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消費税増税が日本を滅ぼす?

いよいよ、来年に再消費税増税が迫ってきました。


さて、この消費税、何に充てられるかと言えば、社会保障ということになっていますが、これが政策として、まず正しいかを判断しなければなりません。


一つに,今までの社会保障費の負担は、国債+税金+利用者負担+保険料です。


もし、利用者負担と保険料を変えないのであれば、当然、国債と税負担が増えます。



また、今は税制健全化の名の元に、国債の発行額を抑えようという流れになってますから、事実上税金をあげなければならない、そういう理屈になってしまいます。



しかし、これをマクロ経済的に考えるのならば、国債発行額を減らす=財政出動を抑える、になるので、需要が増えるどころかむしろ減ることになります。


需要が減るのに、税金が上がる、ということは、言い換えれば給与が減って、税金が上がり、貧困化するということです。


まさにそれはデフレそのものなわけですが、残念ながらその流れをなかなか変えることはできません。


では、今後、需要を伸ばすことが我が国に可能なのでしょうか?


答えはYESです。なぜならば今後は、人口構造上、労働者人口が減少し、総供給量が減るからです。


そもそもインフレを起こすには、需要を今より増やすか、供給を今より減らすかです。



そう考えた時、日本は、いずれは後者になると考えるのが自然でしょう(今はむしろ前者で行かなければならない)



しかし、ここで大きな問題があります。



それは海外から労働力(供給)を入れることです。(いわゆる移民政策)


これにより、供給が増えて、日本人の給与は増えなくなります。


また、直接的ではないにせよ、海外からの供給量を増やしても、似たような現象が起きてしまいます。



言い換えれば、日本が今後、取るべき政策は、海外からの供給に制限をかけ、国内での供給比率を高めることなのです。




そうすれば、今後、日本の人口構造上、必ずインフレは起きるはずです。



もしも、それが急激であるのならば、初めてそこで消費税を増税すれば良いのです。



また、万が一、それでインフレにならないのならば、消費税を社会保障費ではなく、公共投資などに回し、需要を促進させれば良いのです。




今のように、グローバリズムだなんだと、供給増やし続けれ、また、増税分を社会保障費という名の元、借金返済(または国債発行額の抑制)に回せば、いずれ巡ってくる、せっかくのインフレのチャンスを棒にフリ、そしてデフレと言う泥沼から日本は一生、抜け出せないでしょう。

大阪都構想と全体主義

日曜日に辛くも否決された大阪都構想(正確には大阪市5分割)の住民投票。


正直、選挙速報を観ながらヒヤヒヤしたものです。


では、なぜこんな荒唐無稽な法案の選挙結果が僅差になったのでしょうか。



それをひも解くには、やはり新自由主義の全体主義化というものがキーワードにならざるを得ません。



長く続くデフレ不況の中、大衆は現状に不満を抱き、現状を打破したいという想いが募りました。いわゆるルサンチマンが募ったわけです。


その結果、「安易な解決策を打ち出す指導者」(橋下徹)に、その期待を寄せたのです。



しかし、それはあくまで「改革=善」であるだとか、「現状=悪」であるとか、漠然とした印象でしかありませんでした。



実際に、Twitterに寄せられた賛成意見も「二重行政が無くなる」「住民の意思がより反映する」「無駄がなくなる」「今のままじゃ駄目」「とりあえずやってみればいい」など、実際の大阪都構想の中身と一致するものは、ほとんどなく、どれもイメージと感情論ばかりでした。




言い換えれば、その本質は内容を精査することなく、風や空気、イメージだけが先行し、思考停止した結果、全体主義化した、それも、新自由主義という「合理主義」が人々の心に入り込み、あたかもそれが善であるかの如く吹聴された、というのが背景にあるのだと思います。






そのことについて、藤井聡氏の秀逸な投稿がございましたので、ぜひ、ここで紹介させて頂きます。




【藤井聡】新自由主義・全体主義こそ、私たちの敵の正体です。
From 藤井聡@京都大学大学院教授

5月17日、大阪市の廃止と特別区設置(いわゆる『大阪都構想』)の住民投票で『都構想』が否決されました。

これで廃止の危機にあった大阪市という一つの「共同体」が解体されずに、存続することとなりました。

この大阪市という「共同体」の存続を心から願う大阪市民の皆様にとっては、この結果は文字通り、自分たちの「共同体」を「守った」ことを意味しています。

大阪を守ることを願い続けた大阪市民の皆様方、本当に、心からの祝福を申し上げたいと思います。
ではそんな「共同体」の破壊を企図した「勢力」とはいったい何だったのかと言えば──それはつまり、「新自由主義の全体主義」だったのです。

