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男がお金を管理すべきこれだけの理由


最近の多くの家庭では、女性がお金を管理し、男性は小遣い制のようだが、私はそれに多いに疑問を抱いている。


その理由については以下の通りだ。



「家庭という最小単位の経営すらできない男は出世しない」

ほとんどの男性は社会の中で会社勤めなり自営業なりをしているはずだ。


その男性は、日々、複雑かつ大きな単位でお金を動かすことに、部分的にせよ参加しているわけだが、そんな中、家庭という経営の最小単位ですら、まともに出来ない人間が、複雑で大きな単位を理解、把握することなど出来るわけも無い。


自分を好きになれない人間が、他者を愛せないように、家庭の経営がろくにできない人間が、社会で出世するというのは、極めて困難であるはずだ。



2、「男が小遣い制では、使うべきときに使えない」

基本、男性はその月々や状況によって柔軟にお金の使い道を決めなければならない。


例えば、部下の信頼を得るために飲み会を開いたり、取引先とのプライベートな会合に顔を出したり、また新年会、忘年会などの集まりも、重要な人間関係構築には必要経費だ。


にも関わらず、「お金が無いから行けません」というのは、みすみすチャンスを逃す事になる。


もちろん、その都度、奥様にお金をもらうというのもあるだろう。しかしチャンスというのは唐突にやってくるものだ。


そのようなチャンスに柔軟に対応するためには、やはり使えるお金に自由度が無ければ難しいだろう。


言い換えれば、小遣い制は男性の出世の妨げになっていることも十分にあるというわけだ。



3、「女性が抱く男性へのストレスは女性問題とお金問題」


夫婦喧嘩の理由は様々ではあるが、やはりその中でも、お金というのは、極めて大きな問題に発展することが多い。


逆に言えば、お金の心配をしなくていいというのは、女性的には、これほどありがたいものはないだろう。


言うならば、男性が責任をもってお金を管理していれば、女性からそのストレスを無くさせることができ、夫婦喧嘩のリスクを減らす事ができるのだ。




4、「稼いだ側と、使い道を決める側の不一致は非効率を生む」


これを分かりやすく喩えるならば、社長や営業マンが稼いできたお金に対し、経理のおばちゃんが、その使い道の権限を持っていたら、その会社はどうなろうだろうか?ということだ。


あくまで経理のおばちゃんは、経営の専門家でなければ自分で稼いできたわけでもないから責任感も薄い。


言い換えれば完全なド素人なわけだ。そんな素人のおばちゃんが、経営の実態もわからず、お金の権利を得てしまうというのは、まさに女性がお金を管理するということと同じで、極めて無謀なことと言えるだろう。



さらに、我が国の本来の男女の性差というものは、男性はしっかり稼いで嫁、子どもを責任持って養う、女性は男性と日々を一所懸命に支えると言ったように明確化され、その責任の所在も明確であったはずだ。


そういう長い歴史や慣習を無視するというのは、私には現代人の傲慢としか思えないのだ。


5、「女性は衝動買いをする生き物」

かつてショーペンハウエルは「女について」という論文の中で、「女は短絡的で買い物も衝動的である」と言ったような事を述べたが、現在の世の女性の多くも、やはり衝動買いをする方が男性に比べ明らかに多いのは事実だろう。


