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思い込みと思考停止が世界を滅ぼす

経済、政治、社会全体を見渡してみると、実はそのほとんどに、「思い込み」という悪魔が潜んでいるように私には思える。


経済学一つ取ってみても、一度こうだ!と論理立てたものに対し、何の懐疑心も持たないし、一度それらを世間に発表してしまえば、覆るような論理が新たに出てきても、決してその論理を変えようとはしない。



それ故に、極めて歪んだ政策がそのまま進んでしまう。これがどれほど日本経済にダメージを与えてきただろうか。


そして、その悪の根源こそ、「思い込み」なのである。



もちろん、人間には、信念もある。一度言った事を覆すには勇気もいる。


しかし、人間は絶対に誤ちを犯さない生き物だろうか? 当然、そんなことはない。



不完全で、未熟で誤ちを犯す生き物だ。



しかし、そこで問題なのは、チャールストンが、「人間は誤るものだ。そうして、誤りのうちで最後の最悪の誤りは、一度も誤りを認めないことである」と言ったように、自分の誤ちを認められないことではないだろうか。



では、なぜその誤ちを認められないのだろうか。



それこそ、思い込みという名の「思考停止」である。




思考停止と言うと、あまり賢くない人間が陥りやすいように思えるが、それは間違いだ。




むしろ、一定の地位を築いた知識人に多く認められると私は思う。



そしてその知識人の思考停止(思い込み)が厄介なのは、そこらの主婦やサラリーマンの思い込みとは全く意味が違って、社会に対して大きな影響力を及ぼすことだ。



また、その影響下に置かれた大衆人も、思考停止、思い込みが強ければ、社会は全体主義化してしまう。



ナチスの話になぞれば、ハンナ・アーレントの「悪の凡庸」と言うべき思考停止というわけだ。



このように、地位や知識、ましてIQの問題で「思い込み」は起きるものではなく、どんな人間にも起こりえることであり、それが社会的地位が高ければ高いほど、社会に大きな負の影響を及ぼしてしまうわけで、これほど恐ろしいものはない、と私は感じている。



では、その思考停止や思い込みをどう回避すれば良いのだろうか。



そのヒントは、「分と自覚」にあると私は思う。


「分」というのは、その立場に相応の言動を行うことだ。言い換えれば、たった一人の人間の出来る事、考えられる範囲など、たかが知れていると言う自覚を持つべきだということだ。


そして、その「分と自覚」は、比較対象が無ければわからない。



そこで「墓場の叡智」というべき、「歴史」が必要になってくる。



この歴史との相対によって、我々現代人に「分と自覚」の基準が出来る。


また、それは、未来と言う不確実性に対し、一定の信憑性(オーセンティシティー)を確約してくれるはずだ。



しかしながら現代はその「墓場の叡智」を活用することなく、傲慢とも言えるべき暴走を始めている。



当然、それこそ「分を弁えていない」わけだから、正しい判断など出来るわけも無い。




まして、思い込みをしている人間は、自分が思考停止しているという自覚も懐疑心もないわけだから、極めて厄介だ。



合理を妄信し、科学を妄信し、それに基づく自らの論理を妄信した者達に支配された社会が、健全な平衡感覚を持てるわけもなく、いずれ、それらが音を立てて崩れ落ちた時、初めて彼らはその思い込みという悪魔から解き放たれるのかもしれない。



それが社会、国家の死でなければいいのだが、と願うと同時に、そこまで行かなければ、彼らが夢から醒める事も無いのかもしれない。















安倍総理の米議会演説への懐疑

先般、安倍総理が、米議会演説を行いました。


その内容について、私は大きな疑念を抱くとともに、日本と言う国家の在り方を根底から覆す、反逆(歴史の冒涜)すら感じました。



では、まずその出だしから読み説いていきましょう。

安倍首相「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」


この発言は祖父である岸信介のものですが、そこになぞった安倍首相は、まさに自由主義、ならびに民主主義を妄信した理想主義者そのものです。


あくまで理想というのは、合理や理性を想像するものであって、それ自体を現実と合致させることなど不可能です。


例えば、「平等」が理想だとしましょう。しかし現実には必ず「格差やそれに繋がる差別」が生じます。


そして、社会が、その平衡を取るためには、「公正」が必要となり、それが健全な社会を維持するのです。


言い換えれば、理想だけでも現実だけでも駄目で、そこを繋ぎ合わせる平衡という観点、感覚こそが重要になるのです。



続いてTPPについての発言です。


安倍首相「いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません」


確かに、フェアさは極めて大事です。先に述べたように、フェアとは公正です。言い換えれば、現実と理想の中庸でもあり、平衡です。



しかし、実態は関税ゼロという「平等」を目指すわけですから、完全な理想主義的思想であり、恣意的な思惑そのものです。



こんな自己矛盾的解釈を平気でするわけですから、呆れるしかありません。



続いて改革についてです。



安倍首相「20年以上前、関税貿易一般協定(GATT)農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。

 ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。

 日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます」




開放に反対の立場であった、とおっしゃってますが、開放しなかったからといって、保護が十分であったのか、そういう熟考が私にはこの発言から感じられませんでした。


むしろ、開放しなかったから農業が衰退した、そう言いたいのだと思います。



しかしながら農業は我が国の大事な安全保障です。


これもまた開放という名の「自由」主義の妄信(理想主義)に他ならず、その行き過ぎた理想主義による自由は、現実とのバランスを崩し、「放縦」(何の規律もなく勝手にしたいことをすること)に突き進むでしょう。