この「新自由主義の全体主義」とは、夥しい数の人々がさながらゾンビのように「思考を停止」したうえで、機械的に新自由主義を導入していこうとする大衆社会現象です。

(『<凡庸>という悪魔』 http://amzn.to/1Jsre9O をご参照ください)

そして新自由主義とは、社会や政治・行政の仕組みのなにもかもを、「市場原理」で作り上げていこうとするものです。

つまり、それがどれだけ社会的、倫理的、道義的に好ましくないものでも、カネさえあれば何でもできるというルール(市場原理)に基づいて、あらゆる政治、行政、社会のシステムを作り直していく(改革していく)ことを目指していくのです。

ですからそうなれば必然的に、政治や行政は縮小され、切り取られたところが一つずつ「民営化」されていきます。

そして残された政治・行政の仕組みも、できるだけカネがかからない仕組みへと変革させられていきます。カネがかからない仕組みとはつまり、何でもかんでも「無駄」と切り詰め「効率化」されたシステムです。

「都構想」の背後にある思想は、徹頭徹尾、この「民営化」と「効率化」を柱とする「市場原理」のイデオロギーでした。

実際、推進派が掲げる「財政効果」の大部分を占めていたのは、地下鉄や水道の「民営化」でした。
「ワン大阪」による「二重行政の解消」も、要するに合併による「効率化」です。

これまで進められ、そして、都構想都と共に論じられた職員の削減も、補助金のカットもまた「効率化」でした。

もちろん、これらの効率化がホントにできるのか否か、二重行政がホントにあるのかどうか、それらの話のほとんどが事実と異なるもの(つまりウソ)だったわけですが、少なくとも、橋下氏が人々にアピールし続けたのは、文字通り、効率化と民営化の話、つまり「新自由主義ストーリー」だったのです。

このストーリーに、多くの大阪市民、それのみならず多くの日本人は共感を示しているのです。

なんと言っても長いデフレ不況に苦しむ多くの日本人は、その不満のはけ口を求めています。

そんな人々に、「市役所の利権にたかるシロアリのせいで皆さんは苦しい暮らしを強いられているのです!」という物語を提示すれば(実際、終盤の橋下氏の演説では、主としてこの点が繰り返されていました)、
http://nstimes.com/archives/10957.html

彼らの不満は一気に「役所と議員」に向かい、役所の「効率化」と「民営化」を一気に果たす新自由主義的な政策が人気を博すことになるわけです。

これこそが、新自由主義・全体主義の構図です。

そうした新自由主義全体主義こそが、デフレ不況に突入して以降、橋本・江田改革、小泉・竹中改革、民主党・事業仕分けが人気を博してきた社会現象の正体なのであり、それが今回の都構想騒動でもきれいに踏襲されたに過ぎません。

すなわち橋下氏は、デフレ不況と大阪の地盤沈下のダブルパンチにあえぐ大阪市民の「不満エネルギー」を、こういう新自由主義の物語で掬い取り、一気に「都構想」を実現しようとした、というわけです。

橋本・江田改革、小泉・竹中改革、民主党・事業仕分けは、残念ながら食い止めることができず、徹底的に進められ、行政と社会の仕組みは徹底的に破壊されてしまいました。

今回も同じ轍を踏むなら、都構想は実現し、大阪の行政と社会の仕組みは、徹底的に破壊されていたに違いありません。

しかし、今回だけは、首の皮一枚で、新自由主義・全体主義という嵐による大阪破壊を、ギリギリ食い止めることができたのです(!)。

もちろん、この大阪都構想を実現しようとした新自由主義・全体主義という嵐の勢いは、若干衰えただけであり、まだまだ強力な勢力を保ち続けています
例えば、
http://news.livedoor.com/article/detail/10123889/

http://diamond.jp/articles/-/71675?page=4
などをみれば、その「ヘクトパスカル」(台風の強さ)は、まだまだ高い水準にあることは一目瞭然。

したがって、「新自由主義全体主義との闘争」における、今回のこの小さな「勝利」ごとき、すぐに消し飛ばされてしまう近未来は十二分以上に想像できるのです。

しかし、ここまで敗戦一方であった「新自由主義全体主義との闘争」において、この勝利は、重要な出来事であるかも──しれません。

もちろん、この小さな勝利が、新自由主義全体主義に消し飛ばされてしまうのか、それとも重要な出来事となるのかは、現時点では誰にもわかりません。

しかし、いずれになるかを決めるのは、新自由主義全体主義と闘うわたしたち一人一人の戦い如何にかかっていることは間違いありません。

ついては、改めてここで、この「戦い」にその身を投じたすべての皆様方に心からの祝福を改めて申し上げたいと思います。

そして今はしばしの休息をとられんことを、そしてそれと同時に、来るべく新自由主義全体主義との闘争との次の局面に向けての心の準備を今から始められんことを、心から祈念申し上げます。

……ということで、皆様、本当にお疲れ様でした! このしばしの休息の中で、今回の戦いとその帰結(!)をとしっかりと噛み締めつつ、我々は一体何と戦い、そしてこれから何と闘わねばならないのか──それを今一度、しっかりと、共に見据えましょう。

では、皆様、これからもどうぞ、よろしくお願いいたします!!!




