中傷するのはやめろ)」と桜井誠氏に抗議したのは、彼自身だったはずだ。

 あまたいるコメンテーターやテレビに出てくる弁護士、医者、政治家、解説委員、芸能人などの中で、最も偉そうにしているのが橋下氏だと私には見えるが、皆さんはどう感じているだろうか。

 人でも国でも、他を攻撃ばかりしている人や国は、自分のことが見えないものである。自分が考えたことだけは絶対に正しいこととし、異なる意見を仮に良いと思ったとしても認めることはできないのだろう(詭弁を用いたり論点をずらしてでも、とりあえず反対していく)。

 だから、話し合い(討論、議論など)などにおいては、その大前提として最低限「話し合う目的の確認とその実行の確約」をしなければ、建設的な視点のやり取りや改善、ベターを目指す練りあい収束はなく、自分の考えや願望を相手に認めさせることだけに全精力を傾けるというただのむなしい口喧嘩に終わる。今のテレビやSNSでの話し合いのほとんどはこれである。そして、「討論」とか「論破」などと呼んで、かっこうをつけ自己満足している。馬鹿じゃないかと思う。第三者の視聴者側から見ていると「無知は恥」だと思うが、公共の電波を使って不特定多数に対し、無責任に不適切なことや時には嘘、蓋然性の低い枝葉の揚げ足取りなどを広めてばかりいると、「無知は罪」ともなりかねない。

「セクシー田中さん」の原作者が死に追い詰められた事件で、加害者側の日本テレビが自主検証をして発表したが、それで終わらせていいのだろうか。加害者側が自分のことを検証などありえないことだし、当然発表した結果も「意思疎通ができていなかった」「これから気をつける」といった趣旨のもので、他人事であり、「やったこと」について責任(原状回復か、不可能であればそれに見合う行動)をとっていない。例えば、万引き犯が「これからは気をつけます」といえば無罪という論理は適切ではない。

 おかしなカモフラージュ調査をやってみせ、記憶力の悪い国民のほとぼりが冷めたころに調査結果を発表するという、悪知恵に満ちた寸劇をやって「この事件はもう終わり」など許されないことである。

 日本テレビ以外のマスコミや警察は日テレの調査結果発表後は一切この件に触れず、事実上死に追いやっても無罪と結論付けた。これでいいのだろうか。

 日テレはジャニーズ問題やニュースキャスター(ジャニタレ)による報道拒否、24時間テレビの寄付金横領、今回の自殺へと追い込んだいじめ等々、数々の事件について責任を取らずに逃げ切り、その結果「何でもできる」「何がバレてもなんとかなる」と自信を深め、今では旧ジャニタレとの癒着番組も、タガが外れたようにやりたい放題だ。

 マスメディアが正義・道徳(公平・正義、責任、正直等々)から離れ、なんでもありの状況が普通になることはとても危険だと思う。もう手遅れか。昨日、京都鴨川の河原がゴミであふれているというニュースを見たが、ごみを捨てるのが平気な若者が増えているということだ。以前の日本人は、そんなことをする人はあまりいなかった。私は、権力や影響力がとても大きく日本社会を引っ張る立場の「政治家」と「テレビ局」の二大巨頭が、一般人でも驚くほど法や道徳を無視し、悪知恵を働かせて悪事を堂々と繰り返し、言い訳をして平然としている姿を国民に見せ、それが規範となってしまい、国民(特に若者たち)も自分たちがやりたいようにやり、注意をされても反省しなくなったのではないかと思う。政治家とテレビ局員が、伝統ある日本社会の秩序や正義、思いやりを破壊し、混沌とさせてしまったのだと思うが、間違っているだろうか。

 古市憲寿氏が、自分の旧ツイッターに、石丸伸二氏との舌戦(具体的な政策の中身ではなく、言った言わないの子供のようなやり取り)について、2000文字以上の長文でコメントしたという。

 2000文字以上って、性格が粘着質というよりも、もはや病的である。ゆがんだプライドが、どうしても石丸氏の答えを許せなかったのだろう。怒りに震えながら必死にキーボードを打ち続けたのだろう。

 古市氏といえば、いつも「それって・・・だと思うんですよね」と、根拠や適切性の説明なしに、自分の感想や願望を正当性の基準にして断定しながら話を進めていくので、いつも「おかしな論理だなあ」と思って彼をみていたが、原稿用紙5枚以上の反論(?)と聞くと、これまでの彼の発言も妙に納得できた(賛成できたということではなく、なぜそのような発言をしてきたのかの理由が分かったという意味)。

 テレビをつけると時々彼を見かけるが、テレビ局は、スタジオ内での話し合いにおいて自身の一面的な感想を早口で述べてそれを次々に総合的な結論としていく「煽り担当(相手を興奮させて番組を盛り上げる担当)」として、彼を重宝しているように見える。まっとうなことを言うコメンテーターでは、確かに番組が盛り上がらない。

 彼は社会学者と名乗っているようだが、学者であれば根拠に基づいた客観性のある査読付き学術論文を最低3本は書いているはずだ。どのような論文を書いて学者になったのか知りたくCiNiiで探してみたが、週刊誌のようなものへの投稿はあったが査読付き論文を見つけることはできなかった。もう少し探してみようと思う。