さらに改革において、安倍首相は「女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています」


女性の活躍の問題点については、以前から幾度となく話しているので省略しますが、この「慣習」の否定だけは、見逃す事の出来ない発言です。



そもそも慣習とは、「平衡の英知」というべき、日本人の精神そのものであり、伝統です。


こういったものを改めるというのは、先人達が積み上げてきた英知に対する冒涜行為であり、現代に生きる者の傲慢さです。


このような時代の連続性を無視した発言を見過ごすわけにはいきません。


それは国家としてのレジティマシー(正統性)を失い、その平衡感覚を無くし、それこそ放縦してしまうからです。


もちろん、放縦した国家が国家として維持できるわけもないですから、これは大げさでもなく、国家反逆発言なのです。



続いて戦後世界の平和と、日本の選択について

安倍首相「日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません」



これも実際は、冷戦の終焉により、アメリカの一極集中が、相対的にアメリカの弱体化へと繋がり、むしろ世界は混乱していった、と言った方が正しいと思いますし、それが今後も加速すると考えれば、このままその道をアメリカと共に歩み続ければ、成長や繁栄とは真逆の「衰退と混沌と虚無」という結果になる可能性の方が遥かに高い、そう私は思います。


また、この道しかない、というのもありえません。いや、それを言わされている土壌はあるのかもしれませんが、少なくとも、その道に懐疑心を持つべきであり、むしろ、今後は、その道しかない、と断言するような「思い込み」だけは避けなければならないはずです。



最後に日米同盟についてです。



安倍首相「私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。

 米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか」




確かに最もと感じる人もいるかもしれません。


しかしそれは、同じ歴史を歩んできたもの同士でなければ、成り立たない理想論であり、それもまた安倍首相の理想主義に基づくロジックなのです。



国家間というのは、常に国益というものが優先されます。友情<国益なのです。


まして価値観などという、国家間で一致するはずのないものを理想主義に基づき、強引に一致させたように見せかけても、必ずそこにはほころびが生じます。


それこそ理想主義の限界なのです。


本来、保守政党の首相であるのならば、理想主義の限界を知り、現実と理想の平衡を過去の英知から謙虚に学ぶ、そういう姿勢、態度で政治を行うべきだと私は思います。



もちろん、そういう私の考えそのものが理想論と切り捨てられてしまうかもしれません。



また安倍首相が、パフォーマンスとしてこのような演説をしたというのも十二分に理解できます。



しかし、だとしても、幾ばくか日本の代表者としての配慮や平衡感覚、それが垣間みられても良かったのではないか、そう思うのです。


完全に平衡を失った理想という虚構。


こんな虚構の現実が、いつまでも続くとは私には到底、思えません。





二重行政の何が悪い?


大阪都構想のメリットの一番は、二重行政の解消ということですが、まず、市を解体して区にした所で、府と区は二重行政ではないの?という疑問が生じます。


しかも、その区は5つもあるわけで、それぞれが自治運営を行うとなると、議会運営費や選挙費用など、二重行政×5になるので、余計に費用が掛かるのは当然ではないでしょうか。


また、二重行政と言えば、国家と都道府県や、都道府県と市町村など、どこにでもあるもので、例を出せば、国道、県道、市道と言ったように,二重行政のオンパレードです。


しかしながら、それらは一定の棲み分けがあります。


国家にとって必要な道路は国道、県にとって必要な道路は県道、市にとって必要な道路は市道と言ったように、それぞれのポジションの都合によって作られているわけですから、それが悪いとなれば、すべての道路を国道で、という話になりますし、そうなれば、地元に必要な道路など、細やかな住民サービス、インフラが作れない恐れもあります。



ちなみに橋下徹は、特別区を作ることで、民意を反映しやすくなると言いますが、もう既に大阪市には、区があり、それぞれがその地区において必要なものをボトムアップで行っています。



これは横浜市も一緒なので、これ自体に問題があるというのなら、横浜市も問題だということになります。


また、二重行政を解消しても、住民サービスの低下は無いと言っていますが、それも疑わしいものです。


二重行政を解消するということは、どちらかに統合するか、もしくは無くすか、でしょう。



ちなみに仮に図書館を統合しても、そこで働く人間や光熱費などのコストは変わりません。



あえて言えば本の仕入れが一本化できるので、多少はコストダウンに繋がるかもしれませんが、大した額にはならないでしょう。



むしろ、そこに移行するためのコスト(大阪市の試算では640億円)は莫大で、尚かつ区の運営コストまで掛かるわけですから、明らかにコストの面においても良いとは思いません。




さらに、一度やってみなければ分からない。などという意見も在るようですが、ここまでのマクロレベルで一度やってみて駄目だったら、どれほどの損害が出るでしょうか。



一度作ってしまった制度はそう簡単には元に戻せないのです。



また、特別区のシステムが機能するまでには、相当な時間と、それまでの混乱が予測されます。



その損害もまた、大阪を弱体化させる大きな要因となることは間違いないでしょう。



あくまで政策や制度は「人が動かす」のであって、機械が勝手にやってくれるものではないからです。




このように考えれば、急進的、または抜本的改革というのは、極めてリスキーであり、たかだか二重行政解消のためにやるようなものでは無い事は明白なのです。




投票は来月ですが、これままさに、大阪市民の良識が問われる事になるでしょう。