まさに、今回の都構想騒ぎの本質を鋭く突いていると思います。


しかし、今回否決されたからと言って、まだまだ新自由主義の全体主義化がこれで終焉したわけではありません。


仮に今回の結果をうけ、橋下徹という「安易な解決策を打ち出す指導者」が消えたとして、再び、そういった指導者が生まれる危険性も十分にある大衆社会という土壌があることも否めません。


一人一人が思考停止することなく、懐疑心を持って公のことを考えて行く、また新自由主義という安易なイデオロギーこそ危険であると認識する必要性が今後、迫られているのだと思います。


まだ長い戦いは続きそうですが、とりあえず大阪都構想反対に尽力した方々には、おつかれさまでしたと言いたいですね。


歪んだ日本国憲法


憲法というのは国家の最高法規であり、国家の根本規範です。


にも関わらず、その我が国の憲法はご承知の通り、我が国民の手ではなく、GHQというアメリカの手によって作られたという、まさに出自からしておかしな憲法なのです。



ちなみに、我が国独自の憲法と言えば、大日本帝国憲法です。


その勅語は以下の通りです。

意訳

(私は国家の隆昌と臣民の喜び幸せとを以て、一番の喜びと光栄とし、私が歴代の先祖から受け継いだ大権によって、現在及び将来の臣民に対してこの不磨の大典を宣布します。

思うに我が歴代の祖先は、わが臣民の祖先の協力と助けによって、我が帝国を創造され、永遠に後世の者に示されました。

これは私の神聖なる歴代先祖の威徳と、並びに臣民の忠実勇武によって、国を愛し公にしたがい、それによってこの光輝ある国史の実績を遺されました。

私は、我が臣民はすなわち歴代先祖の忠良なる臣民の子孫であることを思い起こしましたが、其の私の思いを承けて心に留めて私の事をよく助け従い、相共に心を同じくして力を合わせ、益々我が帝国の光栄を国内外に宣揚し、歴代先祖の偉業を永久に固く強くする希望を一緒に持ち、この責任の負担を分かち持つことに堪え得ることを疑いません。)





多少、現代に相応しない文章ではありますが、その内容に関して私は、異議がございません。



このような憲法勅語に対し、現在の我が国の憲法前文は、以下の通りです。


日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、 この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。




比較すれば一目瞭然で、前者は、伝統精神を明確に表し、後者はアメリカニズムとアメリカ従属そのものであり、我が国独自のナショナリズムに基づくものは一切ありません。


むしろ、アメリカによる人工的秩序の構築、言い換えればアメリカの理想主義と、隷属の押し付けに他なりません。



本来ならば、2700年という歴史に基づき継承されてきた伝統精神が、我が国の憲法の根幹にならなければなりません。



それは、憲法=根本規範であるということは、その根本規範は伝統や慣習といったものからしか生じないからです。



その本来在るべき形から逸脱し、取ってツケたようなアメリカニズム的憲法を押し付けられた私たちは、先人達の叡智(伝統)を受け継ぐ事が出来ずに、まるで戦後に突如としてこの地球に誕生したかの如く、位置づけられているのです。



このような状況は、まさに「宙ぶらり」状態であり、規範、基軸無き国家という極めて脆弱な体質になってしまっているのです。




しかしながら、それはまだ70年の歴史しかありません。2700年という歳月からすれば、まだ戻れる範疇であると私は思うのです。



もちろん、急激に70年前の伝統精神に戻すことは不可能でしょう。しかし、漸次的にでも、そういった伝統精神に基づく方向に舵を切らなければならないと私は強く感じています。




ちなみに、西部邁氏も、「憲法という国民の根本規範は元来、国民の歴史的常識の在り方、つまり伝統精神を表すものであるから、重要なのは国民の国家観を正すことのほうである」


このように、話しており、まさに国民の国家観を微調整しながら正し、それを後世に伝え残して行くことこそ、私たち現代人の責務であると思うのです。



まだまだ、書ききれないほどに、現憲法は問題だらけなのですが、少なくとも、こうした問題点を少しは国民が意識しても良いのではないか、そう感じてなりません。