男性は比較的、長期的な視野や展望を持つから、その瞬間の衝動はそれほど重要ではない。しかし、女性は、長期的展望よりも、その瞬間の心地よさを優先するからだ。


もちろん、それ自体は決して悪い事ではなく、男女の性差や特性の違いである。


しかし、ことお金にこれを当てはめると、明らかに女性は男性よりも無駄遣いをする性質を持っていることは否めないのだ。




6、「小遣い制では男の責任感が薄れる」


小遣い制にすると、男性は家庭内におけるお金に関し、関心が薄まってしまう。


当然だが、それを夫婦の役割分担の一つとして考えてしまうからだ。


そうなると、いくら貯金があるのか? 今、どんなことにお金を使うべきなの? など、家庭内の状況を把握出来なくなってしまう。


実は苦しい状況だったにも関わらず、買い物を頼まれた先で、平気で高いものを買ってきたりと、家庭内におけるお金に関して、無責任、無感覚になってしまうわけだ。



これは雇われ側と雇う側の問題でも同じようなことが起きるが、それも責任感の強弱によって起きる事なのだ。


そう考えれば、自分で稼いだお金を自分で管理し、男性の特性でもある長期的展望を考え、かつ責任を持って使い道を決める、というのは雇われ側の感覚であり、それこそ無駄遣いを抑制する効果と、男性の本来の責任感を生むのだ。




7、「女性の方が小遣い制に向いている」


そもそも女性の月々のスケジュールは比較的安定している。さらに日々使うお金も、小さい額の積み重ねである。


それに対し、2で述べたように、男は使わないときは全く使わないが、使う時の額は意外と大きなものになってしまう。


それは5で述べた事とリンクするが、長期的展望を考えると、その金額もまた大きくならざるを得ないからだ。



言うならば、女性は規則的にお金を使い、男性は不規則に使い、その一回に使う額も大きく異なることから、どちらが小遣い制に向いているかは一目瞭然なのだ。



また、小さな金額の計算が得意な女性が小遣い制になると、その中でしっかりやりくりするようになり、無駄も最小になるのだ。







これら理由は客観的にその本質を捉えたつもりではあるが、一方で、例外が多いことは否めない。


それぞれの夫婦の関係性や性格、状況でも、当てはまったり当てはまらなかったりするからだ。



しかし同時に、これらの多くは、過去の慣習や、賢者、哲学者によって一定度証明されてきたものであり、本質的要素も多く内包されている。


時代が変われども、人間の本質が大きく変わる事は無いのと同じように、その本質をゆがめれば、何かしらの弊害が生じるリスクが高くなるということは確かなのだ。



そのリスクを最小限に抑えることができるのならば、そういう選択を取るというのもまた、大事なことであると私は思う。



※あえて分かりやすいように大げさに、またやや極端に表現していることをご理解ください。

日本を駄目にするこれだけの用語とその共通点

「構造改革」
「TPP」
「大阪都構想」
「規制緩和」
「特区」
「女性の活用」
「脱原発」
「緊縮財政」
「財政規律」
「道州制」
「地方分権」
「消費税」
「農協解体」
「電力自由化」
「発送電分離」
「FIT」
「法人税減税」
「借金大国」
「集団的自衛権」
「グローバリズム」
「世界同一賃金」
「移民受け入れ」



これらの言葉を耳にしない日は無いほど、日本を駄目にした(する)用語のオンパレードが今の日本。


これだけ駄目政策や駄目思想を持って、国家国民が動いていけば、国は脆弱になるに決まっています。



ちなみに、これらの用語にはある共通点があります。


それはデフレ推進策であること。

そして国家の安全保障を脅かすことです。



例えば地方分権ですが、地方交付税を減らし(もしくは無くし)、地方が自立しようとすると、必ずそこにパイの奪い合いが起きます。


より税収を確保しようとする強い自治体と、それができない弱い自治体で格差が生まれ、二極化がすすむのです。



当然、潰し合いですから、最後は大阪、東京、名古屋あたりが勝ち上がって、あとは全滅みたいな話になります。



そうなれば地方は疲弊し、国家が担う社会保障費はさらに増えて行くことになるでしょう。


地方を自立させるつもりが、再び国家が尻拭いをする、そんな構図です。



さらにこれらが問題なのは、競争によって負けた地域では、労働賃金の低下を招き、消費は滞り、マクロ経済的にはデフレへと流れる事になります。



また、一極集中が進めば進むほど、その地域に置ける防災対策に限界が生じます。


例えば、首都直下形や東南海地震が起きれば、東京、名古屋、大阪に集中していた経済と人口は大きなダメージを被ります。


そして、それら被災地を本来ならば助けてくれるはずの地方は、疲弊し、自らが生きて行くのに必死。そんな状況になるわけですから、これほど、国家の安全保障及び、経済にダメージを与える物はありません。




本来の安全保障は、分散化と多様性です。


確かに、平時では、これらは無駄になることもあります。しかし、そもそも安全保障というものは、そういうものなのです。


合理と安全保障はある意味、トレードオフなわけです。




また経済においても過度の競争や自由化は必ず格差を生じさせ、その格差によってデフレが生じます。



ですから、安定的な経済活動を行うには、一定の保護が不可欠になるわけです。



当然、その保護は利権の温床を招きますが、それでもそれが緩衝剤の役割をし、安定を齎しているのも事実です。




それら大きなメリットを無視し、一部を批判し、叩く。



これがいかに国家を脆弱にし、失われた20年を作ってきたか、今一度、皆さんは自覚する必要があるかと思います。




最後に「なぜ集団的自衛権が入っているの?」と思われた方に説明しますと、政府案の集団的自衛権は、完全なポジティブリストだからです。



これはやります!と言ってしまうということは、それ以外はやりません。ということです。



これほど、相手にてのうちを見せるものはありません。これらもまた、国家の安全保障をむしろ害するであろう、そう判断したので入れさせてもらいました。




女性は強くなった!に懐疑せよ。


戦後、靴下と女性が強くなった、などという話もあるが、靴下はさておき、本当に、女性は強くなったのだろうか。



確かに、戦後、女性の選挙権や男女雇用機会均等法、男女社会参画基本法など、表向きの権利は大きくなった。



しかし、それはあくまでハード面での話であって、女性と言うソフト面での話ではない。



むしろ、女性としては、戦後、弱くなったのではないか、というのが私の見解だ。



その根拠を上げればキリが無いが、分かりやすく喩えるのであれば、権利を声だかに主張するということは、弱い子犬がキャンキャンと吠えまくっているのと同じようなもので、本当に強くなっているのであれば、大型犬のように、どしっと構えているはずである。




しかし、同時に、それを許す男性がもまた、弱体化したのではないか、ということにも繋がる。



相対的に男性が弱くなったからこそ、弱い女性が強く感じるということだ。



しかしながら本来の強さというのは、キャンキャン権利を吠え叫ぶものでもなければ、社会的地位の高まりでもない。



強さとは、精神的なものであり、また別の言葉を使うのであれば、それは「優しさ」である。



優しさは包容力であり、忍耐力であり、そういった精神的強さがバックグランドになければならないからだ。



しかし、最近の優しさは、ただ媚びているだけであり、自分が嫌われたくないという心理の表れだ。



そして強さは、大きくゆがめられ、声だかに権利を主張できるのが、強さに成り下がった。




このように考えると、戦後は男性も女性も弱くなった、というのが、本質ではないか、そう私は思うのである。



またニーチェは「女性の解放なるものは、もっとも女性的な本能がますます衰弱し、鈍麻してきたことの、顕著な症候として現れたものだ」


と述べている。



言い換えれば、男女平等なるイデオロギーの元、女性の社会進出やら権利やらを拡大させ、女性的なものを奪っていったということになる。



そもそも良く、私が使っている言葉だが、結婚とは、女性が日々の生活と氏(男)を横で支えて、吉が糸で結ばれると書くわけであり、それこそが日本的な、女性らしさであると私は思う。


そういった先人達からの流れを無視し、あたかもそれが世界的スタンダードであるという風潮こそ、弱体化した国家の表れであり、衰退した女性そのものの表れなのだ。



そんな本質を理解できず、女性の社会進出だ!共働きだ!イクメンだ!と世間はやっているのだから、笑うに笑えない。




アホもここまで行くと、、、、もはやこれまで、、、ということだろうか、、、